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 それから数時間。
 スウは延々と肌を調べられて、うんざりしていた。このお爺さんの好奇心が旺盛なことはよく分かったが、付き合わされるほうの身にもなって欲しい。
 時計の針が深夜を大きく越えて、やっと老人が腰を上げた。
「もう私は戻りましょうかね。デュノ殿下もお疲れでしょうし、私、毎朝散歩をするのが日課なんです。こんな時間に寝たんじゃ支障が出てしまいますわ」
 スウが胡乱な視線を向ける。この老人、さりげなくデュノを気遣っているようで、自分の都合だ。絶対そうだ。
「ほんとにもっと早く教えてくださればよかったんですがねぇ。あ、明日も来ていいですか?」
「爺さんは明日から学会で諸国漫遊の旅だろ。無事帰ってきてからにしな」
「そうなんですよねぇ。諦めますか……」
 レゼが飽き飽きして追い払った。助かった。
 名残惜しそうに背を丸めて去っていく老人の背に、デュノが声をかけた。
「ねえ、もし結界を解いたら、スウの声が皆にも聞こえるようになる?」
「そりゃあ聞こえるようにはなりますよ。この娘さんの声帯に異常は見られませんからね。我々には聞こえませんが、音そのものは出ているようです。結界が声帯を覆っているので、彼女自身も聞こえないでしょうが」
 ただし、と老人がデュノを見据える。
「この結界は何十代ものアーゼン国王が維持し続けたものです。彼らは宿詞を持ちながら、誰一人とて賢者を解放しませんでした。デュノ殿下、そのことが示す事実をお忘れなきように」
 音をたてて閉じた扉をデュノがじっと見つめている。
 スウは声をかけようか迷ったが、結局やめた。なんと言えばいいのか判断がつかなかった。
 そんな二人とは無関係に、青年二人が言葉を交わし合う。
「……しかし、言葉を通じなくさせて何の利点があるんだ?」
「分かりませんが、伝えてはならない情報を持っていたのでは」
「いや、スウは宿……あ、いや、別に特別な情報は持ってなかったがな」
 スウは初代の白の賢者と違って、宿詞のことは何も知らない。一体、結界は何について黙らせたかったのだろう。賢者は必ず宿詞について知っていると思われていたのだろうか。
 レゼがベッドで身を起こしているデュノを突ついた。
「なあデュノ。スウが言ってたことでおかしなことはなかったか? 知らないほうが良いようなことだ」
 デュノは首を傾げて、視線をどこか上の方へさ迷わせる。記憶を辿っているらしい。
「えーっと、別に何も」
「そうか」
 スウはデュノにあまり多くの情報を与えていない。聞かれもしなかったし、教えたところで信じてもらえないと思っているからだ。
 だから正直、油断していた。
「あ、そうそう。スウは魔法の無い国から来たって言ってたよ。フェイならどこにあるか知ってるよね?」
 一瞬で、場の空気が凍りついた。
 目を点にしてぴくりとも動かないレゼ。
 いきなり話を振られて対応できず、半笑いを浮かべるフェイ。
 そして、ゆっくりと集まってくる視線から、必死に目をそらす自分。
 ……そういえば、ずいぶん前にそんなことを言った気がする。
「? どうしたの?」
「いえ。ええと、私は存じあげませんが……」
 スウを見据えたまま言葉を濁すフェイ。その隣で、レゼがそれはそれは慎重に弟を問い詰めた。
「デュノ。それ、まじ?」
 なぜそんな反応をされるのか分かっていないデュノは、さも不思議そうに頷く。
「そうだよ。魔法の代わりに科学があるって言ってた」
 けろりと決定打を打たれた。
 本当に子供の記憶力は侮れない。無邪気の前にあっさり負けた。
 とにかく目を合わさないようにしていたスウだったが、ほんの一瞬、ちらりと見上げた茶色の髪をした青年に、視線をしっかり掴まれた。逃げられない。
 デュノ一人なら適当に言いくるめることができただろう。だが、相手は自分の同世代とまともな大人。レゼはデュノと違い、きちんと常識を持った王子のようだし、フェイだって異国から来たというくらいだから、世の中に詳しいはず。
 しかも自分は直接話せない。
 ああ、いっそ子供の空言と笑い飛ばしてくれたなら。
「もしそれが本当だとしたら……彼女はこの世界の者ではない、ということですね」
 彼の言葉があまりに的を射ていたので、びくりと過剰に動いてしまい、スウはデュノの影に隠れるように後ずさりした。どうして最初からそこまで辿り着くのか。
「スウ、それ本当!?」
 デュノが勢いよく振り返る。その瞳に拒絶の意思はない。けれど、今はまだ驚きの方が大きいからかもしれない。
 どうしたらいいだろう。今のうちに全部話してしまおうか。冷静に否定されてからでは……。
「ちょっと待て。そんな話は信じられない!」
 来た。
 レゼは頬を上気させている。その表情は怒りに似ていた。彼は多分、混乱している。
「白の賢者だから、人知を超えた何かでもって森の中に入ったことは分かるさ。でも、そこでどうして異世界が出てくるんだ」
「そうとしか言えません。この世界に飛翔炎の存在しない場所なんてないんですから。あなただって分かっているでしょう。この星を覆う大気の全てに炎鱗粉が含まれているんです。魔法の使えない場所なんて、ないんですよ」
 流麗に紡がれた理論がレゼの口を封じた。彼はまだ納得できない様子でぶつぶつと呟いては頭をかきむしる。スウは彼に爪を噛む癖があることを知った。
 フェイはスウに向き直り、表情を固めたまま問いただす。
「あなたは……この世界の外から来たのですね?」
 確信を持った問い。
 否定するべきだ、と思った。
 彼らは自分達の世界で育った存在で、その外の世界のことなど想像もできない。理論上あるのだと認めたとしても、感情がついてこないだろう。かつての自分がそうだった。必死でこの世界が自分の属するものだと信じたがっていた。頭のどこかでは、とっくに気付いていたのに。
 待っているのはさっきと同じ視線だ。自分を囲む神官たちが叩きつけた、忌避。
 嫌だ。失いたくない。
 膝が震えた。勝手に涙が溢れそうになる。
 フェイがほとんど屈み込むようにして顔を覗き込む。優しい瞳がじっとこちらを見つめていた。
「あなたは賢い子ですね。でも」
 ぼやけそうになる視界の中で、薄茶色の髪の青年が微笑みかけた。
「私は信じますよ」
 透明な言葉だった。全てを通り抜けて、すとんと胸の中へ落ちていく。それはきっと彼に迷いがないからだ。
 自分ではこんな風には言えないだろう。疑って疑って結論を出し、裏切られることを承知で信じる自分には。だって、それが自分の世界のやり方だったから。
 恐る恐る見上げると、彼はにっこりと笑いかけてくれる。根っからのいい人というのを初めて見た。
「スウ、本当なの?」
 デュノが心配そうに手を掴む。疑いというよりも確認の問いかけだった。
 ――……信じてくれる?
 自分はきっと、最高に情けない顔をしている。
 少年は二、三度目をしばたたかせて、
「当たり前だよ」
と言い放った。まるでそれが世界の真理であるように。
 大丈夫。
 きっと、彼だけは信じてくれる。
 ゆっくりと頷いた。
 同時にレゼが細く溜息をついた。けれど何も言わない。ただ、こちらと目が合うと少しバツの悪そうな顔をした。
「別に、それが嘘でも俺には何の害も無いしな。いいよ、信じても」
 一番納得のいく答えだ。スウが同じ立場なら、きっとそうしただろうから。
 フェイが部屋に備え付けられた棚から筆記具を取り出し、メモを取る。
「では、私にあなたの世界のことを教えてくださいませんか、賢者様」
 スウはためらいなく頷いた。
 彼女は自分を指差すと、にっこりと微笑んで青年に告げる。
 ――私の名前は、スウ。佳川 崇。
 彼らを、信じてみよう。
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