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瞼を透かして光が入り込んでくる。ささやきが意識をくすぐった。 いつのまに瞼を持ち上げたのか、明るいだけの世界が広がる。目を凝らすと、ぼやけた視界がゆるゆると整っていく。 突如目の前で像を結ぶ、自分と似すぎた顔。 「うわ、レゼ!?」 飛び起きると顔が更に近くなった。思わずまじまじと見詰め合う。 兄は仏頂面をぴくりとも動かさず、一言、 「バカ者が」 と言うなり、デュノの顔面を片手で掴んで枕へ押しつけた。後頭部が枕に埋もれても、容赦のない圧力がかかり続ける。視界が暗い、息ができない、痛い。というか不快。 「あにすんのさ!」 文句にまかせて手を払いのけようとしたのに、腕が持ち上がらない。筋肉に鈍痛が走った。途端に自覚される体中の痛み。関節が嫌な音をたてて軋んだ。 全身が極度の疲労で重い。 魔力を吸い取る月下の儀式は、無限に溢れる月の魔力を媒体とする。特殊な魔力を満たした空間に身を置くことで、体内の炎鱗粉を滲み出させるのだ。その濃度が上がれば上がる程、素早く魔力が奪われていく。 だから普段は部屋中に設置された鏡が月光を跳ね返し、光の量を制限していた。それらは鏡の屈折を繰り返し、空へと返されていくのだが……今日はその連鎖が途中で止められていた。 気づいたときには遅い。 鏡の角度がほんの少し変えられるだけで、デュノの命は危機に陥る。 抑制が効かなければ魔力が無尽蔵に流れていく。肉体と深く繋がる魔力は、ほぼ生命力といってもいい。限度を越えて失えばそれまでだ。 実は、以前にもこういうことは何度かあった。 開け放した扉から風が入り込んだり、下級神官が掃除の際に触ってしまったり。ここまで生きてこられたことが不思議なくらいだ。 そしてその度に、何人かの神官が犠牲になっている。 儀式が暴走しても、デュノはすぐに死ぬわけではない。無論、放置されれば限界をむかえるが、すぐさまどうなるというわけではなかった。 だが、正常な人間にはこの儀式自体が死を意味している。 罪なき彼らが一瞬で魔力を奪われ、息絶える。その姿をデュノは何度も目にしてきた。 はて、今回は誰が助けてくれたのだったか。 もう一度飛び起きる。 「スウ! スウは!?」 「心配ありません。彼女は無事です」 レゼの向こうから、聞き覚えのある低い声が届いた。声質までやんわりと微笑んでいるような、こちらの気持ちを落ち着つかせる力がある。 「――フェイ、なの?」 「お久しぶりです、デュノ。お元気……ではありませんね」 腰をかがめて顔を覗かせた姿がひどく懐かしい。柔和な物腰と笑顔はいつも同じ。長身に見合うしっかりとした体格が、いっそうこちらを安心させる。着古した装束が土に汚れていた。長旅から戻ったところなのだろう。 フェイは異民族ゆえに遠方の布教へ派遣されていた。しかし彼は元々神殿の警護を勤める神官兵であり、布教できるような立場ではない。これには彼の過去が関係する。 フェイは数年前の隣国で起こった革命の際に亡命してきた異教徒だ。ある日ふらりと城へ現れて女王の目に止まり、ほんの一時期だけ母の護衛を勤めた。しばらくしてアーゼン国教に改宗して神官兵になったものの、あまり熱心な信者というわけでもないようで、今はもっぱらデュノの子守り役をしている。 すなわち、女王と繋がっているのだ。改宗したのも神殿へ潜り込むためだろう。 そんな彼を聖女は嫌い、なにかと理由をつけては遠方へ送りたがった。王都から遠く離れてしまえば、簡単に彼を討つことができるのだから。女王が何かを言ってきても、運悪く賊に出会ったとでも返せばいい。 だが、フェイは階級こそ低いけれど、神官兵の中で最も武術に長けた男だ。特出した剣の才能のみならず、北方異民族特有の長身と力がある。デュノも何度か訓練の様子を見てきたが、正しい指南を受けたと思わせる太刀筋には一片の揺るぎもなかった。 謙遜の上手な彼から無理やり聞き出したところ、女王もまた彼の剣技を見込んで護衛を任せたとのこと。噂では、あの母を相手に剣が折れるまで持ちこたえたのだとか。 彼は相変わらず人の良さそうな笑顔で応じる。 「彼女は今、専門の方に調べていただいています。私の見たところでも、異常はありませんでした」 そこまで言うと、フェイはたたえた笑みに苦笑を織り交ぜる。 「気を付けてください。せっかく戻ってきたのに、あなたがいなくては土産話もできません」 「……ごめん」 「デュノ。謝るのは私にではないでしょう。何事も無かったから良かったようなものの、一歩間違えれば命を落としたのはあなただけではありません」 優しく諭されて、デュノの視線が下へと落ちていく。 答えようもなかった。 そんなデュノの態度が癇に障ったのだろうか。ひたすら黙ってこちらを睨みつけていたレゼが、唐突に口を開いた。 「お前は『駄目だ』と言ったな。俺には渡さないと言った。神殿においておくと」 淡々とした確認だった。 兄の語気はそれほど強くない。だが、重い。 「その言葉の意味を考えたか」 一切の動きができなかった。兄の目を見つめたまま、強制的に考えたくなかった部分へ焦点が当てられる。 では、つまり。 あれは誰かの過失ではなく、デュノよりもむしろスウを狙った犯行だったのか。 あえて儀式の中へ飛び込ませることで、その命を。 悪寒が背中に張り付く。 こんなことをする相手は一人しかいない。 自分を束縛し、異常な程執着する女性――聖女だけ。 自分は、自分が彼女を守らなくてはならなかったのに。そんな選択をしていたことにも気付かなかった。 レゼは溜息をついて顔を背ける。 「大バカ野郎」 吐き捨てられた言葉は、あまりにも正しかった。 静寂が満たされた一瞬を突くように、扉が開いた。 心配げな表情が半分だけ覗く。こちらの気配に何かを察知したのか、そっと戸を押し開く手が張り詰めていた。どうして彼女はそんなところまで感じ取ることができるのだろう。まるで空気を掴み取ることができるみたいだ。 「スウ!」 名前を呼ぶとにっこりと笑って駆け寄ってきた。 最近、彼女は笑顔がどんどん上手くなっている。以前はわずかな表情の動きだったのが、今では満面のそれだ。言葉が通じない分、表情で補っているのかもしれない。 「スウ、ごめんね」 手を取られるより早く、デュノが口を開いた。ひどく声が強張ってしまった。 全部、説明したほうがいいのだろうか。 少年の逡巡を見抜いたのか、スウは不思議そうな顔をした。それからやっぱり微笑んで手を重ねた。 ――大丈夫だった? 頷くと、そのまま顔がうつむいた。その頭に優しく手が置かれ、撫でられる。 もし誰かが言い出したなら、全部話そう。 しかし傍らの二人は何を思ってか、じっと押し黙っていた。 「おお、殿下。お気づきになられましたか」 代わりに沈黙を破ったのは、しわがれた老人の声だった。 スウの後から入ってきたお爺さんが大股で近付いてきた。彼がスウを調べていた魔法の専門家だろうか。白っぽい水色のぼさぼさした髪に分厚い眼鏡をかけた様子は、確かに学者然としている。 どう対応していいのか分からなかったデュノに対し、日頃彼らと接しているレゼは慣れたもの。平然と老人に話し掛けた。 「で、じーさん。何か分かったのか?」 「もちろんです。こんなことならもっと早く連れてきていただければ良かったんですがねぇ、医者なんぞに分かるもんですかい。さっさと教えてくれていたら、こんな真夜中に飛んでこなくてもよかったんですからね。わたしゃ、不入の森の角界が解けた時も持病のぎっくり腰を悪化させていましてねぇ、貴重な光景を見過ごしました。つくづくツイていませんよ、はい」 「で、何が分かったんだ」 「ほっほっほっ」 老人が嬉しそうに目を輝かせる。そこでもったいつけなくてもいいものを。 彼はスウの手を取ると、口の中でもごもごと何事かを呟いた。そしてもう一方の指先で彼女の腕に触れると、その部分が淡く光を帯びて輝く。 最初は何か良く分からなかったが、気付いた瞬間ぎょっとして息を飲む。 細かな六角形の鱗が、スウの皮膚にびっしりと張り付いていた。 スウが困ったように微笑んで小さくなっている。特に驚いた様子はないようだ。彼女はさっきの取り調べてこの鱗を見たのかもしれない。 光は一瞬で消えた。肌はすっかり元に戻り、しっとりと柔らかそうだった。鱗があるようには見えない。 「この紋様に見覚えはありませんかな」 老人が意味深に視線を巡らせると、レゼがあっと叫びに似た声をあげた。 「不入の森の結界。あれが弾け飛んだ時、そんな模様が浮かんでた!」 「その通り。これは鱗結界といいましてね、不入の森にかかっていたものと同じです。特殊な結界の一種でして、主に飛翔炎を隔離するために使われます」 老人がうきうきと説明を加える。傍目に見てもご機嫌だ。この国で言うなにかしらの専門家とは、研究に没頭して俗世から浮きすぎた挙句、帰ってこれなくなった人達のことを指す。普通はそのまま変人と呼ばれる。 「飛翔炎といえば生物に宿って魔法能力を与えたり、意思疎通媒体である炎鱗粉を作り出したりと、我々の生活になくてはならない有益な共存体です。彼らは一時生物に身を寄せますが、そのほとんどは不可視の状態で上空を飛び交っていることは、ご存知ですね?」 スウを除く三人が揃って頷く。当たり前だ。 「この結界は、そういった非憑依状態の飛翔炎を捕獲するために編み出されたのです。本来ならば、我々のような学者が学術研究の際に利用するのですが……まさか人体を内封するとは」 老人が感嘆しきった様子でスウを見る。その目はもはや芸術作品を見る者のそれだ。 フェイが冷静に口を挟んだ。 「そのことと、彼女が月下の間に入っても無事だったことは、どういった関係があるのでしょう?」 「鱗結界の特徴は飛翔炎を隔離することのほかに、炎鱗粉を通さないというものがあります。月下の間に入ったにも関わらず魔力を奪われなかったのは、この結界が内側からの炎鱗粉を遮断しているからでしょう。こちらの言葉は通じているので、外から内へは流れるようですが。すなわち魔力の一方通行ですな」 老人がスウをしげしげと見つめる。ちょっと近い。 「詳しいことはもっと専門機材を使って調べねばなりませんが……この結界は複雑ですぞ。音声を消すよう改良が加えられていますから」 「やっぱり、スウが話せないのは結界のせいなの?」 「ええ。非常に珍しい結界です。本来、鱗結界は物理的にしか作用しませんからね。飛翔炎を通さないだけでなく、炎鱗粉を含んだ物……人体などの生命体まで遮断しますし、風ですら風力をそがれて、わずかな空気の入れ換えしかできません。今まで不入の森へデュノ殿下以外が入れなかったのも、そのせいです」 ちらりと老人がデュノを横目で見遣る。 「えー、デュノ殿下は、あー……少々特殊な飛翔炎をお持ちですからね。鱗結界が感知しないのも、まあ、納得といいますか、仕方がないといいますか。殿下だけが意思の疎通ができるのも、じかに触れられるのが殿下だけだからです」 ごほごほとせき払いをする老人。そんなこと、今更分かりきっている。 「私は今、こうして彼女に触れているように見えますが、実際は皮膚の表面にある結界に遮られています。彼女の体温すら感じることはできません」 言われて驚いたのか、スウがきょとんと老人を見つめる。彼女には老人の体温が感じられるのだろう。それも魔力の一方通行のせいだろうか。 「失礼」とフェイがスウと握手を交わす。 なぜか互いに若干頭を下げているのが不思議だ。そういえば彼女はよく挨拶をしながら頷きのように頭を下げるが、フェイにも似たような癖がある。 「……なるほど」 神妙な顔で二人が手を離した。 「では、結界を解くことは難しいのですか?」 様子を覗いつつ、フェイが問いかける。慎重な声色はスウを気遣っているらしい。 にも関わらず、老人があっさりとその配慮を両断した。 「ほぼ無理ですね。この結界は恐ろしく強力で複雑なものです。下手に手を出そうものなら、この娘さんの命が危うい。術者だってただでは済みません」 あっけらかんと言ってくれる。思った通り、スウの表情が沈んだ。 それを見て、老人が慌てて付け加える。 「あっ、いえその、まったく無いというわけではないんですよ。おそらく宿詞であれば……」 言葉尻を濁して老人が黙り込む。今度はレゼが渋い顔をしたからだ。 「親父か……」 レゼの呟きが低く響く。 王だけが持つ万能の力、宿詞。結局はそこへ辿り着くのか。 だが、兄は一瞬で話題と声色を切り替えた。 「なあ、ずっと聞きたかったんだが、森の結界もこれと同じものだったんだろ? つまり結界は解けてなかったってことだよな。だとしたら、デュノが見つけた呪文は一体何のためのものだったんだ?」 「そうだね、父さんは何を見付けたんだろう」 あの呪文は父の日記に記してあったものだ。父の目的は賢者を森から出すことであって、言葉が通じようが通じまいがどうでもよかったのかもしれない。でも、父が開発したわけでないことは確かだ。古の昔から語り継がれてきたものなんだろう。 だとしたら、あの呪文は何のために存在したのか。 眉を寄せている二人の間へ、老人が割って入った。 「普通の鱗結界では使われませんが、特定の人物が詠唱することによって空間にかけられた結界をその人物へ特定し、再構築するという呪文があります。正確に言うとその人物の持つ飛翔炎へ、ですがね。もしかするとそれの応用かもしれません」 人物へ再構築。 つまり、デュノはスウを解放したわけではなかったのだ。 体の自由と引き換えに、言葉の自由を失わせた。 何も出来ていなかった。 「……スウ、ごめ」 瞬間的に強く手を握られる。見上げた先の、黒い瞳。 ――ねえ、デュノはどんな時に私を森から出してくれた? 諭す声は柔らかだ。 「えっと……火事の時」 ――そう。だからこれでいいんだよ。助けてくれて、ありがとう。 その笑顔は本当に穏やかだった。もう一度頭を撫でる手が温かい。 ……君にそう言ってもらえるのなら。 言葉を返そうとした瞬間、矢継ぎ早な横槍が突き刺さった。 「はっ、仲睦まじいことで」 「可愛らしいですねぇ」 「若いことはいいことですなぁ」 合図もしていないのに結託できる三人。絶対、わざとだ。 慣れない冷やかしを受けて、顔が一気に熱くなる。 「そんなんじゃないってば!」 「ああ、はいはい。だよなーそうだよなー」 力いっぱいの否定も軽く受け流される。耳までじんじんと熱い。 隣でスウが平気な顔をして笑っていることが、いっそう気恥ずかしさを強めた。 |
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