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八章   異邦人


 やがて、夜が来る。
 夕焼けに空が朱く染まりだすと、二人、言い様のない沈黙に襲われる。
 少年の部屋で窓辺に寄り添い、空を見上げた。月が輝きを帯びはじめている。
 彼にすれば毎日のこと。でも、スウには信じられないこと。
 ――ねぇ、デュノ。
 少年の手をそっと握り、顔を覗き込む。それだけで相手は察してくれる。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
 いつものやりとり。
 少年は平気な顔をしてスウを言いくるめる。皆が困るから。僕にだって必要なんだよ。スウは心配しないで。大丈夫だから。……痛ましい言葉。
 今まではそれで渋々納得してきた。あまりに正し過ぎて、スウには何も言えなかった。
 でも、今日は感じ取ってしまった。幾重にも張られた理由の中の、中心に据えられた事実を。
 聖女トアナ。彼女の所有欲と執着。
 『ご一緒を望まれるのであるのなら、夜半も共になさったらよろしいとは思われませんか?』
 “お前の決して踏みこめない領域を、私が支配している”
 これまでだって気付かなかったわけではない。周りの神官達の態度や、聖女自身の対応から、自分の存在が邪魔なのだと察していた。けれど、それはただ世間体を気にしているだけだと思っていた。でも違う。
 なぜ、どうしてという問いかけは恐らく意味がないだろう。感情だから。
 けれどそれがために少年が無駄な苦しみにあっているのだとしたら……許せない。
「泣かないで」
 少年が困ったように微笑む。目元にうっすらと影が乗る。
 違う。自分は泣いてなんかいない。これは怒り。聖女への、そして現状を変えられない自分への。
 デュノはスウの髪に触れ、一本の花を取り出した。柔らかな花びらが幾重にも重なった愛らしい花。手折ってから半日近く立つのに、瑞々しく花弁を広げている。
 そこへ、扉の向こうから控えめな声がかかる。
「司祭様、お時間です」
 二人揃って扉を見る。
「わかった」
 デュノは手にした花を一瞬思案するように見詰め、スウに手渡した。その手をスウが掴む。
 ――私も行く。
「駄目だよ」
 ためらいなく離される。
 少年は足早に扉へ向かうと、一度振り返って微笑んだ。
「大丈夫だから」
 扉が閉まる。
 呟いた口からは、ただ息が漏れるだけ。
 ――……私にその手段を使うの。聞こえるよ。その言葉の前に、“辛いけれど”って。
 かつて自分が少年に言った言葉がどれだけ残酷だったか、よく分かった。



 燃え立つような夕焼けが全てを赤に変えた。目の端に涙の存在を感じる。早く乾くといい。
 何も考えたくなくて、彼の部屋でただ外を見つめていると、ひょっこりと人の顔がのぞき込んだ。薄い茶色の髪が夕焼け色に染まった、二十代後半の男性だ。
 目が合う。それも至近距離、目の前で。
 ちょっと驚いて身を引くと、相手にとっても不測の事態だったのか、青年がわずかにのぞけった。慌てて一歩後ろへ下がる。
 髪と同じ茶色の瞳が動揺しきっていた。いい年をしてピュアそうな人だ。
「え。あっ、こんにちは。司祭様はおみえになりますか?」
 青年は動揺取れやらぬ表情で笑顔を浮かべる。なんとも人の良さそうな、緊張感の薄い表情だ。顔の作りが一般的なアーゼン人より薄いせいかもしれない。より日本人的というか。
 首を振ってみせると、青年は少し声のトーンを下げて「遅かったですか」と呟いた。
「貴方が白の賢者様ですね。私は神官兵を務めております、フェイと申す者です。以後、よろしくお見知りおきを」
 フェイと名乗る青年は深々と頭を下げた。つられてスウも頭を下げる。
 そういえばこの国の人は挨拶に頭を下げることをしない。会釈はあるが、彼らが腰を折ったところを今まで見たことがなかった。その代わり不思議な袖の振り方をするのだ。
 顔を上げると、青年が目じりを下げてこちらを見ていた。
「早速ですが、司祭様へ伝言をお願いしたく……。あ、でも貴方は神殿の関係者ではないのでしたね。では、書く物を頂けませんでしょうか」
 スウはデュノの机の上から紙とペンを取った。でも何か足りない気がする。
 インク壷だ。このペンはガラス棒の表面に細かな筋が付けてあり、そこへ墨汁に似たインクを流して使う。これを忘れてはいけない。
 フェイはペンを手にすると、なにやら困り顔で紙を見つめた。
「古アーゼン語は苦手なんですよねぇ。分からない所は現代アーゼン語にしてしまいましょうか……」
 眉毛を寄せてみたりハの字にしたり、紙を近づけたり離したり。苦戦しているようだ。
 覗き込むと、やっぱり昔の判子をもっと細かくしてひしゃげたような文字が並んでいる。所々が繋がっているし、略字のような簡単な文字もある。でも多分、デュノの十倍くらい丁寧で綺麗だった。
 細かな文字を縦書きで書き終わると、フェイは最後にアルファベットの筆記体とアラビア語を足して二で割ったようなサインをしたためた。几帳面に四つ折りにし、スウに差し出す。
「これを司祭様に渡しておいて下さい。私は当分兵舎の方におりますので……」
 スウが紙を受け取る前に、それはフェイの手を離れ、ぱらりと床へ落ちた。
 突然、空一面が雷を受けたように輝きだしたからだ。
 わけもわからず空を見上げる。目を凝らすと、大量の何かが光を放って蠢いていた。細い糸のようなもの。色を変え、光を変えて遥か上空をたなびいている。
 それが尾を引いて飛ぶ火の玉だと気づいた時、鳥肌が立った。
「飛翔炎が目視できるなんて……。炎鱗粉の濃度が、上昇している?」
 さっと青年の顔から血の気が引いた。
「すみません、失礼します!」
 フェイは窓枠に手をかけ、一飛びで室内へ入り込む。
 大きい。
 青年の身長は見上げるほど大きかった。二メートル近く、いや、越えているのではないか。
 ここの床は地面より高めに作られている。相手が窓の外でも普通の男性くらいだったのだから、床で立った場合、更に二十センチ以上高くなるということだ。
 仰天するスウを置いて、青年は一散に駆けていく。
 その慌てぶりに不安なものを感じて、スウは後を追った。
 歩幅が広いのは走る時便利だなぁと、スウはのん気なことを考えていた。青年が立ち止まった扉が、月下の間だと気付くまでは。
 立ち止まったのではなく、止められたのだ。彼より頭一つ半小さな神官が二人、必死になって大きなフェイを押し留めている。
「開けてください!」
「駄目です! 今、中へ入ったらあなたが」
「しかし……!」
「我々にはどうしようもありません。とにかく落ち着いてくださいよ」
「離してください。制御が働いていないんです。このままでは、デュノが死んでしまう!」
 予測していた名前と、予測しなかった事態に彼女は息を飲む。
 デュノが死ぬ?
 胃に冷や水を流されたような感覚。指先が冷えていく。
「すみません」
 フェイは大柄な体からは想像できない素早い動きで神官達を突き飛ばした。身長だけでなく、体格そのものも違うのだ。神官達は叫ぶ間もなく床に転がる。
 薄闇の中を一瞬鋭い光が流れた。刀に似た剣の切っ先が、わずかに光を返したからだ。
 木製の扉をやすやすと貫いた刃を、フェイは横から蹴り倒した。テコの原理を利用して、鍵の付け根を破壊する。その部分を正面から蹴り飛ばしてやれば、強固な扉はあっさりと開いた。
 だが、彼は一歩を踏み出せない。
 室内は空に照らされて薄ら明るい。その明るさの半分が、空中を立ちっていく細かな光の粒のもの。これがデュノの魔力だろうか。
 スウには特別異変が起こっているようには見えなかった。光が空へ上っていく様はただ幻想的で、静まり返った部屋に危険は感じられない。
 部屋の床に倒れている小さな影を見つけた。輪郭が淡くぼけているのは、光がそこから零れているから。
 少年は顔をこちらへ向けたまま、ぴくりとも動かない。目を見開いたまま。
 その焦点が合っていないことに気付いた瞬間、スウは少年へ駆け寄っていた。フェイが制止の声をかけた気がした。
 ――デュノ!
 声をかけて揺さぶると、少年がわずかに身じろいだ。誰が来たかもわかっていない様子に、どうしたらいいのか分からなくなる。
 少年は喘ぐように口を動かし、身近な台座を示した。
 その上に乗せられているものは、鏡。
 恐る恐る触れると、鏡の角度が変わった。別の鏡から月光を受け取り、また他の鏡へと移していく。
 それらは空中に光の筋を描いて、月光を空へと返していった。
 立ち昇る粒子の数が格段に少なくなる。制御されたのだろうか。
 少年が目を閉じて、意識を手放した。慌てて呼吸を確認する。大丈夫。
「賢者様。すみませんが、デュノをこちらまで連れてきてもらえませんか?」
 フェイが扉の前で困ったように笑っている。その向こうに見える人ごみから、ささやき声が聞こえた。
 気絶した相手を抱えることはできなかったので、上半身を抱えこんで引きずる。
 軽い。衣服の下に感じる硬い感触は、肋骨だろうか。
 細い子だとは思っていた。体が弱いのだろうと思い込んでいた。
 それだけこの儀式が負担だったのだ。小さな体で何年も耐えてきたから。
 扉の外まで引きずると、フェイが少年を抱え上げた。同じことを思ったのか、わずかに眉間が寄る。
「ありがとうございます。では、医務室へ。あ、賢者様も来てください。見たところ平気そうですが、一応心配ですからね。……どうしました?」
 不思議そうな顔をされる。
「ああ。デュノのことじゃなくて、賢者様です。あの状態の月下の間へ入られたんですから」
 青年はそこで言葉を区切り、少年を抱えて歩いていく。
 ほっと一息ついた時、乾いたものがひらりと床へ落ちた。
 枯れ果てた花びら。髪に手を添えると、乾ききった手触りが触れた。生気のない茎は髪に絡むことを止め、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
 植物でさえこんな状態になるというのに。デュノは本当に大丈夫なのだろうか。
 後を追おうとして、その場に漂う冷え切った空気に足を止める。
 見渡せば、皆、異物を見るような目で彼女を見ていた。
 ……今更、傷つくことではない。
 自分に言い聞かせて、フェイの向かった方へ人ごみを裂いた。
 人々の向こう、闇の中に、一人佇む黒髪の女性がいた。
 一瞬目が合う。
 その敵意、憎しみをそのまま受け取った。
 彼女を許せそうにはない。
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