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七章   花咲く国


 浮遊感にも似た、心地よいまどろみだ。
 少女は自分が夢を見ていることを自覚していた。感覚と切り離されて、意識だけが覚醒していく。もうすぐ目覚める。そう分かっていたのに。
 ずるりと足を掴まれた。呑み込まれ、頭までどっぷりと浸り込む。
 闇の中を落ちていく。深く、深く。
 加速しない落下の中で、低い音を聞き取った。地響きの音。そして、それに混ざった何者かの声。その二つが響き合い、頭を、全身を揺るがした。
『世界を真の姿に』
 目が覚めた。明るい光が視界を染める。
 まただ。森を出て以来、毎晩のように同じ夢を見る。真っ暗な悪夢。恐怖と強迫観念の入り混じった、不快な夢だ。わけもわからず、ただ自分の怠惰を責めたてられ続けている。同じ夢なら逢いたい人に会わせてくれればいいものを。
 少女は震える指先を握り締めて、薄いシーツに潜り込んだ。
 怖い。夢の中でも目覚めてからも、染みこんだ恐怖が消えなかった。
 震えがおさまったのを見計らってベッドを抜け出し、上履きに足を乗せる。朝の冷え切った空気が足首に触れた。木製の床板が軽く軋む。
 スウは寝巻きの前をきっちりと合わせ、ショールのような一枚布を肩にかける。浴衣のような借り物の寝巻きは、不慣れな枕と合わさって、いまいちリラックスできない。悪夢の原因はこれなのだろうか。
 窓辺に寄り、備え付けられた紐を引っ張ると、透明な薄い布がするすると巻き上がる。ブラインドと同じ要領だが、この窓に硝子はない。
 朝焼けの空が薄紫に染まっていた。地平へ近付くほど水で薄めたように薄くなり、代わりに朱が混じって橙色を帯び始める。遠くたなびく朝雲は、上辺をオレンジ色に輝かせてくっきりと浮かび上がっていた。瑞々しく水分を含んだ空気が、陽光を浴びて白く煙っている。
 この地の光は晴れていてもうっすらと花曇りをしているようで、優しい。
 スウは空を確認すると、部屋を出る。人のいない廊下を小走りで走り抜け、二人の見張りが立つ扉の前で立ち止まった。
 朝焼けと同じ薄紫の衣を纏った二人を、無言で見詰める。気まずい沈黙に一人が渋々扉の鍵を開けた。意識はしていないけれど、スウの視線は非難がましく二人を見据えているのだろう。いつものやりとりだった。
 扉が開ききるより早く滑り込み、部屋の中央に据え付けられたベッドへ駆け寄る。この部屋は嫌いだ。見事なドーム型の天窓を配していながら、壁には窓が一つもない。扉にはいつも鍵をかけて、少年を閉じ込める。
 少女はベッドの脇に腰を下ろした。
 白いシーツに覆われたふくらみにそっと手をかけ、少しめくる。現れたのは灰色の髪と疲れ果てた寝顔。青白い顔をして目を閉じた様は、まるで死んでいるよう。
 スウは息をついて、少年の額に手を添える。温かい。
 ――おはよう、デュノ。
 確かに震える声帯は、彼女自身の耳にも音をもたらさない。
 初めはひどく混乱して、取り乱した。やっと森から出られた矢先のことだった。
 落胆した彼女が立ち直ることができたのは、デュノがいたからだ。誰の耳にも届かない中で、少年だけは感じ取ることができた。不思議なことだけれど、森の結界を抜けられた少年だからこそだという。ただし、体のどこかが直に触れ合っていないといけない。薄布一枚隔てただけで、スウの声は誰にも伝わらなくなってしまう。
 デュノは深く寝入っているようだ。規則正しい寝息が聞こえる。赤ん坊のように体を丸めて眠る様子は、必死に自分を守っているようにも見えた。
 スウの表情が翳りを帯びる。
 森を出て神殿へやってきても、しばらくの間、少年は自分の立場を彼女に教えなかった。平気な顔で昼を過ごし、夕方に別れて昼頃現れる。その生活を不審に感じて問い詰めるまで、少年は口を割らなかった。思えばあれは彼の配慮であり、プライドだった。
 少年の境遇を知って、スウは初めて自分を恥じた。
 こんな小さな彼が愚痴も言わず、日々を堪え抜いてきたというのに。
 薄弱な自分。物分りのいい振りをして、全て諦めた。この先に続く未来が絶望にしか見えなかった。痛いわけでも、苦しかったわけでもない。ただ寂しかっただけ。
 こんな稚拙で主観的な理由だったなんて。
 “諦めないで、今だけ我慢すればいいから”
 あの言葉は彼の本心だったに違いない。デュノは本気で森からの脱出方法を探してくれていたのだし、火事だって逃げようと思えばどうにかなった。彼にすれば、スウがなぜああも簡単に命をなげうったのか、理解できなくて当たり前だ。
 結局のところ、スウは一番大切なところでデュノを信じていなかった。少年はいつでも彼女を信じてくれていたのに。
 後悔がのしかかって、どうしたらいいのか分からない。疲れ切った少年の顔を見ていると、勝手に涙が込み上げてくる。
 泣くな。それは懺悔じゃない。
 デュノが薄く目を開け、こちらを見て微笑んだ。スウの手に自分の手を重ねると、安心したのかもう一度眠りに落ちていく。
 スウは手を握り締めて、じっと傍らで座っていた。
 不意に、ゆっくりと近付いてくる足音に気付く。
 開いたままの扉を見たと同時、数人の従者を従えた黒髪の女性が通り過ぎていった。
 年の頃はスウの母親ほど。神官にしては装飾華美な純白の衣に、銀細工が散りばめられている。
 この神殿の実質的な支配者、聖女トアナ。デュノの余った魔力を取り出し、利用するシステムを作り出した張本人。
 聖女は通りすぎ様に、一瞬こちらを見遣った。
 端から見れば他意のない一瞥だ。けれどスウは周りの空気がぴしりと張り詰めるのを感じ取った。神殿に来てから彼女に会ったのはほんの数回。その度にスウは体が緊張するのを止められない。感じるのだ。
 何気ない視線にこめられた、敵意を。



 アーゼンの食事は、全体的に甘味が強い。
 そもそも使われる食材からして違う。食材のほとんどが野菜で、肉は鶏肉か魚の干したもののみ。後は野菜が半分、果物が半分。以前デュノが言っていたように花も立派な食材だ。彩りのためだけに食べられない生花が添えられることもある。
 砂糖や蜂蜜の生産が盛んらしく、味付けそのものも甘酸っぱいものが多い。スウには甘すぎてもデュノは平気で食べているので、どうもアーゼン人の味覚自体が甘めにできているようだ。そのわりに体が細くて羨ましい。
 甘みに飽きて塩味が欲しいと言うと、海がないため塩が入りにくいのだと言われた。海に囲まれていた日本人は味覚そのものも塩辛いのだろうか。森にいた頃から果物ばかり食べてきたので、そろそろ醤油や味噌が恋しくなってきた。
 それさえ気にしなければ、アーゼン食は非常に美味しい。豊富な食材に様々な調理法。季節感を大切にした彩りも繊細で鮮やかだ。豊かな食文化が、そのまま国の豊かさを表している。
 今も昼食に出された果物のスープが今までにない味わいで、おかわりをしようか本気で悩んだ程だった。結局、他の料理を食べきれる自信がなかったので止めておいたのだが、正面でデュノが機嫌よくおかわりをしているのを見ると、したほうが良かったかもしれない。
 デュノは小柄で目に見えて細いのに、どこに入るのかというくらいよく食べる。食事量だけなら成長期の男の子と大差ないかもしれない。それだけ食べてどうして太らないのか、スウはいつも疑問に思う。胃下垂だろうか。
 彼は朝方から昼までが睡眠時間なので、これが朝食に当たる。デュノは一日二食のため、昼食と夕食は一緒にとることができるが、朝食はスウ一人だ。給仕の人とすら会話ができないので、非常に居心地が悪い。
 スウはデザートを口に運びながら、つくづくこの国が箸を使ってくれていることを感謝した。スプーンやフォークならスウでも扱えるが、手掴みだったらどうしようと、初めての食事はずいぶん心配したものだ。必要に応じて木ベラのようなスプーンを使うが、基本的には箸。持ち方も同じでよかった。
「あ、そうそう。今日はレゼが来るんだって。珍しく手続きが来てたんだ」
 デュノが真っ赤に熟れたサクランボのような果物を突き刺す。リンゴ飴のような味がするこの果物はとにかく甘く、デュノの大好物だ。
 スウが食事の手を止める。
 レゼというと、確かデュノのお兄さんで、森の外にいた青年だ。森から出た時にちらりと会って以来、顔を見たことはない。兄弟だからかデュノに顔がそっくりで、もっと紳士的な印象がある。
「この間無茶なことをしたから、当分来ないと思ってたんだけど。大事な用事でもあるのかな」
 デュノは果物をぱくりと口へ放り込む。
 と、扉が開いて目に映える臙脂色の装束を着た青年が通されてきた。額に褪せた朱色の紐を巻きつけた彼は、噂のレゼ。
「よお、デュノ。なんだお前、まだ食ってんのか」
 彼は大股で歩み寄り、少年の傍らに立つと、適当な果物を手にとって丸齧りした。スウは思わず目を見張る。同じ王子なのに、兄の方は丸齧りを知っているとは。
「レゼが早過ぎるんだよ」
「そうか? 部下の昼休みに合わせたんだけどな。いかんせん時間が足らん」
 スウは二人のやりとりを見ながら不思議に思う。
 この青年、以前と雰囲気が違う。きちんと会話をしたことはないが、もっと丁寧な話し方をしていたはずだ。
 そう思って見上げていたら、青年とばっちり目が合った。瞬間。
「失礼。女性が同席されているとは思いもよらず、不躾な振る舞いを」
 王子様に、なった。
 上品な微笑み。柔らかい声色。手に持った果実ですら宝玉に見えそうだ。歯型が少々気になるが。
「お久しぶりですね。不入の森の結界が解かれて以来ですか」
 周りの空気まで澄んでしまいそうな爽やかさに、こちらはどう対応していいのか分からない。なまじ先程のフランクな状態を見ているのも不利な要因だ。
 笑顔で近付かれて、体が勝手に身を引いた。仕方がない状況とはいえ、思いっきり失礼だった。
 そんなスウを見てデュノが冷静に言葉を刺し込む。
「ちょっとレゼ、スウが怖がってるじゃないか」
 ぱっとレゼがデュノを振り返る。その動きにさっきまでの上品さはない。
「えー、恥ずかしがってるんだって。怖がらなくてもいいですよ、お嬢さん」
 くるりとこちらに向き直る頃には紳士に戻っているのだから、怯えるなという方が無理な話だ。スウはただただ恐縮し、無理やり笑みを浮かべる。頬がいやに硬い。
「そんな風にかしこまるから怯えられるんだよ。普通にしてればいいのに」
「んなこと言っても、女性の前で無礼があっちゃならんだろ」
「スウはそういうの気にしないと思うよ」
 デュノの助け舟に慌てて乗り込む。必死になって頷いた。
「ほら、頷いてる」
「けどなぁ、もう延髄反射だし……」
 レゼはしばらくぶつぶつと何かを呟いていたが、やがて決心したようだ。
「では、失礼して」
 こほんと一つせき払い。
「食べ終わったなら外行こうぜ。神殿の中は人目が気になるだろ。よろしいですね? あ、違った。いいですか、な?」
 思いっきり混ざった。色々大変らしい。
 スウは思わず噴き出して、頷く。
 そんなレゼを横目で見ながら、デュノがあきれて呟いた。
「なんか、いっそう気持ち悪くなった気がする……」
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