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これでいい。 そう思うと気持ちが楽になった。久しぶりに自分のベッドで眠りにつくような、満たされた心地がする。 火を着けたのは決してわざとではない。 焚き火から小さな火の粉が飛んで草に止まり、燃え上がった。でも、すぐに消そうとは思わなかった。 ああ……燃えている。 無感動に見ているうちに、炎はゆっくりと広がって木を蝕んでいった。一つ、二つ、四つ、八つ。もう消すことはできない。 熱い風が巻き起こり、焦げた臭いが漂ってくる。煙は太く空へ伸びていた。 スウは花畑に座り込んで目を閉じる。不思議と冷静な頭が、今まで意識して忘れていた人々を思い出させた。 こんなことをしたと知ったら、アイは怒るだろう。バカな真似をと言って、泣きじゃくってくれるだろう。両親も悲しんでくれるだろうか。あまり関心のない父親と、離れて久しい母親。いきなり消えた娘のことなんて、どうなっても気にしないかもしれない。でも、自分は寂しかった。あなた達に会いたいと、本気で思った。それから咲坂さんは……。 「スウ!」 高い子供の声に目を開く。 すすけた白い装束に所々焦げた灰色の髪。顔にもすすが付いていたが、紛れもなくデュノだ。手にノートのような冊子を持っている。 少年は彼女の元へ駆け寄ると強く抱きしめた。 「よかった……」 呟きの後、ぱっと身を放した。すぐに彼女のあちこちを点検する。 「大丈夫だった!? 怪我はない?」 手を取られても、スウはまだ呆然としたまま。 「デュノ、どうして……」 「もう大丈夫だよ。僕と一緒に森の端へ行こう? あそこなら外から水が届くから。さぁ、早く!」 手を引っ張る少年を見ることができなかった。 スウは座ったまま、うつむいて強く首を振る。 「私のことはいいの。それより早く逃げて。もうすぐここにも火の手がくる」 花畑にも炎が灯り始めていた。デュノを巻きこむわけにはいかない。この子は森から出られるのだから。 それに、森の端へいっても生き延びられる可能性は少ない。煙と熱にやられてしまうだろう。その時、少年をそばに置いておくわけにはいかなかった。 デュノはわけがわからないといった顔でスウを覗き込む。怪訝そうに曇らせた表情が、一瞬で何かを悟る。 「だめだよ、諦めないで。僕が必ず出してあげる。今だけ我慢すればいいから!」 その言葉にスウは笑顔を浮かべる。 この少年は知らない。この森から出たところで、スウにはどこにも居場所がないのだ。 「もういいの。きっと、ここから出ても……帰れるわけじゃない。それよりも、ねぇ」 わざと明るく言った。 「魂だけになったら、帰るのも楽だと思うの。さあデュノ。あなたも帰りなさい」 「そんな、そんなのって……」 少年はその場に座り込み、彼女の袖を握り締める。押しやるスウの手にも動じず、動かない。 青の絨毯は赤く染まりつつある。このまま長引けば、少年の命も危うい。 炎から生まれた熱風が顔を撫で、スウは腕で顔を覆った。 早いうちにデュノを帰さなければ。 意を決して見た先の少年は、熱風をものともせずにぼうっとどこか一点を見つめていた。 「……デュノ?」 問いかけても返事はない。 彼はふらりと立ち上がって、何かに憑かれたように歩いていく。ぱしゃりと水音がして、一段と少年の足場が低くなった。膝上まで水に浸かりながら泉を横切っている。 スウは泉を避けて後を追う。どうしたというのだろう。あの様子では帰るつもりではないようだ。花畑はあちこちがくすぶっていて、危ない。スウは慎重にデュノを追いかけた。 泉を渡った先にある、大振りな石の前に少年は立っていた。 「思い出した」 こちらを見ずに言う様は、まるで独り言。 「僕、小さい頃に父さんとここに来て、父さんがあれを隠すのを見たんだ」 あれとは何のことだろう。 尋ねようとした時、またも熱風が押し寄せてきた。 燃え盛る木々を背後に、少年がこちらを振り向く。逆光で顔がよく見えない。 「見つけたよ、君を出す方法」 言われるままに手を貸し、二人で石を転がした。腰ほどの高さの石は簡単に転がったが、その際、苔むした表面に文字が刻まれていることに気づいた。 まるで墓石のよう。 この森に転がる無数の人骨のうち、いくつかは人の手によって弔われているのかもしれない。デュノのように彼らを知る誰かが、その死を悼んでくれたのだろうか。 デュノは石のあった場所を手で掘り返した。やがて木でできた箱に突き当たり、取り出す。 木製のはずの箱は土の中にあったにも関わらず、腐食していなかった。角も取れておらず、欠けた様子もない。土に汚れた表面には、かすかに木目が見て取れる。 少年が箱をゆっくりと開く。 納められていたのは数枚の紙。うっすらと黄ばんではいたが、それほど汚れてはいなかった。ある一時を境に、時を止められていたかのようだ。 「これが、何なの?」 「父さんの日記の一部。この本の破られた部分だよ」 デュノが手に持っていた冊子を紙の隣に置いて、本の破られた部分に紙を合わせた。 「……あった。これが解魔法の呪文」 デュノがびっしりと書かれた文字の一部を指し示す。けれどスウにはそれが文字だということすら分からなかった。古い判子の文字をもっと細かくして、ひしゃげたような形をしている。 「幾千の時を越えこの地を呪い、守りし者よ。我が魂に応えよ。其が真の望みはここに成されん」 少年が朗々と読み上げた。 しかし炎にかき消されてしまったのか、何かが起こる様子はない。ただ炎が熱風に揺れ続けただけ。 デュノは肩を落として呟いた。 「駄目だ。僕じゃ魔法が使えない……。僕じゃ、駄目なんだ」 打ちひしがれるデュノにいたたまれなくなって、スウが肩に手を置こうとした時だ。 突然巻き起こった風が本から紙切れを取り上げて、炎の中に放り込んだ。 「呪文が!」 追いかけようとする少年を掴んで止めた。炎の勢いはますます盛んになっている。炎から離れていても空気が熱い。息が辛い。 スウは口元を押さえて辺りを見回す。 すぐ近くに迫った炎が、花々を舐め取るように近づいてきていた。熱風に押されて広がりが速い。囲まれれば命はないだろう。 これ以上は、もう無理だ。 「デュノ、もういいよ。ありがとう」 少年の頭を撫でて、とんとんと叩く。 デュノはされるがまま、じっとうつむいていた。 「会えてよかった。元気でいてね」 さあ、笑え。そして言え。 さよなら。 そう言おうとした瞬間に、煙を吸いこんで咳き込んだ。目も痛くて涙が出てくる。 一通り咽込んだ後、ふと少年に肩を持たれた。 「……スウだ」 炎が彼の顔を照らしていた。 「スウが呪文を言えばいいんだ。僕の言葉を覚えてる? 聞こえたままでいい。君の言葉でいいから、言って!」 彼女は目をしばたたかせる。 「早く!」 真剣な表情で急きたてる少年に気圧されて、少女は少し考え込み、それからゆっくりと口を開いた。 炎の勢いは留まるところを知らない。とうに夕暮れを越えたはずの空を朱に染め続ける様は、まるで巨大な篝火のよう。 レゼは内心の焦りをそのまま言葉の上に乗せた。 「王属魔法士はまだか! くそっ、デュノのやつ! 今は母さんもいないってのに……」 王妃は月の民でもある。この世界で最も強い魔力を持つ者の一人だ。しかし今は国内にいない。王亡き後も近隣を統べる同君連合を維持するため、諸国を巡っているのだ。 彼は成すすべなくかつての森を見上げる。 こんな時に父がいてくれたなら。自分に宿詞が使えれば。せめて、歴代国王に恥じぬ魔力が備わっていれば。無い物ねだりが頭の中を埋め尽くす。 先刻、弟は自分を彼のおまけだと言った。 こんなものの? いっそ笑いがこみ上げてくる。 身を削って民の役に立っているお前が、いつでも代わりの利く自分のおまけだったなら。 世の中はなんてふざけた作りをしているのか。 自嘲に囚われる一瞬前。 空気を割るような乾いた音が響いた。薄い氷にひびをいれた時のように透明感のある、それでいてとても大きな音が。 見上げれば、森の上空に巨大な裂け目が入っていた。裂け目からは光の粒子が零れ、赤とは違う純粋な白い光が辺りを照らした。 亀裂が広がり、ひび割れから零れる光が音と共に増えていく。 無作為に広がりながら、割れ目は完璧な六角形を描いていた。その重なりがどんどん小さくなり、森は光に覆われる。内側で炎が踊る様すら美しい。 結界は音もなく限界を超えた。 一瞬の衝撃。そして津波のように零れてくる高濃度の魔力。 砂の中に埋もれたように、粒子が肌を撫でていく。炎鱗粉に触れた感触は身体のものではない。体内の魔力が反応して皮膚感覚を騙すのだ。 その中で、結界の欠片が宙を舞うのを見た。炎の赤を、粒子の白が返しながら落下していく。 誰もが何も言わず、ただ森を見上げていた。 炎はそれでも変わることなく燃え続けている。 薪が爆ぜて音をたてる。その音に混じって、兵士のどよめきが聞こえた。 顔を向けた先には、見覚えのある白い影が二つ。一つの白は弟の衣、もう一つは少女の髪。 弟は足取りもおぼつかないようで、憔悴しきっていた。 彼女は弟を支えながら森を抜ける。刈り込まれた芝を踏みしめ、困ったように辺りを見回した。 皆少女の周りに寄りながら、近付く者はいない。遠巻きに見詰めているばかりだ。 レゼは周りを牽制するがごとく歩み出る。 少女と目が合った。けれど、以前のように微笑みかけることはできない。 「白の賢者よ。貴女は何をした」 声はひどく硬かったが、震えていなかっただけまだいい。 少女は怯え、戸惑ったように口を動かす。 ふ、とその表情が止まった。 少女は声を失っていた。 |
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