BACK//TOP//NEXT
四章   肌を刺す月


 それはまだ、デュノがほんの小さな子供だった頃のこと。
 城の庭先で一人、小鳥と戯れていた時だったと思う。不入の森へ向かう父の後ろ姿を見つけた。
 風に翻った深紅の衣。王だけに許された色。
 後を追ったのは、ただの好奇心だった。
 森へ入ったところで見つかり、怒られると思って木の後ろに隠れたのを、今でも覚えている。
 父は怒ることなく、ただ苦笑した。
 何をしているのと尋ねると、父はその表情のまま、
 ――お墓参りだよ。
と答えた。
 ――おはか?
 ――丁度いい。お前もおいで。友人に息子を紹介しよう。


 薄闇の中で目覚めた。
 夢。眠っていたのか。いや、気を失っていた。
 デュノは身を起こし、硝子張りの天井を見上げる。もう月はない。
 ただ、代わりの太陽もそこにはなかった。
 分厚い雲が空一面を覆い尽くしている。耳を澄ませばかすかな雨音も聞こえた。
 雨か。憂鬱なことだ。
 それの意味する一つのことに気付いて、少年は寝台から飛び降りた。



 デュノは今まで、雨の日に不入の森へ入ったことがなかった。
 雨の日以外にもよく来たわけではなく、気分が浮かない時や嫌なことがあった時だけ、この森の静寂を楽しんでいたに過ぎない。
 だから雨の森がこれほど歩きにくいものだとは思わなかったし、雨水がこんなに冷たいものだとも知らなかった。
 降り注ぐ雨と霧で視界が悪い。これではスウを見つけられるか心もとなかった。
 ぬかるんだ土が純白の装束を無残に染め上げている。濡れた裾が重くまとわりついた。
 仕えの者に何と言って言い訳しよう。いや、見つかる前に捨ててしまった方がいいだろう。彼らは必ず、聖女に報告するだろうから。
「スウ、どこにいるの?」
 森を抜けて花畑に出ても、少女の姿はない。濡れそぼった花々が下を向いているだけ。
 何度声をかけても返事はなかった。
 この雨で花畑にいるとも思えない。当てもないまま森へ引き返し、木々の間を探す。濡れそぼった下草が邪魔だ。ろくに足元を見ずに歩き回り、いくつも擦り傷ができた。
「スウ?」  やがて大きな木の根元に、うっすらと白いものを見つけた。
 霧に紛れて判別がつかない。疑いつつ近付くと、それはやはり少女で。
 膝を抱えて頭をうずめる姿が痛々しかった。
「スウ。寒かったでしょう。これ……」
 抱えていた雨よけ布は、すっかり濡れていた。内側に包んだ毛布を差し出すと、不意にその手を掴まれる。引かれるままによろけ、柔らかいものに包まれた。
「濡れちゃうよ。ねぇ、スウ」
「……いいよ」
「よくないでしょ。これ、毛布と雨具。あと、着火器具。僕、何か燃えそうなものを拾ってくるから。……ねぇ」
 いっこうに放してくれない彼女に、デュノは途方にくれてしまう。自分は体の芯まで冷え切っていて、彼女を温めることはできない。むしろ彼女の体温を奪っている。毛布をかけてあげようにも、彼女が放してくれない限り身動きが取れない。
「スウ、ねえ、スウってば」
 抗議してもいっそう強く抱きしめられて、ほとほと困り果てた。彼女は自分に何を求めているのだろう。物ではないということは分かる。でも、こんな自分に何ができるのか。できないことばかりが溢れているのに。
「……ごめんね」
 どうしてスウが謝る。彼女をこんな目にあわせたのは自分の祖先で、今もなお出せないでいるのは自分の無力のせいだ。
 力があれば。せめて人並みに魔法が使えれば、彼女を温めてあげることだって簡単なのに。
 どうして自分には何もない。
「ちょっと、嬉しかっただけ。気にしないで」
 手放された瞬間飛びこんできた笑顔に、時間が止まったかと思った。
 彼女は毛布を受け取るとまずデュノに掛け、自分も一緒に包まった。
 触れた肩越しに体温が伝わる。
「……ありがと」
 この言葉を彼女は何回言っただろう。今までデュノがスウにしてきたことは、本当に小さなことばかり。その一つ一つを彼女は決して受け流さない。
 何かを言わなくてはと思いながら、デュノは雨を見つめ続けていた。



 あのままスウを置いていくのは忍びなかったが、デュノとしても雨の日に長時間部屋を空けておくわけにもいかない。普段出歩かない性分ゆえ、ここ最近の外出も聖女の耳に届いていることだろう。こんな日にまで出てきたと知れたら、お小言では済まない。
 内心そのことが分かりきっていたせいだろうか。森を抜け、神殿の入り口に立っている黒髪の女性を見付けた時、心臓が痛いぐらいに竦みあがった。
 最高位の司祭のみが身に付ける純白の装束を纏い、銀細工をウェーブの入った髪に散りばめている。背筋の伸びた佇まいは、ただそこに居るだけで無言の圧力を感じさせた。
 聖女トアナ。デュノの叔母にして、神殿の最高権力者。幼いデュノを母の元から引きずり離し、神殿へ連れてきた。デュノが毎夜苦しんでいるのも、彼女の持ち出した提案のせいだ。
 このまま神殿に背を向けて、走り去ってしまいたかった。逃げられるものなら、どんな努力だってしただろう。けれどデュノはそんなことは不可能だと知り尽くしていたし、抗うくらいならいっそ諦めてしまう方が楽だとも分かっていた。
 不自然にならない程度に歩みを緩める。止まってはいけない。目を合わすな。平常心で通りすぎろ。
「司祭殿。デュノ司祭」
 感情を込めない平淡な声が行く手を遮る。
 足を止め、ゆるゆると視線を合わせる。唾を呑み込もうとして、口の中が乾ききっていることに気付いた。胃も、中に鉛が入っているようだ。
「こんな日に一体どちらへ行かれていたのですか。そんなに濡れて。あなたは未だにご自分の立場が分かっていらっしゃらないようですわね」
「分かっています。ただ今日は……この前植えた花の様子が心配だったんです。ひどい雨だったので」
 言い訳をしてから、押し黙っているのが常だと気付く。今までの自分だったら黙ってやり過ごしていたはずだ。
 聖女は無反応にこちらを見つめ、視線を森へ移した。
「花とは花壇に植えるもの。御身は民の幸福のためにあるのです。危険な行動は慎んで頂かなければなりませんわ」
 婉曲に富んだ示唆がデュノの表情から余裕を奪う。
 聖女は、知っている?
 デュノが不入の森へ入れるということも、そこで誰かに会っているということも。
 レゼでさえデュノの動向を把握していたというのに、聖女が知らないと思う方がおかしい。なぜそんな能天気な考えをしていたのか。
 聖女は知っていた。知った上で、彼には何もできないと判断していた。
 森の結界をどうにかすることなど、魔法の使えないデュノには荷が重すぎる。誰か、他に理解ある者に協力を頼むのがせいぜいだ。
 自分の理解者。心当たりは二人。
 内一人は遠方へ聖女によって派遣され、王都には居ない。そしてもう一人は、双子の兄。
 ……なぜ自分は兄の協力を拒んだ?
 一つは彼が自分と比べ物にならないほど、忙しい身の上だから。けれどそれだけではないだろう。
 子供じみた対抗心か。いや、そんなものはとうに放棄した。では、何だ。
 思い出すのは神殿へ来たばかりの頃。城へ帰りたいかと問われ、言われるままに頷いた。
 兄の手引きで神殿を抜け出し、城に隠れた。だが所詮子供の成せる業。すぐに見つかり連れ戻された。デュノにはこれといった咎めはなく、聖女の気味の悪い無表情を向けられただけだった。だが、兄には。
 兄はそれからすぐ病に臥せった。
 自分は見舞いにも行けなかったが、生死をさ迷うほどの大病だったと聞く。
 毒を盛られたのは明らかだった。
 次期王位後継者にそれだけのことをしながら、聖女はのうのうと神殿に鎮座していた。国王不在の王室は権威の多くを神殿に食われ、罪を追求するだけの力がなかった。
 ああ、そうか。
 自分を束縛するもの。それは恐怖だ。
 そして、その根本には聖女がいる。彼女の手の上で優しく撫でられているというわけだ。

 無力無力、無害なデュノ。お前には何もできない。

 それを事実だと思ってしまうのは、骨の髄まで囚われているからなのだろう。
 もはや逃げる気など、毛頭ない。
 押し黙った彼を聖女は満足げに見遣り、足音なく神殿の奥へと消えた。
BACK    TOP   NEXT
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.