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三章 彼の事情 「お待ちください、殿下」 神殿を悠々と歩く背に、控えめな制止の声が掛かる。 灰色の髪が軽く揺れ、振り向いた先に紳士的な笑みを向けた。 「はい、何かありましたでしょうか。確か、司祭殿に謁見するには聖女殿の許可さえあれば良いと聞いておりますが。不備でもありましたでしょうか?」 「い、いえっ。そのような事はっ。しかし、司祭様はお疲れのご様子ゆえ、手短にご用件をお済ませ願いたく……」 若い女性神官はひどく慌てた様子で顔を赤らめ、消え入りそうな語尾で答えると、すばやく身を翻した。足早に去っていく彼女の背を見送りながら、彼は紺色の瞳を楽しげに光らせる。 額に巻いた細い紐に手を添えた瞬間、とん、と背中に硬いものが当たった。 首を巡らせて少し目線を下げると、同じ灰色の髪が目に入る。 「やあデュノ。久しぶりの歓迎が本で殴るってのは、ひどいんじゃないか?」 急に砕けた口調でにやりと笑う相手に、加害者の少年は憮然とした口調で返した。 「レゼのうそつき。伯母上のお許しなんて貰ってないんでしょ。そんなこと言ってもすぐばれるのに」 「まあ、そう言いなさんな。可愛い弟が心配なだけだよ。もっとも、お前が言わなきゃバレやしないって。な、司祭殿」 レゼと呼ばれた相手は、自分よりも頭一つ以上小さな少年の、自分と全く同じ色の髪を掻き混ぜた。本人は頭を撫でたつもりのようだ。 「……子供扱いしないでよ」 ふて腐れたのか下から睨み上げてくる弟に、レゼは苦笑して肩をすくめた。 「まあいいさ。立ち話もなんだろ? 茶飲み話に切り替えようぜ」 彼は少年が出てきたと思われる扉を明けると、勝手に入っていった。少年は釈然としないものを感じながら、渋々といった様子で後に続く。 デュノが部屋に入ると、部屋の中央にレゼが呆然と立っていた。くるりとこちらを振り返り、目で何かを訴えている。言われなくても分かる。 部屋の中は本で埋め尽くされていた。 机の上も、床の上も、ベッドの上も、本の、そのまた本の上も。どこもかしこも平らな場所は本が平積みにされている。全部、デュノがこの三日で寄せ集めたものだ。 製紙法と印刷術が発明されて久しいが、この部屋にある本は全てそれ以前のもの。途方もなく大きなうえに一枚一枚が羊皮紙で出来ている、大昔の文献だった。 「よくもまあこんなに集めて……何調べてんだ?」 兄はそう言いながら手近な本を開いて、即座に閉じた。開いた場所に細くて小さな虫が走っていたからだ。その拍子に大量の埃が宙を舞う。二人して思い切り吸い込んで、しばらく涙目になってむせた。 「げはっ! っ! 少しは片付けろっ。ってか文所に返してこいッ!」 文所とは宮殿と神殿の書物を保管、貸し出しをしているところだ。ただ、あまりにもたくさんの書物があるために、その保管はあまり徹底していない。つまり、本を開けば埃が舞い、本を閉じれば埃が散る。 「……そういやお前、今、その本で俺の背中殴った、よな?」 「…………」 「目、そらすな。ああもう、埃取ってくれよ。こんなん聖女に見られた日にはなあ、オイ」 「う、うん」 慌てて背中をはたく兄を手伝って、ふと見上げると彼の頭に埃の塊がついている。手を伸ばしてみて、自分の身長では届かないことに気付いた。 「レゼっ、あのね。その……ちょっと、しゃがんで」 「あ? ああ。取れたか?」 まだ背中が気になるのか、レゼは後ろを見ながら聞いてくる。少年はそんな彼をまぶしそうに見上げた。 「レゼ……大きくなったね。また背、伸びたでしょ」 レゼは、ふ、と一瞬真顔になってから、あえてなんでもないように笑った。 「これでやっと母さんを越えたばっかりだよ。確かにこの国じゃ大きい方だけど、母さんはまだまだだって言ってる。お前もそのうち伸びるさ、デュノ」 「でも、僕たち……。双子なのに」 デュノは言葉を濁した。 そう。二人は兄弟でも、双子のそれである。 昔は鏡に映したように良く似ていた。よく衣服を取り換えて、父母や従者をからかったものだ。今ではその違いは歴然としてしまったが。 澱むことなく健やかに成長した兄と違い、デュノの体は年にほんのわずかな成長を見せるのみ。十七という時を重ねながら、痩せ衰えた体は十二、三の子供のままだ。 デュノは兄を見上げる。 広い背中。大きな手。骨ばっているけれど男らしくもある体格。ここ一、二年で格段と逞しくなった兄。自分の細く、弱々しい体とは比べ物にならない。 もう、追いつけない気さえする。 俯いた頭の上に、そっと手が置かれた。 「そう言うな、デュノ。二人、まったく同じなわけ、ないだろ。心配しなくても大丈夫さ。お前だってちゃんと成長してる。……なにしろ」 ぱ、と手が離れて、レゼがにやりと笑う。 「物を贈るような相手も出来たことだし?」 思わず「あ」と言葉にならない声をあげた。 「で、誰にあげたんだ? 女物の靴!」 「なんっ、何で知ってるのさ!」 驚きで真っ赤になったのを別の意味で捕らえたレゼは、瞳を輝かせて弟の発言を無視した。 「確か巫女に結構可愛い娘がいたよな。どこで知り合ったんだ? ここって夜会とかないだろ。やっぱアレか? 礼拝にきた娘をつかまえたのか? 全く、デュノも隅に置けないな」 「そ、そんなんじゃないよ。スウはたまたま……」 またも、あ。と思った時には遅い。 「へー、スウ。スウね。聞いたことないな、何て書くんだろ?」 「知らないよ。もう。ろくでもないことばっかり首を突っ込むんだから」 溜息をつくデュノ。兄はこの種の下世話な話が大好きだ。今までは自分が標的になったことはなかったが、誤解なだけになんともいえない脱力感がある。非常に気分が沈んだ。 対するレゼは弟の気持ちなどお構いなし。 「いいじゃん気になるんだから。今度会わせろよ」 「無理」 「なんだそりゃ」 「無理なものは無理」 当たり前だ。レゼは不入の森へは入れない。会わせたところで結界の中と外。会話もできないではないか。 無下に断られて機嫌を悪くしたレゼは、不貞腐れた表情のまま、 「で、そのモヤモヤを晴らすために本に走ったと。あれ?」 身近な本を手に取る。 「歴史書? なんだ、つまんねー奴」 「なんだと思ってたの」 「やあ、文所の蔵書だから、まともなのは分かってたって」 カラカラと笑う兄は、完全にデュノの理解の範疇を超えていた。 レゼはそんなデュノを気にも止めず、興味なさげに本をめくる。 「何調べてんの?」 「何も」 答えつつ、素早く本を奪い取った。自分の表情が強張っているのが分かる。 この本は特に結界について述べられたもの。察しと推測のいいレゼのことだ、一発で不入の森のことがばれてしまうかもしれない。 デュノはまだ、スウのことを彼に打ち明けるつもりはなかった。 日頃から忙しい兄に、これ以上心配の種を増やしたくなかった。頭ではそう思う。 レゼはそんな弟の反応をちらりと見遣り、 「あ、そ。お前さ――」 ニヤリと笑う。 デュノが反射的に怯える。 「メチャメチャ字、汚いよな。ガキの頃から進歩なさすぎ」 「う」 困った顔を繕いながら、デュノは内心安堵する。本の内容から話題が逸れたからだ。 レゼは小さな走り書きをするすると指で辿っていく。 「ハネやハライがなってねぇ。俺でも読めねぇし」 「いいじゃないか別に。誰が読むわけでもな……」 兄がいっそうニヤリとする。 とっさに紙を手で覆うが、それより早くレゼがひったくった。頭の上に持ち上げられては、自分では手が届かない。 「不入の森が、何だって?」 「何でもないよ!」 デュノの声に乗った緊迫感が、場の空気を一変させる。 兄の瞳が、ふっと温度を下げた。 「……デュノ」 名を呼ばれて、体が震えた。 始めから敵うわけがなかった。レゼはデュノが神殿に篭っている間、城の識者たちと談話という名の問答を重ねてきている。舌先三寸で誤魔化されるはずはないし、デュノにそんな話術もない。そもそもこれだけの体格差があるのだ。実力行使に出られれば、自分には白旗を振るぐらいしかできなかった。 デュノはあっさりと観念した。 肩を落として溜息をつくと、兄が哀れみに似た視線をよこしながらメモを差し出した。 「俺も考えたことがある。そこに入れれば、誰にも邪魔されず昼寝できるなってさ。そのまま隠れてりゃ、仕事からも逃げられるし」 「え……? そんなこと、考えたこともなかった」 これは本心だった。 「そうか? 俺は時々嫌になるけどな」 「僕は……」 レゼは完全に勘違いしていた。デュノが森の結界について調べているのは、中に入って日々の責務から逃れたかったからではない。その問題はデュノの前には立ちはだかっていなかった。やろうと思えばいつでもできたのだから。 けれどデュノはその選択をしたことはなかった。というよりも、そんな発想が浮かばなかったのだ。森に隠れて、夜をやり過ごそうなどとは。 心の奥でその考えに蓋をしてきた。ずっと。思いついてはいけない。知らない方が、気づかない方が良いこともある。 「でもま、その後とんでもない大目玉を食らうのは目に見えてるしな。止めといた方がいいぜ。聖女、怒らせると怖いだろ」 「う……ん」 肩に置かれた手は暖かくて優しかった。 「それに、辛いけどお前の為でもあるんだ」 「うん」 そんなことは百も承知だ。自分の為であり、また他人の為でもある。そうでなかったらデュノは今日まで黙って夜を過ごしてこなかっただろう。 レゼが目を伏せ、それから苦笑のようなものを漏らした。 「でもあれは少し……いや、今はいい」 彼は誤魔化すように笑みへと繋げ、懐から時計を取り出した。 「ああ、もう時間だ。じゃ、俺は行くから」 そう言ってデュノの横を擦りぬけ、窓を飛び越える。兄は大抵窓から侵入し、窓から帰っていく。神殿の廊下を歩くよりも聖女に見つかりにくいのだと本人は言っているが、おそらく遊び半分だ。 デュノの部屋は一階なので危険はないが、部屋の中と外で足場の高さが違い、二人の目線が丁度同じ高さになる。 「レゼ」 「ん?」 目が合ったのを機に声をかけていた。結果として嘘をついてしまったことが、今更うしろめたい。 「何でもない。また、来てね」 「ああ」 いつものからかったような笑みを浮かべ、レゼは駆けて行った。 とたんに静寂が訪れる。慣れたはずの部屋の空気がいやに余所余所しくて、窓から身を乗り出した。 遥か遠くに灰色の髪が揺れている。 もう声は届かない。 デュノは溜め息と共に窓へ背を向けた。 次に会えるのはいつになるのか。 あまりに馴染み過ぎて、忘れていた。 置いていかれ、待つ身がどれだけ虚しく、やるせないか。それを、自分はよく知っていたはずなのに。 一人の森で、彼女はどれだけの辛さに耐えているのだろう。 |
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