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二章 孤独と打算 花畑の中央には見たこともないくらい透明に透きとおった泉がある。純粋な水は、青とも翠ともつかない美しい水色をしていた。 泉は少女の影を正確に写しとる。 白い髪。ここで目覚めた時には既にこうなっていた。 理由は分からない。何か強いショックを受けるとこうなると聞いたことがあったが、そんな衝撃を受けた記憶はない。一本抜いて毛根を調べてみたけれど、完璧に白く染まっていた。まだ若いのに……と悲しい気持ちになる。 それに嫌だったのが、眉毛も睫毛も真っ白なこと。これはちょっと、人相が変わっている。瞳の色まで抜けなかったことが何よりの救いだった。 彼女は泉へ手を浸し、ハンカチを濡らす。湖面が揺らいで影が消えた。堅く絞り、ほぐしてから丁寧に畳み直す。 それを、少年の白い額へ乗せる。 この少年は一体どこからこの森へ入ってきたのだろう。 スウが突然この森へ置き去りにされてから、三日が過ぎていた。 初めは近所の林の中だろうと適当に散策していたが、森を抜けようとした途端、見えない壁に阻まれた。必死に壁に手をついて、どこか抜け道はないものかと探したものの、結局一周して元の場所に落ちついてしまった。壁の向こうにはいくつか見なれない建物があり、そこへ行くことができれば電話なりメールなりでアイ達と連絡が取れるだろうと思っているのだが……いかんせん、壁が割れない。 困り果ててまだ安全と思われる花畑の近くにいたものの、誰も居ない。 何より恐ろしいのは、あの森の中には死体があること。 半ば土に埋もれた白骨は、一つ二つではなかった。 このまま死ぬまでたった一人で閉じ込められているのだろうかと思うと、、恐怖で身が震えた。ただ花畑でうずくまり、眠ることもできなかった。 三日目になり、やっぱり誰も居ないのだと半ば諦めていた頃、この少年が現れた。 真っ白な服装に驚かされたが、ごく普通の子供だ。 ただ、その髪を除いて。 スウはハンカチの上を覆う少年の前髪にそっと触れる。 その色は灰色。ご老人に見られる白髪と黒髪の斑ではなく、均一な灰。時々ブリーチのCMに出てくる、誰が使うのか疑問を禁じえないアッシュグレイだった。 まず少年を見て思ったのは、どこの国の人だろうということ。 奇抜な髪の色を除けば、日本人と言えなくもない。言葉も通じたのだから。なにより、こうして眠っている顔は東洋人のそれによく似ていたし、身なりも日本的といえば日本的だ。 彼の服装を例えるなら、平安貴族。もしくは古典中国の皇帝陛下だろうか。 着物によく似た前あわせの反物。内側に薄く透ける不思議な生地を何枚も重ねているところから、十二単の一種と思われる。ただ、襟元はどちらかというとチャイナ服に近く、合わせ目を鎖骨の下辺りから紐でブーツの編み紐のように縛り付けてある。 袖の裾も大きく広がっており、どこからどう見ても和服だ。 ただ腰の部分が普通と異なっていて、女性なら分厚い帯を巻く部分が、細い紐を幾重にも巻きつけて縛ってある。その下は長く垂らした上着に隠れて見えないのだが、ズボンをはいているようだった。 これが最新の着物事情なのだろうか。もしやここは伝統の町、京都? だとしたら随分遠くに来てしまったなぁと思っていたとき、少年が身じろいだ。目元がわずかに持ち上がり、長く反った灰色の睫毛が揺れる。 スウは息を潜め、じっとその顔を見つめた。 年の頃は小学校の高学年くらい。色白で首が細い。あまり健康的とはいえないようで、肉付きが極端に悪かった。こんな風に倒れるくらいだ。体が弱いのか、何か持病を持っているのかもしれない。 少年の目が開く。未だに焦点を結ばない瞳は、深く暗い紺。深海の青に墨を流し込んだような、不思議な色だった。 彼は半身を起こして、頭に手を置く。 「頭痛い……」 こめかみを押さえながら呟かれて、心配になる。 「大丈夫?」 刺激しないように優しく声をかけると、少年は目をぎゅっと閉じて動かなくなった。 そうして数秒後、ゆっくりと目を開けた。 「大丈……夫」 少年は言いながら立ちあがり、まだ本調子でないのかよろめく。慌てて体を支えると、驚いたように身を引いて転んでしまう。今言ったのは確実に嘘だ。 彼はようやく意識がはっきりとしてきたらしく、辺りを見まわし、不意に上を見上げた。煌々と輝く一面の星に、目を見開く。 「夜!」 先程と別人のような、はっきりとした声色。彼はすぐさま立ちあがり、一度ふらついたあと思いもしない速さで駆けていく。 スウはとっさのことに後を追うこともできない。 「あの、君は……」 声も届かず、みるみるうちに少年の背中は森の奥へと消えた。 その途端、スウはふっと時が止まったような、不思議な孤独感に襲われる。 なぜだかもうこの森に居るのは自分一人なのだと思った。彼は、帰ってしまった。 意味もなく空を見上げると、起き抜けの月が彼女を見下ろしていた。 それは陽が登り切ってから少し経った時のこと。 この森で生きていくのは、それほど難しいことではない。 まず、迷うということがない。それは特定の範囲から出られないということもあるけれど、この森が完全な円形をしていて、その中心に行けば必ず花畑に出られるからだ。また、普通なら熊などの動物に出会うこともあるだろうが、この森に動くものはスウしかいない。もしくは昨日の少年か。 それに食べ物に困るということも、おそらくありえない。 この森の中心近くには、たくさんの果物がなっている。この三日間でありとあらゆるものに挑戦してみたが、一つとして毒を持ったものはなかった。全て生で食べられるし、とても甘い。 丁度お腹が空いたので、スウは手短な木に登って、赤い実をいくつか頂戴していた。 田舎のおじさんの家に居た頃は森の中をよく探検して、木にもよく登って遊んだ。街に来てからはそういう機会もなくなってしまったが、体は覚えているらしい。 木の枝に腰を下ろして甘い果物を食べる。こういうことができるのも、おじさんが自分を預かってくれていたおかげだ。感謝しなくては。 一つ目の果物を食べ終えようという頃、下の方で何かがこそこそと動いていることに気付いた。 昨日の少年だ。 少し離れた木に寄り添うようにして、花畑の方をうかがっている。 またもや上から下まで真っ白な服装。そして和風。昨日と違うのは、上から被っていた白いヴェールがないということだけ。 そのまま黙って見ていると、彼は慎重に辺りを見まわして何かを探している。木から離れて花畑に近寄る足取りが、肝試しに参加した小さな子供のよう。 「ねえ、君」 声をかけるとびくりと飛び上がる。その拍子に何か細長いものを二つ落とした。慌てて拾い、なおも辺りを見回している。肩がすくみ上がっているのが可愛らしい。 「こっちだよ」 もう一度声をかけて、やっとこちらを見上げた。ぽかんとした表情が子供らしかった。 「……何してるの?」 「木の実を取ってたの。お昼ご飯にしようと思って」 彼がまじまじとこちらを見つめているうちに、急いで木から降りた。昨日のように逃げられたくなかった。 「何を持ってきたの?」 「ええと、これ……君、裸足だから」 おずおずと差し出された物を受け取る。それは一揃えの靴だった。 この森で気付いた時、スウはまだスリッパを履いていた。けれど森を探っている内に一つ落とし、更にもう一つも花畑の中にある泉に落ちた時に失ってしまっていた。 「くれるの? ありがとう」 では代わりにどうぞ、と果物を一つ渡すと、少年は及び腰になりながら受け取った。 「この実、甘くて美味しいよ」 「……あ」 じっと実を見ていた少年が、急にぱっと顔を輝かせてこちらに笑いかけた。 「これ、知ってる。ラティアの実だ。木にくっついてるんだね」 その言い方が、まるで果物がどうやってできているのか知らないように聞こえた。 「ラティアの実? リンゴ……だよね」 「リンゴ? それ、何?」 少年は屈託なく問いかける。ふざけている様子はない。 ……どうやらこの子は極度の世間知らずらしい。 考えた末にリンゴの説明を誤魔化して、スウは逆に少年へ問いかける。 「ええと……。ねえ、君の名前は?」 「僕はデュノ。君はスウでしょ」 その名を聞いた瞬間、スウは自分の表情が硬直したのを感じ取った。 デュノ。西洋人ならばありえない名前ではない。 だが、彼はどう見ても東洋人だ。百歩譲って中国語だとしても、微妙におかしい気がする。 スウ自身、自分の名前は日本人にはあまりいない音だと理解している。外国の有名人の苗字にスーという音があることは知っていたが、スウは正式には佳川崇だ。学校の先生には必ずタカシと呼ばれる。 「デュノって……もしかしてあだ名?」 慎重に聞いてみると、意外にも少年はあっさりと頷いた。皆そう呼ぶからと言って。 思わず気が抜けてしまって、その場に座り込む。ああ驚いた。見知らぬ森で出会った相手が国籍不明では、心休まる時がない。 正面にちょこんと正座したデュノに、自然と笑みが浮かんでくる。和服っぽい服装によく似合っていたから。 「今日は体調、いいみたいだね」 昨日、突然倒れられた時はどうしようかと思った。人を呼ぼうにも誰も居ないし、スウでは適切な手当てもできない。ただうろたえてあちこち触ったり、脈をとってみたりした。 「うん、昨日よりは。でも今も頭ぐらぐらするよ」 デュノは果実をひっくり返したり回したりしながら答えた。気軽な声だったが、やはり今も体調は思わしくないようだ。 「でも、このぐらいなら平気。慣れてるから」 「そうなんだ……」 見たところ多少痩せ過ぎな気もするが、ごく普通の男の子なのに。一体どこが悪いのだろう。 そんなことを考えながらデュノを見ていると、彼は未だに果物を食べるでもなくいじっている。もしかして、食べ方を知らないのだろうか。 「こうやって」と自分の持っていた実を服の袖で拭いて、そのまま齧る。デュノはぽかんと見ていたけれど、見よう見真似で齧りついた。 「あ、やっぱり味は同じだ」 不思議なことを言う。切られていないと美味しくないとでも思っていたのだろうか。 何も知らないデュノがおかしくて、スウは声に出して笑った。笑顔ではない笑いは久しぶりだ。 それを見て、デュノはどこか安心したように呟いた。 「よかった、やっぱり普通の人だ」 「何だと思ったの?」 自分も疑っていたことを棚に上げて、スウは笑い混じりに聞いてみる。 デュノは困ったように小首を傾げる。 「ええと、森の妖精とかオバケとか……」 その非科学的な内容に、スウは思わず破顔した。 やっぱり子供だ。今日来た時にあれほど怯えていたのは、彼女のことを幽霊だと思っていたからなのか。 笑われたことに気を悪くしたのか、デュノは口を尖らせる。 「だって、不入の森に人が居たことなんて今までなかったんだ。僕以外の人が入れるはずがないんだよ。だけどスウが居て。すっごくびっくりしたんだから」 「ごめんごめん。……ねえ、ここは不入の森っていうの?」 「そうだよ。誰も入れないから不入の森。だからスウ、君は一体どうやってこの森に入ったの?」 それは、ずっと彼女が聞きたかった質問だ。 あの見えない壁のどこかに出入り口があるなら、教えて欲しかった。抜け穴でもいい。彼がこうして中にいるからには、どこかに穴があるはずなのだから。 スウはこの森で目覚める以前の記憶を引きずり起こす。 アイの家に居た。ヴィセの部屋で石を見つけた。そう、光る石を。 でもそれと自分がこの森に居ることが繋がらない。気絶して、誰かに運ばれたのだろうか。誰に? あの家にはアイしか居なかった。小さなアイでは彼女を運ぶことなんてできないし、そもそも何のためにここへ運んだ? 黙りこんでしまったスウをデュノが覗き込む。 「どうしたの?」 紺色の瞳。遠目にはそう見えたけれど、近くで見ると黒い瞳の所々が濃い青色をしている。カラーコンタクトにしては凝った模様だ。 「何でもない。えっとね、気付いたらここに居たの」 石の話は信じてもらえないと思った。変なことを言い出して、デュノの気分を悪くさせるのも嫌だった。狂人だと思われたら? 二度と来てはもらえない。 けれどそんなスウの配慮など、デュノには微塵も関係なかった。 「へぇ、じゃあ魔法だね」 さらりと放たれる、納得の言葉。 冗談すら含まない声に、スウの方が驚きを隠せない。 「ちょ、ちょっと待って! 今、何て……?」 つい荒げた声をあげてしまって、デュノが頭を押さえて眉をしかめる。刺激してはいけないのだったと思い出し、思わず口元を覆う。 「ええと、魔法って、知ってるよね?」 事実確認という調子で聞き返されて、何も反応が返せなかった。 気ばかり焦る中、横たわる沈黙。 「え」 仕舞いにはデュノの方が驚く始末。 そんなに意外そうな顔をしないで欲しかった。まるでスウの方がおかしな人のようだ。 「デュノは……魔法を信じてるの?」 子供のたわ言だと思いたかった。サンタクロースを信じる子供のように、彼も魔法を信じているだけなのだと。 「信じるも何も、みんな使えるよ。ほら、この森の結界とか」 「……結界? 強化ガラスじゃなくて?」 「硝子なら割れちゃうよ」 当たり前のように言い返される。 「デュノも魔法が使えるの?」 「ううん、僕は使えない。だからこの森に入れるんだと思う」 どうして魔法が使えないことが森へ入れる理由になるのか分からない。スウだって使えるはずがないのだから、通れて当然だろうに。 けれど。 デュノの言葉が本当だという確証はない。皆魔法が使えると言っても、彼が使えないというのなら、ここから出られないスウには、他の人のことなど知り様がないからだ。 では、彼が嘘をついているのか? デュノの声色も表情も全て本気のそれだった。もしこれで嘘だったなら、彼には詐欺師の素質がある。そもそも、こんな嘘をついて何の役に立つのだろう。スウをからかって遊ぶような子供には見えない。 ならば本気だとして、彼は正気なのだろうか。 その考えはいけないと、頭のどこかが歯止めをかける。 彼女の疑いを見抜いたのだろうか。 デュノが立ち上がり、「来て」とささやいて手を引く。そのままおとなしくついて行くと、森の終わりに辿り着いた。 彼は結界の前で立ち止まり、空間を指し示す。 「ここに結界があるんだよね」 スウが手を当てると、確かに壁はあった。温かくもなく冷たくもない、叩いても薄さの知れない強固な壁が。 「見て」 スウが手を当てたまさにその場所を、デュノが通り抜ける。見た目にもごく普通に歩いて行っただけなのに、手を当てると二人の間には確かな手応えがある。 「そんな……」 スウは息を飲む。 全身の力が抜けて行くのを感じた。その場にたたずんでデュノを見つめる。 魔法があるかどうかなんて分からない。 でも、スウは一つだけ理解した。 デュノは彼女をここから出す方法を知っているわけではない。彼は何の苦労もなく、壁の存在すら感じずにこの場所を行き来している。初めから壁に阻まれている自分とは、まったく別の存在なのだ。 「分かってくれた?」 デュノの声には覗うような声色と、諭すような声色が半分ずつ含まれていた。 「……うん」 正直、反論はいくらでもあったのだろうと思う。でも、スウは甘んじてそれを受け入れた。 魔法が有ろうと無かろうと、スウがここから出られないことは変わらない。 臆病者、と心の奥で声がする。 だったら、ここでデュノを信じないで嫌われてしまうのは、嫌だ。この森に一人は堪えられない。 ……静寂に殺されるくらいなら。 彼女は微笑んで手を差し伸べた。 |
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