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 都心にそびえる高層マンションの一室で、某巨大怪獣の叫びによく似た怒りの声がこだました。
「ありえない! これ絶対空き巣入ったってば!」
 アイは自宅の惨事を見るやいなや、まず預金通帳のありかを確認した。完全な主婦だ。
 もちろん泥棒が部屋を荒らしていったわけではなく、先程の地震が犯人である。
 壁にかけられた絵やパズルの類いはことごとく落とされ、そこここに置かれた人形達も床に転がっている。ぱっと見で一番酷かったのは台所で、戸棚の食器の多くが飛び出し、テーブルの周りを危険領域に飾りたてていた。絶対、スリッパが必要だ。
 心配だった大きな家具が倒れていなかったので、二人はさっそく掃除を始めることにした。
「アイ、ホウキ貸して。私が台所掃除するよ」
「ありがと。あたしお父さんの部屋に行ってくる。あそこ、針とか転がってて危ないんだよね。布とか酷いんだろうな。あーもーやんなっちゃう」
 さすがデザイナーだけあって、ヴィセさんの部屋は全体が裁縫箱みたいになっている。どこを見ても布やら針やらミシンやら。ただデザイン画を書くだけがデザイナーの仕事ではないらしい。
 これはアイでなくても助っ人を引きずり込みたくなる。そう納得して、スウは陶器の散乱する台所へ踏み込んだ。
 しばらくの間黙々と作業を続け、ガラスや陶器の破片が見当たらなくなってきた頃、アイが部屋から出てきた。肩を揉みながらうんざりした表情をこちらへ向けてくる。
「そろそろご飯にしよっか」
「お昼まだだしね」
 時計の針はすっかり三時を回っていたけれど、二人はまだ昼食を取っていなかった。昼にヴィセへ弁当を届けに行き、そのまま掃除へ突入したからだ。
 アイが鍋に湯を沸かし始める。テーブルに広げられた材料から、パスタを作ってくれるらしい。
「代わりといってはなんですが、アイちゃん特製ペペロンチーノをご披露してしんぜよう」
「ほんと、アイって地獄耳」
 咲坂の言っていたイタリアンの代わりということなんだろう。けれどイタリアンはアイの大好物。自分が食べたかったに違いない。本当にスウのためだったら、ペペロンチーノよりカルボナーラを作ってくれるという自信がある。
 下手に手伝うと怒られることを身に沁みて知っているスウは、台所からリビングへ移動し、その辺に転がっている人形や写真立てを直していく。
 アイはぬいぐるみの配置に小うるさいので、後で直されることを想定して適当に置いた。写真は手に取るごとに自分が一緒に入っていて、気恥ずかしくなる。アイとヴィセとスウ。家族の写真であるはずなのに、自分が入っていることを少しだけ疑問に思いながら。
 スウにとって、本当の家族よりも二人の方が本物に近い。
 二人と知り合ったのはスウの両親が離婚する頃だった。学校を休んで田舎のおじさんの家へ預けられた時のことだ。
 その後スウが父親に引き取られてからも、二人は本当によくしてくれた。
 今もこうして、休日は家に居辛いスウのためにアイが手料理を作ってくれている。
 アイの鼻歌に混じり、パスタを炒める音とオリーブオイルの香ばしくまろやかな香りが漂ってくる。音だけでアイの手捌きが手に取るように分かった。
「もうすぐ出来るよー」
「あ、うん」
 リビングを出ようと立ち上がった時、視界の端にキラリと光るものを見つけた。
 奥の扉が少し開いている。その暗い隙間から、青白い光がきらめいていた。
「ヴィセさんの部屋……?」
 アイが出てきた時に扉を閉め忘れたのだろう。
 針でも落ちていたら危ないと、スウは扉に手をかける。そっと開くと、部屋の中は暗い。カーテンが閉めっぱなしだった。
 アイに片付けられた部屋は整っていて、色とりどりの布がきちんと畳まれて机に整列している。その机の端に、青く輝く小さな石があった。
 それは他の光を反射するのではなく、自ら光を発していた。時に強く、時に弱く。まるで何かの鼓動のように変化していく。
 大きさはビー玉より一回り小さい。まるで幾重にも花弁を重ねた花のよう。
 この石のことは知っている。ヴィセの大切な、デザートローズ。どうして光っているのだろう。
 そっと手を伸ばした瞬間、光がいっそう強まった。
 小さく悲鳴を上げるのと同じくして、閃光が彼女を包む。


 そして光は何事もなかったかのように唐突に収まり、石はころりと机から落ちる。
 薄暗い部屋。そこには誰も居ない。



 この街の空では、月すら霞んでいる。
 ヴィセはエレベーターを降り、自宅であるマンションの一室を目指す。
 高層ビルの立ち並ぶこの辺りでは、窓からの景色もあまりよくはない。目の前に立つより高いビルのせいで、視界は半分以下になる。けれど彼はそれを気にかけてはいなかった。
 この街の地を這う光たちもまた、彼の好む所ではなかったからだ。
 夜空に近いこの場所なら少しは星も見えるかと思っていたのだが、実際はそんなことはなかった。
 自宅の扉の手前まで来たところで、異変に気付いた。
 いつもならこの辺りから、少女達の明るい笑い声が聞こえてくるはずなのだが。
 静寂が胸騒ぎを運ぶ。
「ただいまー?」
 明るく発せられた自分の声が、空虚に消える。返事はない。けれどその代わりに軽い足音が近づいてきた。
「お父さん!」
 娘がきつくしがみ付く。彼女はよく抱きつくが、いつもとは違って妙に切迫した様子だ。
「大変なの!!」
「どうしたんだい? 何かあった?」
「スウが……スウが居ないの。いきなり、どこを探しても!」
 ヴィセは娘を落ちつかせるため、頭に手を置き、腰を屈めて目線を合わせる。
「落ち着いて何があったか話してごらん」
「わかんない。気付いたらスウが居なくて、でも靴はあって、家にも居なくて」
 要領を得ない娘の説明を、ヴィセはなんとか噛み砕く。
「この家で、居なくなったのか……」
 ヴィセは立ちあがり、娘の手を引いて自室へ向かう。
 部屋の明かりを灯すと、予想通り机の下に石が転がっていた。
 こんな簡単に転がり出るような場所に置いたつもりはない。それでも今ここにあるということは。
 彼は石を拾い上げ、恐る恐る娘に問う。
「アイ。もしかして、この石に触らなかったかい?」
「え? あ、うん。掃除の時に」
 娘の答えも半ばに、ヴィセは頭を抱える。普段から触らないようよく釘を刺していたはずなのに。よりによって自分の居ない時に。
 父親の反応に慌てたのか、アイは上擦った声で言い訳をした。
「だって地震で家の中ぐちゃぐちゃで。元々その辺に転がってたし。掃除するくらいいいかなーって」
「地震……」
 ヴィセは何かに気付き、放心したように窓辺へ近付く。
 閉められたままのカーテンを一気に引いた。
「お父さん?」
 娘が怪訝そうに覗き込むのにも関わらず、彼はひたすら窓の向こうの夜景を睨みつける。
 数え切れない光り一つ一つが、憎くてたまらないというように。
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