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一章   彼女の居た場所


 撮影所の階段を上りながら、ため息を一つ。
 渋々振り返った先には、予想通り一人の女の子がしゃがみ込んでいる。
「アイー。ダイエットも兼ねて階段で行こうって言い出したのは、だあれ?」
「だって十五階なんて思わなかったんだもん! ふつう受付のお姉さんに聞いた時点で諦めるってば。スウのバカー!」
 アイと呼ばれた小柄な女の子は、花模様のバンダナで包まれたお弁当箱を膝に抱えて恨みがましく見上てきた。
「休もうよぉ。ね?」
 小さな顔をくいっと傾げると、ふわふわの黒髪が揺れた。今日のアイはウェーブが入った猫っ毛をカーラーできつく巻いてボリュームをだし、ツインテールにしている。くるりと反り返った長い睫毛とがあいまって、フランス人形のようだ。
 こういう風に嫌味なく可愛くできればなぁと、スウ自身思う。
「そんなこと言っても、あと二階だよ。さっきも休んだし、もうひとふんばり」
「いやあー。エレベーターにしよう! そうしよう!」
 スウはしょうがないなあと呟いて、階段の隣へ顔を出す。残念。エレベータの階数ランプはたった今過ぎた所だ。もう一つも下りになっている。待っていたら結構なロスになってしまうだろう。
 これはもう、必殺技を使うしかない。
「アイ、絶対歩いた方が早いよ。……ヴィセさん、お腹空かせて待ってるよ?」
「うっ」
 ヴィセさんとはアイの父親のことで、最近巷を騒がせている人気ファッションブランド『Victorian Rose(ヴィクトリアンローズ)』のデザイナーだ。ヴィセというのはブランド名の最初(Vi)と最後(se)を取った、いわば芸名のはずなのだが、娘のアイをはじめとして知り合いは皆この名で呼ぶ。たしか本名は佐藤小太郎、いや小次郎……とにかくとても古風な名前だった。
 でもここで重要なのは彼の名前ではなく、アイが父親のためなら多少の無理難題も厭わない、重度のファザーコンプレックスだということ。
 今日もアイの手作り弁当を忘れた彼のために、二人でお休みを返上して届けにきた。
 なぜスウが付き添いにきているのかといえば、一つの理由にはアイが父親から『弁当を忘れた』という泣き言メールを受けた時、スウもその場に居合わせたから。単純に巻き込まれたのだが、いつものことだ。
 ヴィセがわざわざ届けさせてしまうくらい、アイの作った料理は美味しい。学校では母親のいないスウの分まで弁当を作ってきてくれているのだけれど、今日は生憎のお休みだ。そこで、アイの家に遊びに行くという名目でご相伴に預かろうとしていたところ、メールがきたというわけだった。
「うー、ずるいよスウ。早く咲ちゃんに会いたいからってさぁ」
 アイは嫌々立ち上がった。
 スウは内心赤くなりながら先を行く。顔に出ているかもしれないから。
 咲ちゃん、即ち咲坂はスウの恋人だった。付き合って一ヶ月と少しになる。
 咲坂はヴィクトリアンローズのモデルをしている。知り合ったのはこうしてアイと一緒にスタジオへ顔を出した時だった。知り合ってから半年後、色々あって付き合うことになったのだが、その時スウはアイの多大な干渉を感じ取っている。俗にいう、大きなお世話というやつだ。
 もっとも、アイの干渉がなかったら今こうして分不相応に付き合っていなかったのだから、いくら感謝しても足りないくらいだとも思う。ことあるごとに茶化されるのが悩みの種だけれど。
 スタジオに入ると、丁度休憩の時間だった。
「あー、またチビッコが遊びにきてるじゃん。咲、咲、崇ちゃん来てるぞ」
 唐突に背後からよく通る声をかけられて、慌てて振り向く。けれど振り向いただけでは駄目だ。頭を上に向けなければ目が合わない。
 ヴィクトリアンローズの専属モデル、真彦と咲坂は二人とも背が高い。
 スウとてそれほど小柄なわけではないのだけれど、相手が百八十以上となると歯が立たない。それに小さな体で平然と立ち向かって行くアイは、内心尊敬対象だ。
「ヤダ真彦いたの? 長い長い階段の後でアンタの顔見なきゃならないなんて、神様あたし恨んでる? 昔、神社のお賽銭箱にバナナの皮捨てたの覚えてたりして」
「へぇー、階段で来たんだ。偉いねぇ、ダイエット? ああ、俺も昔賽銭箱にゴキブリ入れたことあるな」
「そうよ偉いのよ誉めなさい。おかげで足が棒になっちゃったんだから。棒に」
「ボーボーに……。女の子なんだから脛毛処理ぐらいしなよ」
「そろそろ中耳炎が脳に達したみたいね」
「や、俺元気だから。美人薄命、美形存命。聞いたことない?」
「じゃあ今すぐ病院送りにしちゃおっかな。えいっ」
「ギャー! やめてマジやめてっ! 蹴り上げるのだけはやめて! 身長差的にイイ位置にヒットしそうだからやめて!」
「えーなに言ってんのーアイちゃん純粋だから分かんなーい」
 特別に可愛らしい笑顔と声で真彦を追いかけるアイ。周りはいつものことと見なれているけれど、実際大きな男が小さな少女に追いかけられている様は奇妙だ。
「アイは元気だなぁ」
 さっきの弱りっぷりが嘘のようだ。
 感心して二人の様子を目で追いかけていると、不意に肩が触れるくらい近くに咲坂がいた。
「ひさしぶり。相変わらず?」
 勝手に顔が火照るのを、どうにかしたいと思った。
「あ、はい。相変わらず、です」
 ちらりと見上げると、優しい微笑がこちらを向いている。
「そっか。丁度良かった。今日、予定より早く終わるみたいだったから、夕飯に誘おうと思ってたんだ。美味しいイタリアンの店を見付けたからさ」
 秘密をそっと打ち明かすように言うのは、おそらくアイに聞かれないため。連休のほとんどをアイの家へ泊まりに行くスウの、本日の予定を見抜いているのだろう。そして実際、その通りだった。
 とっさに返事ができず、口篭もる。
 誘ってくれたことはすごく嬉しい。そうすると、アイに何か嘘をついて泊まりをキャンセルしなくては。素直に言おうものなら、一ヶ月はなぶり殺しだ。
 断りたくはない。でも、と悩んだ時、低い地鳴りと共に建物全体が大きく揺れた。
 思わず短い悲鳴を上げる。
 地震。立っていることができないくらい大きい。周りの照明器具が次々と倒れて、ガラスの割れる音がした。
 よろけたところを掴まえられて、なんとか凌ぐ。
 唐突に地震がおさまると、辺りが一瞬静まり返る。
「震度……五くらいかな」
「でも、ここは高いビルの上だから……」
 三か四くらいではと言おうとして、すぐ近くに咲坂の顔があった。
 ほとんど抱きすくめられる形で支えられていたことを知り、スウは慌てて離れようとする。
「コラコラ咲ちゃん? お仕事中なんだよね? 今」
「昼休憩だけどな。二人してさっきからイイ感じだよなー。こう、俺らを見る目が動物園で珍獣を見てるほのぼのバカップルだった」
 二人の間を切り裂くように正面から首を突っ込んだアイを、真彦が羽交い締めにして引き戻した。アイがばたばたと足を振って抗議する。
 咲坂はスウの肩から手を放して、うろたえることなく笑いかけた。
「だってほら、危なかったからさ」
「うむ。紳士的に支えてしまいましたの件については不問に処す。けどね」
 肩を竦めて申し開きをする咲坂に、アイが人差し指を突き付ける。
「あたしがいないことをいいことに、さっきスウを食事に誘ってたでしょー! 聞いてたんだからねっ。どうせ真彦はあたしを釣るための疑似餌でしょっ? ふんっ、こんなのに食らいつくかっての!」
「ひでぇ、俺、ミミズに劣るってか?」
「やっぱり聞いてたか。うん、ちょっと貸してもらおうかなって」
 苦笑している咲坂に、憤慨したアイは止まらない。
「ダメー。今日はダメ。また今度にして。今日はスウに掃除を手伝ってもらう日に決まったから」
 そんな予定はなかったはずと、スウが口にするより早く、アイがスウの腕を取る。
「今の地震で家のマンション、すんごいことになってると思うんだ。か弱いアイちゃん一人じゃ掃除できなーい。ねースウ、あたし達親友だよねー?」
 白々しい台詞を吐いて、自信満々にスウを見上げるアイ。満面の笑みだ。計算された確信犯の笑顔だった。
 ぼそっと「か弱い……」と突っ込んでしまった真彦がにらまれる。
 咲坂の不備を一つ取り上げるなら、それはアイを除け者にしようとしたこと。
 アイは別に二人の仲を邪魔したいわけではない。ただ、自分をないがしろにされたことが面白くないのだ。正々堂々言ってきたなら、アイは快く茶化してくれたのだろうが。
 むきになった彼女をなだめる方法は一つ。
「……分かりました」
 ため息に乗せた承諾が、男二人の新たなため息を誘った。
 丁度その時、奥の扉が開いて一人の男性が姿を現した。
「皆、大丈夫だったかい?」
 すると、さっきの腹黒さはどこへやら。アイはスウの腕を放して、軽やかな足取りで彼の元へ向かう。飛ぶように抱きつく姿は、空港でよく見かける感動の再会に似ていた。ただし、恋人同士の。
「はい、お父さんっ。アイちゃんの愛娘弁当ご到着!」
「ああ、アイありがとう。それにしても、今の地震は酷かったね。震源は近いのかな」
 アイの父親であるヴィセは、人好きのする笑顔で娘の頭を撫でる。その動作はよくヴィセが彼女にするものなのだけれど、いくら背が低い上に童顔とはいえ、十七の娘にするものではない気がする。
「スウちゃんも来てくれてたんだね。ああ、これは酷いな、照明が全滅じゃないか」
 ヴィセはあからさまに渋面を作って娘を抱き上げる。アイがガラスで怪我をしないよう配慮したのだろう。アイもファザコンだが、彼も十分親バカだ。
 それにしても、とスウはヴィセを見る。若い父親だ。まだ三十代だと言うのだから、スウの父よりも十歳以上若い。
 彼と知り合って九年。いっこうに年齢を感じないのだが、エステか何かへ行っているのだろうか。
「誰か代わりの電球を買ってきてくれないかな。これはちょっと、予定が狂ったなぁ」
 遅くなるかもと言って自分から掃除を始めるヴィセに、モデル二人はまたしても盛大にため息をつくのだった。
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