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 自分を押さえつける力を感じながら、少年はただ少女を見ていた。
 淡い月光が降り注ぎ、長い白髪が微光を放っている。違う。彼女自身が淡く輝いて、くっきりと浮かび上がっている。細かな光の粒子は結界の欠片と、そこに封じられてきた彼女自身の魔力。純白の輝きが直視されるのを拒むように彼女を滲ませる。
 中央に立ったまま微動だにしない少女は、決してこちらを振り向かない。すっと伸ばされた背筋。力を抜いた肩は細い。
「お願い、行かないで!」
 彼女以外、見えなかった。その背に触れて引き止める他は、何も考えられない。
「あなたはここに居るべきではありません」
「デュノ、やめろ。なッ?」
 縫いつけるように肩を押さえる手が、衣服ごと肌へ食い込む。踵が後ろへ引かれる。みぞおちへ腕が食い込み、不快感に息が詰まる。
 それすら構わず手を伸ばした。視線の先の、彼女へ向けて。
「君と離れるなんて無理だよ、できない。お願いだから、そばに居て!」
 けれど、ただ空を掴むだけ。
「置いて行かないで!!」
 足掻くことすら忘れ、懸命に声を振り絞る少年。
 ふう、と風が舞うようにつかれた溜息。
 混じり込んだかすかな音色に、目を見開く。それは長く彼が求め、望んだ、たった一つのもの。
 透き通った声が放たれた。

――邪魔しないで、デュノ」

 低くもなく高くもない、不思議な響きを持った声色。水が流れ込むように静かに、空間を支配する。その場の誰もが動きを止め、息すらかなわずに彼女を待つ。
 甘美な音律。そして、絶対の言葉。
「私はあなたを利用した」
 少女は背を向けたまま、その声だけを送り続けた。
「初めから、私は帰るためにあなたに近づいた。あなただけじゃない。ここで出会った全ての人を、私は利用した」
 感情のない音声が、淡々と事実を羅列する。けれどその底には、確かな棘が爪を立てていた。彼女が今まで、得てして使わなかったものだ。
 何を言われているのか分からなかった。混乱した頭が、ただ違うと叫び続ける。文脈を持たない思いが、出口を求めて渦を巻く。感情が意識を殴りつける。
 堪えきれず、少年は声を張り上げた。
「利用じゃない! 僕は自分から君に協力して……!」
「そうだね。でも今、あなたは私を妨げようとしている」
 斬りつけるように向けられた言葉に、息を飲んだ。その怜悧な響き。あの柔らかな彼女と、同一人物とは思えなかった。
 確かに自分は、彼女の望みを断ち切ろうとしている。そしてその自分を、彼女は。
「邪魔しないで。私、やっと帰れるんだよ? 家族にも友達にも、恋人にも逢えるのに。――言ったでしょう。逢いたくてしょうがない、大切な人がいるって」
 彼女の声色はどんどん下がり、最後にはぞっとするほど冷たい響きを持っていた。低く押さえ込まれた底にちらつく、容赦のない敵意。
 耳元へ氷の息を吹きかけられたように、全身を悪寒が走った。体が震える。歯が鳴り、指先が冷えていく。心臓が冷たい血を送る。
 今すぐ飛びついて彼女の口を封じられたらと、本気で願った。あれほど望んだこの声を。
「あなたじゃ、代わりになんてならないよ」
 興味を失って放たれる、残酷な言葉。
「私がここに居ても何の意味もないように、あなたも私に意味のない存在。ここに居ると害があるから、私は消える。だって」
 冷笑が混じる。
「ここには私を引き止められるものがないから」
 それは彼にとって、決定打。
 ずっと恐れていた。自分にとって彼女はなくてはならない存在。でも、彼女にとって自分は?
 もはや、利用する価値もない。無価値な子供。
 引き攣った喉が、嗚咽に似た意味のない音を零した。
 彼女はこちらを見もせずに、わずかに顔を上げ、真っ直ぐに前を見詰めた。
「さようなら。もう二度と、逢えないね」
 最も恐れていた言葉。
 それを彼女はこんな簡単に告げる。
 さようなら。
 もう二度と。
 もう、二度と。
 あえない。
 反芻する頭の中で、何かがのそりと首をもたげた。今まで押さえつけ、押し殺し、存在すら否定してきたもの。じっと息を潜めてきた何か。それは暗い血の色をしている。
 ……嫌だ。
 肩を押さえる腕を掴む。初めて彼女の声を聞いた者は、その支配の前に身動きが取れていない。彼に触れたまま硬直している。
 少年を縛っていたのは、自分自身の心。
 振り払った。
 駆ける。彼女の元へ。
 乱れた呼吸に、足元が揺らぐ。
 嫌だ。
 あと数歩。あと、ほんの少しだけ。
 手を伸ばす。
「私を、帰して」
 髪に触れかけた手が、踏み出された一歩で届かない。
 瞬間。白い髪が翻り、彼女が振り返った。
 交錯する視線。
 音もなく。
 少女の姿はかき消えた。



 枯れた草の上に落ちる。かさついた感触と、濃厚な土の匂い。あの森とは違う、自分を包み込む受容の気配。
 眩しい。
 仰向けに横たわる空には、月の代わりに太陽が一つ。突然の明るさに目が眩み、次に寒さが襲った。冷え切った空気が剃刀のように肌を刺し、吐息を凍らせる。
 スウは薄い上着をかき寄せ、身を起こす。
 ここはどこだろう。見たところどこかの森の中のようだが、元の世界へ戻れたのだろうか。
 辺りを見回す背にそっと手を添えられる。温かい男性のもの。
「大丈夫だったかい。怪我はない?」
 聞き覚えのあるバリトンに、懐かしさがこみ上げる。
 慌てて見上げた先の、ほのかに面影のある男性の顔。
 そうだ。ここは、初めてこの人と逢った場所。
 両親の離婚の調停が終わるまで、スウは田舎のおじさんの家へ預けられていた。ここは、そのおじさんの森。一人で迷い込んだ幼いスウが、彼を見付けた場所だった。
 あれから九年。
「お久しぶりです。……ヴィセさん」
 支えられたままぎこちなく笑みを向けると、彼は困ったように笑った。少し寂しげな微笑み。
 ああ、似ている。
 そっと髪に手を添えられて、俯く。そのまま子供をあやすように、頭を抱かれた。
「ごめんなさい。私、最後に失敗しちゃった」
「そっか……」
 よしよしと頭を撫でられて、顔をうずめる。零れそうになる声を噛み殺す。
 幼い頃にも、彼にこうしてもらった。父母と離れ、しばしば襲い来る不安に泣いていると、必ず。親代わりになってくれた人の一人だった。
 懐かしさが、実感へ変わる。
 私は、帰ってきた。
 そう思ったとき。
 強い揺れを感じた。大地が唸り、木々がざわめく。視界がぶれ、彼にしがみ付いた。
 地面の揺れる重い音に混じり、低い声が届く。
『お前には、失望した』
 耳元でささやかれた、唸りにも似た声。地響きと重なり、低く混ざる。
 あの、悪夢の中の声。
 世界の怒り。
 気付いたときには、激しい揺れと共に地面へ叩きつけられていた。



BGM “同じドアをくぐれたら” by BUMP OF CHIKEN
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