BACK//TOP//NEXT
 頭が重い。痛い。
 横たわっているのに床が動いた。世界が歪んだみたいだ。
 重い瞼をゆっくりと開く。暗い。当たり前だ、明かりが点いていないのだから。
 差し込んでくる月光は、床の隅で凝るだけ。闇に包まれたまま体を起こすと、重力がのしかかってきた。半身が傾く。平衡感覚が完全に狂っている。
 体がいうことを聞かないのには慣れていた。もたつく感覚に苛立つ。力の篭らない体を離れ、意識ばかりが明瞭だった。
 うんざりした。最近はこんなことばかりだ。最初に倒れたのは、不入の森でスウと初めて出逢ったときのこと。今はもう、ずっと昔のように思える。
 ふらつく体を、歯を食いしばって持ち上げる。こんなところで時間を食うわけにはいかない。
 時間がない。
 失いたく、ない。
 扉にもたれかかり、取っ手に触れる。動かないことは一瞬で分かった。
 歯を食いしばって壁伝いに歩く。途中、二回つまずいて転んだ。だんだんと体が均衡を取り戻す。
 月光を透す窓へ手をかけ、透紗を上げる。
 視界に飛び込んでくる満月を、目を細めて見上げた。夜風が湿り気を帯びて頬を撫でる。宥めるように。諦めろと促し、慰めを含んで嗤う。
 窓の下を、無表情に見下ろす。
 地上までの距離は遠い。なぜこの部屋だったのか、やっと分かった。
 女神に近い場所で神官は祈りを捧げる。神とは即ち月だ。
 ほとんどが一階のみの神殿で、この部屋だけが特出して高い位置にあった。構造としては二階だが、高さは三階分。落ちても死にはしないが、その後身動きが取れる保証はない。
 魔法さえ使えれば、かつてのレゼのように飛び降りることもできよう。それすら望めない少年には、この部屋は牢獄を意味した。
 風が吹き上げ、髪をなびかせる。頭上ではたはたと透紗が揺れた。隣の窓にも、その隣にも。三方の壁に。
 少年は虚ろな瞳でそれを見上げ、手を伸ばす。長く日に晒されたのだろう。薄い布地は空気を編み上げたように色を持たない。
 上手く繋げば下まで届くだろう。
 だが透紗は薄く、弱い。強く爪を立てれば筋がついてしまう。
 少年がいくら軽かろうと、支えきれるとは思えなかった。落ちればただでは済まない。腕の一つや二つ、下手をすれば命の一つ。
 それでも。
 今更、何を恐れることがある。



 木製の厳しい扉を開け、少女は月下の間へと足を踏み入れる。
 室内は驚くほど様変わりしていた。簡素なベッドが一つ置かれた以外、取り立てて何もなかった部屋。それが今や寝台は消え去り、窓のない壁一面に武装した兵士が並んでいる。
 中央には女王と時計。ガラス窓から降り注ぐ月光が彼女の銀髪に降り注ぎ、水面のようにきらきらと輝いている。
 女王はこちらを振り返り、厳しい顔のまま説明を加えた。
「魔力の流れを淀ませぬために、全ての結界を一時的に消してある。堀のものも、王都全体を覆うものも。今、この国は完全な無防備。このぐらいの警備は必要だろう?」
 ここには王族が集っているのだから。銀の女王はそう続け、時計へと向き直る。
 頷きを返しながら、スウは半分嘘だと見抜いた。おそらく、もう一つの理由がある。
 スウの結界が解かれた際に、彼女がむやみに宿詞を使うようなら、武力でもって制するというものだ。果たしてそれが効力を持つのか、誰にも分からなかったが。
 兵の中を真っ直ぐに歩く。背後にはレゼとフェイ。それは断頭台へ向かう罪人にも似て。
 中央へ辿り着くと、時計がおずおずと声をかけてきた。
「スウちゃん、君には本当に済まなかったと思ってる。辛い思いもたくさんしただろうね……」
 あなたほどではない、と思う。
 一人でも始めから言葉が通じただけ、自分は幸運だった。
「おそらくこちらに戻ったら、当分そちらとの連絡は取れないと思う。次に宿詞を使ったら、今度はこちらの魔力が尽きてしまう。こっちには飛翔炎がないからね。君一人そちらへ送る分を集めるのに、九年かかった。たとえ集めたとしても、言葉の通じる相手がいないんじゃあね……」
 苦笑する時計の隣で、女王が「今時、古アーゼン語なんぞ使う方がおかしい」と文句をつける。すかさず時計も「そういうフィリアも南グルディン語はマニアックだよ」と返した。離れていても、慣れた言い合い。
「願わくは、次なる月の民がアーゼンの者であらんことを。……この飛翔炎に言ってもしょうがないか」
 時計は諦めたように笑い、声を改めると少女へ優しく問いかける。
「それでも……いいかな?」
 相手の困ったような微笑みが目に浮かび、溜息に似た笑みを返す。その、ほんのわずかな頷きを、誰が認めただろう。
 暗黙を計り終え、時計がゆらりと宙を昇る。
「それじゃあ……」
 目を閉じる。
 数瞬のためらいと、響き渡る一声。
 肌から粉が零れ落ちる、パラパラとした感触。
 薄く目を開けると、己の身が淡い光を放っていた。あの森の最後の瞬間のように。光の粉が零れ落ち、空気へ溶けていく。
 それを見届けるより早く、時計は光を失って床へ落ちた。
 耳障りな音。何かが割れた。
 同時、時計から青白い光が円を描きながら立ち上る。長く尾を引く光の粉。立ち上る青い魔力の光が、炎を纏った魂のよう。
 神秘的な光。これが、飛翔炎。
 炎は二、三度スウの周りを旋回し、螺旋を辿るように上昇する。
 音もなくガラスを貫け、空へと泳いでいく。高く、高く、どこまでも遠く。
 ほう、と誰かが溜息を零す。
 無言で見送るその間隙を、甲高い少年の声が打ち破った。
「スウ!!」
 名を呼ぶ声に心臓を掴まれる。胸元が重く痛む。
 振り返らなくても分かる。
「デュノ!」
 少年の軽い足音が近づかんと駆け出す。同じくして、背後の青年二人がスウから離れた。駆け寄る少年を二人がかりで押さえ込み、引き剥がすように後退させる。
「放して!」
 悲痛な叫びは、ほぼ悲鳴。
 幾度も幾度も、彼女の名を呼ぶ。
 スウは沈黙する時計を見詰め続けていたが、刹那、きつく目を瞑る。
 そして、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 この子にだけは、居て欲しくなかったのに。
BACK    TOP   NEXT
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.