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十二章   放たれた言葉


 そのやりとりを伝えたとき、兄は本当に呆れた顔をした。
「それで、デュノ」
 レゼは寝台の上に身を起こしたまま、溜息をついて頭をかく。興味のない振りを装いながらも、ちらりと横目でこちらを確認した。
「お前はなんて言ったんだ」
「何も」
 デュノはきまり悪げに視線を逸らし、俯く。椅子に座ったまま足を放り出して、つま先を揺らした。ゆらゆらと惑う、自分の影。
 相手が息をつく音がして、顔を上げた。
「だって、僕にはどうすることもできないよ」
 じわりと確認される無力感。
 そんな素振りを一切見せていなくても、少年はスウが元の世界を求めていたことを知っていた。不意に止まる視線。虚ろになる心。彼女自身気付かぬほどわずかな、けれど頻繁な動きが、彼女の懐郷を伝えていた。
 その度に距離を感じて、彼は口をつぐむしかなかった。目の前にいるのに絵画を通しているような少女を、いつも黙って見詰めていた。
 知っていた。初めて逢ったときから、彼女が望んでいるものを。
 そしてそれはあの炎上する森で確信に変わった。死を覚悟した彼女が思い描いたのは、自分との未来ではなく、慣れ親しんだ過去だ。
 でも少年は気付かない振りをした。彼女の望みを認めることは、既に脅威となっていた。けれどそれでも、彼女を否定することはできなかった。嫌われたくなかったから。
 それを、目の前のこの男が指し示した。目を逸らすなと突きつけた。
 それは彼女の望みだ。お前は?
 デュノは弱く眉を寄せ、もう一度俯く。
「スウは帰りたがってるんだもの。どうしようもないじゃないか」
 首を振りつつ、言い訳がましい言葉を並べる。
「……そうか」
 ひたと見据えられて、居心地が悪くなる。顔を背けた。視界の隅にやりとりを試みる二つの影が嵌まり込む。
 フェイとスウが真面目な顔をして話している。話すと言っても、少女は身振りで示すだけ。鈍感なフェイに通じているのか甚だ疑問だった。グルディン人は総じて勘が鈍い。
 地下でのやりとり以降、少女とは話していない。何を言ったら良いのか分からなかった。それから一度も手を繋ぐことはなく、自然と寄り付かずにいる。
 意識をそちらへ向けていたのが分かったのだろう。兄は呆れた顔をして頬杖をつく。
「お前がそれでいいなら、俺は構わないけどな。その方が色々と都合がいい」
「何、都合って」
 あえて落ち着いた声色で淡々と告げる兄へ、思わず睨み返す。また、いつもの策略か。
 その視線を平然と受けながら、片割れはさらりと言い切った。
「俺にもな、優先順位があるんだよ」
 デュノは兄が何を最優先するのか知っている。国だ。この国を維持し、守るためなら、レゼは感情を融通させることができる。この世界を崩壊させるという彼女の存在は、彼にとって邪魔でしかないだろう。それを厭うかは別として。
 もう、背中は押さないということか。
 土台を失った心地がして、少年は自然と渋面を浮かべた。以前、この男が自分へ問いかけた言葉を反芻する。
 『望まずにいれば挫折することはない。だが、そんな生き方をして楽しいか?』
 楽しかったことなど一度もない。感情を殺し、理性を止め、空っぽの自分には何も得るものはなく。日々はただ過ぎるためだけにあった。
 でも、自分は見付けてしまった。
「だけど」
 それは、彼女よりも自分を優先するということだ。この、ちっぽけでなんの価値もない、この自分を。
「……僕は」
 兄はうっすらと、けれど強かなお得意の微笑みを浮かべる。ほんの少し、もの言いたげな苦みを混ぜて。
 少年は俯いた視線を上げる。
 言葉にするまでもない。ずっと心が叫び続けていた。
 薄く口を開く。
 けれど兄はそれを言わせず、少年の後ろへと視線を移す。
 つられるように振り返った。
 自分のすぐ後ろに立っていたのは、その身に純白を帯びた少女。うっすらと笑みを浮かべたまま、眺めるようにこちらを見ている。
 彼女が身に付けているのはこの国の民族衣装ではなく、森にいた頃から着ていたもの。体に合わせた裁断をされた服は北方の民が着るものに似ていたけれど、どこか違った。ひらひらとした薄い布地が膝の上で踊っている。透紗のように薄いが、透けない素材だ。
「スウ、あのね」
 少年の言葉を遮るようにして、少女が彼の額へと触れた。ガラス細工に触れるがごとく繊細に、指先で前髪をもてあそぶ。冷たい指。
 ――デュノ。少し、話をしよう。
 頭の中で響き渡る美しい声に、意識を持っていかれそうになる。比重の重い液体をとろりと脳髄へ垂らされたよう。体から意識だけが浮き上がり、溶けてしまうような陶酔感。その一瞬は全ての感覚が彼女のためだけに働く。一つも取りこぼさぬよう、極限まで鋭敏になる。
 その感覚が通り過ぎる頃には、手を握られていた。しっとりと柔らかく、思いのほか強く。
 スウは返事も待たず、少年を連れて部屋を出る。
 手を繋いでいるのに、少女は一言も喋ってくれなかった。
「スウ……?」
 問いかけても返事はない。
 少女は神殿に数少ない階段を上り、ある個室へと導いた。ここは神官が神に祈りをささげる場所。引かれるままに暗い部屋へ入る。明かりのない室内に月光が差し込んでいた。無意識にそれに触れぬよう立ち位置を定め、少女は少年と向かい合う。
 彼女は一度手を放し、黙ってデュノを見詰めた。
「スウ、あのね、僕も言いたいことがあって……」
 場をしのぐためだけに放った言葉が核心を導きそうになり、少年は語尾を濁す。そうでなくても、掠れた声は最後までもたなかっただろう。デュノは少女の手を取ろうと右手を差し伸べ、わずかにためらって服の袖を掴む。異国の装束は袖口が小さい。
 恐る恐る見上げた先は、逆光で判別がつかなかった。彼女が今どんな顔をしているのか分からない。
 でもきっと、変わらない薄い微笑み。
 一瞬、怯む。
 どうしても顔が見られなくて、掴んだ腕へと視線を落とす。
「行かないで……?」
 絞り出した声は弱い。意図せず小さな疑問符が付いていた。どうしたら良いのか分からない、語尾の迷い。
 彼女の望みを断ち切る権利など、自分にはない。それでも、言わずにはいられなかった。
 懇願したい。大声で叫んでしまいたい。
 しかし彼女を前にした今、どうしてもそれができなかった。
 夕凪のように穏やかに注がれる視線が、突き崩せない彼女の決意を教えてくる。
 その前にいる自分はあまりにもちっぽけで。
「お願い……」
 言葉は表面を滑るだけ。
 それ以上の言葉を制して、スウが袖を掴む手に指先を添える。
 彼女が哀しげに微笑んだのが分かった。
 ――ごめんね。
 優しい声。
 弾かれたように顔を上げる。
 その音律が効力を発するより早く、デュノは首筋に強い衝撃を感じた。
 痛みを知覚する前に、視界が漆黒に塗り替えられていく。消えゆく感覚が最後に捕らえたのは、柔らかな少女の体温。
 意識が落ちていく。深く……暗い闇へと。



 スウは倒れこむ少年を正面から受け止め、抱きしめた。
 ――……ありがとう。
 どれだけの言葉を尽くしたら、今までの全てに相当するだろう。
 けれどこれ以上、触れさせるわけにはいかない。
 さらりとした髪に顔をうずめる。かすかな月光を返し、灰の髪は色味を落とす。この世界の者特有の、不思議な髪色。自分とは異なる存在。
「……本当に良かったのですか?」
 濃い闇の中で、長身の青年が申し訳なさそうに問いかけた。月光にきらめく茶色の瞳は、それでもなお優しい。沈痛な面持ちは、どちらを憐れんでくれているのだろう。
 スウはそのまま動きを止め、目を閉じて頷いた。
 少年を残して扉を出る。
 その先に彼と良く似た灰色の髪を見付け、心が痛んだ。自分を直視する双眸も少年と同じ色合いだ。
 数年後の未来を映したような青年が、静かに問いかける。
「どうしてそこまでする。どうしてそれでも……笑えるんだ」
 その台詞で初めて、自分が笑みを浮かべ続けていると気付いた。他の顔ができなかった。
 背後で鍵の閉まる音が響く。
 もう、戻れない。
 戻らない。


 ……あなたのために。
 私は、この道を行くことにした。
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