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 彼からそんなことを言われるとは思っていなかった。無意識に、彼だけは何らかの打開策を提示してくれると信じていた。心を許している、数少ない人間の一人だったから。
 だから、言われたことを理解するのに、とても長い時間がかかった。
 スウがぽかんと時計を見詰めているうちに、青年二人が自分を取り戻す。
「待て。なんでそこでそうなるんだよ。これじゃ、最初に逆戻りじゃないか!」
 反論以上の鬱憤を込めて、レゼが時計へ食って掛かった。
 いきり立って剣を抜こうとするレゼを押さえ、フェイが眉根を寄せる。
「そうですよ。それに、彼女を幽閉することに利益があるとは思えません。なぜそのようなことを……宿詞を持つ方が」
「しかも、いきなり出てきて何だその連絡手段は! いいかげん出てこいよ、九年だぞ?」
 レゼは苛立ちを怒りに叩き上げて、時計を睨みつける。真っ直ぐに指を突きつけていたが、本当は剣を向けたかったに違いない。
「いやー、それがなかなかそうもいかなくてねぇ。というか、もしかして君、レゼ? うわー、声変わりしてるね! そうか、もう十七かぁ。あっはっは」
 それだけ責め立てられているにもかかわらず、時計はのらりくらりと揺れている。何事にも動じないのは器が大きいのか、事態を分かっていないのか。
 時計はひとつコホンと咳払いし、子供をあやす父親そのままに、柔和な声で語りかけた。
「落ち着いて考えて欲しいのだけど、どうして私達は白の賢者を森へ“閉じ込めて”きたのだろう。いや、そもそもなぜ賢者はこの世界へ“召喚”されるんだと思う?」
 召喚。誰かが、意図的に賢者を送り込んでいる?
 思っていなかった切り口に、青年達は一瞬口をつぐんだ。
 レゼは後半の問いを無視し、厳しい瞳のまま時計を見上げる。
「結界の理由は、飛翔炎の隔離だ。賢者に宿る白の飛翔炎を捉えるために、賢者ごと捕縛した。変成したのは、賢者の死後に飛翔炎を逃がさないようにするため」
「惜しい。半分正解かな」
 笑みを含んだ答えに、レゼが目元をいっそう険しくする。
 それが手に取るように分かったのだろう。時計は苦笑交じりで宙を漂った。
「確かに、変成の呪文は、後世の王族が白の飛翔炎に目が眩んで行ったものだよ。明度の高い飛翔炎は強い魔力を持つ。月の民が良い例だよね。白ならばこの世界で最も魔力の強い飛翔炎だろうし。本当に、人は欲深い生き物だね」
 時計は滑らかな語りをそこで止め、軽く笑みを含んでいた声を下げた。
「でも、それが当初の目的ではなかったんだ」
 青年たちの表情が真剣みを帯びる。慎重に時計を注視し、訝しげに眉をひそめた。
 時計は手品師が種を明かすように、わずかな諦めを含んで語り続ける。
「不入の森の結界は、本当に賢者を幽閉するためだけに作られたんだよ。彼らの行動範囲を制限し、世界を守るために」
 世界を守る。
 突然現れた飛躍に、スウは自然とデュノを抱きしめた。
「賢者にはね、“世界を隔てる結界を崩す”という使命が与えられているんだ」
 時計は静かに言葉を繋ぎ、誰にも異論を許さない。
「結界といっても、不入の森のものとは本質的に違う。巨大な膜を想像して欲しい。この星を覆うほど大きく薄い膜。内側からの力にはどこまでも伸びていくけれど、外から力を加えると簡単に穴が開いてしまう。同じものが二つ並んでいると思って欲しい。その状況で、もし、一方の中にあるものをもう一方へ押し込んだなら、押し込まれた方の膜はどうなってしまうかな。もしもそれが無作為に動き回ったなら。……結界は虫食いのように穴だらけになってしまうだろうね」
 その“もの”がスウを指していることは明らかだった。
 彼女はデュノの体温を感じながら、心の奥が冷えていくのを感じとる。
 自分は結界を崩すために送り込まれた。そしてそれは、この世界を自由に動き回るだけでいい。なんて簡単な条件。
 少年の髪が頬に触れた。滑らかで、さらりとした心地。
 目を閉じて、自分に問う。
 もしこの子がいなかったら、いや、この子が自由だったなら。自分は今も神殿に留まっていただろうか。
 元の世界を求めて彷徨さまよわずにはいられただろうか。
「……結界の理由は分かりました。けれど、性質の説明がつきません。賢者を捕らえるだけならば、声まで失わせる必要はないはずです」
 ずっと黙って耳を傾けていたフェイが、真摯に問いかける。俯きがちな顔は真剣そのもので、少しだけ嫌な予測を振り払うように首を振った。
 時計は小さく笑うだけの間を置いて、穏やかな、それでいて諭すような声を響かせた。
「その件についてはもう、予測がついているんじゃないかな。一国を、いや、世界を揺るがすほどのことだから、誰も言わなかっただけで」
 レゼが視線を上げ、時計を見据えた。睨みにも似た視線。
 けれどそれは一瞬で弱々しいものとなり、少女たちへ向けられる。彼女へ辿り着く寸前で床へ落とされた、苛立ちと悲しみを含んだ瞳。
「白の賢者の言葉は全て、宿詞だよ」
 少年を抱く手に力が篭った。
 世界が一瞬時を止め、思考だけが空回りする。
 宿詞。
 自分の言葉、全てが? 何気なく語りかけてきた、この声が、宿詞?
 嘘だ。
 宿詞は紡がれた言葉全てを実現する魔法。
 スウはこれまでたくさんの言葉を語ってきた。けれど、一つとして現実になりえたことはない。森の中でまだ言葉が話せた頃も、雨一つしのげないほど、自分は弱くて。
 無意識に喉を押さえる。震えるだけで音は出ない。封印されているから。
 今まで、どれだけ宿詞を望んだか分からない。宿詞さえあれば。レゼが口にするたび、スウもまたそれを願っていた。そして、そんなことを望んでも仕方がないと思い続けてきた。不可能だと信じていたからこそ、耐えられる望みもある。
「宿詞は本来、賢者が使命を滞りなく遂行させるために与えられた、白の飛翔炎だけが持つ能力だよ。我々王族はそれを模倣しているに過ぎない。世界を危険に陥れてまで、飛翔炎を捉えたがった理由さ。変成魔法が賢者自身が呪文を唱えなければ発動しなかったのも、目標が特定の飛翔炎を宿していなければならないから」
 時計は他意のない溜息をつき、少女へと言葉を向ける。
「もはや初めの封印は解かれてしまった。世界は崩壊の一途をたどっているんだ。君が帰ってくるか、不自由に戻るか。選択はそれだけ。私としては、スウちゃんには戻ってきてもらいたい。君を心配している子がいるからね」
 最後に優しく付け加えられた言葉が、思いのほか重くて。
 スウはデュノをきつく抱きしめた。
 その腕に添えられる、細い指先。
「絶対に戻らなきゃいけないわけじゃないんだよね? これ以上どこにも行かなければ、スウはここに居てもいいんでしょ?」
 いつから聞いていたのだろう。
 少年が身を起こし、それでも彼女に抱かれたまま、時計へ問いかける。必死の声色がいつもより彼を子供じみて見せた。
 ――デュノ……。
 なだめるような声調になる少女を、少年は見ない。
「ねえ、いいんだよね?」
 ただ時計へ問いかける。握り締めるようにスウの袖を掴んだ。手ではなく。
 時計は困惑したように沈黙する。
「君は……デュノかな。そうだね、普通ならそれで良かったのかもしれない。もし君が結界を抜けられず、彼女の声が聞こえなかったなら……」
 熟考の末、導き出された声色。
 その言葉を半分も聴かず、少年は縋るように言葉を続ける。
「それなら、僕はここにいてもしょうがない人間だよ。ねえ、僕も一緒に……」
「デュノ。逆でも世界の構造は変わらない。彼女の世界を壊したくないだろう?」
 子供じみた理論を、国王が静かな響きでもって制する。
「でも……」
 それでもなお食らいつく少年へ、強かな女性の罵倒が飛んだ。
「いい加減、誰のせいでこんなことになったのかを知れ。バカめ」
 場の空気が一瞬縮こまり、扉へと一斉に視線が集まる。
 開け放たれた扉に、仁王立ちで悠然と構える一人の女性。シンプルなドレスへ帯刀し、光の射さぬ地下でも輝きを放つ銀髪が美しい。
 女王は背後に数十の兵士を控え、こちらを俯瞰して睨みつけている。
「フィリア!」
「母さん、なの?」
「連行しろ。問答は無用だ。それから速やかに撤退しろ」
 戸惑いを隠せない一同を置いて、女王フィルフレイアは部下たちへ指示を飛ばす。大慌てて兵士達が部屋へ押し入り、研究者達を拘束した。
 次々と連れて行かれる研究者を傍目に、女王は二言三言聖女と言葉を交わす。交錯する青と黒の視線。
 瞬間、女王は聖女の頬を引っ叩いた。
 容赦のない音が響き渡り、張り詰めた沈黙が満たされる。
「ここまでせねば分からんか」
 突き放したような言い様に、怒りはない。
「連れて行け。早く」
 無抵抗に連れて行かれる聖女を見送り、女王はくるりと時計へ向き直る。彼女のことなど忘れ去ってしまったように、大股で時計へ歩み寄った。
「フィリア、久しぶりだね。いやあ、直接話せるっていいなぁ。あいかわらず口が悪いねー。手も早いけど」
「貴様は黙れ、この昼行灯。ここからは私が話す。それから、お前たちは出て行け」
 ふらふらと近寄る時計を叩き落として、女王は辺りを見下ろす。おそらくここで言うお前たちとは、デュノも含めた、スウ以外の全員だ。
 紺の瞳に怯えを滲ませて、デュノがスウの袖をいっそう強く握り締める。
「でも!」
「レゼ。弟に手当てもしていないのか。お前たちの魔力は同質だ。多少の肥やしにはなろう。早く連れて行け。」
 少年の抗議は完全に無視された。
「待ってください。宿詞に関わるなら、俺にも聞く権利が!」
「ない。言ったはずだ。そんなものに頼るなと」
 もう一人の息子の意見すら捻じ伏せ、女王は一瞥。手振りで退却を示す。
「はい……」
 大人しく従うレゼは、きつく口を閉じていた。険しい眉間が何らかの意思を告げる。だが、女王は汲み取ろうとすらしない。
 兄は言葉少なにデュノの二の腕を掴み、少年を抱える。
「や、だ!」
 全身の力を込めて抵抗するデュノ。どれだけ暴れたところで、今の少年にたいした力は残っていない。むしろ荒い呼吸が肉体の限界を伝えている。
 簡単に押さえ込まれる少年の手を、スウが優しく包んだ。
 ――デュノ。少しだけ待っていて。すぐに行くから。
 引き攣らないように、そっと笑みを浮かべる。
 ――大丈夫。
 急におとなしくなった少年を手放し、頷いてみせる。
 少年ははじめてスウと視線を合わせた。その瞳は、今にも叫びだしそうな何かを必死で堪えている。
「待ってる」
 デュノはすぐに視線を外し、きつく口を結んだ。少年を抱え込む同じ髪色をした青年と、泣きそうなほどよく似た表情だった。
 女王はその様を黙って見詰めていたが、フェイが会釈をしつつ扉を閉めると、大きく溜息をついた。低い声で重症だなと呟く。
 それから彼女はスウへと向き直り、頭をかく仕草をした。レゼと同じ癖だ。
「始めに謝っておこう。私はお前を誤解していた」
 ぶっきらぼうな謝罪。
 思いもよらない言葉に、スウは逆に身を固くした。
「お前の言葉が宿詞だということは聞いたか? 言ったこと全てが現実になる、と」
 頷く。
 賢者が無差別に放つ能力、それが宿詞。
 王室が賢者の能力を盗み、模倣したならば、賢者が宿詞を与えたという説明もつく。宿詞は技術であり、知識ではない。知識がなくとも扱える者には扱えるのだから。
 だからスウが宿詞について何も知らない世界から来たということは、もはや何の理由にもならなかった。
「結界によってお前の声は遮られ、宿詞も発揮されていない。森の結界は内部に働きかけ、今の体を覆う結界は外部を遮断するからだ。そこまでは良いな?」
 事実を確認するように、女王は手早く告げた。そのたびに頷くスウを観察するように、じっと見詰めて。
「だが、この世界に一人だけ、結界を通り抜けるアホがいる」
 アホ。それがデュノのことだとは分かった。しかしひどい言い様だ。
「宿詞は炎鱗粉を介さず、直接飛翔炎へ働きかける外法だ。あれは飛翔炎が不完全ゆえ効きはしない。が、魔力を生成することはできる。全く何の影響も受けぬというわけでもない」
 デュノに宿詞は聞かないと、どこかで聞いた。彼の魔力が体を蝕むのを、宿詞ですら直せなかったからだ。だから、たとえデュノが宿詞を聞いたとしても、なんの害もない。
 そこまで考えて、スウはふと思い出す。
 森で初めて出会ったとき、デュノはスウの声を聞いて倒れた。それから少しの間、体調不良を訴えていた。それはすぐになくなったが、この頃では毎日のように声が聞きたいと言う。
 つまり、デュノは。
 その結論は認めたくなかった。スウの中にあった確かな拠り所が、崩壊してしまうから。全てが幻になってしまうから。
 それを、女王はいっそ無慈悲に言い放つ。
「あれは宿詞に依存している。その根源である、お前に」
 聞きたくなかった。耳を塞いで、うずくまってしまいたかった。
 スウが話せば話すほど、少年は彼女の声に魅入られた。魂を揺さぶる声色がどんなものなのか、彼女自身にも分からない。でもきっと、この世の全てをなげうっても良いほど心地の良いものなのだろう。だから。
 あの子は自分を慕った。
 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
 嗚咽を抑えるためだけに、口元へ手を当てた。けれど、そんなことは無意味だ。デュノのいない今は。彼以外の全てが、結界によって守られている。
 ――私が。
 捕らえられている振りをして、絡め取っていた。
 ――私は。
 一体どれだけの毒に晒した? あの孤独な少年を。あのひたむきな魂を。
 逃げられぬように、抜け出せぬように、甘美な言葉を吐き続けてきた。意思を、感情を、思いを餌にして。
 ――私の。
 そう。全て、自分の意思。
 たとえ知らなくても、十分な罪だ。
「私はお前がそのことを知っていて、あれを利用していると思っていた。非礼は詫びよう」
 スウが驚くほどあっさりと、女王は頭を下げた。きっと、根は素直な人なんだろう。
 女王は傍らで浮遊していた時計を視線で示す。じろりと睨みつけるように。
「私もすぐにコレの言っている意味が分かれば苦労はしなかったのだが……今回は折も悪かった。国外へ出ていたうえに、通訳が死んだからな。銀の飛翔炎の共鳴を利用しているとはいえ、言語の違いだけはどうしようもない。とはいえ、お前がこちらへ来たことも含め、全てこちらの責任だ」
 真剣に謝罪する女王の隣で、その夫がのほほんと付加する。
「私がショウビ石に魔力を集めていたからね。こっちに来て長かったし、反動が溜まっていたみたいなんだ。スウちゃんがそれに乗ってしまうとは思わなかったんだけど……いやはや参った」
「お前が諸悪の根源なんだ。この唐変木」
「ハイ……」
 しょぼんと落ち込む時計。奥さんの前では形無しだ。
 慣れたやりとりにスウは必死で笑みを浮かべた。気を抜けばすぐにも涙が零れ落ちそうだったから。
 女王はそれをすぐに見抜き、声のトーンをもう一つ落とした。
「宿詞を用いれば、お前はすぐにでも帰ることができる。あいにくこのアホが無駄に魔力を使ったから、あと一度しか使えないが、お前自身が使えるからな。そちらの世界には飛翔炎がないと聞く。あちらでなら、お前は宿詞を使えない」
 スウがはっと顔を上げる。
 あの世界でなら、慣れ親しんだあの場所なら、宿詞は使えない?
 もう誰を害することもなく、毒することもない。普通の人に、戻ることができる?
「だから、結界を解いたらできるだけ何も言わず、帰ってくれ。どの言葉がどんな効果をもたらすか、私達には予測できない」
 彼女たちがこれほどまでに宿詞を恐れるのも、無理はない。話すこと全てが現実になる人間がいたら、この世界はパニックになってしまうだろう。
「とにかく、あれのことを思うなら、離れてやって欲しい。私も息子がかわいい。このままでは中途半端に影響を受け続け、……いずれ駄目になる」
 女王は厳しい面持ちに母の色を浮かべる。
 この人は始めから子供の味方だった。スウこそが、排斥するべき敵だっただけで。
 ――…………。
 少女は静かに立ち尽くし、ただ足元を見詰め続ける。
 瞳を閉じて、溜息を一つ。
 震えた吐息がゆるゆると零れた。



 扉から出ると、小さな影が飛びつくように寄り添った。
 通路は暗く、寒い。他に人影も見当たらない。少年はずっと一人で待っていたのだろう。
「スウ、大丈夫だった? 母さんに斬られてない? 怪我は?」
 デュノはスウの手を取り、あちこちを確認する。さっきまで蒼白だった顔色は、もう血の気を帯びていた。軽く紅潮してすらいる。
 ――大丈夫。
 最小限の言葉で済ませ、弱々しく笑う。自分の声が陰りを帯びているのが、嫌でも分かった。
「良かった。あのね、レゼったら、僕に魔力を渡して倒れちゃったんだよ。レゼはそれほど魔力が強くないから、無理しないでって言ったんだけど」
 デュノは早口で言葉を繋ぐ。
「今はフェイが看てる。おかしいよね、いつもと逆。それから、もう戻らない? ここ、寒いし。今からでもお祭り間に合うかな? ほんとは僕、スウと一緒に色々回りたかったんだ。少しだけなら」
 手を引いて足早に歩き出そうとする少年を引き止めた。びくりと細い肩が揺れる。
 ――少しだけね、時間を貰ったの。
 ここへ来てから、本当に笑顔が上手くなったと思う。
 少年は振り返ったまま、何も言わない。何かを恐れるように瞳を揺らめかせ、それでもスウを見詰め続ける。怖くて目が離せないというように。
 痛いほど強く手を握り締められた。
 この子の言いたいことは分かってる。
 『お願いだから、何も言わないでいて。聞きたくなんかない』
 でも。
 ――デュノ。
 そういうわけにはいかない。

 ――私、帰るね。
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