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その場所は冷気に満たされていた。 鍵のない鉄の扉を開いた瞬間、足元から何かが這い出てくるような錯覚を感じ取る。冷やされ沈んだ空気だと分かっていたが、それが足元を撫でるたび、亡者に縋りつかれるような気味の悪さを覚えた。 低いモーター音らしきものに辺りを見回すと、部屋の壁際一帯を囲い込むように機械設備が置かれていた。この冷気は、これらの機械からでる熱を抑えるためのものらしい。数人の研究者と思われるアーゼン人が、張り付くように計器を確認していた。こちらのことなど眼中にないようだ。 地下室には、細い光の筋が数本走っている。そのほかの光源がないにもかかわらず、空気全体が輝きを帯び、室内は昼の明るさに満たされていた。完全に白い光ではなく、薄く墨を流し込んだように淡い影を宿した光だ。 白濁した視界で、フェイの持つ松明だけが赤い色を宿していた。 ――デュノ……。 スウは入り口に立ち尽くしたまま、すぐに動くことができなかった。 少年はすぐそこにいた。部屋の中央に寝かされ、四肢を束縛されている。きつく締められた縄が食い込み、透き通るような白い肌は赤黒く染まっていた。目を閉じて気を失っているようだが、苦悶に歪んだ表情は消えていない。じっとりと浮かんだ脂汗が見てとれる。指先や膝が時折激しく震えるのは、痙攣しているから。 生きてはいるだろう。意識がないのは、いっそ僥倖だった。 月光の差さない地下室で、少年に苦しみを与えているのは、四つの光の帯だった。低い天井の四つ角からスポットライトのように光が差し込み、少年へと集束している。この光に良く似たものを、スウは月下の間で目にしていた。 月光の制御装置。光を反射し、効果を弱める鏡の仕掛けだ。 どのように成したのかは分からなかったが、どういう意味かは分かる。 魔力の照射。 元々この鏡は月の魔力を収束し、部屋に満たされた魔力の濃度を下げる役割があったのだろう。即ち、あの光の光線には濃度を上げられた魔力が、極限まで詰め込めれていることになる。 この部屋は月下の間の真下に位置する。術の範囲内で、高濃度の魔力に晒されれば。 死ぬ。あの子は、ここで殺される。 「愚かな子。逃げなければ、手荒な真似はしなかったものを」 鼻にかかったような声色はどこか甘さを帯びていて、ひどく癇に障った。 聖女は隠れもせず、少年の傍らに立っていた。光を浴びないぎりぎりの距離に立ち、こちらを無表情に見詰めている。三人のどの存在も、彼女の心を動かすには値しないというように。 それはあまりに静かで、落ち着いていて。正常の真裏に潜む狂気だった。 「トアナ……ッ!」 激昂を奥歯で噛み締めて、レゼが相手を強く睨みつける。 「貴様、自分のしたことが分かっているのか!?」 怒声はほんのわずかな理性と激情で構成されていて、あの紳士じみた態度は微塵も見られない。青年は荒々しく剣を抜き払うと、片手で聖女へ突きつける。 それすらも泰然と眺めやり、聖女は薄く笑う。 ぎしりと青年が柄を握り締めた。 「ここまでだ。王族の誘拐と城への反逆罪で、貴様を捕らえる。俺が証人だ。容易く握りつぶせると思うな。……こんな実験、今日で終わらせてくれる!」 「勇ましいこと。けれど、貴方は勘違いをなさっているようね。これは実験ではありません」 薄笑いを維持して、聖女は軽く目を伏せる。ふふと鼻で笑う声。 その視線すら笑みを宿して、彼女は青年を見据える。漆黒の瞳が光を吸い込み、暗く輝いた。 「機は熟した。貴方は、遅すぎた」 突然、機材のモーターが唸り始め、空気が旋回を始める。空気ではない。室内を漂っている淡い光が、渦を巻き始めたのだ。魔力が聖女の傍らにある機材へと集まりだし、それに合わせて少年からいっそう多くの光が零れていく。光の粒子が尾となって流れる様は、風化し崩れる砂の城を思わせた。 あの子の命が削られていく。 突発的に、スウは少年へと駆け出した。何がしたかったのかよく分からない。少年の束縛を解いて、光の中から引きずり出すと決めたのは、彼の傍らに着く寸前だった。 「止めろ!」 レゼの制止は少女に向けられてはいない。 恐ろしいほどの無表情に戻った聖女が、彼女に向けて手を振り上げていた。それが下ろされると同時に呪文が発せられ、スウは全身を機材へ叩きつけられる。 一瞬、呼吸が止まる。背中を打ったからだ。感覚がなくなって、それが戻る頃には痺れと痛みが全身を支配する。 「なんで魔法が!」 困惑と怯みを混ぜた表情で、レゼが舌打ちした。王族は強い魔力を持つという。魔法が使えるとなれば、事態はこちらに不利に働く。 「炎鱗粉の濃度が高すぎます。彼女が行ったのは、本来なら風を起こす程度のものでしょう。威力が増幅されている」 フェイが駆け寄ってくるのを感じながら、スウは自ら身を起こした。背骨が痛みを訴える。背を丸めるのすら辛い。それでも彼女は、聖女しか見ていなかった。 これほど鮮明に憎しみを覚えたことはない。自分の中にある全ての憤りが一点へ集中し、練磨される。水飴が焦げていくように、心が粘度を上げ、闇色へと染まっていく。 なんという不快。こんなものに身を晒して、この女は生きてきたのか。 こんな女。 憎しみが言葉に成り果てる寸前に、フェイがスウの肩へ手を置いた。少女を後ろへ引っ張るようにして、彼は前へと進み出る。 「貴女は一体、何がしたいのですか……?」 背後でふらつくスウを手だけで支えながら、フェイが聖女へ問いかけた。 その声色はひどく真剣で、何度も考え、ためらった末の問いだった。 「デュノを殺してまで成したいことは何ですか。たとえそれを成したとしても、貴女が捕らえられることは変わらないはず。そこまでして、一体何を望むのですか」 フェイの声色は淡々としていて、諭す色すらあった。 聖女は彼の話など聞いていないかのように、眉一つ動かさない。けれどその目は無言で青年を見詰め返していた。 「そもそも、貴女はデュノをどうしたいのです。完璧に道具として扱っていながら、貴女はあの子の心まで独占したがる。本当に道具とするなら、あの子が誰を慕おうと関係のないはずです。教えてください。貴女はデュノを、“誰の代わりに”愛する振りをしているのですか」 実際は、単なる時間稼ぎだったのかもしれない。 けれどフェイは疑問詞を断定として使い、聖女は長く答えなかった。 意味のない空白が時を満たす。 聖女は無知な子供のような無表情で、口だけを動かした。 「逃げるから悪いのよ。この子も、あの子も。逃げて逃げて逃げきって、つまらない女に縋ろうとする。……誰も、私の思いを殺してはくれない」 くすりと小さな呼気が漏れる。 「だから、迎えに行くと決めたの」 それは、壮絶な笑みだった。 赤く引かれたルージュが裂けんばかりに弧を張り、ぴたりと止まる。細められた目元の奥で、漆黒の瞳孔がすぼまった。長い時を理性に成り代わってきた狂気が、本来の姿を取り戻す。 三人はそこに、凝り固まった憎悪が気化し、昇華する様を見た。 誰一人動けぬ中で、耳をつんざくような悲鳴に現実を知る。 モーターがいっそう激しく唸りをあげ、デュノから凄まじい勢いで魔力が流れ出ていた。無機質な鋼鉄へ吸い込まれる光。あとからあとから、まるでそれが無限であるように。 少年は必死に身をよじらせて光から逃れようとしている。苦しみに怯えきった表情は蒼白だ。耳を塞ぎたくなる叫び声に、少女は自分の名を見付けた。 ――デュノ……! 縋るように見詰める瞳に、手を伸ばしたとき。 視界が霞んだ。 激しく揺れる視界に平衡感覚が狂う。足をもつれさせ、その場にへたり込んだ。 機材が並べられた冷たい壁。その光景が全く違う、もう一つの景色と重なる。 それは真昼の光景だった。 明るい日が差した空は青く、うっすらと曇りを帯びている。その空を刺すようにそびえ立つ建造物のシルエット。長方形を立てたような合理性しか考えられていない姿は、女王の居城にも似ていて。 そんなものが乱立する場所は、この世界にはない。 自分か呼吸を止めていることにも気付かず、スウは二つの光景が重なっていくのを見詰めていた。透明だったビルの姿が克明になるにつれ、部屋の景色は薄らいでいく。無機質な世界が精彩を帯び、質量を持ちはじめた。 あと少し。あと少しで、越える。弾ける。 直感的に、これこそが自分の望みをかなえてくれると悟った。 「……す……」 掠れた声が彼女の視線を手繰り寄せた。懇願するように自分を見詰めるその視線。 スウは自分の表情が強張るのを感じたが、体は動かない。床にへたり込んだまま、まるで根が張ってしまったようだった。景色と少年を交互に見遣り、ただ身を縮ませる。 少年を助けたい。今ならまだ間に合う。だけど。 あと少し、あと少しで。 困惑する少女を、少年はただ見詰め続けていた。 「……すう」 やがて瞳に浮かぶ、諦め。 違う。見捨てたいわけじゃない。 腹に響く音がして、びくりと全身が震えた。 少年のすぐ近く、最も大きな機材が、黒煙を上げて鉄板を歪めている。突き刺さっているのは、レゼが持っていた長剣。 「ふざけるな!」 青年が怒りに吼えると同時、閃光が機械の隙間から零れはじめた。溜まりきった魔力が器を失い、凄まじい内圧をかけている。鉄板が膨らみ、裂け、より多くの光線が空を刺す。 「っ!」 光線が腕を掠め、聖女は腕を押さえてその場に膝をついた。衣服に綻びは見られないが、純白の布地に赤い血がじわりと滲んだ。圧縮された魔力は、生き物だけに害を与えるのか。 数秒と経たず、機械は極限まで膨張する。 痺れた思考が今更のように事実へ辿り着く。 光が暴発する。 その時光を受けるのは、最も近くにいる者。 少年だ。 スウは弾かれたように立ち上がり、デュノの上に覆いかぶさった。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 瞼の上を、白い光が覆い尽くす。 あの瞬間、私はあなたの命を秤にかけた。 光が、全てを飲み込んだ。 ……泣かないで。 君はいつも、いつでも泣いている。 恐る恐る目を開けた。 スウは身を起こし、辺りを見渡す。室内は暗く、室内を満たすモーター音は消えている。 もう、あのビルはない。 深く息をついた。安堵からか落胆からか、それは分からない。 傍らで眠る少年の額に手を添え、呼吸を確かめる。蒼白な顔色は唇まで青い。覆いきれなかった手足は、ところどころ火傷のように皮膚がただれている。けれど、確かに息をしていた。 彼女を覆う結界が二人を守った。 鱗結界は決して魔力を通さない。それでも、あれだけ圧縮された魔力が結界を貫かなかったのは、単なる幸運だ。その代わり、乱反射した魔力が辺りに散ったようだが。 スウはぎこちなく首を動かし、床に倒れる何人もの人間を見た。この開発の担当者が数人、レゼ、フェイ、そして聖女。 呻きながらうごめく様子から、所々から血を流してはいたが、致命的な怪我はしていないようだ。 レゼは最も早く身を起こすと、頭を二、三度振って立ち上がる。懐から短剣を取り出し、聖女の目の前へ突きつけた。 「もう一度言う。ここまでだ」 暗闇の中で刃が光を反射し、スウが目を細める。 「望みは絶たれた。貴女を拘束し、司法の元で罪を追及する」 淡々と語る青年に感慨は微塵もない。冷たい口調で罪状を告げ、疲れ果てたように呆ける聖女を拘束する。 じっと俯いていた聖女が、わずかに顔を動かし、スウを見た。 少女は少年の拘束を解き、気絶したデュノを抱えようと、力の入らない手で彼をかき寄せていた。自然と少年を抱く手に力がこもる。 「……どうしてあなたがいるのです」 それはとても純粋な問いだった。そして、スウには答える術のないものだった。 スウ自身、なぜ自分がここにいるのか分からない。ここに送られたことに理由があるのかも分からない。 けれど彼女は自分で望んでこの場所へ来た。 救いたかったから。本当にそれだけ。 だから、彼女はただじっと聖女を見詰め返した。 聖女はやつれた顔に無感動な表情を乗せ、口元だけ小さく動かした。 その時紡がれた言葉は、スウには理解できないものだった。それがどういう意味か、瞬時に悟る。魔法。 「無効」 張りのある声。聖女の言葉が形を象る前に、より強い力が握り潰す。 スウは一瞬で身を固まらせていたが、何かが起こる気配はなかった。緊張を解くと、事態はすぐに把握できた。青い光を纏った時計が、スウの傍らでふわりと宙に浮いていたからだ。 時計は包み込むような声色で、優しく聖女を諭した。 「そこまでですよ、姉上」 淡い光を纏って暗闇に浮かぶ時計。青みの強い光の粒子がぽろぽろと零れていく様は、幻想的と言っていい。 「そちらの魔力が尽きていたので、身動きが取れませんでしたが、貴女の言葉は全て聴いていました。貴女はそこまで追い詰められていたのですね。私のせいです」 どこか悲しげに沈み込む口調に、スウは彼が時折見せた寂しげな笑みを思い出す。 聖女は惚けたように目を見張ったまま、ふらりと時計へ二、三歩近づく。 「あなた……なの?」 信じられないものを、それでも直感が言い切ったのだろう。聖女は震える指を口元へあてた。 「ええ。これ以上の暴挙を慎みください、我が姉よ。あなたの行為はあまりにも危険です。危うく、この世界を破滅させかねなかった」 わずかに強張った時計の声。けれどそれはすぐに氷解し、苦笑じみた弱々しいものとなる。親しみを帯びた、スウには懐かしいものへ。 「……けれど、こんな小さな物ですが、まさか突き破ってしまうとはね。おかげで助かりました」 もう一度、時計の声色が凛と張りをもった。 「勅命を下します。王姉トアナへ全ての権限の剥奪と、魔法の行使の禁止を命ずる」 ただの言葉だ。魔法と違って、意味が通じないわけでもない。 けれど、何かが変わった。 空気の色が変わったと言えばいいだろうか。無作為に散っていた魔力が統制され、意思を持って働きかけたのが感じられる。人々の表情もまた塗り替えられた。力への平伏。絶対なものを前に、ただ受け入れるしかないという自然。 聖女はただうなだれていた。突然、一回り小さくなってしまったように思われる。 そんな彼女をレゼはきつく口元を結び、厳しい視線で見ていた。 時計は長い溜息をついた後、急にくだけた口調になって、スウへと話しかける。 「遅くなってごめんね、スウちゃん。きちんと説明するから、少し待っていて」 その口調はスウが聞き慣れたものだった。もしかしたら、言葉を日本語に変えたのかもしれない。さっきまでの堅苦しい口調は、アーゼン語で話していたためのものではないか。ならば、突き破ったというのは、魔力の疎通を阻む世界の壁だろうか。 魔力の暴走がこれだけの被害ですんだのは、彼女の結界のせいではなく、この時計が魔力を吸収したためかもしれない。 スウはしっかりと頷き、気絶したままの少年の髪をもう一度撫でた。 聖女はそんな時計の態度には頓着せず、食い下がるように問いかけた。 「帰って……こられるのですか?」 「いいえ。それは不可能です。私にできることは、あと一度宿詞を使うことだけ。彼女の封印を解くために」 それから時計はスウへ向けて、困ったように語りかけはじめた。そうっと、できるだけ傷つけないようにという、配慮が見て取れた。大人が泣きじゃくる子供をあやす際に見せる、どこから触れたらよいのか分からないという態度。 「スウちゃん。君の封印を解くことがどういうことか、分かっているかな。君には、できるだけ早くこっちへ帰ってきて欲しい。君の存在はそれだけ危険なものなんだ。ありえないとは思うけれど、もし、君がこのままここに残りたいと言うのなら……」 ためらいがちに言葉を区切り、時計はしばし逡巡した。 やがて、意を決したように告げる。 「私は、君の幽閉を命じなければならない」 |
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