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 神殿の無慈悲な白壁に手を添え、身を屈めて辺りを窺う。闇に慣れた目を凝らすと、白い内装が生気なく浮かび上がった。
 満月が透紗を透かして床に淡い影を落とす。
 女神にすら見付からぬように、フェイは物陰を渡った。固く閉ざされた扉へ辿り着くと、もう一度辺りを見回し、取っ手を握る。魔法で封をされているため、開くはずはない。
『Ed, varg zan ongreyze irr zuogd』
 我、この地に静寂を望む。
 まずは辺りに消音の魔法をかけた。
 人の生活する場には、魔法を規制する結界が張られている。特に、堀に囲まれた一帯は魔法の制約が強く、危険な魔法のほとんどが使うことができない。使えてもせいぜい火をつけたり水を出したりするくらいの、ごく初歩的なものばかりだ。
 だが高等なものでも、生活に必要なものや機密を守るためのものならば、人体に害を及ぼさないものだけが許可されている。
 以前レゼが神殿へ乗り込んだ際は、この結界を逆手に取り、神殿の魔法を徹底的に封じさせたという。単純に武力だけの戦闘ならば城の兵士が上だ。魔法を得意としない彼には向いた戦法と言えた。
 フェイは剣を抜き払い、取っ手近くの数箇所へ刺し込んだ。かつてデュノを救う際に用いた方法だが、剣が傷むので本当はあまり使いたくない。あの時は見事に刃が歪み、落胆したものだった。もっとも、その剣はその後女王によって真っ二つにされてしまったのだが。
 一呼吸ついて、扉を蹴破る。木製の扉は取っ手を失って、勢いよく内側へ開いた。
 誰もいない。
 正直、研究者の一人か二人が抵抗してくるだろうと思っていた。しかし予測とは裏腹に、部屋の中は真っ暗で鼠の一匹もいない。奇妙な装置と試験的に組まれた術式の残骸が床を汚し、机の上は小汚い文字で埋められた書類が散乱している。
 無意識に眉をひそめ、口元を袖で覆う。薬草と薬品、錆びた鉄の匂いが混じってひどい臭いだ。魔法装置の開発現場などはじめて見るが、そう心地良いものではない。
 フェイは表向き神殿の警備をしていることになっていた。もちろんそれは嘘だ。
 本当は聖女が秘密裏に進める開発を探るという任務を受けている。これはレゼを介して女王から承り、今回の作戦が始まる前に済ませておきたいものだった。
 デュノの救出が終わる頃には、ここは処分されてしまうだろう。それよりも早く、彼女の目的を手中に収めねばならない。
 本来ならば、デュノの魔力を吸い取る儀式は、一ヶ月に一度で十分だった。それでも毎晩行われるのは、彼の魔力を用いて人々の生活が潤っているからであり、そうなるように仕向けた聖女の存在がある。
 聖女はこの開発を成すためだけに、少年を生け贄にした。
 毎晩大量に搾取される魔力のうち、ほとんどをこの開発に注ぎ込み、他へ回しているのはその余りだけ。その余分で国中の供給が間に合っていることを考えても、この開発の消費の高さは異常だった。
 これらの情報を集めたのはフェイではない。レゼだ。まだまだ子供と思える若さでこれだけの情報を掴み得たのは、彼の繰る部下の優秀さにある。そして彼自身が持つ統率力の高さと、絶妙な采配にあった。
 末恐ろしい子供だ。決して焦らず、一つ一つの駒を慎重に動かしていく。国王だけが権力を持っていたアーゼンでそれだけのことができるのだから、もう十年もすれば国を根底から作り変えてしまうだろう。
 しかしそのレゼでも、一つだけ掴めない事実があった。
 この開発の目的だ。ほぼ完成した機材の設計図すら手に入れているのに、その用途が全く分からない。途方もない量の魔力を必要とし、それを増幅させるところまでは解明されたが、その先は全くの不明。城に集う数十の学者達の誰もが首をひねっている。
 新たな魔力搾取機械ではないか、移転装置ではないか。いや、美容と健康を維持するものだと様々な提案が出され、最悪、強力な兵器なのではないかと囁かれている。
 焦ったのは権力を預かる城側の人間だった。不入の森なき今、城は神殿に背中を預けているようなもの。それを覆されれば、国家は終わる。
 フェイは机の上に書類を寄せ集め、無造作に袋へ詰める。
 学者ですら分からないようなものを、自分が分かるとは思えない。素直に専門家へ渡すのが、一番賢い方法だ。
 一通り書類を詰め込むと、窓の外へ放り投げる。目測どおり近くの木の枝に引っ掛かった。これならしばらくは人目につかまい。デュノの救出が終わるまで見付からなければ良いのだから。
 部屋の外は皓々と明るく、女神の力に溢れていた。一年で最も月の魔力が強まる今日が、少年の魔力を一番効率よく奪うことができる。ここ最近開発を急がせていたことから、この日に合わせていたと考えるのが適当だ。だからこそあえて少年を泳がせ、囮にした。
「さあて。餌に食らいついてくれているでしょうかね……」
 ひっそりと部屋を抜け、持ち場につく。他にも城の手の者が神殿へ入り込んでいる手はずになっており、フェイは最も確率の高い月下の間を中心とした範囲を任されていた。
 死角に潜み、息を潜める。
 微動だにしないでいると、時間の感覚がなくなってきた。暗闇と一体となって自我が極端に薄くなる。逆に感覚は研ぎ澄まされ、神経が高揚する。
 その耳が、幻聴と思えるほどかすかな衣擦れの音を捉えた。
 速やかに持ち場を離れ、音の方へ忍び寄る。剣は抜かない。残っていた神官かもしれないし、そもそも金音は耳が拾いやすい。本職のものなら、潜められた呼吸すら察知できるのだから。
 黒い装束を纏った者が、同じく黒い布で何かを巻いて担いでいる。
 大きさからして子供一人分。意識がないのかぴくりとも動く様子がない。
 すぐにでもひっとらえてやりたいのを堪えて、曲がり角に身を隠す。
 使者が廊下をこちらへ歩いてきたので、フェイはもう一つ先の角へ移ろうと身をよじらせた。
 そこへ、コツコツと床を叩く音が届く。
 何事かと顔を覗かせると、既に相手の姿はない。扉へ身を潜めたのかと思ったのもつかの間、床に黒い穴があることに気付く。石の擦れるざらついた音がして、ひとりでに蓋が戻された。使者が下から閉じたのだろう。
 地下か。どの国も考えることは同じらしい。
 十分に時間を置いて、同じように床を叩く。場所を変えて何度か叩くと、壁際付近に妙にくぐもった場所を見つける。切れ目がないかと手を這わせる。予測どおり壁が少し抉れた場所があり、そこに指を引っ掛けて持ち上げると、床の戸が開いた。目の届く範囲は階段が続いている。
 全く、いつの間にこんなものを作っていたのだろうか。始めから存在したのかもしれないが。
 蓋を開けたままにして、懐から小さな瓶を取り出す。ヒカリゴケをすり潰したという液体は、月光の届かぬ場所でも淡い緑の光を放っていた。
 瓶を開け、指先で塗料の印を付けると、階段を降りる。小柄なアーゼン人向けに作られた階段は天井が低く、二回ほど頭をぶつけた。
 階段の先は大人二人が通れるほどの細い通路になっていて、方角から月下の間の方へ続いているようだ。やっぱり天井が低く、腰に悪い。
 そろそろ援軍が着く頃なのでは、と思ったとき。
 控えめに背中をつつかれた。
 わっと言いかけて思い止まる。こんな狭い場所では、声が反響してしまう。先を歩いている使者がどの辺りにいるのか分からない今、できうる限り避けたいことだ。
 剣を突きつけられているのを覚悟して、振り返る。
「スウ嬢?」
 そこにいたのは白く長い髪の少女。白の賢者、スウだった。
 昨日といい今日といい、彼女には背後を取られてばかりだ。そもそもこの少女は気配が薄い。常に薄い壁を隔てているような気分になるのは、彼女を取り巻く結界のためか、それとも彼女の持つ独特な空気のためなのだろうか。
 しかし、なぜ彼女がここに。援軍用の目印が命取りだったか。だが、彼女はレゼが保護する手筈だったはず。
 突発的事態に目を白黒させるフェイに、スウはむっすりと不機嫌そうな顔を向ける。どことなく視線が非難がましい。この年頃の少女にこういう顔をされると、無条件にこちらが悪いと思ってしまうのはなぜだろう。彼女の怒った顔をはじめて見たというのもあるのかもしれないが。
「女って、マジ怖ええ……」
 その後ろから青い顔をしたレゼが現れる。彼もまたここの天井に苦しめられている一人らしく、わずかに身をかがめていた。疲れきった表情が珍しい。
「レゼ、あなたまで。どうして連れてきたんですか」
 自分で意図した以上に、口調には責めるような色があった。
「いや、色々あってさ……」
 小声で語尾を濁し、目を逸らすレゼ。青みを帯びた顔色は、女王に無理難題を突きつけられたときに出るものだ。彼はあらゆる面で女性に弱い節がある。そこへつけ込めばある程度の融通が利いてしまうのがこの青年の弱点だが、一体、この少女は何をしたのか。
「彼女はそちらで保護するのが一番だと決まっていたではないですか。剣を交えることも考えられる今、どうして彼女を」
「分かってる。俺は分かってる。でもこの人、人の言うこと全然聞かないんだよ!」
 恐ろしげに身を引いて、少女を指差すレゼ。
 しかしだからといって、彼女をこの場へ連れてくるのはあまりにも危険だ。
 そう言おうと彼の指の示す先を追ったフェイだったが、そこを見てレゼと二人、鼻白んで黙り込む。
 少女が無言で神官に捕まっていた。それはそれは静かに。



「だから連れてきてはいけなかったんですよ!」
「はいはい、俺が悪うございましたあ!」
 疲れたような目でこちらを見続けながら、青年二人はそれでも口論を繰り返した。どこか現実逃避じみていた。
 そんな二人を恨めしげに見ながら、スウは身動ぎひとつできない。首筋に当たる短刀の冷たさを感じる。左腕を強く掴まれ、うっ血してしまいそうだった。
 二人との間は二メートル半ほどだろうか。一刻も早くデュノの元へとフェイの横をすり抜けた結果、その向うに待機していた神官らしい男に捕まった。小走りで突っ込んだのが災いして、二人が一歩で踏み込むには少し遠い位置だ。なおかつこれだけ狭い通路では、青年たち得意とする長剣は扱いにくいだけだろう。
「私は誰が悪いと言っているわけではないんです」
「はいはいはいはい。ったく、もう済んだことをグチグチ言うなよな」
「しかしですねぇ……」
 こんな状況でも口喧嘩を止めない二人に業を煮やして、男がイライラと威嚇の言葉を投げつけた。
「黙れ。儀式が終わるまでは誰も通すなとのご命令だ」
「殺せとは言われていないのですか」
 揚げ足を取るようなフェイの言葉に、神官が一瞬怯んだ。
「動くんじゃないぞ。……言われていない。私はここを封鎖しろと告げられただけだ」
 にじり去ろうとする態度から、人殺しをしたことのない、もしくはできない人間なのだろうと知れる。彼の身なりは神官兵の濃紫ではなく、高等な神官の着る淡い紫色だ。信心深い者ゆえに、禁忌を犯すことに抵抗があるのだろう。
「ならば」
 好都合とばかりに、フェイとレゼが一歩踏み出し、剣を抜く構えをとる。
「動くな!」
「どうせ無駄さ。今だって、入り口で援軍がどっと待機してる」
 レゼが口の端に不遜な笑みを乗せる。その顔は悪役こそ相応しい。
 殺す気もない素人に黙って従う道理はないか。でも自業自得とはいえ、自分が捕らわれている方の身になると、急に反対票を入れたくなる。小刀に加えて、剣の達人二人に真剣を向けられるのだ。生きた心地がしない。
 二人に気圧されて神官の刃が震え、首筋に何度か触れる。そのたびに小さな痛みを感じた。注射を失敗されるときのように、細かく鋭い痛み。
 自然とスウの表情が歪む。
 それを見て、青年達の目元が鋭く細められた。
 本気だ。
「止め……っ!」
 上ずった神官の悲鳴に合わせ、二人が重心を前へずらしたとき。
『あー、本日は晴天なり本日は晴天なり。……スウちゃんいるかい?』
 くぐもっていながらも、場違いに明るい男性の声が響き渡った。
 突然のことに二人の動きがその場でぴたりと止まる。神官すら凍りついたように身動きしない。そして、誰もがスウを見詰めていた。
 今の、アンタ?
 三者三様の視線で問われ、スウは危うく首を振るところだった。
 もちろんそうすれば頚動脈が危険なので、手を振って違うと教える。しかし、またもやスウから男性の声が流れ出る。それも口元ではなく、胸元から。
『もしもーし。元気にしてたかな? ごめんねー、連絡がつかなくて。すぐ連絡したかったんだけど、運悪くケイラさんが亡くなってて。ほら、うちの奥さん外人さんでしょ? 私と言葉が違うから、直で話せないんだよー。あっはっは』
 天性の暢気さが垣間見える笑い方だ。
 いい加減、声の主が分かってきたスウは、胸元に手を入れ、青く輝く銀時計を取り出した。時計は青紫色の光を放ってふわふわと浮かぶ。デュノの言ったとおりだ。今回はカタカタしただけではなく、ちゃんと言葉を喋っているが。
『今まではケイラさんに通訳してもらってたんだけどね。今回は互いにちょっとだけ知ってる単語を拾うわけだから、全然意味が通じなくて。奥さんはそっちで古アーゼン語を勉強できるからいいけど、私はできないからね。未だに彼女の言い分がさっぱり分からないんだよー。あっはっは』
 堰を切ったように話し続ける時計。こっちのことなどお構いなしだ。
 ――あのお……。
 触れているからと、一縷の望みをかけて話しかけてみても、時計は全く気付かず自分の話をしている。誰かこの人の奥さん語りを止めてくれ。
『ああ、そうそう。声、出ないんだって? えーっと、実はそちらの魔力が尽きかけてるから、手短に話したいんだけど……というか、もしこの場にスウちゃんがいなかったら、私、かなりの間抜けだなぁ。ちょっとスウちゃん、いるなら何かその辺を叩くかして、合図を送ってくれないかい? 古アーゼン語が話せる人が近くにいると、もっと良いんだけど』
 合図をしろと言われても、スウは今なお首に短剣を突きつけられているわけで。足踏みをして首が切れることを思うと、身動きできない。
 そのうちに時計はふわふわと宙を揺れ動き始め、墜落寸前の飛行機のように上へ下へと空中を漂った。心なしか青色の光も弱くなってきている。
 魔力がつきかけていると言った。もう、時間がないのだろうか。
『まずいかも。ちょっと、魔力が切れる前にそっちで魔力を足してほしいんだけ……』
 時計が操縦を失って、スウの鼻先を掠めたとき。
「ひっ! よっ、寄るなぁ!!」
 一足早く我に返った神官が、めったやたらに刃物を振り回した。
 カーンと高い音がして、刃物が時計に当る。蝿叩きで叩き落とされたように時計が床へ落ち、動きを止めた。光も消え、沈黙が一帯を包み込む。
 スウは慌てて時計に駆け寄り、叩いたり振ったりしてみた。何をしても時計は反応せず、壊れてしまったようだ。秒針も止まり、もはや連絡は絶望的だった。
 スウは呆然とその場に立ち尽くし、その場に座り込んでしまいそうになるほど体の力が抜けるのを感じた。
 ああ。
 唯一の、手段が。
 頭の中が痺れて、うまく考えられない。
 まだ、何も伝えていない。自分がここにいることも、古アーゼン語を話す者がいることも、何も。
 聞きたいことが、たくさんあったのに。
「あの、スウ嬢?」
 自分にかけられた言葉にも気付かず、スウは神官へと向き直る。
 ……この男さえいなければ。
 瞬発的に足を振り上げた。
 うっと短い呻きをあげて、男が一瞬爪先立ち、恐る恐るそのまま停止した。
「うわ……」
 共感できる者二人が顔を引き攣らせる。この痛みは、分かる者には見るだけで精神的な衝撃を与えるらしい。
 『あるもんは使わなきゃ損よね。それも、有効にね!』
 昔、同じことをしたアイが、悪びれず言い放った言葉だ。今だけ同意することにする。
 弱点を押さえてうずくまる神官を置き去りに、スウは通路を走りだす。こんなところで時間を食っている暇はない。
 今は、デュノのことだけを考えよう。



 少し先にある通路の終わりが見えてきた頃だ。
 スウの後をひたすら黙って付いて来ていた二人がやっと回復したのか、声を潜めて言葉を交わし始めた。
「デュノから話は聞いていましたが、本当にカタカタと聞こえましたね……」
「そうなのか? 確かにカタカタ言ってたが。むしろダカダカ?」
 二人の会話を耳に挟み、スウは一人疑問詞を浮かべる。
 時計は確かに言葉を話していた。彼らには、通じていないのだろうか。
 そういえばデュノも同じようなことを言っていた。時計がいきなりカタカタいいだした、と。
 日本語でならおかしくない文章だが、アーゼン語やグルディン語では、本当に“カタカタと喋っていた”という意味しか持たない言い回しなのかもしれない。スウ一人が、違う状況を思い浮かべていたというわけだ。
 時計の話から憶測すると、あれは日本語を話していた。だったらスウにしか分からないはずだ。しかし、カタカタとはまた奇妙な。
 その時ふと、昔聞いた話を思い出した。日本人に英語がペラペラと聞こえるように、外国人には日本語のカ行とタ行が強く聞こえるそうだ。
 『スグ連絡シタカッタンダケド、運悪クけいらサンガ亡クナッテテ』
 なるほど。確かにタ行とカ行、ダ行とガ行が多く混じっている。これは彼が時制を気にした日本語を話すせいだろう。そこまで意識しなくていいと、何度も言っているのに。
「……しかし」
 フェイが呆れを含ませて、ぼそりと背後で呟く。
 気付かれぬように目の端で振り向くと、彼はレゼに対して深々と頷きかけながら、沈鬱と畏怖を織り交ぜた奇妙な笑みを浮かべていた。
「保守を捨てた女性ほど、恐ろしいものはありませんね……」
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