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十章   月の民


 心地良い風が吹き抜ける回廊を、スウは緊張した足取りで進む。
 強張った肩、自然と潜められる足音、落ちつかなげに散らされる視線。過敏になるなと何度も自分に言い聞かせたが、辺りを見回す仕草が不審だ。
 彼女が大事そうに持っているのは白磁の大皿。つるりとした表面が歪むことなく光沢を返している。その上には軽い焼き菓子――パイ生地の端をくるりとカールさせ、幾重にも重ねたようなもの――が、さりげなく盛り付けられていた。
 皿も盛り付けも菓子も完璧そのもの。ただ難を述べるならば、それを持つ手が少々ぎこちないということだけ。上薬を満遍なく塗り込められた表面は引っ掛かりがなく、彼女は何度も皿を持ち直す。
 角を曲がる前に一端立ち止まり、息をついて目を閉じる。
 ――大丈夫。
 リラックスして表情を緩めると、顎を引いて背筋を伸ばした。聞こえるはずもないのによしと小さく呟いて、できるだけ自然な動作で歩いていく。
 曲がり角を二つ曲がったところで、見覚えのある神官と出会った。以前、渡り廊下で彼女の噂をしていた神官の一人だ。実は、スウにはこの人が男性なのか女性なのか、よく分からない。そもそもこの国の人は、服装も振舞いもジェンダーフリーなことが多い。
 相手は彼女を特に気にした風でもなくすれ違おうとした。
 そこを、スウの手が相手の袖を掴んだ。
 唐突に訪れる静止と沈黙。
「……なにか?」
 怪訝そうに見詰められて、一瞬怯む。
 けれどスウは相手に視線を合わせると、無理に笑顔を浮かべ、焼き菓子を一つ差し出した。
 自然に。好意的に。
 何度も反芻した言葉。けれど意識するほど体は硬直し、視線が相手を探ってしまう。顔に仮面を被っているみたいだ。
 違う、そうじゃない。
 もっと朗らかに、幸せを撒くような笑顔を浮かべられないものか。幼馴染で親友のアイならば、無意識にできてしまうことなのに。
 自分の不器用さに呆れつつ、内心溜息。
 けれど、それが逆に他人を怯える儚げな少女とでもうつったのか、神官はおもむろに破顔した。
 それは一種の苦笑であったのだけれど、異世界から来た言葉の通じない少女を安心させるに十分な意思伝達で。スウはこの神官が女性だと確信した。
 相手は菓子を受け取り、ぽつりと礼を述べる。
「……どうも」
 そっけない声色に含まれる好感の気配。誰だって食べ物を貰えば悪い気はしないはず。
 ――よし。
 遠ざかる神官背中越しに小さくガッツポーズ。ついでに危うく皿を落としそうになる。
 それから、スウは出会った者全てへ分け隔てなく菓子を配った。まるで今日の自分はご機嫌で、この気持ちをみんなに分けてあげたいというように。実際、凍りついた表情が目の前でほどけていくのを目にすれば、誰だって足取りが軽くなろうというもの。
 神殿の正面扉を出るころには、菓子は半分もなくなっていた。
 開け放たれた大きな扉をくぐると、彼女は暖かな日の光を五感で感じ取り、目を細めた。
 まっすぐに続く整備された道。両脇は一面、淡い桃色に霞んでいる。薄い水色の空とのコントラストが美しい。
 何気なく道の先を眺めやり、スウの視線が止まった。口元が自然と引き締まる。
 視線の先では、黒髪をなびかせた女性が従者に日除けを持たせていた。
 赤く引かれたルージュ。デュノのそれに似た白い装束に、隙間なく散りばめられた銀の飾り。無数の鈴が風に揺れるがごとく、彼女の歩みに合わせて金音が零れる。
 聖女トアナ。今、最も出会いたくない相手だ。
 平常心を装って進むと、彼女もまたこちらへ向かって歩いてきた。
 スウの心臓が力強く脈打つ。皿を持つ手がぎこちなくなる。歩幅が狭まる。
 落ち着け。
 自分に落ち度はない。
 まだ、何もしていないのだから。
 視線を合わせるか、外すか。スウは一瞬迷い、あえて外さなかった。不自然に思われたくなかったのと、相手の動向を一つも漏らさず確認するためだ。皮肉を言う、その内心を探るために。
 しかしスウの予想に反して、聖女は彼女を見向きもしなかった。彼女の視界は確かにスウを捉えていたにもかかわらず、言葉をかけるのはおろか、視線一つ向けようとしない。
 聖女はゆっくりと脇を抜けて、神殿の奥へと去っていく。
 不審げに振り返るスウ。それを分かっているのだろうに、彼女の後ろ姿は何も語らない。
 聖女の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、スウはゆっくりと息を吐き出した。
 ――大丈夫。
 共に零れる独り言。風邪が治った翌日のように、全身がひどく重たい。
 けれど、いつまでも聖女を気にしてはいられない。
 スウは首を振ると気を持ち直し、また焼き菓子を配り始めた。参拝に来た子供、老人、女性に男性。彼らはスウの髪を物珍しげに見ていたが、あえて口に出すまでもないと思ったのだろう。気軽に礼を述べて菓子を放り込む。
「おいしいね」
「ねー!」
 特に子供たちに好評で、数人の子供がスウの後を付いて回った。無心で頬張る子供たちを見ていると、聖女とすれ違ったのが遠い昔のことのように思えた。強張っていた手足も、いつの間にか解れている。
 もう一個ちょうだいとせがむ彼らにほだされて、スウがもう一つだけと屈み込んだとき。
 彼女の左側に居た子供が、手短な菓子を一つ、手に取った。
 ――あっ。それはダメ!
 聞こえるはずがない。
 けれど、その子が菓子を頬張るより速く、スウの手が子供の手首を捉える。
 掴まれた子供だけでなく、彼女の周りにたむろしていた子供全員が、凍りついたように動きを止めた。
「ご、ごめんなさい」
 掠れた謝罪。手を掴まれたまま、子供が菓子を皿へ戻した。
 子供は時に敏感だ。優しかったお姉さんの激変に戸惑い、見ればどの子も泣き出しそうな顔をしている。
 スウは慌てて手を放し、声が届かないのも忘れて早口に言葉を並べ立てた。
 ――あ……。ううん、いいの。ごめんね、こっちなら良いから。
 適当な菓子を手渡して頭を撫でてやる。子供たちは彼女の変化に少しの間ぽかんとしていたが、すぐに気を取り直し、眉を八の字にして彼女の周りを取り囲んだ。
「賢者さま、怒ってない?」
「ねえ、怒ってない?」
 口々に同じ質問を繰り返す子供たち。
 スウは笑顔で何度も頷いてみせた。すると彼らはすぐに笑顔に戻る。
 もう一つずつ菓子を渡して子供たちと別れ、更に数人へ菓子を配り終えると、神殿の正面に構える巨大な門へ辿り着いた。
 スウは見張りの神官兵二人を目に留めると、皿を手の中で回して、先程子供に取られた左側の菓子を、右手で配るのに不自然でない位置へ持ってくる。
 さあ、ここからが本番だ。
 にこにこと目で物を言いながら歩いていくと、つまらなそうに欠伸をしていた神官兵がこちらへ話しかけてきた。瞳に浮かぶのは物珍しげな関心。
「おや、賢者様は一人でお出かけですか?」
 そう言いながらも、彼は早速持ち場を離れて寄ってくる。視線はすでに彼女ではなく、手にした皿を捉えていた。
 スウは首を振り、笑顔で菓子を差し出す。
「え、いいんですか? すみませんねぇ」
 言葉と同時に手が出てくるあたり、彼もきっと甘党だ。
「おい、勤務中だぞ」
 不機嫌そうに反対側に立っている見張りがたしなめた。良いじゃないかと笑う相棒をねめつけ、腕を組む。
「うまー! もう一個いいっすか?」
 同僚を気にも留めず、目をキラキラさせてせがむ神官兵。美味しいものの前では、さっきの子供と大差ない。
 スウは苦笑してもう一つ渡す。その際、あえて一番右のものではなく、それ以外を選ぶ。
「お前なぁ……」
 呆れるもう一人へ近づき、スウは出来得る限りで最高の笑顔と共に菓子を差し出した。勢いに飲まれて受け取ってさえもらえれば十分。そうすれば食べないわけにはいかなくなる。
 しかし、相手は困った顔で首を振っただけ。
「すみませんが今は勤務中ですし、私はあまり甘いものは……」
 予想外の反応に、スウは意外をそのまま顔に表した。失礼ながら、拒否した神官兵をまじまじと見詰める。
 まさかこの国に甘いものが苦手な人がいたとは。アーゼン人は皆甘党だと信じていたのに。
 けれど、問題はそんなことではない。もしここで彼が菓子を食べてくれないと、実は後々支障が出てしまうのだ。どうしよう。ここは一つ、泣き真似でもするべきか。
 しかし彼女がそうするまでもなく、二人は少女の思案に沈んだ表情を誤解した。甘党の神官兵が妙に慌ててスウを援護する。
「ちょっと、いじめるなよ。せっかく賢者様が作ってくれたんだからさぁ。男なら丸呑みでもして耐えてみろって!」
 それはちょっと、喉につかえると思う。
「あ、ああ。お一つ貰いましょう」
 相方の勢いに呑まれたのか、ほとんど奪い取るようにして神官兵が菓子を手にした。少し齧り、それほど甘くはなかったらしく、残りを一口で放り込む。
 彼らは誤解していた。
 実はこの菓子はスウが作ったわけではない。フェイがお店に頼んで作ってもらったものだ。もし本当に彼女が作っていたら、二人はとっくに泣き顔だったろう。
 それを伝えるすべはないが、伝えなくてもいいことだ。
 スウは晴れやかな笑顔を残し、神殿へと踵を返した。
 さあ、これにて任務完了。
 扉の前まで来たところで何気なく振り向く。
 予定通り、門番たちはフェイに捉まっていた。今度は彼が二人を相手に立ち話を始めたのだ。
 二人は初めこそ笑顔で雑談を交わしていたが、その表情が徐々に変わってくる。視線が落ち着かなくなり、身動きが増え……明らかに会話を終わらせたがっていた。それでも相手をしているのは、フェイの方が神官兵としての身分が上なので、無下に会話を切り上げられないからだ。
 しかし、フェイは一向に気にせず会話を続ける。その笑顔はまったくいつもと変わらない穏やかなもので、彼らの事情を全て把握しているとは思えなかった。
 フェイが一通りの話を終えて立ち去ると、二人はそろって駆け出した。任務を一時的に投げ出して。
 それに気付かない振りをして、フェイは扉の前で自分を見ている彼女へ、あのウインクを投げかけてきた。いつまでも彼女がここに居ては気付かれてしまう。早く中へ、ということだろう。
 実は、スウが二人に与えた菓子にだけは、一種の薬が入っていた。口にしたものは有無を言わさずトイレに駆け込むことになるそうだ。薬はそれほど強いものではなく、フェイ曰く、二人に『そろって』持ち場を離れてもらうためのものらしい。バラバラに行かれても困るから、時間の調整は彼がした。
 フェイが宿舎の方へ去っていった後、門の向こうから地味な布を被った人物がひょっこりと顔を覗かせた。布の下から覗く灰色の髪。楽しげな紺色の瞳がきらめいている。きっと、スウがやったことも、困っていたことも全部見ていたに違いない。なにしろ、彼のために二人はこんな遠回りなことをしたのだから。
 レゼが突然やってくることが決まったのは、昨日のこと。フェイがいるときは大抵手伝ってもらっていたそうなのだが、今回は特別念入りに工作をしてほしいと頼まれた。
 スウには詳しい事情が分からないのだが、思っていたより聖女とレゼの関係は悪くなっているらしい。
 スウは彼が急ぎ足で門を抜けたのを確認すると、溜息をついて神殿に入った。
 願わくは、あの二人が原因は自分にあると気付いてくれませんように。
 悪いことをするのは、大変だ。



 スウがデュノの部屋に戻ると、少年が部屋の中央で立ち尽くしていた。
 彼女に気付くと少年は慌てて駆け寄ろうとして、踏みとどまった。唇を尖らせて、あえて不貞腐れた顔を作る。
 実はデュノ、今日は機嫌が悪いのだ。
 その原因といえば一つしかなく、今日の作戦に少年を参加させなかったこと。
 デュノはもちろん自分も手伝う気でいたのだが、それを作戦の立案者であるフェイが止めた。彼が関わること自体が、極めて聖女の不興を買うので、デュノには大人しくしていてほしい。それが全員に対して、もっとも安全な方法なのだから、と。
 しかし、少年はそれを自分の力不足と受け取ったらしい。おかげで今日は朝から口をきいてくれなかった。
 スウは少年のために残しておいた、安全なお菓子を差し出しつつ、そっと彼の手を取る。
 ――どうかしたの?
「んー……」
 デュノは決まりが悪そうにお菓子を齧る。少年は意地を張るべきか迷った挙句、話すことを選んだ。作戦成功。
「ちょっと、これを見てほしいんだけど……」
 おずおずと差し出されたのは、この前彼にあげた銀時計。あれ以来、少年はこの時計がお気に入りで、いつも持ち歩いている。しっかり手入れをしているらしく、表面には汚れ一つなかった。
 ――この時計がどうかしたの?
 見たところ正常に動いているし、壊れた様子もない。
「さっきまでカタカタいってたんだ。どうしたのかな?」
 ――へ?
 一度、スウはぽかんと彼の手の中にある時計を見下ろし、それから思い切り身を引いた。軽く一メートルは少年から離れる。
「あ。なんで逃げるの」
 なんとなくだ。なんとなく……これが死者の遺物ということを思い出したのだ。
 デュノは時計を持ったまま近寄ろうとしたが、スウがいっそう逃げたので、時計を机の上においてから彼女の手を掴んだ。
「何か、心当たりがあるの?」
 心配そうに覗き込まれる幼い顔。
 ――あのね。その時計を買ったときに、フェイさんが、売り子のおばあさんが幽霊だって言ってて……。
 不思議な存在感を持った老女。何の気兼ねもなくスウに話しかけ、フェイに時計の代金を吹っ掛けた。彼女が亡者だなんて、いまだに信じられない。
 しかしデュノはその言葉を聞いた途端、ぱっと眉根を開いて理解の表情を示した。
「ああ、そういうこともあるね。じゃあ、そのせいなのかな?」
 こともなげに頷いて、のんきに首を傾げる少年。
 ――……デュノは幽霊が怖くないの?
「怖くないよ。だって、お化けは理由が分かってるもの。スウが森にいたときの方が、よっぽどびっくりしたよ」
 あっさりと言い返される。
 確かに自分もこの世界に来たときは驚いたものだが、お化けとどっちがと言われれば、お化けのほうが怖い。デュノにとって、自分はお化けより強烈な存在だったのか。
 丁度その時、扉が開いてフェイが入ってきた。
 彼は二人の様子を不思議そうに見遣った。その様子はとても自然で、今さっき自分が何をしてきたかなど、完璧に忘れてしまっているように見える。
「おや、どうしたんです、二人とも。何かありましたか?」
「うん、この時計がいきなりカタカタいいだしてね」
 デュノが銀時計を指差すと、フェイが驚いた顔をする。
「えっ、カタカタ? そんなことがあるんですか?」
 さぁと首を傾げるデュノ。
 それをスウは、どこか他人事のように見ていた。
 この世界ではこれは不思議なことなのだろうか。機械が不調を起こしてカタカタ鳴り出すのは良くあることだ。『そんなことが』と言われても、スウには基準が分からない。だって、この世界には魔法があるのだ。
「それで、どういう風に?」
「えーと、こうやってひとりでに浮いて、カタカタって」
 デュノは時計を手に持つと、鎖を持って時計を宙に浮かせた。
「誰かが操っていたのでは?」
「かもね」
 さも当たり前のように、いっそう信じられないことを言い出す二人。
 ……もうついていけないかもしれない。
 スウは切実に感じた。
 今までいろいろ信じられないものを見てきたが、今回ほど信じるのに無理がある話はない。宙に浮く時計なんて、学校の七不思議にもないくらいマイナーだ。しかも、それを語り合う人たちはもっと超常なことができて。
 しかもこれは、その彼らでもまったく説明できないことらしい。相手はたかが時計なのに。
 自分の中の許容量が一杯になってしまって、頭が痛くなってきた。これ以上詰め込んだら、脳みそが弾け飛んでしまいそうだ。
 とにかく二人から距離をとって、事の成り行きを見守ることにした。そんなことはありえないと口に出すことができれば、少しは違ったのかもしれない。でも、この世界ではありえるのだから、どうしようもない。とりあえず、落ち着こう。
「そういえば、浮きながらちょっと青く光ってたかも」
「青く?」
 フェイがことさらに眉をひそめてデュノから時計を取り上げると、裏側を開けようとした。けれど、時計はそれを拒むようにきつくネジで止められている。
『Ed, varg zan coajewn ti!』
 ネジが飛び、蓋が開いた。
 急に二人が黙り込んだ気配を感じて、スウがそっとフェイの手元を覗き込む。
 ――あ。
 デュノから離れていたため、呟きは存在を否定される。
「……このショウビ石、青いですね」
 二人の背中越しに見た石は確かに青く、わずかに紫がかっていた。透明なガラスの欠片をいくつも重ね合わせたような、バラの花に似た青い石。
 スウの脳裏に良く似た光景が重なった。あの時は淡く輝きを帯びていたけれど。
 親友の家にあったデザートローズ。あれに、よく似ている。
「どうかした?」
 彼女の微妙な変化を察知した少年が、肩越しに視線を送ってくる。
 スウは口を開いたが、それを途中であいまいな笑みに変えて首を振った。訝しげに手を伸ばした少年から逃れるように、一歩後ずさる。
 なぜか、少年に話すことをためらう自分がいた。
「青く透明なショウビ石は、月の民だけが持ちえると聞いています。もしかしたら、あの方は月の民だったのかもしれませんね」
 月の民。
 デュノの母と……同じ存在。
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