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「お嬢さん、時計は要らんかね?」
 突然声を投げかけられて、スウは過剰な反応と共に足元を見下ろした。自分のすぐ傍らに、小さな老人が座り込んでいたからだ。
 漆黒の透紗を何枚も重ねて頭から被っているため、顔は全く見えない。銀の鎖をもてあそぶ手は全ての肉を削ぎ落としたように細く、血管を浮かせた薄い皮膚に深い皺を刻み込んでいる。声色から察するに、おそらく女性。
 先ほどまで路地に人影はなかった。赤毛の男の気配すらなかったというのに、黒い布を広げた上にさも当然と居座る様は、それが毎日の習慣だとでも言わんばかり。
 老婆は赤毛と違って気配がないわけではなかった。年月を超えた大樹のように静かな威厳が感じられる。にもかかわらず、先程まで気付かなかったのはどういうことか。
 老女がスウの袖に手をかけた。布地に枯れ枝が引っかかったように見せて、思いのほか力が強い。反射的に身を引いたのに、老女の手は離れなかった。
 その間へフェイが割って入る。
「ご老人、どうなされました。迷われましたか」
 彼は丁寧に腕を動かして、この国特有の『袖払い』と呼ばれる挨拶をした。人の良さそうな笑みも忘れない。
「言ってくれるねえ、お若いの」
 老女もそれに返す。その動きの滑らかで美しいこと。漆黒の透紗が空気を含んでふわりと広がる。異国の者には簡単に成し得ない、洗練された動きだ。そもそもこの国の人は手足が長い。デュノにしてもレゼにしても、すらりと伸びた肘から先が軽やかに空気を薙ぐ様は、一種独特の雰囲気を持つ。
 老女は探るようにスウの手を取り、無理やり懐中時計を握らせた。悠然と飛翔する二匹の鳥が彫り込まれた銀時計。手のひらに収まる程度だが、その細工の細かさ、銀の純度の高さから、相当な値打ちのものだと知れる。手の甲を流れる鎖が重い。
 スウは慌てて老女に時計を返そうとした。自分の世界から腕時計をしてきていたこともあり、スウには必要のない物だったからだ。そもそも、そんなお金を持っていない。
 しかしフェイが彼女を押し留めると、老女の前にしゃがみ込んで平然と交渉を始めた。
「おいくらですか」
「三百」
「それはちょっと……。二百でどうでしょう」
「冗談をお言い。アーゼン一の職人に無理やり作らせたってのに。三百五十」
「え。あの?」
「雨が降るね、急いだ方がいいよ。四百」
「あーのー……」
 フェイはへらへらした笑顔に汗を浮かべて頭を掻く。完全に呑まれてしまっているようだ。
 老女はそんな彼を漆黒の被り物の下から見透かして、唐突に話題を変えた。
「そういえば、お前さんの連れはたいそう変わっていたねぇ。あの緑の髪の若造さ」
 不意にフェイの笑顔が温度を下げた。近くに立っていたスウにしか分からないほど少しずつだが、微笑みの意味が変わっていく。
「彼が、何か?」
「布を巻いて隠していたようだったけど、あいにくアタシにゃ関係なくてね。本当に珍しいものを見た」
「彼は」
 フェイは一言で意思を切り、息を飲み込む。わずかに掠れた語尾。
 しかしそれは一瞬のことで、次に言葉を発するときには落ち着いた声色に戻っていた。
「彼は私の古い友人でして。特技が多いので、今回のように時々手を貸してもらっているのです。多少風変わりなことは認めますが、尊敬に値する人間ですよ。私などよりもずっと、人間が出来ていますから」
「そうかい」
 一言一言を噛み締めるように押し出したフェイに対して、老女はあっさりと切り捨てた。
 彼女は黒いローブの下でおそらく笑い、血の気のないカサついた手を差し伸べる。
 フェイはしばらく思案した挙句、懐から財布を取り出して袋ごと手渡した。
「ではこれで」
 いっそ爽やかに微笑みかけるフェイ。
 老女は唸るように鼻を鳴らし、財布を手の上で転がした。甲高い金属音に混じって、カサリと紙が擦れる音がする。
「……さすがにここまでは貰えないねぇ」
 老女がじろりとフェイをねめつける気配がした。中身を見てもいないのに、きっぱりと拒否する。
「お孫さんのお小遣いにでもして下さい。では」
 フェイは老女を見もせずにあっさりと応え、素早く立ち上がると、スウを連れて大通りへ向かう。
 ――ちょっと、あの……。
 掴まれた腕を逆に引っ張り返す。納得できないことがあったから。
 複雑なやりとりがあったようだが、フェイも老婆も時計をスウに与えることだけは一致していた。でも、スウは一言だって欲しいなどと言っていないし、貰うつもりもない。しかもこの時計はかなりの値段で買い取られた様子。
 ここは、フェイが持つのが妥当ではないか。
 と、声が届いたかのようにフェイが振り返って、秘密を打ち明けるように軽くささやいた。
「いいんですよ、あの方は亡者ですから。ご遺族の今後を思えば、あのくらいは必要でしょう」
 亡者。つまり、幽霊。
 微妙にずれた回答を修正するには、衝撃が大きすぎる単語だ。
 ぎょっとして振り向くと、空ろな路地には誰も居ない。敷布すら闇に溶けてしまったよう。
 フェイは彼女の怯えを察知して、安心させようと説明を始める。彼自身には恐れなど微塵もないらしい。
「ごく稀にですが、飛翔炎が宿り主の意思を残すことがあるんです。飛翔炎の力が強ければ、あのように人形を現すこともあるそうですよ。ショウビ石に……あ、もしかして、ショウビ石をご存じなかったですか?」
 耳慣れない言葉に頷くと、はぁと感心と驚きに呆れを混ぜたような顔をされる。とても基礎的な知識らしい。
 フェイは時計を指で示した。
「ショウビ石とは、時計のような外部から魔力の供給が出来ないものに内蔵し、持続的な魔力の供給を行う石です。魔力を使い切れば核は出ていきますが、残った器は何度でも魔力を蓄えることができるので、今のところは有効な魔力源の一つですよ。元は、生き物の心臓にある結石です」
 カシャンと高い音を立てて、スウの手から時計が流れ落ちた。
 フェイがゆっくりと腰を曲げて、それを拾う。
「我々にも宿っていますよ。飛翔炎によって色も大きさも様々でして、いつ魔力が切れるのか分からないのが欠点なのですが。やっぱりご存知ありません?」
 ただ頷く。
 彼の手の中で輝く時計を、直視することができなかった。だから、そこから流れ落ちる銀の鎖を苦々しく見据える。
 これもまた、人の命で動いているのか。
「なるほど。あなたの世界には魔法がないのでしたね。それはすなわち、飛翔炎がないということですし」
 フェイはスウに時計を渡し、空を見上げる。先程まで晴れていた空は暗く曇り、ぽつりと雨粒を垂らしはじめた。すぐに雨音の間隔が狭くなり、肩に衣服の重さが感じられるようになる。
『Ed, valg zan gnow』
フェイが不思議な言葉と共に一枚の布を広げた。布は二人の頭上で停止し、雨を受け止める。
 これがこの世界の傘なのだろうか。布一枚なら携帯が楽に違いない。
 この世界で普通に生活していれば、誰かが魔法を使うのを目にする機会はよくある。神殿でも手伝いの者が使っていたため、最近はスウもあまり驚かなくなった。
 けれど、フェイの魔法はアーゼンのそれと少し違うように思う。きっと彼の使っている言語が違うのだろう。
「雨が来ましたね。しばらくすれば止むでしょうけれど、戻りますか?」



 神殿に戻ると、どこから見ていたのかすぐにデュノが駆け寄ってきた。
「スウ! よかった!」
 少年は普段の白装束よりも更に銀細工の装飾を身に付けていた。長い裾が一メートル近く尾をひいている。不思議な文字の入った帯を肩からかけて、髪にも耳にも銀のアクセサリーがきらめいていた。片手には真っ白な装束に不似合いな、古く黄ばんだ書物を持っている。
 裾を踏みつけて転ぶのではとハラハラしたスウだったが、デュノは器用に駆け寄ると、ためらうことなく彼女の手を取った。
「どこに行ってたの? 探したんだよ」
 ――フェイさんに城下へ連れて行ってもらったの。色々買ってもらっちゃった。
 さて、ここでデュノにフェイの友人のことを伝えるべきだろうか。フェイは特別黙っていろとは言っていないけれど、どこか引っかかるものがある。別に悪意を感じるというわけではないのだが。
 フェイに視線を向けると、彼はゆっくりと片目を閉じてみせた。こちら流のウインクだろうか。
「いいなー、僕も行きたかった。祝いの儀式って本当につまらないんだよ。僕、何回も寝そうになって……あ。虹だ」
 デュノが渡り廊下の端から空を指差した。
 見れば、霧を重ねたような雲は消え去り、雨も止んでいる。アーゼンの気候が変わりやすいとはよく言ったものだ。
 少年の指先はるか向こうに、うっすらと弧を描く大きな虹が架かっていた。霞がかった空に淡く滲んでいる。
 ――綺麗だね、七色。
 何気なく呟いた一言。
「えっ?」
 デュノが空を指していた手を下ろし、まじまじと食い入るようにスウを見詰めた。何か変なことを言っただろうか。
「どうしました?」
 気配を察知してフェイが寄る。
「スウが、虹が七色だって」
「ほう、多いですね。私の国では五色ですよ」
 フェイは指を折って色を数える。赤、黄、緑、青、紫と呟きながら。
 それを聞いてスウは不思議な気持ちになる。今まで虹といえば赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色だと聞いてきたし、実際そう見えていたのだが、彼の言うままに聞いていると、だんだん五色に見えてくるような気がした。
 同じように指を折っていたデュノが、さも困惑した顔を向ける。
「僕、二十一なんだけど」
 ――えー!
 それは、ちょっと多くはないか。
 スウの反応に、デュノは少し怯えた顔をして、手に持っていた古い書をめくった。
「ほら、ここにもちゃんと色分けされてるよ」
 差し出されたページにはいく筋もの色を添えられた虹が描かれている。微妙な色合いで変化していくグラデーションは、確かに二十色くらいある。
 スウは本とデュノを何度も見直す。デュノにはあの虹もこう見えているのだろうか。
「アーゼンの方の色彩感覚は大変優れていますからね」
 のほほんとまとめるフェイ。そういう問題なのか。
 確かに以前、デュノとレゼが服の色で言い争っていたことがあった。スウにはどこが悪いのか分からなかったが、これだけ色に対する感度が違えば、分からなくて当然だ。
「それで、デュノはこんな本を持って、何を調べていたんです? 虹についてですか」
 フェイがデュノの本を手にしてパラパラとページをめくる。どこもかしこもぎっしりとアーゼンの文字が入っていて、わけが分からない。
「ううん。スウの声を取り戻す方法がないかと思って読んでたんだけど……僕に出来ることって、やっぱりほとんど無くてさ」
 デュノは軽く肩を落として、自嘲じみた表情を隠すように、もう一度空を見上げる。先程よりもいっそう霞んだ虹。デュノ には今、何色に見えているのだろう。
「そうそう、スウは街で何を買ってもらったの? 僕にも見せてよ」
 沈みかけた気分を振り切るように、デュノがぱっと振り返る。
 ――ええと、お菓子とか、お菓子とか……。
 とっさのことにスウは間の抜けた答えを返してしまう。お菓子で間違いはないのだが。
 ――それから時計を買ってもらっちゃった。フェイさんにありがとうございますって伝えてくれる?
「時計?」
 首をかしげる少年に、スウは時計を差し出した。日の光を返して青みを帯びた銀が輝く。
「うわー、綺麗ー」
 デュノは時計を両手で持ち、じっと見詰める。時計に注がれる熱心な視線から、ものほしそうな気配が漂っている。
 ――デュノ、これ欲しい?
「え。でもスウの……」
 ――いいよ。私には腕時計があるから。それにその文字盤、私には読めないし。
「ほんと?」
 ――うん。
 スウは笑っていたが、実はちょっと石が怖かった。幽霊やら心臓やら、夜中の部屋へ置いておきたくない代物だ。
 デュノは戸惑ったように時計を見詰めていたが、理解と共に笑みが広がっていく。
「ありがとう!」
 上向いた笑顔が珍しく明るい。どこかうつむきがちな少年は、楽しそうに振舞うときでも視線が下がり気味だった。初めて彼の顔を正面から捉えたような錯覚を覚える。
 デュノは時計を見せびらかすようにフェイへ顔を向けた。
「貰っちゃった。スウは腕時計を持ってるんだって」
 フェイは特に気分を損ねる様子もなく、気軽に応じた。元はといえばフェイがスウに買い与えたものだというのに、懐の広い男だ。
「それは良かったですね。して、腕時計とは?」
「さあ?」
 二人の視線が集まってきたので、スウは左腕を差し出した。袖をめくると、簡素な黒いベルトの腕時計が現れる。安物とはいえ、自分の世界から持ってきた大事な物だ。他には衣服ぐらいしか残っていない。ハンカチは森で燃えてしまった。
「小さいね」
「薄いですね」
 二人は興味深げに覗き込み、横から眺めたり時計の表面に触れたりした。この世界には懐中時計よりも小さな時計はないらしい。レゼも懐中時計を持っていたことを思えば、それが最先端の技術なのだろう。
 フェイが文字盤の表面を慎重につつく。別に爆発はしないだろうに。
「これは魔力で動いているわけではないんですよね?」
 こっくりと頷く。
 ――乾電池っていうんだけど……ようは電気で。
「でんち? でんき?」
 デュノが素っ頓狂な声をあげた。微妙にイントネーションがずれている。
 ――ええと、電気っていうのが私の世界の動力源でね。火力発電とか、水力発電っていって、火や水の力を利用してエネルギーを作り出すの。他にも風力とか原子力とか色々あって。あ、原子力っていうのはね、えーっと……。
 説明しているのに、そこから更に説明することが増えていく。一つを説明するうちに彼らの知らない言葉がどんどん出てきて、スウは軽いパニックに陥った。
 ――爆弾とかに使われて、あ、爆弾っていうのはね?
 そんな彼女をデュノはぽかんと見ていたが、おもむろにフェイに向かい、
「火とか水とか風から力を作ってるんだって」
と、一言でまとめた。
「魔力のようなものですね」
 更に力技でまとめられる。
 ――あの……だけどね? 電気は科学的に説明できるんだよ……?
 スウはそこはかとないむなしさを感じつつ、なけなしの抗議を試みた。しかしよく考えれば、この世界にも魔法の専門家がいて、日夜研究をしているのだから、あまり大差がないような気もする。
「でも」
 デュノがふと、沈み込むように声を下げる。
「火や水なら、誰も苦しまなくていいよね」
 自分自身に伝えるような、いや、誰の言葉も取り入れない呟き。
 スウは少年の何かを修正したくて、あえて言葉を挟んだ。
 ――うん。人間は、ね。その代わり環境破壊がひどいんだけど。
 その言葉にびくりと怯えて視線を返すデュノ。
「壊れるの?」
 灰の睫毛が下を向く。不安げに落ち込んだ様子から、なにか間違って伝わったらしい。
 ――あ、そうじゃなくて、えっと……。
 この世界には存在しないだろう環境破壊という概念を伝えるために、スウは言葉を濁して思案した。これ以上誤解されないよう、できるだけ平易な言葉を探す。
 そんな彼女を意識の外へ追いやってしまったかのように、少年はどこか遠くを見遣った。
 ぽつりと零れる小さな疑問詞。
「大地も苦しむのかな……」



 眠ってくれれば良いのに。
 浩々と照らす満月の下、デュノは思う。
 自分のことなど忘れ、隣で幸せそうに寝息を立てていてくれるだけで、いい。彼女の存在が、手の温もりが、この苦しみを消してくれるから。
 けれどそう伝えると、スウは決まって首を振る。口元に滲む苦い笑み。
 ――いいの。夢を見てしまうから。
 事実、彼女は瞳を閉じかけてもすぐに目を覚ました。大きな音に驚かされたようにすくみあがり、恐ろしいものを探すように闇へ目を向ける。さっと身を寄せ、きつくきつく手を握り締めてくる。
 すがっているのは、自分だけではない。
 そう思うと、安心と共にひどく満たされた心地がする。
 頬に触れる手の感触。心配そうに見詰める黒い瞳。そこから時折零れ落ちる涙。
 綺麗だなぁと思う。本当は、そんなことを思う余裕なんてないはずなのに。
 スウの口元が小さく動く。
 デュノ。自分の名前。目で見て取れる、数少ない言葉の一つ。
 手を離しているのに頭の中で声が思い起こされる。森の中で花に囲まれて聞いた、優しい音律。
 聞きたい。君の声が、今、すぐに。
 重たい腕を伸ばして、唇にそっと指先を乗せる。
「名前を」
 かすれた声。届いてくれただろうか。
 スウは彼を不思議そうに見詰めると、そっと唇を動かした。
 ――……デュノ。
 頭の中が甘く痺れる。彼女だけが、全ての負荷を忘れさせてくれる。

 そうして硬く繋がれた手が、離れることはなかった。
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