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九章   銀時計


 弱々しい光に照らされて、室内は青く暗い。
 スウが絹の手触りを持つ布を少年の額へ押し当てると、薄く汗ばんだ肌から細かな光がふわりと舞い上がった。花粉のように細かなそれは、今にも尽きてしまいそうな微光を纏って彼女の鼻先を掠めると、急流に飲まれる木の葉のように一つの鏡へ吸い寄せられていった。ガラス球が跳ねるような軽やかさで表面にぶつかり、反射を繰り返して鏡を渡っていく。
 静まり返った室内には、少年の荒い呼吸が繰り返されるだけ。時々途絶えて咳き込むたびに、彼女は優しく背中を撫でた。
 少年にこれほどの害を及ぼす月光だが、スウには温かみすら感じられない代物だ。彼女の全身を覆い、声を封じる結界が、皮肉なことに彼女を守っていた。
 スウは黙って自分の左手を見下ろす。
 少年は決して手を離さない。混濁していても意識を手放すことのできない彼は、彼女が身じろぎするのを敏感に感じ取とると、必死にすがりついてくる。力の篭らない震えた指先。
 彼女はそれに応えるように強く手を握り締め、ささやきかける。
 ――デュノ。
 と。名前を呼ぶと安心するのか、少しだけ落ち着くようだ。細い吐息が落ちる。
 少しでも彼の苦しみを紛らわさんがため。
 彼女は毎晩、名を呼び続ける。
 ガラス越しに見る月はわずかに歪んでいて、残酷な女の笑みを思わせた。



 神殿の渡し廊下からも花畑を望むことができた。
 白が多かった花々は時とともに移りゆき、色合いを変えて瞳を楽しませる。暖かな陽光に似合う明るい橙色の花が咲き誇る様は、心まで軽やかに染め変えてくれた。
 スウは一人廊下に立ちつくし、眩しく太陽の光を跳ね返す花々を見遣った。
 今日は何かの祭典があるらしく、デュノは司祭として儀式に出席していた。夜が明けるやいなや、月下の間へ飛び込んできた神官達に華々しく飾り立てられ、足早に連れられていったからだ。寝不足でうんざりした少年の顔が今も目に浮かぶ。
 ぼんやりしていたのか、だしぬけに欠伸が漏れた。
 あの事件のあとから夜を月下の間で共に過ごすようになったスウも、今日は睡眠が足りていない。いつもは少年と一緒に昼まで寝ているのだが、少年が居なくなった月下の間に息が詰まって、早々に着替えてしまったのだ。
 不意に近づいてきた足音に首を巡らせた。少し遅めの、規則正しい音律。
 スウが軽く笑いかけると、彼もいつも通りの柔和な笑みを返した。言葉の通じない相手に対して微笑みが最も簡単に好意を示す道具だということを、彼女はよく知っている。
 青年はあいかわらず背が高い。近くで見上げたら首が攣ってしまいそうだ。相手もそれを熟知しているのか、少し広めに距離をとって人好きのする微笑みを浮かべた。
「こんにちは、スウ嬢。今日はデュノは……ああ、今日は先の祝いの日でしたか」
 一人、納得顔で頷くフェイに、スウは首をかしげて疑問を表す。デュノの居ない今、意志の疎通はジェスチャーを頼りにするほかない。
 少し大げさな表現がうまくいったようで、青年は彼女へ視線を合わせて説明を付け加えた。ゆっくりと聞き取りやすい話し方をする人だ。
「『先の祝い』とは、今度行われるお祭りの前祝いのことですよ。神殿でひっそりと行われるものです」
 お祭りとは何かを聞くのは難しそうだったので、スウは頷いて納得を示した。当日になれば分かるのだ、時には妥協も必要である。
 その時、さわりと耳の裏側を撫で上げるように、密やかな話し声を感じた。言葉を聞きとがめたわけではなく、その手の話をしている者特有の閉鎖的な気配が手に取るように分かった。
 何気ない仕草で視線をずらすと、二人の神官がこちらを見ながら話をしている。即座に気づかれたのか、いっそうひそめられる声色と意味深な目配せ。
 ……居心地が悪い。
 部屋へ戻ろうとした矢先、フェイがスウの手首をつかんだ。骨ばった感触に怯んで動きが止まる。何事かと青年の顔を見上げれば、彼はのほほんと前庭を見渡して目を細めている。眩しそうに空を見上げた。
「いい天気ですね。どうです? 一度城下へ出られてみては。デュノも連れてとなると大変なのですが、あなた一人なら今からでも行けますよ」
 明らかに疑問形だったにもかかわらず、フェイはスウの返事も待たずに背中へ手を添えると、押し出すように渡し廊下を外れた。彼女の軽い抵抗を受け流し、むしろ優雅にエスコートしていく。
 その一連の動きがあまりに滑らかで、スウはかえって作り物めいた違和感を覚えた。
 これはもしかして……気を使わせてしまったのだろうか。
 正直困り半分のスウだったが、開け放たれた門の向こうから見たこともない街並みが覗いたとき、思わず自分から駆け出していた。
 門から真っ直ぐに渡された橋の向こうに、緩い坂道に沿って木造の家と、その隙間を埋めるように植物が茂っていたからだ。丁寧に舗装された道も一歩外れると巨大な花をつけた植物に覆われている。なかには鈴なりの果実をつけた低木すらあって、街というよりもどこかの庭園に家が乱立しているように見えた。
「さあ、早いところ行きましょうか。アーゼンの天気は変わりやすいですからね」
 ひょいと白い布を被せられて、一瞬視界が真っ白になった。
 ぴかぴかとした光沢が美しいこの布は光紗と呼ばれる。透紗のように透けないので、この国の民族衣装では一番上に着るらしい。
 これを彼女に被せるということは、さすがに白髪の人物が街をうろついていては問題があるということか。
 スウは重々納得し、髪を隠すよう深めに布を被ると、心持ち警戒して周りを見回した。とりあえず門番に不穏な動きはないようだ。けれど油断はできない。すばやく左右を確認する。よし。特別異常は見られない。
 と、自分がフェイに見下ろされていることに気づく。彼はスウの動きが何を意味しているのか分かっていなかったらしく、ぽかんと三秒ほど見つめ続けていたが、唐突に破顔した。そんなに挙動不審だったのか。
「緊張しなくても大丈夫ですよ。どうも、この国の人はあまり周りを気にしていないようなんですよねぇ……」
 ショックを受けるスウをよそに、彼は小さく溜息をついた。



 緩やかな坂を蛇行する大通り。整備された道は両端に店が立ち並び、広い道幅の半分が露店で埋められている。
 活気ある掛け声に笑い声、子供の甲高い騒ぎ声。
 売り子と掛け合い漫才を交わしつつ、確実に値切っていく女性もいれば、人波をかき分けて走り抜けていく男性もいる。手には小さな花束。子供が叫びまわっている隣で堂々と居眠りをするおじさんまでいた。なんだか統一感がない。
 スウの知る街とは、几帳面に区画された道路を同じようなスーツを着たおじさんや同じような髪形をした若者が、一糸乱れぬ足並みで流れていくものだった。時々不思議な格好をした人が個性だ自分だと言っていたけれど、不可解なことに、彼らは一度その流れに入ってしまえば、周りと同じ顔をして、同じ速さで歩いていくのだ。
 それと比べると、ここは街というよりもどこかの商店街のようだった。一国の首都にあたる場所にしては、人の数がそれほど多くない。
 下町じみた活気は不慣れで、たいして人も多くないのに流れにうまく乗ることができなかった。酸欠で酔ってしまうほどの満員電車をすり抜けてきたスウには、ちょっと意外な発見だ。
 突然、軽い衝撃を感じて息を止める。頬に触れる布地の感触。
 知らず知らずおのぼりさんになっていたらしい。前を歩く男性の背中に正面からぶつかった。
 ――す、すみません!
 反射的に謝って、相手には聞こえないことにうろたえる。ちょっとしたコミュニケーションがとれないことで、ひどく不快な印象を与えてしまったかもしれない。
 困ったときのなんとやら。とっさにフェイを振り返り、助けを願う。しかし、今度は別の意味でうろたえることになった。
 ――……フェイさん?
 立ち止まって辺りを見回す。すぐ後ろに立っていたはずの青年が、忽然と姿を消していた。
 落ち着け。あれだけの長身なら、この人ごみの中でも一目で見分けられるはずだ。
 爪先立ちになって遠くを眺めた。いない。
 意識して深く呼吸をし、もう一度前を振り向く。ここは相手に軽く頭を下げて、フェイを探しに行くしかない。
 しかし、ぶつかった相手はもういなかった。
彼は鼻歌を歌いながら、何事もなかったかのように数メートル先を歩いている。
 ――ええと。
 スウには少しだけフェイの溜息の理由が分かった。自分だけが空回りしているような気持ちになるのだ。
 困惑と少しの寂しさを感じてスウが溜息をついたとき、弱い癖のある薄茶色の髪が人々の頭の上から飛び出しているのを見つけた。ちょうどこちらへ向かっていたので、手を上げて居場所を知らせる。
 フェイはこちらに始めから気付いていたようだ。何を思ってか、常に微笑んでいるような目元をいっそう緩めて、手に持っていた果物を一つ差し出してくる。
「お待たせしました、これをどうぞ。クェラという果物でして、見た目は悪いですが味は保障しますよ」
 彼の言う通り、実には奇妙なイボがたくさんついていて、鮮やかな紫色をしていた。見るからに胡散臭い。
 笑顔に促されて恐る恐る齧りつくと、強い酸味の次にじわじわと甘みが押し寄せてきた。水気があって、後味がさっぱりとしている。これならいくらでも食べれてしまいそうだ。
「実は露天のおばさま方にうっかり捕まってしまったんです。いやあ、皆さん商売がお上手で。あ、これもどうぞ」
 彼は困ったように笑って、別の果物を渡してくる。スウもつられて微笑んだ。
 それにしても、買わされすぎだ。
 フェイはクェラの他に、スウが不入の森で食料源にしていた果物数種と、半紙に包まれて湯気を出す饅頭のようなもの、スティック状の揚げ菓子、スポンジケーキのような焼き菓子、よく分からない壷と杖を買わされていた。絶対、いいカモにされている。
 彼は別段気を悪くしていないようだが、財布の紐は大丈夫なんだろうか。
「こちらはワーンズというアーゼンの代表的焼き菓子です。こちらの糖蜜をかけてどうぞ。それから喉は渇いていませんか? あちらに有名な果汁の店がありまして」
 ぽんぽんと甘味類を手渡してくるフェイ。スウの両手がいっぱいになったところで、はたと我に返ったらしい。慌てて自分が渡した品々を持ち直した。
「すみません、私が持ちましょう。どうも女性と一緒にいると、物を買い過ぎてしまうようです。妹達の買い物に付き合わされていた名残でしょうか……」
 嘆息じみて肩を落とし、苦笑する。それから彼は懐かしげに目を細めてスウを見遣った。
「丁度、あなたぐらいの年頃の妹もいましてね。どうも思い出してしまいます」
 デュノによれば、彼は祖国で革命が起こった際に亡命してきたらしい。その時家族とは散り散りになり、今も行方が知れないという。
 彼もまた家族と離れ、一人異国の地で生きているのだ。笑顔の端々で時折放たれる溜息には、スウでは考えもつかないような思いが込められているのかもしれない。
 ふと、彼が何かを探すように視線をさまよわせた。すぐに一点へ留めると、スウを導いて人気のない裏路地へ入る。深く入り込んだわけではなく、数歩で歩みを止めた。そこはいまだ喧騒が届いたが、誰の視線にも触れないぎりぎりの場所だ。
 ――
 不審に感じて、前を遮るように立つフェイの影から先の様子を窺う。彼を信用してはいるが、どういうことなのだろうか。
 目を凝らして薄暗い路地の先を見詰めると、もぞりと影が動いた。とっさにフェイの背中に掴まる。
 人だ。ひどく面倒くさげな足取りでこちらへ近づいてきているが、不思議なことに足音がしない。
「で、そのコが例の?」
 影が気だるげに声を投げかけてくる。おそらくスウの目の前に立つ男性に。
「ええ」
 フェイが短く答える。特別警戒した様子はない。だが、だからといってスウが安全という保証はない。
「ありえねー。旦那、本気?」
「私は確信しています」
 フェイはそっとスウの背に触れると、優しく前へ押し出した。それに合わせて相手がいっそう近づき、スウはじりじりと後ろへ下がる。
 近くで見ると、影は若い男性だった。おそらくアーゼン人だろう。無造作にターバンのようなものを頭に巻きつけ、その間から緑色の毛らしきものが覗いている。髪と同じく緑の無精ヒゲで年齢不詳だが、フェイよりも若い。何気なく立ち居を崩しているだけなのに、どこか野生動物を思わせた。満腹の豹、そんな印象。
 彼はターバンの間から髪を掻き、もう片方の手を腰にあてる。身をかがめて上から下までスウを眺めやり、一言。
「お名前は?」
 投げやりな質問。だが、とても愚かな質問。
 スウは困ってフェイを振り返り、彼の微笑みに促される。答えないわけにはいかないらしい。
 ――……スウです。
「もう一回」
 問いかけに迷いがない。
 ――スウです。
 答え終わるやいなや、緑髪の男が眉間にしわを寄せた。
「フェイ。彼女の名前は?」
「スウと」
 フェイが目を伏せて短く答えると、赤毛は口元をゆがめて笑みをかたどる。
「スーデス。スーがスウだとして、デスは……動詞か助詞か接尾語か。語順と発音はアーゼン語に近いが、明らかに違うな。もう少し手がかりがあるといいんだけどな」
 読唇術か。それなら音は拾えるかもしれない。でも、この世界に日本語はない。
「分かりませんか」
 緑毛がスウを睥睨した。その瞳には、先ほどには見られなかった光が宿っている。納得と関心。
「ああ、言語形態からして違う。諦めな」
 彼は完全な断定を下し、軽やかに身を翻すと、気だるげに手を振って歩み去っていった。やはり足音がせず、すぐに闇へと紛れてしまう。彼がいなくなってから、スウはあの男には気配というものがなかったのだと確信した。
 彼女は言葉を求めてフェイを見る。自分に聞きたいことがあるのなら、デュノを介して聞けばいい。それができない質問とは何か。
 ――宿詞のことなら、私は知りませんよ。
 けれど青年がそれに答えることはなく、ただ深く溜息をつくだけだった。
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