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序章   空のある鳥篭


 仄暗い森を、人影がよぎった。
 ひどく小柄な人物だ。
 純白の衣を重ねた上に淡く透ける白いヴェールを纏っているため、仔細は分からない。
 ただ、彼が歩みを進めるたびに小さな金擦れの音が落ちた。ヴェールの内側が時折瞬く様子から、無数の銀細工を身につけていることが知れる。
 薄闇に浮かび上がる白い姿。足音低く森を渡る様はひどく現実味がなく、彼岸の者のよう。
 奇怪に曲がりくねった木々には例外なく蔦が這っている。濁った草色のそれは、他者を引きずり込まんがごとく、枝を結んで行く手を遮っていた。
 異物の侵入を嫌うのは、この森を覆う結界だけではないらしい。湿った草が裾を濡らし、装束すら重く彼を引き止めた。
 不意に足を止め、大木の裏を覗き込む。
「ホネだ。ここにもある……」
 軽い少年の声。足元に転がる頭蓋に触れる手も、細く幼い。
 大木の根元には白い枯れ枝のようなものが落ちている。ほとんどが苔に侵食されていたが、その配置が示す形は人型。
 白骨。
 それは人が朽ちた後に残るもの。
 少年はそれの意味するところを知らないのか、気軽に一際大きなそれを手に取り、興味深く光へかざす。
 黄ばみ、苔むした頭蓋。他と違うのは、側面に指先ほどの穴が空いていることだけ。
「この穴、なんだろう?」
 小首を傾げて見つめていると、遠くでザッと草を薙ぐ音がした。
 おかしい。ここには動くものは何も……そう、風もないはず。
 いぶかしみながら頭蓋を捨てて、少年は森の奥へ歩き出した。再び静まり返った森に、彼の足音と装飾具の奏でる細かな金音が通っていく。

 森は、奥へ行くほど明るくなる。
 空を埋め尽くしていた枝葉は重なることを止め、蔦はほぐれて姿を消す。木々は背を伸ばし整列をはじめ、下草は鮮やかな色彩を宿しだす。
 森の深奥、そこは青い花が咲き乱れる花畑。
 中央の泉から始まる青は、幾千の花々を介して空へと広がる。晴れ渡った空はどこまでも均一に蒼い。
 その青に身をうずめるのは三つの白。
 真昼の月と少年自身。そして花畑に立つ、見慣れない少女。
 あるはずのない姿に、少年が目を見開く。
 真っ先に目を引いたのは、少女の長い髪の毛。腰まで届く真っ直ぐな髪は完璧な白だ。一切の色を寄せ付けないその色が、青い景色の中で彼女をくっきりと浮かび上がらせている。
 異国風の衣服を纏い、静かに佇んでいる。
 細身の体に合わせた裁断がなされた衣装は北方の異民族のものに酷似していたが、薄いひらひらとした素材は見たこともなかった。
 その特殊な衣服からのぞく膝下が素足であることに気付いて、少年は視線の先を変えた。
 意図せず、目が合った。
 驚きに見開かれた瞳は茶を含んだ黒。柔らかな印象を与えるその目元が赤く腫れている。
 ……泣いていたのだろうか。
 声をかけるべきかためらっていると、少女が花畑の中をこちらへ向かって歩いてきた。
 数歩先まで着た所で立ち止まり、少年を不思議なものでも見るかのようにじっと見つめている。きっと彼も同じ目で彼女を見ているのだろう。
 不意に彼女の手が伸び、彼の髪に触れようとした。
 少女の指先がヴェールに触れた瞬間、少年の体がびくりと身を引いた。なぜかは分からない。ただ体が動いた。触れられたことで、彼女が幻影ではないと理解したのかもしれない。
 反射的に引いた手をそのままに、少女は戸惑いの表情を浮かべている。
 その眼が何かに気付いて瞬く。そしてゆっくりと、ぎこちなくほころぶ表情。おもねるような笑みだ。取って付けたようなものだけど、伝わってくるのはどこか必死な好意。
「君は……誰?」
 恐る恐る少年が声をかけると、少女はまた驚いた顔をした。まるで、彼が言葉を話せることが意外だと言わんばかりに。
 それからもう一度微笑んだ。
 今度は緊張が解けたときに浮かぶ、自然な微笑みだった。
――スウ」
 耳を打った音が彼女の名だと知るより早く、体中が呼応する。
 まるで熱湯を頭の中に注がれたようだ。血が滅茶苦茶に体の中を駆け巡っている。胃が引き攣り、息が出来ない。眩暈がする。耳鳴りが。
 何が、起こった? 何をされた?
 答えを求める間もなく、体の平衡が崩れる。


 少年の視界は闇に染まった。
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