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『――に』

『――……たに』





『――世界を真の姿に』





「ッ!!」
 暗闇の中で飛び起きた。
 荒い呼吸を整えようとして胸元を握り締める。額を汗が伝った。
 速い脈が心身の異常を伝えるが、いつものように苦しみはない。
 いつものように?
「……違う、儀式じゃない」
 冷静さを取り戻すのと同時、今見た夢のせいだと理解する。
 目覚めと共に霧散した記憶には、曖昧な印象だけが残っている。かすかな手がかりを手繰り寄せてみれば、よみがえるのは意味の分からない大きな音と、恐怖。
 無意識に首をぬぐった。汗ばんだ肌が気持ち悪い。
 こんな風に目覚めるなんて、まるで彼女みたいだ。
 あの頃の彼女は、毎晩のように何かに怯えて目覚め、すぐになんでもないと言って笑った。
 目覚めた瞬間はこちらが驚くほどはっきりと恐怖を示しているのに、するりと手をとったときには何も残っていない。そうしてまた、煙(けぶ)るような白い睫を閉ざして眠りへ落ちていく……指先を絡めて、名を呼んで。
 ぼんやりと手のひらを見つめていると、窓辺でカタリと物音がした。
 風が、と首をめぐらせた先で、見慣れた灰色の髪が月光に輝いていた。
「何してるの、レゼ」
「ひっかかったんだ! ちょっとこれ、取ってくれ!」
 窓枠を跨いだままであわあわと手招くのは、紛れもなく双子の兄。
 見れば、ささくれだった外枠に裾の先が引っかかって、身動きがとれないでいる。上体をねじって体勢を変えようと試みているが、片手に掴んだ棒のようなものが邪魔で、いっそう自分の首を絞めることになっていた。……本当に絞まっているのは、腰の辺りのようだが。
「早くしてくれ、ギックリ腰になる!」
「ほんとにもう。何してるのさー」
 レゼはいつも颯爽と窓を飛び越えてくるのだが、常にきっちりと着込んだ正装が裏目に出て、たまにこういうことになる。デュノにはそう珍しくない姿だ。
 呆れ返りながら近寄り、手を伸ばす。
 自分の部屋のことなので、暗くても大体のあたりはつく。適当に指で探り、そうっと摘んで取り外した。
 内着として幾重にも重ねられる薄い布。透紗と呼ばれる柔らかい織物は、気をつけないとすぐに破れてしまう。特に上質なものは弱く、デュノも幼い頃から何枚の透紗を破いてきたか知れない。一番上に羽織られる光紗ならば、ある程度引っ張られても平気なのだが。
「助かったぁ。暗くて取るに取れなくてさ、危うく立ち往生ならぬ座り往生しそうだったぜ」
 兄がひょいと窓枠から飛び降りた。暗い紫の装束がひらりと月影の間を舞う。
「こんな夜中に何しに来たの? それも窓から」
 問いながら窓の向うの月を見上げる。
 漆黒の空にはっきりと浮かぶ三日月。鋭利な刃物のような月光が、宵の入りはとうに過ぎたと教えてくれる。この空気は真夜中、それも草木も眠る宵の中闇(なかやみ)だろうか。
 こんな時間に兄が訪れてきたことは一度もない。
 自然といぶかしみを含む視線を、レゼは軽やかに避けて笑う。
「いつもの癖で裏から来たんだけどさ、よく考えたらもう普通に入れば良かったんだな」
「だーかーらー」
 いつも通り無駄口の多い兄へ、デュノが早々と呆れかけたとき。
 ヒュッと顔の横を風が抜けた。
 視線で頬の先を確認する。
 レゼが手にした棒を突き出し、窓から見える不入の森の焼け跡を指していた。
 その持ち方、突き出し方に見覚えがある。
 なぜか一瞬、冷や汗が背を伝った。
「デュノ、ちょっと顔かせよ。お兄様と一緒に真夜中のお散歩でもしようぜ」
 そう言ってにやりと笑う兄の目は、反対にひどく真面目なものだった。



 何度この場所へ足を運び、思いを馳せただろう。
 かつて不入の森と呼ばれた、何もない空間へ。
 目に映るのは焦土と煤けた倒木。そこへ降り注ぐ蒼い月の光だけ。
 ほら、何もない。彼女がいない。
 てらりと濡れたように艶めく木炭が、かつての姿は二度とないのだと教えてくれる。もう、変わってしまったのだと。
 蒼い闇にぼんやりと浮かび上がる兄の装束。暗い配色が月影に染まり、元の色が思い出せない。
 少年はつかず離れずあとを追う。焦らずとも、もはやこの地で迷うことはない。遥かな城壁まで見通せる空を仰ぎ、また一歩、不確かな足取りで進む。
 中央のひらけた場所へ着くと、レゼはくるりとこちらを振り向いた。煌々と月明かりに照らされて、顔の半面が浮かび上がる。
 微笑む目元は真面目で皮肉げで楽しむようで、優しげなのに深い悲しみを帯びているようだった。顔の半分が隠れているせいで、答えを絞り込めない。
「さっき、何しに来たかって聞いたよな。のんきなお前に教えてやるよ。――フェイはもう出たぞ」
「!」
 放り投げるように告げられた言葉に、息が詰まった。
 手のひらをぎゅっと握る。
 まただ。
 また置いていかれた。
「……出発は朝だって言ったのに」
 少年の胸へ苦い思いが広がる。
 さらりと水を飲み干すように嘘をつかれた。迷いの欠片も見せないで、残酷に受け流す大人の手管。公的な場でフェイが時折見せる顔だった。
「残念だったな。俺も振られたよ」
「レゼも?」
 兄が肩をすくめて足元の石を蹴った。
「はじめは引き止めた。どうしても行くって言うから、なら一緒にお前を連れてってくれって頼んだんだ。あの野郎、『私事ですので、丁重にお断りします』だってさ。いつになく素気(すげ)なかったぞ」
「何でそんなことを……」
 問いながら半分は予測がついていた。
 これから巻き起こるであろう神殿内の権力争い。その渦中に原因たる自分がいないほうが良いと、レゼは考えたのだろう。その方が無駄な混乱も起こらず、冷静に話し合える。
 既にそういった動きは神殿の中にもあり、デュノに遅い避暑を勧める者も少なくない。そうして自分の勢力地へ少年を移し、じわじわと取り込もうとする。
 けれど、この王都を根城とするレゼが、あえてデュノを放とうとするのはなぜだろう。少年を配下に置くならば、手元に置いていたほうが都合が良いはずなのに。
 分からない。兄の手の内はいつも全く分からない。
 怪訝を通り越して途方にくれる少年へ、レゼは普段と同じからかい方で笑う。
「丁度いいと思ったんだがなぁ。フェイならまず安心だし。コシト温泉にでも連れてってくれれば、いい気晴らしになっただろうに」
 さも残念そうに言い、にやりと笑みの種類を変える。月光が瞳に映りこんでいたずらげに輝いた。自分と同じ色味のはずなのに、兄の瞳はいつも彩り豊かだ。
「コシトの湯は万病に効くらしいからな。今度行ってこいよ。その恋わずらい、少しは軽くなるかもしれないぞ」
「ふざけないでよ」
 いつもの調子でからかわれて、つい棘のある声になった。
 恋わずらいなどではない。彼女とは、決してそんな関係ではなかったのだから。
 何度そう主張しても、兄を初めとした周りの人々は一向に聞き入れてくれる様子がない。訳知り顔な笑みに、こちらの気が滅入るだけだ。
 不機嫌になった弟を無視して、レゼが白々しく溜め息をついた。
「あーあ、残念だったなぁ。…………今なら見送りぐらいなら間に合うかもしれないが」
 平然とうそぶく、自分とよく似た大人の顔。
「レゼっ!」
 とっさに名を呼ぶ。続ける言葉は目を合わせたと同時、夜風に溶けて消えてしまった。
 湿った風の中、視線だけで問いかける。
 それでこんな時間に会いに来たの?
 誰にも知られないように、たった一人で。
 言葉で表さずとも、兄は全てを理解して、至極真面目に頷いた。
 そして今度はこちらへ問いかける。
「デュノ……本気か?」
 揺ぎ無いのは兄の瞳。月影に青みを増した紺青の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
 少年は静かに頷き、上げる目線で兄を射た。
 正面から見つめ合う、本当に良く似た……元は同じ顔。
 先に目を逸らしたのはレゼだった。ふっと微笑むように表情を緩め、瞼を伏せて俯く。見下ろす手元には先ほどから大事そうに抱えている、布で包んだ長い棒があった。
 兄もこんな顔をすることに少年は少しだけ動揺した。
 ポツリと零れる穏やかな言葉。
「……俺は反対したんだけどな。お前には扱うだけの力も、覚悟もないんだから」
 だがその内容は真理を捉えて残酷だ。
 いつもと違う兄の様子に、少年はわずかに眉根を寄せて様子を伺う。
「レゼ……?」
「でも、生きて帰ってきてほしい」
 言うなり、兄が棒に巻きつけられた紐を解き、古びた布を取り払った。
 月光にさらされたのは若干無骨な、けれどおそらく名匠の作と思われる美しい剣。長い鞘は皮で覆われており、余計な装飾を捨てた代わりに力強さがある。対照的に剣そのものは繊細で、擦れた銀の鍔と柄が蒼い光を受けてふわりと輝いていた。
「持っていけ」
 慣れた手つきで鞘先を突き出される。
 戸惑いながらも、少年がおずおずと片手を差し出したとき。
 シャッと金擦れの音がして、鞘が落下した。
 一瞬の後、視線だけで鼻先を見下ろす。
 鋭利な切っ先が紙一重を残して、喉元へ突きつけられていた。
 片手で軽く掲げているように見えるのに、刀身を這う月影は動かない。時を止めたようにぴたりと静止している。
 少しでも動揺すれば切っ先が肌をかするだろう。血が流れるか流れないかは、全てこちらの身の振りにかかっている。
「怖いか?」
「分からない」
 研ぎ澄まされた刃だけを見れば背筋が冷える。だが、決定的なところでデュノは平静さを失わなかった。
 これは脅しだ。レゼが自分を傷つけるはずがない。
 計算でも直感でもなく、当たり前にそう思う。少年からすれば思い込みでもなんでもない、普遍的な事実だ。
 その考えを肯定するように、兄はくるりと剣を反転して指先で刃を掴んだ。
「お前は変わらないな」
 ゆっくりと差し出される青銀の柄。
 強く握り締めた。
「いいか、決して振るうな。一瞬でも扱えると思うな。これはお前には不相応な力だ」
 兄は険しい表情のまま、一言一言を殴りつけるように言い切った。
 自尊心を叩き折る言葉が、少年の胸へ突き刺さる。
 言われざるとも自分の非力は自覚している。十にも満たぬ頃に神殿へ身を移して以来、剣に触れたのは数えるほど。それも祭典で聖剣を奉じる程度だ。
 昔は兄と一緒に、母から剣の指南を受けていたというのに。
 知らず唇を噛み締める。
 残酷な言葉を黙して受け入れる少年を静かに見下ろし、兄は口元に苦笑いを浮かべた。
「――とのお達しだ。母さんからな」
「母さんが?」
 思わぬ存在に目を開く。
 言われてみれば、あの母の言いそうな口上だ。
 自分の旅立ちを母が認めた――それは少年にとって、思いもよらぬ喜びだった。
 けれど帯剣を許可しながら、決して振るうなとはどういうことだろう。自分の技量がないことは認めるが、ならば始めから渡さなければ良いものを。
 身を屈めて鞘を拾っていた兄が、こちらを見もせず思考を読む。
「使うなと言いつつなぜ渡したか、か? 家族だからだよ」
 硬い声に笑みはない。淡々と事実を突きつける口調で続ける。
「お前がその剣で傷つけるかもしれない命より、お前のほうが大切だから渡したんだ。でも本音を言えば、お前にそれを振るわせたくはない。……家族だからな」
 すっと顔を上げ、レゼが笑いかける。月光を返す瞳には自信が満ちていた。
「行くんだろ? いざとなったら、一人でも」
「……うん」
 渡された鞘に剣を収める。
 隠す必要はなかった。
 兄が誰よりも自分を知っていることを、自分もまたよく知っているのだから。
 レゼは満足げに笑みを歪ませて、呆れた声を出す。
「ほんと、お前は『したい!』ってなったら絶対だもんな。バカの一つ覚えで頭の中がそればっかりになる」
「レゼには言われたくない」
「平行作業ができる分、お前よりは高尚だと思ってるよ」
 肩をすくめて開き直られたが、事実だから仕方ない。デュノはむくれて口を閉じた。
 その仕草がどの琴線に触れたのか、レゼが柔らかく目を細める。いつものように頭へ手を置こうとして、寸前で静止した。
 大きな手のひらで隠れて兄の顔が見えない。
「お前がここを離れれば、もう守ってやれない。だから俺も母さんも、腹を決めたんだ」
 低い声色が更に落ちる。
「俺たちの覚悟に応えろ」
「覚悟……」
「約束しろ。その剣を決して振るわないと誓え。いいか、絶対だぞ」
「う、ん」
 強く念を押されるままに頷いた。
 そうしてじわりと自覚する、己の無力。そんなに念を入れずとも、望んだところで自分には扱えない。身を守ることすらできぬ、と。
 兄の手がするりと落ちて、頭ではなく、肩に触れた。
「適当に時間を潰して、帰ってこい。それまでにこっちも……色々と片付けておくさ」
 見上げた先の表情は憂いをこめて寂しげだった。
 同時、肩を持つ手に力がこもり、ぐるりと強引に後ろを向かされる。
「行け」
 突き放すように背を押された。
 少年は暗闇の中を走り出す。
 腕の中の刃を強く握って。



 夜露に濡れて装束が重い。
 無人の焦土に立ちつくし、灰色の髪をした青年は天を仰ぐ。
 夜空にきらめく星々、その中で燦然(さんぜん)と浮かぶ白い月。女神の化身と呼ばれる惑星は、賢者の帰った異世界からも望むことができるという。
 完全な静寂の中で、彼が呟くのは自虐。
「結局、最後に残ったのは俺……か。皮肉なものだな」
 囚われの彼らばかりが飛び立つ中、誰よりも彼らの束縛を忌み嫌った自分が、『城』という最も強大な枷に縛られている。
 今更立場を自覚して、青年は静かに自嘲する。
「……だが、この檻は悪くない」
 低く、誰へともなく呟き返す。しいて言うならば、全てを見下す冷酷な女神へ向けて。
「俺は自分でここを選んだ。この場所が好きだし、心地良い。――そうとも。いくらでも鎮座していてやるよ、ご立派にふんぞり返ってな」
 自分は現状に満足している。心の底からそう思った。
 積年の望みである聖女の失権に、弟の解放。自分を支える有能な部下。かつて望んだものは全て満たされた。加えて生まれ持った地位に付随する富と権力。積み上げてきた名声と人望。望まざるままに手にしたものもあるが、それを恥じる必要はない。
 もちろん期待を負担に感じるときもある。しかしそれこそがやる気を与え、自分を磨き上げていく。
 自分がこの地で得られないものは、ほとんどない。
「…………だからこそ、お前には自由を知ってほしかった」
 わがままばかりを通してきた自分の、最大にして最高のわがまま。母に殴られたのは痛手だが、この胸に宿るのは充実感だ。
 ただ、今は少し寂しい。

 俯いた視線の先で、青年は焦土に倒れる倒木を見つけた。
 かつて弟が腰掛けていたその木から小さな新芽が芽吹いていることに気付いて、彼は小さく微笑んだ。
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