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兵舎の一階、入り口から検問を抜けてすぐの場所にフェイの部屋はある。 デュノは軽く扉を叩いた後、返事も待たずに戸を開けた。 「フェイ! ねえ僕、聞きたいことがあって……」 そう広くない部屋の中、フェイは大きな背中をこちらに向けてしゃがみ込んでいた。 「デュノ? どうしたんですか、いきなり」 癖のある柔らかい茶色の髪が慌てて振り返り、立ち上がろうとする。と同時に、後ろ手で鞄を隅へ押しやった。古い皮製の大きなそれは、フェイが異国へ行くときに持っていくものだ。 床に広げられた衣類、生活小物、携帯食糧、水筒、そして長剣。なにげなく椅子に掛けられた異国風の長い外套も、旅に出る時にしか着ないはず。 デュノはいつもの癖で少しだけ首を傾げて相手を見上げた。 「? 何してるの?」 「いえ、これは、ちょっと……」 答える声が微妙に上擦っている。視線もどこか隅のほうへ向いているし、何より態度がそわそわと落ち着かない。いつも柔和な姿勢を崩さないフェイにしては珍しい。 「なに? またどこかに飛ばされるの?」 フェイが異民族の身分を利用して、布教の名目で旅に出ることはよくあった。けれどそれは城とつながりのある彼がデュノに近づきすぎないようにするために、聖女が半ば強制的に命じたせいだ。彼女がいなくなった今、彼にそのような指令を出す者はいないはず。 純粋に首を傾げるデュノへ、フェイがバツの悪そうな顔で口を開いた。 「実は、そろそろ旅鴉に戻ろうかと思っているのです」 突然告げられた言葉の意味が掴めず、デュノはきょとんと目をしばたたかせた。 「帰って……こないの?」 フェイはもともと亡命で偶然この国へ訪れたところを、女王である母に剣の腕を見出された旅人。帰る場所もなければ行く宛てもない、自由気ままな風来坊だ。 彼をこの国に縫い付けているのは、デュノの目付け役を任されたという責任感だけ。それすら目に見える束縛ではない。その気になれば代わりはいくらでもいるのだから。 不安がそのまま現れた視線に、フェイは黙って懐の深い微笑みを返す。 「もともと長居するつもりはありませんでした。予想外のことが重なって、思いがけなく長い間お世話になってしまいましたが」 「どうして? なんで出ていくの?」 「なぜと言われましても……」 慌てて投げかけた詰問へ、フェイは困ったように笑って言葉を濁す。その微笑みをデュノはどこかで見た気がした。 「神殿が嫌になったの? ここにいると都合が悪いの?」 「いえ、そういうわけではなく。そろそろ潮時かな、と」 「どうして? なんで今なの?」 神殿や城を含めたしがらみが面倒になったのなら、今までに旅先で行方を眩ますことだってできたはずだ。そうしないで今、この時にいなくなるなんて。 青年のもとへ駆け寄り、紫色の装束を掴む。きつく握って下へ引く。 「フェイまでいなくなっちゃうの? 嫌だよっ!」 思わず大声を出した姿は、まるで本物の子供のようだった。 近づいた優しい茶色の瞳と目が合う。 その瞳に映る少年の形相は、必死。 「デュノ、落ち着いてください。必要とあらば、私はいつでも会いに来ますから」 「嘘」 即座に断定が飛び出した。反射と言っても良いほど素早い声は、鋭く重い。 フェイは一瞬反応に詰まり、それから真面目な顔で眉間にしわを寄せた。少年の細い両肩へ手を添え、片膝を立てて座りこむ。大人の顔で言い聞かせるとき、彼はいつも目線を合わせてくれる。 「嘘ではありませんよ。私はあなたの友人でしょう?」 「嘘だ。みんな嘘をついて、僕を置いていくんだ!!」 少年に与えられるのは、傷付かないよう、せめて心穏やかであるようにと願って放たれる優しい優しい嘘ばかり。本心を告げてくれないのは、言ったところでどうすることもできないと分っているからだ。 そしてその判断は何よりも正しい。 自分のような者には、駄々をこねて立ち尽くすことしかできないのだから。 言わずとも少年の気持ちを察したのだろう。フェイが目を伏せて小さく首を振った。相手へ示したというより、自分の中の何かを振り払うように。 「そんなつもりはなかったのですが……。そうですね。伝えられないものの代わりに言う言葉は、たとえ本心だとしても偽りなのかもしれません」 滅多に向けられない肯定に、デュノが顔を上げた。 その目を見て、大柄な青年は繊細に告げる。 「これでもまだ、あなたは嘘と言うかもしれませんが。私がこの地を去ろうと決めた理由の一つは、聖女が失権したことにあります。あなたももう理不尽な拘束を受けはしないでしょう。私のような異民の者がいる必要はないのです。……それに、もともとそういう約束でしたから」 「母さんとの?」 促す言葉に、フェイは微笑んで答えなかった。 絶大な権力を握っていた聖女が消えた今、神殿内の勢力関係はデュノを中心に大きく変わろうとしている。古い階級はもはや形式的なもの。魔力の供給という、人々の生活の根幹を担う――そして莫大な利益を生み出すデュノを手元に置いた者が、神殿の頂点に立つのだ。 今日も第二の聖女たらんと欲する有力者がおべっかを使いにやってきた。聖女に権限のほとんどを奪われた老獪な枢機官たちも、最近とみにうっとうしい。聖女がいた頃は自分の話題など触れようともしなかったくせに。 上の者も下の者も、皆がデュノを取り巻く勢力図に神経を張り巡らせている。聖女がいなくなったところで、組織の本質が変わるわけではないのだ。いずれはまた、同じ形へ落ち着くだろう。 そんな中で、フェイは少年とあまりに近すぎた。 「あなたにはレゼがいます。今は不安かもしれませんが、彼を信じていけば大丈夫ですから」 優しく示唆されてデュノが俯く。 神殿の中には、城とは距離を置くべきだという声と、城に従属(つ)くべきだという声がある。その両者が挙げる最大の要素が、レゼだ。 『あれは暴君の再来だ。関われば官僚たちのように、細切れに解体される』 『だからこそ彼(か)の元で恩恵を受けようぞ。対立すれば喜んで潰しにかかるだろう』 神殿に愛着の薄い少年からすれば、兄が神殿をどう扱おうと興味はない。レゼがやると決めたら、絶対にやるのだ。たとえ何十年かかろうとも。 けれどデュノは薄々気付いている。 やがては第二の聖女となる存在が決まり、自分はその傀儡となる。これは決定事項だ。 そしてその候補には、兄その人も含まれている。もしかしたら、フェイすらも。 最も近しい者が支配者になる。その恐怖を昨日までは想像できなかった。 今なら少しだけ分る。はじめから存在が違うのだ。 ……彼女がいたらどうしただろう。 ふと湧きあがった疑問へ、思考が当然のように答えた。絶対にありえない。彼女ならば地位や世間体や財産より、少年の身を案じてくれただろう。そもそも彼女は自分を介さなければ、他者との接触すら取れないほどか弱く、儚く――…… だが、彼女の声は抗いがたく美しい。 彼女が帰った後、母が教えてくれた。彼女の声は一音違わず全てが宿詞。欠陥品の飛翔炎しか持たない自分だからこそ言いなりにならなかっただけで、いや、だからこそ自分は。 自我を失うほどの宿詞を浴び、半ば中毒に陥っていたのだと。 ゆえに彼女は自ら手を引いた。 少年を自分の傀儡としないがために。 そして、今度はフェイも。 「みんな、僕がこんなだからいなくなるんだね」 自らの力で立つこともできないほど弱いから、皆が自分の元から去っていく。 悲しみよりも痛みを感じたように、フェイが顔をしかめた。両手で少年の二の腕を掴む。 「デュノ。そんな悲しいことを言わないでください。あなたのためを思った、私たちの気持ちはどうなります」 「………………」 そのことはデュノも重々に分っている。彼らの行為は、半分は少年を思って行われたのだ。たとえもう半分が保身であろうと、その優しさは決して間違ってはいない。 なのに、どうしてこんなに辛いのだろう。 自分のことを思いやってくれた、その事実を抱えて満足する気にはどうしてもなれない。嫌だと心が叫ぶ。嫌だ。嫌だ。絶対に諦めない。諦めたくない! ああ、自分は何をこんなにも認めたくないのだろう? 彼らの優しさに仇なすこの気持ちはなんだ? いくら考えても答えは出ない。苦しみだけが募っていくなかで、少年は何人もの人々に繰りかえし問いかけてきた質問を吐き出す。 「フェイは。……フェイは、スウもフェイと同じ気持ちだったって、思う?」 少年のことを考え、行動してくれる彼ならば。 彼女の思いに気づくかもしれない。 「……!」 一瞬で青年の顔色が変わった。言葉に詰まり、悲しそうな苦しそうな、思いやり深い視線へ変化する。 「そうであれば、良いと思います……」 うそつき。 デュノの中で、今度は憎しみに似た炎が燃え上がる。それはあの別れの瞬間に彼女へ抱いたものと同じ。 「デュノ?」 俯いたまま微動だにしない少年へ、フェイが心配して顔を覗き込んだ。 「……連れてって」 ぽつりと零れた一言。 じわりと自覚される、自分の本心。 虚を突かれて見開かれた茶の瞳を、真両面から見据える。 「僕はスウに逢いたい。連れて行って」 「しかし」 「逢いたい。今すぐ声が聞きたいんだ。一秒だって耐えられない。でもここにはもう何の手がかりもない。探す手立てもない。それに、みんな……――思ってるんでしょう? フェイも」 勝手に引き攣った片頬が笑みの形を作った。 「どうせもう二度と逢えないって」 『さようなら。もう二度と、逢えないね』 はたから見れば、さぞや皮肉な微笑みと映ったことだろう。 けれどそれはすぐに消え、物憂げな無表情へ戻る。 「……いいんだ、そんなことは。いくらでも思ってくれていい。でも、そんな風に思ってる人たちに囲まれて生きるの、耐えられないよ。求め続けることもかなわないの?」 逢いたい逢いたい。声が聞きたい。見つめてほしい。微笑みかけて、この手をとって。 そう望む少年の声を封じるのは、同情という名の周りの視線。彼女が与えた少年の居場所。 嫌だ。 そこへこの身を合わせることは、四肢を断たれるのも同じ。 「気持ちは分ります。ですが、あなたはここを出たら」 「構わない。どうせ長くはない命だもの」 断定は思いのほか強く青年を突き刺したらしい。フェイが眉をひそめて唇を噛んだ。 少年にすれば、今更何を思うことでもない。 現在の治療法では長くはもたない。一度の儀式で体に与える負担が大きすぎることもあるが、それ以前に、あの儀式では根本的な治療にはならないからだ。 体内に蓄積できる魔力の量は加齢と共に減少する。今は月に数回儀式を行えば魔力を抑えられるが、今後、どんどん間隔が短くなるだろう。かつてのように毎晩となるのも、時間の問題だった。 儀式による体力の衰えは凄まじい。成長期の今ですら数年行っただけで目に見えるほどの影響が出ているというのに、これが続いていくとしたならば。 三十代。いや、二十代半ばまで心臓がもてば良いほうだ。 そもそも強い魔力を持つ者は、約半数が自らの魔力によって死ぬ。自身の魔力への耐久力がそのまま寿命となるのだ。王属魔法士でも六十を過ぎれば暇(いとま)の準備を始めるし、月の民においては、今までに五十を数えた者が数名しかいない。 これがこの世界の理。 デュノにとっては、それが他の者よりもあまりに早すぎるだけなのだ。 「そんなことを言うのはやめてください。どれだけの人々があなたのために尽力してきたか、あなたは気付いていますか?」 「そうやって、また僕を封じ込めるの?」 挑むように見上げた先で、厳しい視線と対峙する。普段の柔和な微笑みを失った顔は、それでもフェイらしく痛ましげな苦しみを残している。 そらされた視線によって、沈黙が終わった。 「……今の私には、よく考えてくださいとしか言えません。あなたの苦しみは分ります。しかし自棄になってはならない。必ず、後悔することになるでしょう」 「フェイに」 わずかに首を傾げるしぐさは、かつての無邪気なそれとは違う。しかし悪意も含まず、絶望の残滓を残して暗い影を落とした。 「フェイに、何が分るっていうの……?」 問われた相手が言葉を失うのが見て取れた。ぎゅっと引き締めるように唇を結ぶ、苦々しげな表情。最も突かれたくない場所を突かれた剣士が、敗北の際に見せる顔だった。 自分の失言に気づいて、少年が顔を背ける。 「いつ出発するの」 「明日の朝」 「……分った」 気まずい空気に顔を合わせることもなく、少年は部屋を出た。 ぱたり、と扉は静かに閉まった。開け放たれるときはあれほど騒々しかったにもかかわらず。 長身の青年は溜息と共に茶色の前髪を後ろへすいた。立ち疲れた操り人形のように、全身を椅子へ預ける。何代もの兵たちが使ってきたそれは、木製特有の耳障りな音をあげた。 少年のいなくなった室内は、不思議と一段暗くなったように思える。 残されたフェイは床に散らばる旅行具を見下ろし、追い討ちの溜息をついた。 と、視界の端で動くものを見つけ、手を伸ばす。 投げつけられた自分の鞄を受け止めるのと、苦笑いは同時の作業。 部屋の奥から身軽く現れたのは、少年と同じ灰色の髪をした青年。少年よりもずっと大人びた顔立ちは、よく見れば目を疑うほど似ている。 「ったくあのバカ、俺のほうが先に来てたのに、話題も空気も全部かっさらいやがって」 さも文句らしく不満を呟くレゼ。後ろ頭をかく仕草で口をへの字に曲げている。本人に自覚はないが、双子の弟が自分の気配に気づかなかったのが気に入らないようだ。 レゼはぶちぶちと文句を言いながら室内をうろつき、急な仕草でフェイを振り返った。額に巻かれた薄い朱色の紐の端が、くるりと尾をひく。 「なあ。アイツもああ言ってることだし、考え直してはくれないか?」 少年が訪れるよりも前に、レゼはフェイが出立するらしいことを聞きつけて、自ら部屋を訪ねてきた。ああだこうだと理由を並べ立ててはフェイを引き止め、反論すればそれを元に条件の改善を提示する。適当な答えで煙に巻こうとしても、その程度で引っかかってくれるなら苦労はなく。 「……残念ですが」 相手をしないで突っぱねるのが関の山だ。良心が痛むが。 「お前もたいてい頑固者だよな。アイツといい、俺の周りには言い出したら聞かないヤツが多すぎる」 「あなたもその一人でしょう」 ずいぶんな言い様だと、思わずこぼれた苦笑が伝える。その言い出したら聞かない相手に一番手を焼いているのは、自分だ。 「まあな。――俺とお前、どっちの言い分が通るか賭けようか」 不敵に笑い、レゼが額の紐へ手を添えた。色褪せたそれは、国王が王位継承者の証として彼へ与えたものと聞く。 自信ありげな相手を手で制し、フェイは目を閉じて肩をすくめた。 「やめておきましょう。あなたが負ける戦を仕掛けるとは思えません」 「そうとも限らないさ。お前は手加減が巧すぎる」 机の上の薬瓶を陽に透かしながら、レゼがふっと薄く笑う。昔、剣術の稽古で手を抜いたことを、本当にいつまでもよく覚えている。 慣れた微笑みに疲れを交えて、フェイは視線を落とした。 「……私には分らないのです。何が正しかったのか。そして今、どんな選択が最善を導くのか」 呟きに答える相手は、気のない仕草で窓際に飾られた花をもてあそぶ。 「それは女神のみぞ知るところだろ。――ところで」 くるりと振り返る、紺色の瞳。 「俺もお前の『友人』だよな?」 いたずらげに問いかけるその目へ苦笑で応えながら、フェイは思った。 この年の離れた友人は、頑固というよりは負けず嫌いに相当する、と。 |
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