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「え? 賢者様ですか? ……ええ、そのように記憶していますが」
 突然声をかけられて、若い神官兵が戸惑った顔のまま頷いた。
 暗い紫の装束は一般兵の証。皮製の胸当ての新しさを見るかぎり、地位ある身分ではないだろう。
 あからさまに驚かれたのは仕方のないことかもしれない。と、デュノは日頃の自分を省みて思った。
 身の回りの世話をする者ですら、用がなければ滅多に話しかけていない。彼のような身分の者へ目を向けることなど、いつ以来だったか。
 階級制度の厳しい神殿では、位の高い者が低い者を相手にしない。家畜を区別しないのと同様に、名も呼ばずに用件を告げるのが常だ。かつては城でも同じような空気が漂っていたが、最近は兄のせいでよく分らないことになっている。
 デュノは若さゆえ司祭の身分だが、元は王族。本人にその気がないのもあり、専属の従者ですら顔を覚えていないほどだった。
 不思議そうに見下ろしてくる相手の目を捉え、少年は畳み掛けるように問う。
「じゃあ、彼女は僕を『利用した』?」
「そ、それは……」
 ぱっと青年の表情が曇り、視線を外される。自分の口からは告げられないと、その横顔が語った。
 デュノは奥歯を噛みしめる。若者から顔を背けると、ちょうど目に入った少女と呼べるほどの幼げな神官へ声をかけた。
「ねえ、そこの君。君もそう思ってる?」
「あ……わ、わたくしは……」
 慌てふためいて顔を真っ赤にする少女。先ほどから居合わせていたというのに、まさか自分が話しかけられるとは思っていなかったようだ。
 年だけなら、彼女とデュノとの差は三つほどだろう。だが間に横たわる身分の差はその数十倍にも値する。一部の者からは現人神のように称えられている少年と直接言葉を交わすなど、彼女は夢にも思わなかったに違いない。
 その狼狽を、デュノは無下に扱った。
「聞いてたでしょ? スウのことだよ。正直に言って」
 彼女が去ったとき、女王である母の命令で城と神殿の兵が一堂に居合わせた。直接彼女の言葉を聞いた兵が暗示にかかるのは仕方ないだろう。
 ならば、その場に居合わせなかった者は? 彼女の声はどこまで影響力をもつ?
「いえ、そのっ」
 見習いあがりの神官は言葉を選ぶために口をまごつかせた。
 少年がその様を冷静に見つめる。
 上下の規律が厳しい神殿では、下の者が上位の者へ不都合な本心を語ることはない。いつも丁寧な言葉使いと、薄気味の悪い笑顔で適当なことを言うのだ。そういった上っ面のやりとりが面倒で、デュノは会話のかみ合わない彼らを長く遠ざけてきた。
 けれど、今はそんなことはどうでもいい。
「絶対に怒ったりしないから。ね、教えて?」
 少女は顔を上げない。緊張で震えているのが分かる。
 そこで、デュノはあえて黙る手段をとった。どれだけ優しい言葉をかけても、自分が相手では萎縮していくだけだろう。黙っていれば、相手が勝手に威嚇を感じて口を割る。
 少年の経験則は当たった。
「……わたくしも……賢者様は自分の悲願を果たされたのだと……」
 小さな声。意味だけを残して掠れる語尾と、伺うように向けられた瞳。
 さあっと、デュノの中で何かが冷めた。
「……そう」
 無意識に出た声は、表情と同じく分厚い膜に覆われているようだった。
 礼も言わず、少年は二人に背を向ける。自然と下がる視線が細い肩を一回り小さくした。



 中庭の渡りを一歩一歩引きずるように歩く。
 表ほどではないが、神殿の中庭も常に花が咲いている。種を蒔くだけで放っておいても作物が育つこの国では、人の踏み入らぬ場所に花を植える習慣があった。これらの花は見目よく雑草を抑えてくれる。大切に育てている類の物ではないので、誰でも自由に手折って身を飾ることができた。花の代わりに銀細工を身に付けるよう義務付けられている聖職者以外は。
 この場所は一般の者の出入りを禁じている。ゆえに、中庭の花を手折るものは風以外にほとんどない。揃って咲き誇る花々を見下ろし、デュノは足を止めた。
 無邪気に揺れる赤い花へ手を伸ばす。
 花を手折ったのはあの時が最後になる。兄と彼女の三人で神殿の前庭を散策した時。彼女の白い髪へ、色とりどりの花を夢中になって絡めた。
 一輪挿すごとに鮮やかに色づく彼女。照れながら少し困ったように、けれども嬉しそうに笑う。自分の知らない一面が次々に現れるようで、無益な伐採を禁じられた身でありながら、いくつもいくつも手折った。
 花弁を指先で軽くなで、手放した。摘み取る気は全く起こらなかった。
 夏の気配を漂わせる日差しが、分厚い雲を透かしてまばらに差し込む。雨上がりの空には大きな虹。幾層にも重なりあった色彩の帯が大きく両の腕を伸ばす。湿気の多いこの国では、それほど珍しくもない光景。
  『――綺麗だね、七色』
 彼女がそう言うまでは、視界の端を流れていく事象の一つだった。
 今では見かけるたびに美しいと思う。それだけでなく、彼女の見ていた景色が見たくて、どの色までが一つの色なのかと目を凝らしてしまう。
 不意に懐の重さを確かめた。あの日も虹が出ていたと思いながら。
 手の内に納まる薄い銀時計。手の甲を伝う鎖の感触を確かめながら、慣れた手つきで蓋を開ける。
 何度見ても、あの時から針は動かない。
 ショウビ石に溜められた魔力を使い切ると、中に留まっていた飛翔炎は蛹から羽化する蝶のように、大空へと還っていく。通常はそこへ自身の魔力を注ぎ込んで使い続けるのだが、あいにくデュノには魔力を扱うことができない。だがそれを言い訳にして、どうしても修理する気にならない自分を満足させてきたのも事実だ。
 指先のわずかな動きで蓋を閉じ、丹念に彫りこまれた二羽の鳥を見つめる。共に大空を飛翔するそれは、どこを目指しているのだろう。
 指の腹で表面をそうっと撫で、存在を確かめた。
 同時に、心の中で先のやりとりを思い出す。
 あの若い神官兵も、少女のような神官も、それ以前に問いかけたたくさんの人々も。誰もデュノを傷つけようと思ってああ答えたわけではない。むしろ本当はその逆で。
 彼らの中では、自分は『かわいそう』な存在なのだ。
 狡猾な賢者にそそのかされて、不入の森の結界を解き、彼女を解放した。二重にも三重にも施された封印がなければ、この世界を揺るがすほどの大混乱を招いたかもしれない。
 全ては賢者の意のままに。
 違う。
 そんなのは嘘だ。
 けれど彼女の言葉がなければ、自分がこうして何の責任も追及されずに放置されることはなかった。事が事であるだけに、聖女と同じく厳しい処罰を受けただろう。
 にもかかわらず、誰もが少年へ酌量の余地ありと判断し、あのような下級の者までが同情する。いっそ気味が悪いほど、皆がデュノを優しくいたわった。
 かわいそうな司祭様。哀れな少年。愚かな子供。
 彼女が何の為にあんな言葉を吐いたのか、改めて思い知らされる。
 このままここで静かに暮らすなら、これほどの温床はない。全てを彼女のせいにして、自分だけは心穏やかに暮らすことができるだろう。
 同情という名の居場所を与えて、彼女は帰った。
 せめて立場だけでも、少年を守るために。
 彼女に帰還を決断させたのも自分ならば、最後にあんな悲しいことを言わせたのも自分。
 ようやく自覚した答えと共に湧き上がった憤りに似た感情に、デュノは顔を上げた。銀時計を握り締め、中庭の渡りを走り出す。
 少年がもう一人の理解者と信じる、異国の神官兵のもとへ。
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