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一章   萌我―旅立ち―


 ―― 常世とこよの桑をむ蚕 つむぎ紡ぎて ほだ

          ウロ名聞なきゆる からまよい ――







 月がある。
 うっすらと煙る藍色の空に、星はない。
月だけが、薄布を透かしたように淡く、遠く輝いている。
 その様をぼんやりと見上げながら、少年は焼け跡と化した不入の森で、倒木に腰掛けていた。
 降り注ぐ魔力に身を晒しても、何の苦痛もなく、喜びもない。神殿に褪せゆく壁画のように、全ては鑑賞物だった。虚ろに見上げる瞳には、月影すら差し込まない。
 暗い夜空が、記憶の中の青空と重なる。
 かつて少女と見上げた空は、木の葉の額縁に美しく彩られていた。地には一面の新緑と、濃淡鮮やかな青の花畑。二人の囁きだけが交わされる空気には、清浄な魔力が満ち満ちていて。
 けれど、全ては炎と共に消え去った。今は荒廃した大地に漆黒の炭が残るだけだ。
 まるで自分のようだ、と思った。
 彼女が居た時。
 あの頃は、苦痛の中ですら世界は開かれていた。
 物には名前があり、色を持ち、艶めき、温かく、また柔らかく、そして驚くほど冷たく。
 自分にも心はあるのだと。
 喜びも苦しみも幸福も痛みも、誰かのための夢物語ではなく、この手で触れられる真実なのだと、そう信じられたのに。
 ここには何もない。
 黒い枝を摘む。炭化した木はぼろりと崩れ、違和感だけを残して消えてゆく。
 何も残らない。
 今宵も月下の間へ行く必要はなかった。
 聖女の権限が消えてから、月下の間は閉じられている。魔力の供給も暫定的に中止され、復活の目処は遠い。だからこそ、デュノは長い長い夜の時間を、こうしてやり過ごしている。
 儀式がないからといって、寝台へ入ればすぐに寝付けるというものでもない。長年の習慣が体を狂わせて、夜が深まるごとに目が冴えていくのだ。
 暗闇の静寂を耐えるには、一人は辛い。
 布団の中で動けずにいればいるほど、幸せな過去が頭をよぎり、持ち得ぬ今との差を見せ付ける。足りないのだ。かつては当たり前だった現状が、どうしようもなく満たされない。物が、人がという単純なことではなかった。何に触れても響かない。
 そうして何度も気付かされるのだ。今の自分のある場所と、状態を。
 人々が眠り、鳥が黙り、花すら閉じる中で少年を慰めたものは、皮肉なことに白い月の輝きだった。
 もう、かつてのように恐ろしくはない。ただ月と向かい合うたびに、切ない懐かしさがこみあげた。淡く黄を含んだ光は、見る者が見れば心を穏やかにしてくれるのだろう。それとは反対に、少年の心はざわめいた。死んだように眠る心が、現へ呼び戻される気がした。
 恐れ、嫌悪し続けた月と毎夜向かいあう。まるで語り合うように。心に生まれた波紋の中心を見極めようとして、少年は静かに月下へ佇んだ。
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
いずれ儀式が再開される時が来る。
 少年の身を思えば、週に一度、いや最低でも一ヶ月に一度は儀式を行わなければならない。デュノは日々生産される膨大な魔力を制御するどころか、健康に排出することすらできないのだから。定期的に魔力を抜かなければ、やがては自分の力で身を滅ぼす。
 けれど、それだけが理由ではない。
 デュノから採取された魔力は、国中を網の目のように張られた魔力の脈を通って民へ供給されている。その力を利用して、人々は行けぬ場所へ行き、動かせぬものを動かし、真夜中の明かりをとる。……己の魔力ではまかなわず。
 一度覚えた甘い愉悦を、人々が忘れることはない。
 彼らは現状を一時的なものとして受け入れている。つかの間だから受け入れられる。
 もしもデュノがもう一度あの場所へ立ち返ることを拒んだなら、彼らは理に適った痛烈な批判を吹雪のように叩きつけるだろう。その力が一人の子供を飲み込むことなど容易い。そうして少年は一生この場へ縛り付けられるのだ。
 今ですら、遠くで不具を嘆く声が聞こえる。
 今のまま魔力の供給を停止していれば、その声はいずれ大きな不満となって、この国を圧迫し始めるだろう。いさかいが一揆へ、革命へ。隣国を滅ぼした巨大なうねりがこの国にも押し寄せる。その時、宿詞なしでは、この国は――と、会ったこともない誰かが言っていた。
 ぽつりと頬へ雨粒が落ちた。
 群雲が月へかかり、辺りが一段と暗くなる。
 ぽつり、ぽつり。
 夏の熱気を含んだ夜空が、温い水滴を少年へ落とす。灰色の髪を雨粒が伝い、ゆっくりと落ちた。額を辿り、紺色の眼(まなこ)へ。
 一瞬ぼやけた視界へも、少年は見向きもしなかった。そのままの体勢でぼんやりと空を見上げ続ける。
「またここにいたのか」
 不意にかけられた低めの声は、呆れと溜息と悩ましさ、それら全てを備えて穏やかだった。
 少年は驚くこともなく、ゆっくりと首を巡らせる。
「風邪ひくぞ」
 言葉とは裏腹に、彼とよく似た顔立ちの青年は乱暴に少年の腕を掴んで立ち上がらせた。支えるように掴む大きな手は、少年の二の腕を一回りしてまだ余りがある。
 一瞬、腕を見下ろしたものの、少年は兄へ応えなかった。
 虚ろに、けれど悪意なく逸らされた視線の先は、暗い森の奥。
「スウが……いない」
「ああ」
 痛みを共有するかのように、レゼが顔をしかめた。
「……声が」
 途切れそうになる呼吸と共に吐き出される、力のない声。
「スウの声が、聞きたい」
 籠った声は絹が滑り落ちるように調子を落とす。
 ああそうだ。
 自分はかつて、こんな声をしていた。
 強い力で腕を引かれ、体ごと相手と向かい合う。毛先に溜まった水滴が飛び、兄の豪奢な装束へ滲んだ。見れば、兄もまた同じ灰色の髪を重く滴らせている。
「デュノ」
 渋面で名を呼ばれた。
「彼女は帰ったんだ。もう、会えないんだよ」
 強く、言い切る言葉。
 しかめられた眉間が伝えてくる苦悩と理解が、少年の口を自動的に動かした。
「……わかってる」
 抑揚のない声。消えていく語尾。これが本来の自分の姿。
 城の秘蔵する膨大な書物の中にも、彼の望みを叶える手がかりはない。あれば彼女がいた頃に見つけていたはずだ。
 なぜ彼女が別れを選んだのかを思えば、誰かに協力を求めることなどできず。
宿詞という手段が不可能となった今、デュノにできることは何もない。
 そして、いずれは毎夜の儀式が日々を拘束し、彼の全てとなる。
 分っているのだ。
 このまま朽ちていくしかないと。
 一度は合わせた瞳を逸らし、少年は亡羊と空を見上げた。
「それでも……逢いたいんだ」


 彼女を失って一週間。
 デュノはまだ、夢からさめない。


「ねぇ」
 目を細めて雲間の月をとらえ、呟く。
「スウはどうして最後にあんな嘘を言ったのかな……」
 平坦な語調は答えを求めたのではなく、完全な独り言だった。
 今も胸に残る言葉たち。
彼女が最後に残したものは残酷で冷たく、錻力(ブリキ)の玩具のように空洞だ。
  『私はあなたを利用した』
  『帰るためにあなたに近づいた。あなただけじゃない。ここで出会った全ての人を、私は利用した』
  『私がここに居ても何の意味もないように、あなたも私に意味のない存在』
  『代わりになんてならないよ』
 耳の奥で今も響く美しい声。
 あれほど求めた声で紡がれた、空々しく冷たい美辞麗句。嘘をつくのが苦手な彼女の、精一杯の虚勢。
 ……全てが嘘ではないだろう。
 帰ろうとする彼女にとって、自分の価値など無に等しい。言われるまでもないことだ。
 だが、素直に受け入れる気持ちとは裏腹に、少年の中で一つの疑問が沸き起こる。
 ならばなぜ、彼女は自分を堕としてまであんな嘘を吐いたのか。
 彼女の言う通りなら、デュノのことなど見向きもする必要はない。黙って、笑顔で帰っていけば良かったのだ。そうして自分のことなど忘れて、誰かの隣で幸せに微笑んでいればいい。
 それでも最後の瞬間、彼女は泣いていた。
 この無価値な自分を思って。
 その事実が一筋の光のように、少年の心を支えていた。
「――ウソ?」
 きょとんと投げ返された返事に、デュノは自分から相手へ視線を向けた。
 半音あがった不用意な声。レゼには珍しい。
「そうだよ。本当は僕のために帰ったのに……あんな、自分が悪いみたいに」
 ただ家族に会いたいだけならば、別れはもっと穏やかなもので良かったはずだ。意図せず発せられる宿詞にこれ以上少年を浸さないために、彼女は否応なく帰還を選んだ。
 彼女にあそこまでさせたのは、別れを拒んだ少年自身だった。
「何を言ってるんだ、デュノ」
 怪訝そうな顔で首を少しだけ傾け、兄は当たり前のように続けた。
「彼女は――自分で望んで帰っただろう?」
「……えっ……」
 簡単に、けれどはっきりと告げられた内容にうろたえる。
 あの別れの瞬間、レゼもその場に立ち会った。ならば、二人のやりとりをその目に刻んだはずだ。
 レゼは自分など足元にも及ばぬほど多くの経験と観察眼を持ち、人心を知っている。その兄が出した結論がそんな上辺だけのものだったなんて、デュノにはにわかに信じられなかった。
 嘘を言っているようには見えない。
 なら、あの時のやりとりは、傍目にそう断言できるほど悲しいものだったのか……?
 己の拠り所としてきた場所が揺れる。今まで白だと信じてきた花が赤だと言い換えられたように、ぐらりぐらりと揺れ動く。
「ちが……」
  『――言ったでしょう。逢いたくてしょうがない、大切な人がいるって』
 否定は記憶の中の声に遮られた。
 あの言葉もまた、宿詞。
 自分と異なり、兄は正常な飛翔炎を持って生まれた。魔力の差こそあれ、その能力は常人となんら変わりはない。
 一方のデュノは宿詞すら十分に受け入れられない。初めのうちは拒否反応を示して心身が痙攣を起こしていたが、彼女の声に長く触れるうちに耐性がつき、気付かぬうちにその声へ溺れていた。
 デュノにはただの美しい声でも、レゼには違う。
 その目を眩ませ、頭を鈍らせ、妄信させる絶対の言葉。
 それが宿詞の力。
「どうしたんだ、変な顔して」
「………………」
 不思議そうに自分を伺う兄の目には、迷いの欠片も見当たらない。
 「違う」と叫びたかった。彼女に代わって、彼女がどれだけの思いを込めてあの言葉を放ったのか、この男に説明してやりたかった。
 だが、少年の言葉が宿詞に敵うとは思えない。
「雨脚が強まってきたな。戻るぞ」
「……うん」
 先を行く兄の背を追いながら、デュノは思う。
 たとえ生まれる前から共にあり、誰よりも深く理解し合っていると信じていようとも。
 本質的に違うのだ。
 この、不完全な自分とは。


 宿詞。
 それは彼女が残した呪い。
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