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「いーえ! そんなことは許しませんっ! このカイハを置いて城下へ出るだなんて!」
 天使が描かれたエントランスホールの高い天井に、カイハの金切り声が響いた。
「ダメよ、カイハ」シェラは慌てて金箔のはられた柱の裏へカイハを連れ込み、小さな声でささやいた。「お忍びで行くんだから、人数は少ないほうがいいでしょう? フェイ様の護衛もちゃんとついているらしいし」
「カイハ一人ぐらい増えたって、なんてことないじゃありませんか。お供いたしますっ」カイハはエプロンドレスを熱く握りしめた。「お嬢様はあの王太子にほだされているんです。あれは王家への立派な裏切り行為なんですよ。そんなことを平気で行う人間に、お嬢様を任せられるもんですかっ」
「『あれ』って……」シェラは声をひそめた。「『民主論』を書いたこと?」
「そうです。お嬢様だっていずれは王家の一員になるっていうのに……。本来なら、あの本は焚書にしたって構わないくらいですからね。にもかかわらず、そんな秘密を持ったまま、平然と愛の言葉をささやく男を信頼なんてできますかっ」
「でも……――秘密なら、わたしたちにもあるでしょう?」
「それは……」
 カイハが言いよどんだときだった。
「――そんなに私が信用できませんか、カイハとやら」
 背後から流れた涼やかな声に、カイハがぎくりと身をすくめた。
 シェラとカイハがそろって後ろを振り返る。
 黒い簡素な上下に、同じく黒い外套らしきものを持ったフェイが立っていた。その長い髪は薄赤く染められ、アークノインと同じ赤がね色になっている。シェラがアーゼンにいた頃に使っていた一日毛染めも赤い色合いをつけるものだった。きっと同じ染料を使っているのだろう。
 フェイは節の目立たない大きな手を胸元へあてた。
「神に誓って言いましょう。私の全身全霊をかけて、シェラ殿を危険な目には遭わせない、と」
「言うだけなら簡単です」誠実な声色にも、カイハは一歩も引かなかった。「お嬢様をお守りするのは、侍女として、このカイハの役目でありますゆえ」
「そばに付き従うだけが守るという意味ではありませんよ。――そうですね。もし彼女が不在の間、手持ちぶさたでたまらないというのなら……」
 フェイが声を小さく抑えた。
「――白い鳩を探すといいでしょう」
 それはささやきを通り越して掠れ声だったが、シェラにははっきりと聞き取れた。
「白い鳩……第二王妃の紋ですね」
 カイハの返しにはこたえず、フェイはシェラの腕を取った。
「では、我々はこれにて」
 するりとシェラをかたわらへ寄せると、フェイはゆっくりとした歩調で歩き出す。
 シェラは腕を引かれつつ、振り返った。
「カイハ、危ないことはしないでね」
「それはこちらの言葉です、お嬢様」
 冷静に答えられて、ちょっと悔しい思いをする。でも、本当にその通りだ。
 ――だけど……、なにかいやな予感がするわ。
 胸の奥で飛翔炎が騒ぐ。シェラはアーゼン式の見送りをしているカイハを、不安げに見つめた。

     ◆

 エントランスの大扉をくぐった先には、一台の質素な馬車が止まっていた。二頭立ての馬車には装飾は少なく、窓には黒いカーテンが降りている。エスコートされるまま中へ乗り込むと、馬車はすぐさま出発した。
 フェイが手にしていた黒い外套のようなものをシェラへ差し出した。
「これを着ていていただけますか。城下ではその髪色は、あまりに悪目立ちしますので」
「はい。……でも、これ、どう着るんですか?」
「顔へ巻き付けるんです。少し失礼しますね」
 彼は黒い布をさっと、シェラの顔へ巻き付け、髪の一筋もこぼさないよう、きっちりと締め上げた。布は顔を隠すだけでなく、彼女の華奢な上半身をすっぽりと覆った。それは南グルディンの民族の女性が着る宗教的な服装とよく似ていた。
「苦しくはありませんか?」
「はい。大丈夫です」シェラは口元を覆う布越しに答えた。「でも、こんなお忍びのお出かけは初めてなので、胸がドキドキします」
 ――フェイ様がこんな近くにいますし……。
 とは、恥ずかしくて言えなかった。けれど胸の高鳴りが止まらないのは事実だ。小さな馬車の中に押し込められて、二人の距離は近い。
「シェラ、できるだけ髪をさらさないようにお願いします。王太子の婚約者がアーゼン人だということは、城下ではとっくに知れ渡っていますから……」
「陽の民のアーゼン人はわたし一人ですものね。こんなことなら、わたしも染めてこれば良かったかしら。昔は毎朝染めていましたから、慣れているんです」シェラは目元だけで微笑みを表現した。
「そうですね。私も一言言っておけば良かった。この色に染めるのは、まあ、擬態といいますか、偽装といいますか、……いざとなったらアークノインのふりで逃げ切れるので、便利で。幼いときから城下へ出るときはこうしているのです」
 「ずるい方法ですが」と付け足して、フェイは苦笑した。
 そうしている内に馬車は城の結界の堀を越え、城下町へ降りた。
 整然とした王宮の庭とは景色が一変する。石造りの四角い家が並ぶ中を、人々がまばらに歩いていた。開いている店は半分くらいだろうか。露店を開く者も少なく、客もほとんどいない。石畳の道の上では、ボロボロの服を着た子供が露天の果物を物欲しそうに見つめている。道端にたむろする乞食。その前を素通りする人々には、覇気がない。
 その様子を馬車の窓から眺めていたシェラは、ため息混じりに呟く。
「やっぱり、『民主論』にあった通りなのですね。『民の貧困は限界を迎えようとしている』、と。王都でこうなのですから、地方はもっとおぞましい状況なのでしょうし」
 フェイは窓の外を真剣に見つめ、頷いた。
「やはり、四年前のアーゼンとの国交停止が大きく響いていますね。相手はあれだけの大国ですから。……もちろんそれだけとも言えないですが」彼は沈痛な面持ちで下唇を噛む。
「アーゼンとの国交正常化は、いつになることでしょう」
「今の状態では、とても難しい、としか言えませんね」
「あの、フェイ様」シェラは声を潜めた。「……アーゼンの皇帝陛下が、グルディンで消息を絶ったとの噂は、本当なのでしょうか?」
「……それは、」と、フェイが言葉を詰らせた。言っても良いものか吟味するとき、彼はいつも視線を下へ向ける。「……噂の通りです。我々も全力を尽くして捜索しましたが、痕跡一つ見つけられませんでした。アーゼンはグルディンが皇帝を暗殺したと判断し、すべての国交を停止しました。――……戦争にならなかっただけ、僥倖でした」
「あの時は皇帝陛下が突然いなくなって、国中大騒ぎだったそうですね。わたしは女学校の学生寮にいたので、あまりお話が伝わってこなかったのですけれど」
「アーゼン側に戦争をする余裕がなかったのでしょうね。それが、この国をこうも助長させるとは思いもしなかったのでしょう。正確には、あの国王を、ですが」『国王』という単語に力を込めて、フェイは呟いた。「アーゼンとの国交なしに生活が成り立つなど……夢のまた夢です。その腐った夢を、あの男は延々と見続けている」
 フェイが下唇をかむ。窓の外の寂れた風景を見つめたまま、彼の視線は動かなかった。
 やがて一件の喫茶店が見えてきた。赤い煉瓦づくりの古めかしい建物で、こぢんまりとした白い窓枠に緑の雨よけがついていた。
 馬車はゆっくりと速度を落とし、その喫茶店の前で止まった。
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