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「よいしょっ、と」
 シェラは長いドレスの裾をひらりと翻して、花壇を飛び越えた。
 グルディン服にもだいぶ慣れてきた。彼女は片手に花を集めながら、次の花壇へと向かっていく。
「あ、この花、可愛い」
 白い細かな花を見つけて、そちらへと花壇をまたぐ。花から花へ写り渡る様は、まるで蝶か蜂のようだった。
 その様子を見て城の庭師が微笑ましげに口元を緩ませた。フェイの取り計らいで、シェラだけは花壇を荒らしても罰されないのだ。むしろフェイは「当分は贈り物に困らなくても済むようになった」と笑ってくれている。
 照りつける太陽は少しだけ熱い。風が涼しいために熱さは気にならないが、北国のさわやかな夏の気配がした。帽子を被ってこればよかった、と思って晴れ渡る空を見上げたとき、垣根の向こうに鮮やかな赤い花を見つけた。その向こうの垣根の下には青い花が。さらに向こうには黄色。花に誘われるがままに垣根の奥へ入り込んだシェラは、突如はっとして顔を上げた。
 王宮の前庭には垣根で作られた迷路のような垣根がある。そのほぼ中央で、シェラは我に返った。右を向いても左を向いても迷路で、どちらへ行けばいいのかわからない。
「ど、どうしよう」
 うろたえて辺りを見回すも、庭師のオジサンはいない。
 彼女は花束を握りしめながら、そっと垣根の向こうをのぞき見た。
「お城じゃ、空を飛ぶ魔法も使えないし……」
 城を囲う結界は強力で、陽の民ですら魔法を制限される。多少の風を起こしたり光を灯したりすることはできるが、空を飛んだり人を傷つけるような魔法は使えないのだ。
 勘のままに歩き回ってみたものの、迷路からまったく出られない。三度目の突き当たりに当たって、シェラはほとほと困り果てた。
「誰か、いませんかぁ〜」
 勇気を出して大きな声を出してみたものの、返事はない。
「他にも迷ってる人とか、いないかしら。……いないわよね」
 ぶらぶらと歩きながら呟いたとき、五度目の突き当たりに行きあたった。シェラは肩を落として、くるりと踵を返した。
 そのとき。
「どうかなさったのですか?」
 低く、張りのある男性の声が届いた。どこか温かみのある、聞き覚えのある響き。
「フェイ様!」
 あの微笑みが待っていると確信して見上げれば、そこには赤がね色の長い髪をした青年が立っていた。臙脂色をした略式の正装を軽く着崩している。
「あれ……? アーク様?」
「こんなところで、何をしてらっしゃるんですか?」
 聞けば聞くほどフェイとよく似た声で、彼は訊ねた。
「あの、実は迷路から出られなくなってしまって……。どちらに行けばよろしいのかご存じですか?」
「それは、まあ。ここは私の庭のようなものですし。――どちらへ行きたいのですか?」
「城のほうへ」
「でしたら、あっちでしょう」とアークノインは生け垣の上からちょこんとのぞく白亜の城を指さした。
「いえ、あっちというのはなんとなくわかっているんですが……」
「魔法で垣根を吹き飛ばせばいいんですよ」
 言うやいなや、アークノインは古グルディン語の呪文を呟いた。
「Ed,brugerg widthed el……」
 異国語の響きにシェラは驚いた。魔法を使う際、わずかな間だけ魔力の翻訳機能が失われるのだ。周りを取り囲んでいる魔力が魔法で使用されるためで、すぐに元に戻るのだが。
 ――魔法なんて使ったら、木が死んじゃう……!
「だ、だめですっ!」
 シェラは彼の口元を押さえようと飛びついた。
「わっ」
 突然のことに均衡を失ったアークノインが、そのまま後ろへ倒れていく。
 ドサリとガサリが一緒に鳴ったような音がして、シェラはアークノイン共々生け垣へ倒れ込んだ。彼が何かに頭をぶつけるゴツンという音が響く。
「……だ、大丈夫ですか?」
 シェラは慌てて身を起こす。アークノインに乗り上げるような形になっていた。
 彼はしばらく呆然とシェラを見つめていたが、すぐに上体を起こして、
「な、何ということをなさるんですか貴女という方はっ」
 動揺と恥じらいからか、上擦った声を出した。見れば頬の辺りも赤い。
 シェラは落ちてしまった花々を拾いながら、
「だって、木が可哀想じゃないですか」
 と、当然のことを返した。あんな魔法を放ったら、庭師のオジサンが丹精込めて作った生け垣と花壇が台無しになってしまう。それなら出口を求めてもう半時ほどさまよっていたほうがマシだ。
「貴女という方は……」アークノインは前髪をかき上げて溜息をつくと、呆れたように呟いた。「まるで子供のようだ」
 彼はさっと立ち上がり、軽く服の汚れを払うと、座りこんだままのシェラへ手をさしのべた。大きくて、でもどこか上品な手がフェイと似ていた。
 ちょん、とその手に手を乗せると、そのまま身体を引き上げられた。
「ありがとうございます」
「いえ――それよりも、先日はお見苦しいところを見せてしまいました。どうかお忘れください」
 アークノインは落ち着きを取り戻した様子で、社交辞令をきれいに述べた。合わせて手の甲へ口づけする。シェラは二の腕まで届く長いレースの手袋をしていたから、その上に、ということになるが。
「あ、はい……」
 シェラは思わず赤面した。手の甲は敬意、敬意と、心の中で何度も呟く。アーゼンにはない風習で、時々賓客相手にもされることがあるのだが、未だに慣れない。
 そんなシェラの様子を、アークノインはじっと見つめていた。熱っぽい、どこかで見たことのある視線だ。そう、この色とまったく同じ瞳を知っている。――フェイだ。
「……美しい方だ。こうして間近で見ても、けっして色あせない」アークノインはもう一度手の甲に、今度はゆっくりと口づけた。「正直、あいつが羨ましいですよ」
 はっきりとした賞賛に、シェラは顔を赤くした。
「そんなことありません、あ、いえ、その、……ありがとうございます」
 混乱して、結局いつもの通り賛辞を受け入れることになる。だいたい、この国の人たちは大げさなのだ。特に社交辞令となると、こちらが勘違いしてしまいそうな勢いで美辞麗句を投げかけてくるものだから、対処に困ってしまう。
「あ、あの……」もじもじと自分の手を彼の手から引き抜きつつ、シェラは急いで会話をさがした。「アーク様は、フェイ様と、その……仲がよろしくないのですか?」
 アークノインは一瞬きょとんと、なぞなぞを投げかけられた子供のような顔をした。
「いえ、けしてそのような……――」
 反射的に答えてしまったのか、アークノインは慌てて言葉を切って、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「あれとは幼い頃からの付き合いで、気安い仲なので」
「あ、喧嘩するほど仲がいいんですね」
 シェラはぽん、と両手を打った。
「そういったわけでも……いや、まあ、そんなところでしょうね。年の近い相手が、この城の中には他にいませんでしたから」
 アークノインは軽く肩をすくめてみせた。
 その動作がとてもフェイに似ていて、シェラは少しだけ気安い気分になった。
「たしか、アーク様のほうが一つお年が上なんですよね」
「ええ」アークノインは頷いた。「あれは昔から優柔不断なところがあって、時々ああして渇を入れてやらないと……いつまでもウダウダされるので、面倒で」苦々しく言ってしまってから、彼は我に返ったように辺りを見回して、「……言い過ぎましたね。仮にも王太子相手に」
 ぷっと、シェラは吹きだしてしまった。
 アークノインも薄く微笑む。どこか皮肉げな笑みだったが、そうするといっそうフェイに似ていた。
 場の空気がふわりと和んだものになり、シェラは安心した。
 ――もっと気むずかしい人だと思っていたのだけれど……そうでもないみたい。
 アークノインは眼を細めて、どこか遠くを見るようにした。
「あれのことは……そうですね、弟分のように思っているのかもしれません」それからぶつくさと呟く。「何をしても私より秀でているくせに、自分にまったく自信がない。私に叱咤されてやっと、自分がどれほど期待されているのかに気付く。鈍感としか言えません」
「期待されている、というのは?」
 シェラの指摘に、アークノインは明らかに『しまった』という顔をした。
 ――この人、けっこう顔に出やすい、かも。
 アークノインは口元を歪めつつ、生真面目に告げた。
「国民からの期待です。声を潜めて申し上げますが――現国王は、あまりにも民を無視していますから――早く、次の御代を、という声が高くて」
「なるほど」シェラはこくんと頷いた。「政治のことはよくわかりませんが……。フェイ様がおさめる未来はきっと、国民の皆さんにとって明るいものになる、と」
「はい。それだけは確かです」
 アークノインは自信に満ちた声できっぱりと言い切った。
 シェラに自然な微笑みが浮かぶ。
「アーク様もご期待なさっていらっしゃるんですね」
「……ええ。まあ」と、彼は恥ずかしいのか言葉を濁した。「あれは、期待以上の働きをしてくれる男ですから。……本当に」
 それからじっと、熱を帯びた碧の視線でシェラを見つめてきた。
「? なにか?」
 首をかしげると、さっと目を伏せられた。
「いえ。果たしてその期待以上の働きが、貴女にとって幸せなものになるのか、と考えてしまいましてね」
「私の、幸せ?」
「ええ」
 彼は思わしげに眉間にしわを寄せた。
「……――正直なところ、彼の思想は我々身内の者にとっては、害でしかないかもしれませんから」
 それからアークノインは恭しげにシェラの手を取り、
「どうやら話しすぎたようだ。行きましょう」
 と、迷路の中を先導してくれた。三つ角を曲がるだけで簡単に出られてしまい、シェラは手品を見せられたような気分になった。
「ありがとうございます」と、シェラはグルディン式に頭を下げる。
 その様子をアークノインは眩しげに見つめていたが、「以後、お気を付けください」と紳士的な一言を残して去っていこうとした。けれどその視線は熱っぽく、前を振り返る最後の瞬間までシェラをとらえ続けていた。
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