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 フィーネとの遠乗りの日、シェラは黄色いたてがみの白馬を選んだ。少し面長な愛嬌のある顔をした牝馬で、見るからに温厚そうだったからだ。
 当然のようについてきたカイハは鹿毛の牡馬にまたがって、シェラから馬一頭分ほど後ろを静かに付き従っていた。
 前を行くフィーネとフェイは共に漆黒の牡馬に乗り、ときおり無意味に駆け出そうとするフィーネをフェイがいさめていた。
 他にも五人ばかり警護の者がついてきていたが、フェイの指示で遠巻きに見守っている。
 乗馬用の男装のような衣装を着たフィーネは、ちらりとこちらへ振り返り、
「お兄様とお出かけするはずだったのに、どうしてあんなものまでついてくるのやら……」
 と嫌味を言う。すかさずフェイが、
「仲良くしてあげてくださいね」と穏やかに釘を刺した。
 城下街を出て、小麦畑の広がる中を駆けていく。よく晴れた初夏の空の下、膝下ほどまでに伸びた緑の小麦畑が、風に煽られて潮騒のようにさざめいていた。
 フェイが振り返り、
「今日は街の外堀から出ない範囲で楽しみましょう。結界がなくなると、盗賊などの心配が出てきますから。――わかりましたね、フィーネ」
 と、前へ向かって言葉を投げかける。
 フィーネは口を尖らせた。
「んもう、お兄様ったら。わたくしたち陽の民が、そんな子悪党どもに負けるとでも思っていらっしゃるのかしら。お兄様だって、朽葉色の飛翔炎をお持ちなんですから、ちょっとやそっとの相手なら、簡単にくびってしまえますのに」
「そういったことをするのは戦場でだけです。盗賊といえど、この国にいる限り民の一人なのですよ」とフェイはひどく真面目に言った。それから苦笑を織り交ぜた声で、「たとえ租税を払わなくても、ね」
 シェラは難しい話はともかく、結界から出ないという彼の判断に賛成だった。
 結界とは、外敵から街を守るだけでなく、内側で使われる魔法を制限するものだ。これがあるために人々はちょっとした魔法しか使えなくなるが、魔法を使った凶悪な犯罪から身を守ることができている。結界は郊外の掘から順に何層にも重ねられており、王宮のものは特に強固だと言われていた。
 ――それでも、完璧とは言えないけれどね。
 シェラが内心ひっそりと呟いたとき、フェイが彼女を振り返った。
 彼は前方を指さし、結界の礎となる石柱を指さした。
「この結界のおかげで街の平和が守られているんです。――鬼の子さえ、間違って入ってこなければね」
「鬼の子……」
「ご存じですか? 異常な飛翔炎を持つ者のことで、彼らには一部の魔法や結界などが通じないのです。ほとんどが男子なので、城下町へ入る際には男は女性に比べて厳しく取り締まられるのですが」
「はい……。よく、知っています」
 シェラはちらりとカイハへ視線を送った。
 カイハはどこ吹く風というように悠然と馬を歩ませていた。
 そのとき、シェラは足元に大きな石があることに気付いた。
「えいっ、と」
 シェラは巧みに手綱を繰って、足元の石を馬に避けさせた。
 フェイがその様子を見て声をかけてくる。
「やはり魔力の高い方には、馬も従順ですね」
「はい。とってもいい子です」
 思わず無邪気な笑みが浮かぶ。
 手綱を介して魔力をやりとりし、馬を操るのが、この世界の乗馬だ。顔を見て思った通り、馬から伝わってくる魔力の感触はとても穏やかだった。学生の頃に馬術部だったおかげもあって、シェラの手綱の繰り方は初めての馬でも十分様になっていた。
「ふんだ。わたくしのバルバロッサちゃんのほうがいい子ですぅ〜」
 前方のフィーネが大きな声で割り込んできた。遠乗りが好きだと言うだけあって、馬の繰り方もとても上手だ。
 シェラはフィーネが振り返ったときをみて、笑顔で声をかけた。
「手綱の繰り方がとても上手ですね、フィーネ様」
「略名で呼ぶのはおやめなさい。わたくしにはリージェスティン・シース・フィーネスタという立派なお名前がございますの」
 フィーネはぴしゃりと言い放ち、つんと口元を尖らせる。その仕草すら可愛らしく様になっている。
 シェラの後ろで、挑発にいらついたカイハが舌打ちした。
「あのガキ、一度シメてやりましょうか」
「だめよ、カイハ」
 シェラは馬の速度を少し落として、カイハと足並みを揃えた。
「しかしお嬢様、日頃の恨みというものがありましてですねぇ……」
「あってもだめ。今日はフィーネ様と仲良くなりにきたんだから。喧嘩しちゃったら元も子もないわ」
「ですが」
「いいの。フィーネ様は辛辣なお方だけれど、嘘はおっしゃらないもの。本当はきっと、いい子なのよ」
「ですかねぇ……」
 などと話しているうちに、フェイたちとずいぶん距離が開いてしまった。
 シェラは「せいっ!」と馬へ声をかけ、腹を強く蹴った。
 そのとき。
「――ッ!?」
 馬が激しくいなないて、前足を持ち上げた。
 慌ててたてがみへしがみつくと、今度はものすごい勢いで駆け出す。魔力を介して痛みと混乱、そして怒りの感情がシェラへ流れ込んだ。
 ――どうして!? いったい何があったというの?
 馬はぐんぐんと加速し、フェイとフィーネを追い越すと、まっすぐな道を駆け抜けた。小麦畑が終わり、結界の終わりの堀が見えてきたとき。
「シェラ!」
 横から聞こえた声を頼りに振り向けば、フェイが馬を真横につけて片手を差し出していた。
「こちらへ!」
「は、はい!」
 シェラはしがみついていた馬のたてがみを手放した。あぶみを蹴りつけるようにして、フェイの黒馬へ飛び移る。
 フェイの手にシェラの手が届く。そのまま引き上げられるようにしてフェイの馬の上に乗り上げさせられた。予想よりも数段がっしりとした体躯に支えられ、こんなときなのに、かあっとシェラの頬に血が上る。男性向けの甘い香水の匂いがした。
 フェイはシェラの腰を強く抱きしめたまま、放さない。
「良かった……」
 耳元で甘く囁かれ、シェラの動悸はますます激しくなった。周りも気にせず抱きしめ続けられ、彼女はただただ恐縮するばかりだった。
 その様子をフィーネは馬上で呆けたように見ていた。
 しばらくそうして抱きしめ続けられていると、堀のほうからカイハが白馬を連れて戻ってきた。両手に二本の手綱を握って、器用に馬を繰っている。
「見てください、これを」
 カイハは馬から下りると、眉間を険しくして白馬の脇腹を指した。そこにはうっすらとした傷があり、赤い血が滴っている。
 シェラは血相を変えた。
「血が……どうして?」
「あぶみに小さな刃が仕掛けてあったんです」
 カイハは憎々しげにフィーネを横目で睨んだ。
「毎度のこととはいえ、残酷なことをなさる」
 敵意をむき出しにされ、フィーネは驚いて身をすくませた。
「そ、そんな……」
「この際だから言わせていただきますが」
 と、カイハは言葉を重ねた。冷静を装っているが、そうとう怒っているときの態度だ。
「お嬢様が気にくわないのはわかりますけれどね、限度っていうものがあるでしょう。この馬だって、なんの罪もないのに、可哀想だとは思わないんですか」
「わたくしじゃないですわ!」フィーネは叫んだ。「違いますの。わたくしは、あの日、シェラ様の歓迎会の時にお酒をかけて以来、そういったことは一度として、致しておりませんの!」
 フィーネはわなわなと震えながら、両手で手綱を握りしめた。
「あの日、燃えあがる炎を見て、わたくし、自分のしたことの恐ろしさに震えてしまって……」
 言葉途中で、その碧眼からぽろりと涙がこぼれた。やがてぼろぼろと泣き出し、何を言っているのかわからなくなる。
 フェイはシェラを抱きしめたまま、冷静に、しかしはっきりとした声色で問いただした。
「本当なのですか、フィーネ」
「……っは、っ……い」
 フィーネは泣きながら頷く。
 それでも信用できまいと、カイハが疑い深げにフィーネをじろじろと見つつ、
「じゃあ、お嬢様の服に針を仕込んだり、食事に麻薬を忍ばせたり、贈り物に爆発物を仕込んでいたのは、いったい誰なんです?」
 と、シェラの知らない事件をボロボロとこぼした。
 そんなことがあったのかと、シェラはぽかんとした表情のまま思った。聞かされていたよりもずっと命の危険にさらされていたらしい。それを片手で握りつぶしながら、カイハは彼女に何一つ心配のないように演じてくれていたのだ。
 ――さすがカイハ。全部対処してくれていたのね。
 内心ひっそりと侍女の評価を上げるシェラだったが、その一方で、フィーネが真っ青な顔をしたまま、ぶんぶんと首を振るのを見ておどろいた。
「そ、そんなこと、知りませ――」
 はっとしてフィーネは口をつぐむ。その顔は恐ろしく真剣だった。
「……――まさか」
「他に、お嬢様を目の仇にするような人物は思い当たりませんが……」
 眉間にしわを寄せるカイハをなかば遮って、フェイがさらりと言った。
「私の妻がシェラでは困る人物でしょうね。ここまで過激なことをなさる方は……自然と絞れますが」
 シェラはフェイの腕の中から見上げるようにして彼の顔をのぞきこんだ。
「お心当たりでも?」
「私の口からは申し上げられない、とだけ答えておきましょう」
 彼の言葉を聞いて、フィーネがぎゅっと手綱を握りしめた。
 カイハは何かに気付いたような顔で、
「殿下が敬語を使うような相手ですね。まさか……」
 続きを言わせないように、フェイは片目を閉じて口元へ人差し指をあてた。
 シェラがおっとりと首をかしげる。
「あの、わたしにはさっぱり……」
「それでよいのです」フェイは普段どおり優しく微笑んだ。「今後このようなことがありましたら、すべて私にお伝えくださいね。――そこの」
「カイハと申します」
 頭を垂れ、カイハが最上級の礼をとる。
 フェイは微笑みを浮かべたまま、頷いた。
「カイハも。侍従頭に報告するように」
 張りのある声色はひどく落ち着いていて、命令慣れしているように聞こえた。
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