3

 その後も嫌がらせは続いた。
「あぁーもぉー許せぇええーん!」
 カイハがビリビリに破れた肩掛けを握りしめて叫ぶ。
「お嬢様の大事な羽織ものをこんなにして! あんのクソガキ、次に会ったらただじゃ済まさぁーん!!」
 深緑の髪をかきむしり、せっかくまとめてあった髪型がぐちゃぐちゃになる。
 シェラはその様子を、溜息をついて見ていた。手にしていた本をわきに置き、無言でカイハへ手鏡を渡す。
 夜会の一件からというもの、フィーネによると思われる嫌がらせが地味に続いていた。あれ以来、命に関わるようなものはなかったが、大切にしていた物から順に壊されたりなくされたりして、ちょっとした心の負担になっている。
 カイハは乱れた髪を鏡で見て、「結いなおさないと」と髪をほどいた。深緑の髪がぱっと広がる。それでも侍女の折り頭巾を取らないのがカイハらしかった。
 カイハはイライラとした調子で髪を結いながら、無残にもボロ切れと化した肩掛けを見下ろした。
「こんなことを仕込んでくるのは、第二王女のフィーネしかありえません。この前も大切なカップを割られたんですよ! その前はトネの木から削りだした貴重な櫛でしたしっ!」
「でも、あの子に恨まれるようなこと、わたし、したかしら?」
「その件なんですがね、ちょいと小耳に挟んだんですよ」
 カイハが得意げに自分の耳をちょんちょん、と指先で触った。
「フィーネ王女は見ての通り、陽の民です。王太子は陽の民しか嫁にもらうことができませんから、お嬢様が見つかる前には、フェイ王太子はフィーネ王女を娶る予定だったんです」
「でも、妹君なんでしょう?」
 シェラは驚きを隠さず問いかけた。
「腹違いだから大丈夫なんだそうですよ。フィーネ王女は第二王妃の娘ですから。まあ、陽の民なら何でもいいってことでしょうよ。実際、歴代の王族には兄妹で婚姻した例もあるようです」
 カイハ間は眉をひそめて続けた。
「野蛮ですよね、獣じゃあるまいし」
 悪辣に言い放ち、カイハは髪を結い上げた。最後にちょこんと乗った折頭巾を整える。
 シェラは両手を胸の前で合わせて、戸惑いなかばで呟く。
「じゃあ、フィーネ様はわたしのことを本気で恋敵だと思っているのね……」
 ざわ、と胸が騒いだ。急に不安が押し寄せてきて、シェラは合わせた手をぎゅっと握りこむ。何がかはわからないが、このままのんびりしていてはいけないような、そんな気持ちになった。
 ――一刻も早く、フェイ様の顔が見たいわ。あの微笑みで、この不安を溶かしてもらえたら……。
 フェイの微笑みを思い出し、シェラは少しだけ心を落ち着けた。
 そこへ、部屋の扉をノックする音が響いた。
 カイハが戸を開けると、フェイからの使いの者だった。「一緒に中庭でお茶でも飲みませんか」とのことだ。
 シェラの心にパアッと朝日が射した。
 思わずにっこりと笑って、「はい、喜んで!」と従者に直接答えてしまった。
 従者はなぜか顔を赤らめながら、急いで戻っていった。
 シェラはカイハの使っていた手鏡を手にして、急いで自分の容姿を確認した。いつも通り、カイハがきれいに髪を結い上げてくれている。夜会の一件で髪を切って以来、カイハはまとめ髪ばかり結うようになった。また火がつくことを恐れてのことかもしれないが、シェラ本人は軽くうねりのある金髪を下ろしているのが好きだった。
「こんな格好で大丈夫かな? グルディン服ってよくわからなくて」
「今日はカイハの見立てですけど、十分すぎますよ。お嬢様は何を召してもお美しいですからね」
 カイハはいつもと同じように、平然と褒め言葉を言ってくる。
 それを聞き流しながら、シェラは色々な角度から鏡を見ていた。

     ◆

 晩春の花が咲き乱れる中庭の花壇を越えて、新芽の伸びている生け垣の向こうに回ると、白いガゼボが見えてきた。
 フェイは深い藍色の正装で椅子に座り、真面目に机へ向かって書き物をしているようだった。かたわらに給仕らしき男性が立っている。
「お待たせしました、フェイ様」
 シェラがカイハを伴ってガゼボの中へ入ると、フェイが書類から顔を上げた。一瞬シェラを眩しげに見つめたあと、慌てて書類をわきへよけ、にこりと微笑む。
「失礼しました、急ぎの書類が入りましたので」
「いえ、大丈夫です。……えっと、お隣へ失礼しても?」
「もちろん」
 フェイは笑顔で隣を示した。テーブルが縦長だったので、正面に座ると妙な空間ができてしまうのだ。
 運ばれてきた紅茶をシェラが一口飲んだとき。
「城には慣れましたか?」と、フェイがカップを持ちながら問いかけてきた。
「え、ああ、はい……」
 ――どう答えればいいのかしら。
 慣れたかといわれれば、慣れてきた。フィーネの嫌がらせに。
 慎重に考えた結果、正直に答えることはできないと判断し、シェラは曖昧に笑って済ませた。
 その様子を敏感に察知したフェイが、心配そうに彼女の手元へ視線を落とした。シェラの手首にはまだ包帯が巻かれている。
「何か、お悩みになっていることはありませんか? 私で良ければできる限りの対処を致しますが」
「悩み、ですか……」
 シェラはお茶を置いて、片手を顎の先につけて握った。
 しばらく考え込んでから、彼女は告げた。
「どうしたらフィーネ様と仲良くなれるでしょうか」
「フィーネと? 仲良くなりたいのですか?」
「ええ。どうも嫌われているようなので、せめてご機嫌を損なわないようになりたいな、と」
 正確にはフィーネと仲良くなりたいのではなく、嫌がらせを少しでも減らしたい。だがそれをフェイに言うのは、はばかられた。実の妹があんな嫌がらせをしていると知ったら、彼はきっと傷つく。そんな顔は見たくなかった。
 フェイは少し思案したあと、
「そうですね……フィーネは遠乗りが好きなので、誘ってみてはいかがでしょう」
「遠乗りですね、わかりました」
 シェラは微笑んで頷いた。馬ならシェラも乗れる。女学院では乗馬部だったのだ。遠乗りをしながら話をすれば、彼女との距離も縮まるかもしれない。
「その際には私にも一声かけてください。ご一緒しますので」
「わかりました。それからあの、フィーネ様はフェイ様の元婚約者だったと聞いたのですが……」
 フェイの顔色が一瞬で変わった。
「それは違います。私の婚約者はシェラ殿だけですから。ただ、そういった心ない噂があったことは事実です。その噂があの子に悪い影響を及ぼした、ということはあるかもしれませんが……」
 彼は少し黙り、紅茶を一口含むと言いにくそうに口を開いた。
「……あの子は幼い頃から、私の『お嫁さんになる』と言い続けてきましたから……。まだ恋が何かも知らない年頃ですから、私を盗られたように思っているのでしょう」
「ご兄妹で結婚できる、というのは本当だったんですね」
 その言葉を聞いて、彼は若干、眉根を寄せた。
「苦肉の策ですけどね。私としてはフィーネは妹の一人にすぎません。もしあなたが見つからなければ、一生独身を通そうかと思っていたほどですから」
「その件なんですが……」
 シェラはおずおずと問いかけた。
「本当に私などで良かったんでしょうか。いくら陽の民とはいえ、アーゼン人ですし、家柄も……」
「とんでもない!」
 突然の大声に、シェラは驚いて口を閉じた。
 フェイははっと我に返った様子で「失礼しました」といい、続きを急いで言った。
「ご存じの通り、我が王家は陽の民を后とする習わしです。国籍や人種などはいっさい関係ありません。それに私自身、アーゼン系の血をひいています。私の曾曾祖母がアーゼン人でしたから」
「それに」と、フェイはひたとシェラを見つめた。
「一目見た時から、私は貴女に心を奪われてしまいました。もう、他の女性のことなど考えることなどできません」
 するりと手を取られ、大きな手がぎゅ、と握ってくる。
 シェラの心臓がトクンと高鳴った。
 彼は真剣に、本当に真剣に告げた。
「この世界に陽の飛翔炎は五つ。同時に現れる陽の民は五人が限度です。王妃三人とフィーネ、そして貴女。最後の一人が貴女で、本当に――良かった……」
「わ、わたしも……」
 シェラは握られた手を見下ろしたまま、呼吸を整えて小さく告げた。
「あなたが王太子様で良かった……です」
 その消え入るような言葉を聞いた瞬間、フェイの目が大きく見開かれた。それからゆるゆると表情を緩ませる。
 シェラの大好きな、あたたかい笑みが浮かぶ。
「――嬉しいです」
 そう言って、彼女の手を自分の頬に導き、すり寄せる。
 指先に口づけを落とされて、シェラの顔が真っ赤になった。
「すすすみません、人前でそういうことは……」
 ああ、とフェイは我に返ったように側で控えている従者たちを見た。
「すみません、つい、嬉しくて」フェイの声は少し、弾んでいた。それから従者たちへ振り向くと、はっきりとした声で「少し下がっていなさい」と指示を出した。
 それから交わされた会話は、甘く、心ときめくものだった。
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.