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 その日の夕方、シェラの歓迎の宴が開かれた。
 金のシャンデリアが燦然と輝く広い大広間には、いくつかの丸テーブルが置かれ、清潔な白いテーブルクロスがたらされていた。テーブルの上には様々な料理が置かれ、水晶から削りだしたという薄紫のグラスが上品に並んでいる。中央には金の燭台が置かれ、ちらちらと揺らめく光の装飾を添えていた。
 大広間の一角には楽団が陣取り、穏やかで心地よい音楽を流していた。
 うっすらと光沢のある薄桃色のグルディン風ドレスを着せられたシェラは、大広間に続く扉の前で中の様子を見て、尻込みしていた。
 ――こんなに腰を締め付けられたまま、裾の長いドレスで踊るだなんて。絶対に転んでしまうわ……!
「緊張しているみたいですね。大丈夫ですか?」
 青ざめる彼女とは対照的に、かたわらに立つ王太子フェイは、上品な仕草で彼女の腕を取り、寄り添わせた。
 シェラの心臓がひときわ大きく脈打つ。
「は、はい。大丈夫ですっ」
 耳まで真っ赤になったシェラを、フェイは温かく包み込むような微笑みを浮かべて見つめた。
「堪えられなくなったら、いつでも仰ってください。善処しますので」
「はい」
 こくりと頷き、彼女は背の高いフェイに隠れるようにして広間へと踏み出した。
 大広間にいる様々な年代の男女の視線が、一身に注がれる。皆一様にシェラを見て、短い感嘆の声をあげるのだが、それはシェラがアーゼン人だからだろうか。それとも、この白金の髪を見ての感想なのか。わからない。が、当のシェラはまとわりついてくるドレスの裾と必死に戦っていた。内側にはいたボリューム出しのフリルスカートが曲者で、ちょっと油断するとキラキラと装飾のついた靴に引っかかってしまうのだ。
 フェイに導かれるままに一つのテーブルへ近づく。
 そこにいたのは、昼に城のエントランスホールで見た、はげ頭の太ったおじさんだった。昼間よりもさらにふんだんに金糸の飾りを入れた盛装に、大きな鷲の刺繍が入った真っ青なマントを着用している。肩からかけた太い濃紺の帯が示すことは、ただひとつ。
「国王陛下、我が婚約者シェラ・レグナをお連れいたしました」
 フェイはどこか冷たくも聞こえる声色で、臣下がそうするように、はげたおじさんに向かって片膝をつけて頭を垂れた。
 国王陛下と呼ばれた小太りのおじさんは、「うむ」、と恭しげに頷き、シェラを見た。その瞳はよく見るとフェイとそっくり同じ色をしていた。それ以外の要因――例えばでっぷりと太った腹回りとか、丸い顔、くるんと巻かれた口髭だとか――には、彼らの血縁を示すようなものはまったく見られなかった。
 驚きで声も出せないシェラには気付かず、おじさんはつるりと禿げた額をなでた。
「本当は出迎えの際に言いたかったのだがな、あれは――……まあ、よいこととしよう」
 国王は太った手を口元へ当てて「ゴフンゴフン」と咳払いした。
「よくぞ参った、シェラ殿。私がカーライン・ディス・ロードナイン。ロードナイン三世じゃ。こちらにおるのが――」
 ロードナイン三世はかたわらの美しい衣装を着た金髪の女性二人のうち、右側に控えた純金と同じ色合いの髪をした女性を示した。
「第二王妃のエヴァリン・シール・リージェスタじゃ」
 フェイがさっと囁いてきた。「フィーネと、もう降嫁してしてしまいましたが、その姉の母親です」
 第二王妃は豪華な造花のふんだんについたドレスの裾をすっと持ち上げて、軽く礼をした。上品だが居丈高な態度に、シェラは彼女の矜恃の高さを知った気がした。
 王が反対側に連れ添った濃い飴色の金髪をした女性を示す。
「こちらが第三王妃のマリアン・シース・エミリアじゃ」
 フェイが囁く。「二人の王女と、第二王子の母親です」
 第三王妃は微笑んで会釈した。シェラもつられて頭を下げる。
「第五の陽の民がアーゼン人と聞いて、色々と心配もしましたけれども、可愛らしいお嬢さんでよかったわ。これから、よろしくお願いしますわね。――さあ、カティル。未来のお義姉様にご挨拶なさい」
 第三王妃が下を向くと、そこには小さな男の子がドレスの裾に隠れるようにして立っていた。年の頃は五つか六つくらいだろうか。フェイと同じ朽葉色の髪をしている。きっちりと仕立てられた豪華な衣装を着こんでいて、まるで服のほうに着られているみたいだった。
「かわいい」
 思わずシェラが呟くと、第三王妃は目元をほころばせた。息子を自慢したくてたまらない、というように。
 当のカティルはもじもじと母親にくっついていたが、シェラの視線を感じてか、「よろしくおねがいします」といってぺこりと頭を下げた。お人形が動いたみたいだった。
「こちらこそよろしくお願いします、カティル様」
 丁寧に頭を下げたシェラが頭を上げるのを見計らって、フェイが彼女の腕を引いた。お手本のように優美な仕草で頭を下げ、
「では、お集まりの皆さんがお待ちのようですので、これにて失礼いたします」
「うむ。よろしい」
 と、国王夫妻が頷くと、フェイはシェラを新しいテーブルへと連れていった。
 シェラは不思議に思って小首を傾げる。
「第一王妃様はいらっしゃらないのですか?」
「ええ」フェイはにこりと笑んだ。「私の母、第一王妃は長く病を患っていますので、こういった場には出ません。また機会がありましたら、ご紹介しますね」
 彼はテーブルに着くと、給仕からグラスを取ってシェラへ差し出した。
「どうぞ、シェラ殿」
 フェイは給仕から受け取ったグラスを渡してきた。さらりとした琥珀色のお酒で、グルディンでは一般的に飲まれているものだ。アーゼンで果実酒に親しんできたシェラは、無防備にそれを口へ運び、
「つ……っ、つよっ!」
 アルコールの強さに思わず吐き出してしまいそうになった。舌がジンジンする。むせ返る酒精に、息までお酒色に染まってしまったかのようだった。
 一瞬くらりとよろけそうになったシェラを、フェイが支えた。
「大丈夫ですか? この酒は初めての方には強すぎますね。変えさせましょう」
 さっと給仕へ指示を出すと、フェイは水でも飲むかのようにするりと自分の杯を空けた。
 注ぎ足されるフェイのグラスを見つめながら、シェラはこんな燃料みたいなお酒が飲めるなんて、グルディンの方は機械仕掛けか何かなのかしら、と思った。
 給仕に果汁のグラスをもらったとき、周りを取り囲むようにして見ていた貴族と思われる壮年の男性が、フェイへ話しかけてきた。
「その方が、王太子殿下の婚約者様でしょうか」
「はい。シェラ・レグナ殿です。このように美しい白金の髪と飛翔炎をお持ちの方です」
 フェイは微笑んだままやんわりと答えた。
 男性はシェラの髪をしみじみと見て、
「素晴らしい髪色ですね。亡き王太后様とまったく同じ色合いだ」
「ええ、彼女は今年で十七歳。ちょうどお婆様の亡くなられた年です。お婆様の魂は天へ召されましたが、飛翔炎はこのように巡り巡って、我々の元へ戻ってきたのです」
 フェイは嬉しそうに笑った。
 飛翔炎とは、生き物に宿り魔法を使わせる不思議な火の玉だ。胎児の頃に人々の心臓に寄生し、魔力を生み出す。飛翔炎の種類によって髪色が決まり、得意な魔法も変わってくる。異国の言語も自分の言葉に聞こえたりするので、シェラも見知らぬ異国の地で意思疎通ができている。ただし、文字に対してはその力も及ばず、勉強するしかないのだが。
 飛翔炎は宿主が死ぬと新たな宿主を求めて飛び去っていく。フェイの言う『お婆様』は、シェラの飛翔炎の先代宿主のことだろう。この世界に金の飛翔炎は五つしかないため、同時にそれ以上の陽の民が生まれることはない。一人が死んで、一人が生まれるのだ。
 特に金の飛翔炎は女性にのみ宿るという特徴があり、強大な魔力を与えることで有名だ。
 他にも男女様々な人物がフェイと会話をし、社交辞令でシェラのことを褒め称えた。彼女が「美しい」と言われる度にフェイは嬉しそうに頷き、シェラへ上手に話題を振ってくる。
「グルディンに来る以前は、どんな生活をなさっていたんですか?」
「ごく普通に勉強していました。学校にも通いましたし、父の仕事を手伝ったこともあります」
「レグナ商店のご令嬢でしたものね」
「レグナ商店さんといえば、昔はわたくしどもとも親しくさせていただいていたんですがね、なにしろ四年前からは……」
「父も皆さんとお付き合いできなくなって、とても大変だったと申しておりました」
「それにしても美しい髪ですね。アーゼンでは染めていたそうですが、なぜ?」
「父がわたしを手放せなかったそうで、その……」
「そのお気持ち、よくわかります。私にも娘がおりますが、目に入れたって痛くないくらいです。そのうえこれだけの器量よしだったら、手放すことなんてもう考えられないでしょう」
「あ、はあ……ありがとうございます」
 それにしても、さきほどから社交辞令が髪色と顔に集中しているのはなぜだろう。とても美しいドレスを用意されたのだから、きっとそのことを褒めてくると思っていたのだが、これは想定外だった。
 そのとき、人垣が割れて、小柄な蜂蜜色の金髪をした少女が輪の内側へ入ってきた。確かフィーネという名前で、フェイの二番目の妹だ。小柄な身体を深紅のドレスで身を包み、白いフリルのふんだんについた裾をひらひらと踊らせている。
 フィーネは扇子で口元を隠しながら、シェラを一目見ると、見苦しげに眉をひそめた。
「あら、ひどい格好ですわね。本当にそれはあのリーシャの見立てなのですの? やっぱりいくら仕立てが良くても、中身の問題というのは深刻なようですわ。その身長ではどう見ても無理がありますもの」
 残酷な声で告げ、ぱたぱたと扇を仰ぐ。
 シェラは絶句した。
 グルディンの男性が背が高い反面、女性は小柄なのが特徴だ。大人の女性でもシェラの胸ほどまでしかなく、そのわりに出るところは出て引っこむところは引っこむという、とても魅惑的な体型をしている。
 対してアーゼン人は男女ともに身長が同じくらいで、グルディン人の男性よりは低く、女性よりは背が高い。体型も中性的で、手足が長く細い。そして肉のあるべき場所が少なめだ。シェラも典型的なアーゼン体型で、胸元にたくさんの詰め物をしている。
 衣装係がどれだけ凄腕でも、この体型の違いは乗り越えようがなかった。
「や、やっぱり、そうなんでしょうか……」
 明らかにへこんだ声でシェラが俯く。無理があるなりに上手に見立ててもらったと思っていたのだが、みんなが衣装について触れなかったのは、このせいだったのか。
 フィーネは新緑色の瞳を意地悪げに細め、にんまりと嗤った。
「見世物としてはちょうどいいですわね。ふふふ、アーゼン人などに生まれついたことを恨めばいいのですわ」
「フィーネ! いいかげんにしなさい!」
 フェイの怒声が大広間に響き渡った。楽団が音楽を止め、辺りがしんと静まりかえる。
「私の婚約者を愚弄することは、私への愚弄にも等しい行いです。子供だからといって許しませんよ」
「許さないなんて仰っても、お兄様は甘いんですもの」つんと口を尖らせてそっぽを向くフィーネ。「お兄様には、フィーネの気持ちなんてわからないのですわ!」
 そう言い捨てて、小さなフィーネは人垣に紛れてしまった。この様子ではたいして響いていないだろう。
 楽団がまたゆっくりとした音楽を流し始めた。
 ぽかんとしたまま動けないでいたシェラへ、フェイがなんてことないというように手を取り、微笑みかけてきた。
「大丈夫ですよ。その薄い桃色がシェラ殿によく似合っています。身長なんて、私はまったく気にしません。ほら、髪飾りも……本当に良くお似合いです」
 フェイは眼を細めてシェラを上から下までつくづくと見た。その微笑みに暖かさこそあれ、濁りはいっさいない。
 シェラは衣装に対して決定的に足りていない胸元を握りしめて、フェイを仰ぎ見た。
「本当にそうでしょうか?」
「本当です」
 と言ってから、彼は少し困ったように眉を寄せ、
「私はあまり口が達者ではありませんから、信じていただけないかもしれませんが……。その衣装が霞んでしまうほど、貴女が――」
 そのとき、群衆の向こうからひときわ大きな声が届いた。
「惚気はそのぐらいにしておけ、ファーラフェイ」
 人垣の奥からその人物が顔を出した。フェイよりも少し赤みがかった赤がね色の長い髪をした、フェイと同じぐらい長身の青年だ。抜け目のなさそうな鋭い碧眼が印象的だった。
 彼は手にしたグラスを軽く掲げてみせ、
「風評から婚約者ひとり守れない男が、この国を守れるのか、と皆が不安になるではないか」
 と、酒をひと口含んだ。酔っているのだろうか、いや、酔った振りをしているのだ。
「アークノイン」
 フェイが眉間にしわを寄せた。とっさに一歩足を踏み出し、シェラを背後へ守るようにする。
 アークノインと呼ばれた青年はグラスを給仕に渡してこちらへ歩み寄ると、長い赤がね色の髪を後ろへ払い、片手を胸に宛てて腰を折るという、グルディン式の敬礼をフェイへ――いや、シェラへした。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅう、未来の王太子妃殿下」
「は、初めまして……」
 シェラがフェイの後ろからひょいと顔を出したのと、アークノインが顔を上げたのは同時だった。フェイとまったく同じ色合いの碧眼が大きく見開かれ、皮肉げな微笑みをうかべていた口元が小さく息をのむ。硬直と絶句。それは、フェイが初めてシェラと対面したときとまったく同じ反応だった。
 それを見て、シェラは確信した。
 ――そんなに、似合ってないんだ、このドレス……!
 今の彼女にとって、彼の態度は疑惑へのとてつもなく強力な後押しだった。やはりグルディン服をアーゼン人が着るなんて無理なのだ。どれだけ胸元にタオルを詰め込んでも、隠しようのないところは隠しようがない。貧相な自分の体型を、シェラは思いきり嘆いた。
 するとフェイがシェラの手を取り、自分の腕へ絡めさせた。
「紹介しましょう。彼はリージェスティン・ディル・アークノイン。私のいとこです。王都の警護を任されている白鷲騎士団の団長であり、レカローグ侯爵でもあります」
「レカローグ侯爵……さま」
 シェラは言われている意味がよくわからなくいまま、フェイの言葉を繰り返した。
「アークとお呼びください、シェラ殿」
 アークノインは硬直をとき、優雅に一礼してみせた。
「誠に美しい御方だ。この窮屈な王宮において、貴女は優美な華となることでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
 今のシェラには、アークノインの社交辞令に対して礼を返すことしかできなかった。こんなに似合わないドレスを着ているのだ。表では殊勝なことを言っていても、彼らは裏でなんと言っているかわからない。フィーネのような悪口を言われているかもしれない。
 シェラはなおも社交辞令を垂れ流すアークノインの言葉が、まったく耳に届いていなかった。動揺して辺りを見回すと給仕係に耳打ちしているフィーネの姿が見えた。また悪口を言っているのだろうか。
 不安に胸が騒いで、それが顔に出てしまったのだろう。
 最初にシェラの変化に気付いたのは、フェイだった。
「お顔の色が優れませんが……気分でも悪いのですか?」
「いえ、その……。少し疲れてしまったみたいで」
「なるほど、少し休みましょう。テラスへ出て、夜風に当たるのはいかがですか?」
「はい。そうします」
 二人がテラスへむかって歩き出したとき、グラスを配っている給仕とぶつかった。
 給仕の手からお盆が離れ、シェラへと降り注ぐ。
「きゃっ」
「っ、すみません!」
 ガラスの割れる音がして、シェラのドレスの右袖から裾にかけてが、琥珀色の液体で染まった。
「どうしましょう、ドレスが!」
 シェラは慌ててフェイから離れた。ハンカチを取り出そうと手提げの小さなバッグをあさる。動揺でどこにあるのかわからない。
「早くっ、早く拭かないと……っ!」
「布巾を、早く!」フェイが給仕へ指示した。
「こちらです!」
 別の給仕が慌てて布巾を差し出す。
「は、はいっ!」
 動転していたためか、シェラはテーブルの燭台をまたいで手を差し出してしまった。
 ぼっと、炎が長く垂れた袖にまとわりついた。たっぷりとアルコールを吸った袖から炎が舞い上がり、シェラの身体をなめるようにして裾へと炎が広がっていく。
「きゃああ――!!」
 シェラではない別の女性が悲鳴をあげた。
 声も上げられず、シェラはただ呆然と燃え上がるドレスを見下ろしていた。長い裾を這い上がってくる炎が目に焼き付く。
「シェラ殿!」
 フェイが上着を脱いで、バサリと炎を叩く。アークノインもそれに続いた。
「早く、水を! 水を出せ!」
 男性二人からバサバサと叩かれ、シェラはいよいよ動転した。それでも悲鳴は出せず、やっとのことで「た、たすけてください!」と叫ぶ。その間にもフェイたちはバサバサと彼女を上着で叩いた。
「Ed,bruger wertor!」
 グルディン語の呪文が聞こえたのと同時に、シェラへと大量の水が降りかかってきた。フェイが魔法で水を作り出したのだ。
 魔法のおかげで、炎はすぐに消えた。
「大丈夫ですか? 早く医者を。こちらへ!」
 なかば焼け溶けたドレスを隠すために、フェイがさっと上着を被せてくれた。
「わ、わかりましたっ!」
 シェラは震える身体をその中にかくし、フェイに引かれるまま、大広間を横切っていく。
 その途中で真っ青な顔をしたフィーネとすれ違った。彼女は小さく震えながら、
「こんなことになるなんて……」
 と呟いているのが聞こえた。

     ◆

 大広間に隣接された小部屋で、呼びつけられた医者は安堵したように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ドレスのほうは酷いものですが、火傷は大したことはありません。腕に少し腫れが見られるのと、あとは髪ですね。少し焦げてしまいましたので、切りそろえたほうがよいかと思います」
「なんということでしょう、お嬢様の美しい御髪が!」
 疾風のように駆けつけてきたカイハが、大げさに嘆いた。
「大丈夫よ、カイハ。怪我は大したことないし、髪だってまた伸ばせばいいんだもの」
「そうは仰いますがねえ! 珠のお肌をこんなふうに腫らしてしまって……。カイハは、カイハは……故郷くにの旦那様になんと申し上げればいいのやら!」
「あー……。お父様には内緒にしておいてね」
 シェラの父親は、普段はおおらかな性格なのに、娘に関することとなると途端に心配性に早変わりする。女学校の宿舎にいた頃など、父が気を揉みすぎて倒れたという話を何度も聞いた。そのくせ駆けつければケロリと起き上がってくるので、心配するだけ無駄である。
 この件をカイハが伝えればきっと血相を変えて王宮に駆けつけてくるだろう。そんなことはさせられない。
 シェラは椅子に座ったまま、かたわらに立つカイハを見上げた。
「お父様にはちょっと転んだぐらいで報告しておいて。本当に大丈夫だから」
 「それから」、と、その反対側に膝をついて座りこんでいる人物へ顔を向ける。
「フェイ様も、ほんとうに、大丈夫ですから。そんな心配なさらないでください」
 フェイの顔色は真っ青だ。なかば無意識に何度も髪を撫でられているのだが、彼自身は気付いていないようだった。
「しかし、シェラ殿の長い髪が……」
 心配げにのぞきこむ碧眼を、シェラは強い視線で押し返した。
「そんなにたくさん焦げたわけではありませんから、大丈夫です」
「……わかりました。よい理髪師を呼びましょう」
 そう言って、フェイは残った髪をひとすくい持ち上げ、残念そうに髪へ口づけた。そして立ち上がり、部屋を出て行く。
 後に残されたシェラは、今さりげなくされた仕草をもう一度思い浮かべ、ゆっくりと顔を赤くしていった。
 ――今……、その、髪に……口づけられた……?
 耳まで真っ赤になったまま微動だにしなくなったシェラへ、カイハの低いつぶやきが聞こえてきた。
「あの王太子、やりよる」
 その眼光は鋭かった。
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