彼の国との国交を断ったことは、この国をゆっくりと死に至らしめるだろう。一刻も早い友好の日が訪れるのを、今は待つほかにない。
          『民主論』作者不詳








   第一章

   1

 山からの雪解け水が、水車を経て、小麦畑へ注いでいる。
 つばの広い帽子を被った農民が、腰を曲げて草取りをしていた。この土地の短い春に素早い成長を見せるという白金小麦は、まだ苗丈も短く、青々としている。
 シェラは読んでいた本から目をあげると、揺れる馬車の窓を開け、その様子を眺めた。肩からこぼれた鮮やかな白金色の髪が、一筋風に乗って馬車の外へまろび出る。長い髪はひらひらと宙を流れた。彼女はそれを耳へかき上げながら、おっとりと呟いた。
「グルディンって戦争ばかりしているって聞いていたけれど、意外と平和なのね」
「この国はバカでかいですからね。南の方はともかく、王都近郊は穏やかなもんですよ」
 彼女の正面に座るカイハが、侍女の象徴でもある折り頭巾をくいっと直した。結いまとめた濃緑色の髪に、白い折り頭巾がちょこんと乗っている。
 シェラはその様子を心配して見た。
「……本当に、その折り頭巾で大丈夫なの?」
「もちろんです」
 カイハはふんぞり返って胸をそらした。
 シェラは小さく溜息をつく。
「カイハは魔力が弱いから、心配だわ。魔法も不安定だし」
「そりゃあ、金の飛翔炎を持つお嬢様に比べたら、カイハなんて木枯らしの前の枯葉みたいなもんですがね」
 と、カイハは窓ガラスに映る影を見て、もう一度折り頭巾を調節した。
「これでも十年近くなんとかしてきたんです。王城の結界がどの程度のものか知りませんが、カイハなら余裕ですよ」
「だったらいいけれど……」シェラは不安なまま頷いてみせた。
 カイハは窓の外をちらりと見て、愚痴っぽい声をだした。
「それにしても、この辺は田んぼの色が悪いですね。薄い灰色だし、どろどろしてて。粘土質なんでしょうかね。アーゼンじゃ、もっとこう、黒くてふかふかとした土が普通なのに。あんな痩せた土じゃ、ろくな実りも期待できないでしょう」
「そうなの」
「なんでも、グルディン特産の白金小麦は、アーゼンで育てると独特の淡い色合いにならないらしいです。土の栄養が良すぎるそうで、どう育てても普通の小麦になってしまうとか。皮肉なものですね、痩せた土地だからこその価値が出るなんて」
「小麦も白金色なのね……」
 シェラは自分の淡い金髪に指を通し、手元の本を見下ろした。しかし、心はそこにない。
 彼女は事の始まりである、あの日を思い返していた。

「――ついに見つかってしまいました、お嬢様」
 カイハが真剣な面持ちで告げた。
 シェラが夕方の読書を終えて、床につこうとしているときだった。
 館の中で誰よりも早く情報を掴むことのできるカイハは、彼女の私室の床に両膝をつき、異国からきた彼女の父親宛の手紙の内容をかみ砕いて伝えた。
「お嬢様が陽の民であることが、敵国グルディンに知れてしまいました」
「陽の民……」
 シェラはきょとんと首を傾げた。
「それって、わたしの髪色のこと?」
「はい」
 シェラはなかば無意識に自分の髪をすいた。赤みがかった茶髪は、どこにでもいる髪色だ。けれど明りに透かせば、鮮やかな紅茶色に早変わりする。幼い頃からずっとこの色に染めてきた・・・・・
 彼女の元の色は、目にも鮮やかな白金色だった。
「金の髪色を持つ娘は、陽の民と呼ばれます。我が国アーゼンが銀の髪色をした娘を月の民と呼び崇めるのに対して、グルディンでは陽の民を歴代国王の后に迎えています」
「き、后? お后様ってこと?」
「そうです。お嬢様は、敵国グルディンの王族に嫁がねばなりません。つまり――」
 カイハはそこで言葉を切って、栗色の瞳を伏せた。
「お嬢様は、王太子アイゼン・ディル・ファーラフェイのお嫁に選ばれたんです」
 それからたっぷり十秒間、シェラは開いた口がふさがらなかった。

 長く続いた小麦畑が終わって、王都をぐるりと囲む壁が見えてきた。灰色の石を組み上げて作られた壁は高く、でこぼことした上部には、グルディンの国旗である青空色に金の光を放射する太陽が描かれた旗がなびいていた。
「止まれ。検問だ」
 大きな男の声がして、馬車が止まった。
 長い棒を持った検問官に、御者の男が厳しく身を改められたあと、唐突に馬車の戸が開けられた。
「女か。二人だな」
 検問官がそう言うや、バタンと勢いよく扉を閉めた。
 シェラはあっけにとられて呟く。
「……あれだけ、なの?」
「彼らが警戒してるのは鬼の子でしょうから、女は関係ないんでしょうよ。アレは男にしか出ませんから」
 カイハはフンと鼻を鳴らして腕を組むと、椅子にふんぞり返った。
 同時に馬車が動き出す。
 太い鉄格子が上げられ、馬車が城下街へと入った。
 壁と同じ灰色の石で作られた家々は、急な斜面の屋根を臙脂がかった茶色に染めていて、どことなくおもちゃの家のように見えた。
 カイハが抜け目のなく街を一瞥した。
「なんだか、王都と呼ぶには活気がないですね」
「ええ……。そうみたい」
 シェラも幾重にも薄絹が重なった袖を口元へあて、街を見渡した。
 大通りに面した店は半分ほど鎧戸を閉じていて、開いている店にも客はほとんどいない。とぼとぼと歩く人々には覇気がなく、行き交う人も少なかった。道端には大勢の乞食が座りこんでいて、人々の慈悲を求めている。
 シェラは眉をひそめ、手にした本で顔を半分覆った。そのままこっそりと告げる。
「比べるのもなんだけど……アーゼンの王都より、暗いわよね?」
「はい」
 カイハは誰にはばかることなく、はっきりと言った。
「まるで葬式みたいです」
「なんでなのかしら」
「大きな原因は、やはり四年前のアーゼンとの国交断絶だと思いますよ。もともと資源に乏しいグルディンが、輸入まで止められて生き残る可能性は少ないかと。民の生活は日に日に悪化しているといいますし」
 シェラは本から顔を出し、困ったように眉を寄せ、首を傾げた。
「どうにかならないの?」
「さあ。あいにくアーゼンはグルディンと貿易をしなくとも、平気みたいですし。多少貴金属類の値段が上がりはしましたが」
 カイハは眉を上げて肩をすくめる。緑の後れ毛がぴょんと跳ねた。カイハが国家間のいざこざに詳しいのは、シェラの父の教育の賜物だ。
 シェラの父親はアーゼンでも有数の豪商で、食料から土木建築まで幅広く商っている。四年前の貿易停止令で大きな負債を被ったものの、三年でそれを挽回し、いざこれからというときに、シェラのことが発覚してしまったのだ。
 父も母も、愛娘との別れを受け入れられずに泣き暮し、いざ別れの日も袖を掴んで放さなかった。
 シェラも別れが辛いというより、不安が涙となって溢れてしまい、旅立ちの日は辛かった。旅に出てすぐの頃は、やれこの町には二度と来られないだの、この景色も見納めだのと、細かいことで袖をぬらしていた。その涙が止んだのは、海を渡って北大陸にあがった頃だった。行く先々の見慣れない食べ物や、南大陸にはない雄大な荒野に心を奪われ、すっかりおのぼりさんになってしまったのだ。今でも両親のことを思い出すと胸が苦しいが、移り変わる景色がそれを慰めてくれていた。
 シェラは手元の本へ視線を落とした。革張りの表紙には新グルディン語で、『民主論』と書いてある。ここに来る前に立ち寄った町で、最近の一番人気の本を買い求めたら、これが出てきた。とても平易な文体で異国の者にも読みやすい。初めは新グルディン語の練習にと思って読み解いていたのだが、その革新的な内容に、シェラは夢中になっていた。
「お城が見えてきましたよ」
 カイハが前方を指さした。
 つられて窓の外を見たシェラは、思わず息をのんだ。
「まあ――きれいなお城!」
 瀟洒な小塔をいくつも冠した白亜の王宮は、陽光の中をキラキラと輝いていた。輝いているのは主に窓枠や装飾柱の柱頭で、それらは金色に塗り込められている。窓はすべて色つきガラスで絵を描いてあり、色とりどりの輝きを返していた。
「ここで、これから……暮すのね」
 思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。商業町とはいえアーゼンの片田舎で育ったシェラには、王宮はまるで夢のように見えた。
 王宮を見つめたまま夢見心地で大きな門をくぐり、馬車から降りる。カイハに手を取られたまま呆然と城の大きな金色の扉を見上げていると、彼女を招き入れるかのようにその扉が細く開いた。その奥に見えたのは金色に輝く大きな階段と、煌々と焚かれた篝火、そして床に敷かれた真っ青の絨毯だ。その周りにはこの城に仕えているらしい人々がずらりと並んでいる。
 カイハに手を取られるまま、城の入口から一歩踏み込んだとき。
「お待ちください」
 と、グルディン式の給仕服を着た青い髪の男性に呼び止められた。口の動きとシェラの聞こえた音声が一致しないのは、この世界に満ちる魔力のおかげだ。
「これより先は、グルディンのお召し物を召していただかないと困ります」
 「はぁ……」と生返事を返すシェラを守るように、カイハが身を乗り出し、給仕にくってかかった。
「ふざけないでちょうだい。こんな場所で着替えろとでもおっしゃるつもり? うちのお嬢様をそんな目に遭わせるなんて、このカイハが許しません!」
 カイハの凛とした声が入口のホール一帯へ響き渡り、皆が息を飲み込んだとき。
 優美な声音が、その沈黙を破った。
「ええ、その通りですわ」
 と、階段付近に立っていた小柄な少女が青い絨毯へ一歩踏み出した。
 その見事な金髪に、シェラは目を丸めた。
「陽の民……?」
 シェラの白金色とは違う、濃い蜂蜜色の金髪だ。天井付近の色つきガラスから注ぐ太陽の光を浴びて、少女の金髪がきらりと光る。きっちりとクセのつけられた巻毛が彩るのは白く、小作りな顔。大きな碧眼と薄い紅色の口元には、幼げな顔に似合わない底意地の悪そうな笑みが浮かんでいる。
 少女は肩から落ちる髪を得意げに払い、シェラへ挑戦的に言い放った。
「汚らわしい敵国の装束など着てきて。いったいどういうつもりなのかしら。そんなものでこの城を汚さないでいただきとうございますわ」
 言われてシェラは自分の装束を見下ろした。薄紅色の光紗と呼ばれる光沢のある上着に、薄く透ける特徴のある透紗という薄衣を白から緋色へと五枚は重ねている。五の透紗は正統なアーゼン人の礼服で、結婚式や成人式、皇帝陛下にお目通りする際にも着る。その中でも一番のお気に入りの組み合わせに対して、「汚らわしい」である。
 シェラは自分の顔が気色を失っているだろうことがわかった。なかば無意識に、片手に持っていた本をぎゅっと握りこむ。
「あら?」
 少女の碧眼がその本をとらえた。
「そのご本はいったい……?」
 はっとして、シェラはその本を後ろに隠した。お城に浮かれてそのまま持ってきてしまったのだが、この本の内容はあまりにもこの場にそぐわない。
「な、なんでもございませんっ」
「隠すようなものなのかしら。そこの衛士、取り上げてしまいなさい」
 少女の号令で、衛士のきっちりとした制服を着た紫髪の男がシェラからその本を奪った。
少女へ本を渡そうとしたところへ、「ごほん!」と男の咳払いが響いた。
「……こちらへ」
 ひときわ宝飾類で飾り立てた、つるりと頭髪のはげ上がった小太りの男性が、宝石のいっぱいに付いた指輪をした手を差し出していた。彼は恭しく差し出された本を受け取ると、もう一度「ぅおっほん」と咳をした。彼の隣にはさらにキラキラと全身を飾りきった金髪の女性が寄り添っている。二人はその本の表紙を見て、驚愕に息をのんだ。
「このご本は、今街で噂の……」
 と金髪の女性が絶句し、手にした扇子で口元を覆った。
「なんということだ……」
 はげ頭の壮年の男性も二の句をつげないでいると、その手前に立っている金髪の少女が横から口を挟んできた。彼女は得意になったように、
「あんな下賤な読み物をこの城に持ち込むなんて……信じられませんわ。貴女には王太子妃の椅子よりも、牢に放り込まれるほうがお似合いのようですわね」
 と、華奢な指先で衛士たちへ指示を出し、シェラたちを引っ立てようとした。
「や、やめてくださいっ」
 衛士に腕を取られ、シェラは混乱しつつもカイハのほうを見た。
 が、カイハは「ふざけんじゃありませんわっ!」と、シェラをつかまえようとした衛士に蹴りをくわえているところだった。みぞおちをえぐる見事な回し蹴りだ。アーゼン人らしい華奢な体つきをしているが、カイハは強い。だからこそ父の信頼を得て、シェラの侍女としてこんな遠くまで送り込まれてきたのだ。――だがそれも数にはかなわない。厳ついグルディン人の衛士たちは、束になってカイハへ剣を向けようとしている。
 シェラは焦った。
 ――どうしよう。このままじゃ、ほんとに牢屋に入れられちゃう……!
「フィーネ!」
 そのとき、ホールの奥、正面階段の上から、よく響く男性の檄が飛んだ。
「大切な客人だと、あれほど言い聞かせたというのに……! 衛士よ、すぐにその方たちを解放なさい!」
 ざっと音がしそうな勢いで、カイハを拘束していた衛士たちが身を引いた。
 カツカツと靴底が階段を叩く音がして、その人物が降りてきた。
 朽葉色の長い髪をした、若い青年だ。グルディン人男性特有の背の高さに、簡素なグルディン式の礼服を着ている。キンキラキンに飾り立てたはげの壮年男性と比べると、まったく飾り立てていないも同じだった。
 青年はこれといった特徴のない顔立ちを優しくほころばせて、彼女の目の前に立つと、グルディン式の礼である会釈をしてきた。
「申し訳ありません、シェラ・レグナ殿。妹が不躾な真似を……」
 と、その顔があがってシェラの顔を直視し、小さく息をのんだ。
 そのままぴたりと動かなくなる。
 シェラは見つめられて穴の開きそうになった頬に手を添えて、小首を傾げた。
 ――そんなに、怒った顔をしていたかしら……?
 軽く頬を摘んでみたが、どちらかというと怒っているというより驚いている。
 しばらく待っても相手が動きそうにないので、シェラは目の前に立つ青年へ、困った子供のように告げた。
「あの……ご本の件は本当にごめんなさい」
 青年がはっと我に返ったように背を伸ばすと、慌てて首を振った。
「いえとんでもな――いや、悪気はなかったのですね」
 と、青年は人好きのする微笑みを口元へうかべてみせた。
「……では、失礼します」
 彼はシェラへ軽く目を伏せて黙礼し、はげ頭の壮年男性に近寄ると、先程の本を受け取るやいなや、ぱっと、かたわらで煌々と燃える篝火に投げ込んだ。
「あっ」
 シェラはなかば無意識に手を伸ばしたが、届かない。
 ホールに集まった皆が目を丸くしているのを意に介さず、青年はパンパンと手を叩いた。
「これで良しということにしましょう。よろしいですね?」
「……はい」
 と応えてしまってから、シェラは顔を赤くした。彼が問いかけた相手は、本を持っていたキンキラキンのはげた男性と、その隣の同じくキンキラキンの女性だったのだ。
 同じくあっけにとられたまま頷く二人へ満足げに微笑みを向け、青年はシェラへ向き直った。
「それでは改めまして。ようこそシェラ・レグナ殿。初めまして」
 そう言うと、青年はあっさりとその場を仕切ってしまった。
 腰の低そうな様子から察するに、彼はきっと執事か何かかなのだろう。とても好感の持てる人だ。
 優雅に微笑む青年へ、シェラは不安と一緒に胸元をかき抱いて問いかけた。
「あの……、お着替えが必要でしたら、わたし、出直しますけど……」
 青年は一瞬きょとんとしてから、「ああ、」と頷いた。
「出直す必要はございません。といいますか、いえ、本当は専用の部屋がございますので、そちらでお召し替えください。誠に恐縮なのですが……」
 青年は長い手で玄関わきの小部屋を示した。
「貴女のために用意した衣装が数点用意してあります。お好きなものをお召しください」
 シェラはこくりと頷いた。
「わかりました。ええと……」
 戸惑う語尾を拾って、青年は察しよくこたえた。
「申し遅れました、私はアイゼン・ディル・ファーラフェイ。フェイとお呼びください」
 そう言ってにっこりと見つめられた瞬間、シェラの心臓が一度大きく鳴った。
 ――……え?
 二つの違和感に戸惑う。聞いたことのある名を名乗られたことと、もう一つ。自分の心臓の不可解な動きに、だ。
 にこやかに笑みを深める相手に対し、シェラは目を丸くして両手を頬に添えた。
「アイゼン王太子、さま……?」
「はい。ですがその名は母名と言いまして、母親の名前なので、最後の名でお呼びください」
「ファーラフェイ様」
「はい」
 応える声は低く、優しかった。この国の未来をすべる王太子としては、いささか柔らかすぎるほどに。
「こちらです。どうぞ」
 大きな手に手を取られて、シェラの心臓が飛び上がった。悲鳴に似たような声が喉の奥で鳴る。それから胸がバクバクと打ち鳴らしはじめた。いったいどうしたというのだろう。男性に手を取られたことなど、何度もあるというのに。
「? どうかしましたか?」
「いえ……なんでも、ない、です」
 ぎこちなく微笑むと、さらに柔和な微笑みが返ってくる。
 トクン、とシェラの心臓が高鳴った。
 ――ああ、どうしよう。
 わたし、この人に――
 ――恋をしてしまったみたい。
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