2 ――水音が聞こえる。 隣の部屋にある風呂場から、パシャリと水の跳ねる音がした。その音が響くたび、シェラは体中を悪寒が浸食していくのを感じる。 ここはアークノインの寝室だった。質のよい材木を使った調度品が並ぶ部屋には、鍵がかけられ、出ることは叶わない。 声を限りに叫んでみたが、無駄だった。魔法の簡易結界で、声が届かないようにされているのだ。 地下牢で頑なに言うことを聞かないシェラに業を煮やし、アークノインは無理やり自室へ連れ込んだ。既成事実を作ってしまえば、シェラとて言うことを聞かざるをえなくなると思ったらしい。 ――アークノイン様がお風呂をすませるまでに、何としてでも逃げないと。 シェラは窓に向かった。城の四階にあるアークノインの部屋には、テラスはなく、絶壁のような壁があるだけだ。高さゆえ飛び降りても死ぬだけだろうが……。なにより、下にある塔の先端に串刺しになるかもしれない。 ――でも、いいわ。フェイ様以外の男に抱かれるくらいなら。 シェラは淡々と思った。 ――死んだほうが、ましよ。 シェラが窓枠に足をかけようとしたとき。 遠く、城の門の向こうにいくつもの炎が集まっていることに気付いた。赤い炎が鳥の群れのように長く尾を引いて、ゆっくりと動いていく。あれは松明だろうか。ならば、とんでもない数の人間が集まっていることになる。 「アークノイン様! アークノイン様!」 突然、侍従が扉をものすごい勢いで叩いた。 「暴動です! 民がこの城を目指して集まっています!」 「――なんですって?」 シェラが窓から離れたとき、窓の外から何かが素早く入ってきて、寝台に突き刺さった。 火矢だ。 そう思う間もなく、火の手が上がる。 「キャア――!」 炎は寝台をなめるように広がり、シェラはとっさに身を縮ませた。 「Ed,bruger wertor!」 グルディン語の呪文が飛んだ。 魔法の水が呼び出され、寝台を濡らす。 炎は瞬時に消えた。 シェラが風呂場へ続く扉を振り返れば、そこにはバスローブ姿のアークノインが立っていた。彼の長い髪は赤みが落ち、フェイとまったく同じ色合いになっている。 彼は扉へと駆け寄った。 「暴動だと? 騎士たちは何をしているんだ!」 「そ、それが」勢いよく扉を開けられ、侍従が怖じ気づいたように礼をした。「騎士の中にも反乱に荷担する者が多くおりまして……」 アークノインの顔が歪んだ。 「それは我が白鷲騎士団でも、か」 「は、はい……」 「――くそッ」 アークノインは吐き捨てるように呟いた。 「こんな所でもあいつにかなわないのか……」 そのとき、遠くでドーンと重い音が響いた。 同時に前進に静電気が走ったような、鈍い衝撃が走った。 シェラが目を見開く。 「今のは……?」 侍従の顔色が変わった。せかすようにアークノインの腕を取る。 「いけません、城の結界が破られたようです。早くお逃げくださいませ!」 「シェラ殿、早く――」 振り返ったアークノインが、彼女を見てはっと我に返った。結界が破れた今、陽の民は本来の能力を取り戻しているはずだ。彼の視線の先では、炎に映える白金の髪が風になぶられてはためいている。 その髪をなでつけながら、シェラは十分な距離を保ったまま、アークノインを見すえた。 「フェイ様とカイハはどうなるのです」 「シェラ殿……ッ」 窓の外でドンという音がして、いっそう外が明るくなった。石組みの城を魔法の炎が包みこんでいるのだろう。 「シェラ殿、早く逃げましょう」 シェラはその場から動かなかった。彼女は静かな面持ちで、はっきりと告げる。 「――二人はどうなるのです、と聞いているのです」 「それは……」 アークノインが歯を食いしばるのが見えた。 「〈こじや、よたのるをごちぬ〉」 シェラが弓の構えをとると、空気の矢が生まれた。アークノインの額にぴたりと狙いを定める。そして、口元だけで微笑んでみせた。 「結界なき今、誰が最も力を持っているか……おわかりになりますよね?」 「陽の民、でしょうね」 アークノインはごくりと喉を鳴らした。 シェラは微笑みを崩さぬまま、穏やかに、けれど強かに言った。 「あまり大げさな魔法は使いたくありません。――カイハとフェイを解放しなさい」 見えない矢を構える手が、指先を摘むようにねじった。パチンと指を鳴らす、その寸前で―― 「カイハであれば」 アークノインが急いで告げた。胸元から鉄の鍵を取り出し、彼女へ突きだしてみせる。 「フェイは王の近衛によって幽閉の塔におりますゆえ、私の力では及びません」 「……わかりました。まずはカイハを解放しましょう。〈こじや、をごちぬ〉」 アークノインの手にあった鍵が、ひょいと投げられたように宙を飛んだ。シェラの手の内へ音もなくおさまる。 シェラは素早く窓から身を乗り出した。 「それでは、さようなら、アークノイン様」 そのまま無防備に落ちていく。 窓の下には石壁を覆うように立ち上る魔法の炎があった。誰の術かは知らないが、相当の手練れだろうと思わせる、見事な大火炎だった。 そこへ落ちていきながら、シェラは小さく呟いた。 「〈こじや、えきたり〉」 風がうなって、炎を吹き飛ばした。ボッとそこだけ空気の穴が空く。 熱風が顔の脇をすり抜けていく。髪やドレスの裾がチリリと焼ける音がした。 やがて地面に近づくと、彼女の身体はゆっくりと減速し、見えない紳士に受け止められたかのようにふわりと芝生へ着地した。 「……待っててね、カイハ」 シェラは素早く駆けだした。 ◆ 地下牢への行き方は覚えていた。 行き止まりの壁を秘密のからくりで越えて、さらに階段を下りていく。手に持った鉄の鍵が冷たかった。 ――カイハは無事かしら。 そう気がせくほど、手先がどんどんと冷えていく。小脇に抱えた布包みが温かく感じられ、それだけを頼りにシェラは走り続けた。 重い鉄扉を開けた先に、水晶の照明がともる強結界の牢はあった。 いくつも並ぶ牢のうち、結界の中心にあるその牢へ駆け寄る。 「カイハ!」 「お嬢様、なぜ戻られたのです……!」 牢の中でカイハは目を瞠った。シェラの乱れた淡い金髪や、上品な薄桃色のドレスに焼け焦げた痕があったからだ。白い頬にはうっすらと煤が付いている。 「一体何が? どうしてそんな格好に……」 「暴動が起きて、城が襲われているの」 シェラは簡潔に告げ、牢の鍵を開けた。 まだ事態を飲み込めないでいるカイハへ、小脇に抱えていた布包みを投げ渡す。 「暴動? 民衆がですか? ――っと!」 カイハが布包みを受け取った。慌てて開けば、男物の衣服が出てきた。 「それを着て早く逃げて。街とお城の結界が壊されて、誰でも魔法が使えるようになっているの。城外へ出れば安全というわけでもないけれど、火の手からは逃げられるわ」 「お嬢様はどちらへ?」 素早く男物の衣服を着ながら、カイハが問いかけた。 「フェイ様を助けに行くわ」 「お供いたします」 「だめよ」シェラは首を横に振った。「カイハは魔力が弱いから、助けにならないわ」 「けっして足手まといにはなりません。――この身は一度死にました。どこまでもお付き添いいたします」 カイハは胸へ片手を添え、深く頭を垂れた。 「……わかったわ」 シェラは片手をカイハの頬に添え、顔を上げさせた。 「フェイ様を救いたいの。あの方にはどうしても、『民主論』の続編を書いてもらいたいから……」 「なぜそのようなことに固執するのです?」 シェラはひたとカイハを見つめた。 「書で人は育つわ。たとえ今は間違っていても、いつか必ず正しい導きは何かを知る。その時に彼らを導くのは、フェイ様の本当のお言葉よ」 「……了解いたしました」 カイハは恭しく片手を振り、アーゼン式の礼をした。 「お嬢様のお望み、このカイハ、この身に代えましてもお叶えいたします」 「ありがとう」 カイハが手を差し出した。 そこへ手を添え、シェラは導かれるように歩き出した。 |
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