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   †  †  †

 白亜の王宮の中庭をとおる細い回廊を、カイハは足音を立てずに進んだ。数歩進んでは太い柱にひらりと身を隠す。その視線の先には、侍女たちを引き連れた金髪の妙齢の女性がいた。しずしずと歩く小柄な姿は、風に吹かれたら飛んでいきそうなくらいなよやかに見える。
 第二王妃エヴァリン・シール・リージェスタ――エヴァリアの産んだ一番目の娘・リージェスタ。この国の金と権力を一身に吸い上げる、陽の民の美妃だ。
 彼女は書庫へ入ると、侍女たちを残して閉架の書庫塔へとのぼっていった。
 カイハは魔法で姿をくらますと、塔の入口にたむろする侍女たちのわきを抜け、塔の中へ滑り込んだ。城の結界ではほとんどの者が魔法が使えなくなる中、カイハだけは様々な魔法が使える。だからこそ、秘密裏に情報を入手したり、『民主論』を手に入れてきたり、国王陛下の執務室へ出入りできたりしたのだ。
 その理由は、カイハの持つ特殊な飛翔炎にある。

 カイハは、シェラの実家の裏山に捨てられた孤児だった。八つになるまで森の獣たちを母とし、野生児のように育ったが、九つを迎えるころに森でシェラに見つかったのだ。
「あなた、足をどうしたの?」
 初めて聞いたシェラの声は、少女らしくきれいに澄んでいた。そのときのカイハは言葉を解さなかったが、この音だけは今でも鮮明に覚えている。
「まあ、けもの用のワナにかかったのね。だいじょうぶ、いま、たすけをよんでくるわ」
 警戒してうなり声を上げるカイハへ、シェラはにっこりと微笑んでくるりと踵を返した。
 しばらくしてやってきた彼女の父親に罠を外してもらったカイハは、そのまま二人に保護された。
 怪我が治るまでの手慰みにと、シェラはカイハに言葉を教え、数のかぞえ方を教えた。
 カイハはそれらをすぐに吸収し、持ち前の頭の良さをレグナ家の全員に知らしめることになった。
 シェラは元から弟が欲しかったのもあって、カイハにことあるごとに世話を焼いた。主人や夫人もカイハを気に入り、『いずれは商会の手代に』と期待してくれるまでになった。
 だが、それは長くは続かなかった。アーゼンでも、カイハの特殊な飛翔炎は人々に忌み嫌われる。誰かの口からこぼれた噂が、官警の耳に入ったのだ。
 カイハを差し出せという要求を、レグナ商会は断れなかった。
「わかったわ」
 事情を聞いた幼いシェラは平然と立ち上がった。そしてはさみを手に鏡へ近づくと、赤毛に染めていた髪をばっさりと切った。
「緑色にそめてちょうだい。わたしが代わりに行くわ」
 そうして官警の元へ向かったシェラは、一時間も経たずに帰ってきたのだった。
 その日以来、カイハはシェラを神のように崇拝し、かしづいてきたのだ。その忠誠はシェラがグルディンへ行くことになっても変わらず、侍女になりすまして王宮までついてきた。本当なら、そんな身分にはけっしてなれるはずがないのに。

 カイハは狭い塔の階段を上っていく。ゆったりと塔の内側に巻き付くように作られた螺旋階段の先からは、コツンコツンとヒールが石階段を叩く音が聞こえてくる。王妃の姿は見えないものの、彼女が魔法で作り上げた明るい光がこぼれていた。
 第二王妃は階段を頂上まで登りきり、両開きの鉄扉を押し開けて、塔の最も高い位置にある書庫へと足を踏み入れた。
 カイハは階段を上り、鉄扉に耳をつけた。小さな声で呪文を呟く。
「〈あたや、ざえへけしや〉」
 途端に、室内の音がはっきりと聞こえてきた。
 なよやかな妙齢の女性――第二王妃の声が響く。
「待たせたわね、わたくしの可愛い子」
 呼びかけにこたえるように、男の短い溜息が聞こえた。先客である男は、扉のすぐわきに立っているようだ。
 カイハは姿隠しの魔法を自らにかけると、音がしないよう注意して、扉を薄く押し開けた。書庫には魔法の明りが一つ灯されているだけで、周囲は暗い。姿隠しの術は不安定ですぐ解けてしまいやすいが、これなら気付かれないだろう。
 細く開いた隙間を、片目で覗きこむ。
 手前にはこちらへ背を向けている銅色の髪をした男がいた。長い髪を三つ編みにして背中へ流している。変装してきたのか、黒いローブを羽織っていた。その後ろ姿にカイハは見覚えがあった。フェイのいとこ――アークノインだ。
 彼はうんざりとした声で言った。
「頬にキスするのはやめてください、王妃殿下。もう子供ではないんですから」
「親にとって子供はいくつになっても子供よ。昔のように『母上』と呼んでちょうだいな」
「……『母上』。こんな所へ呼び出して、一体何なんです?」
 カイハは危うく声をあげそうになった。
 思えばアークノインの名はリージェスティン・ディル・アークノイン。リージェスタの一人目の息子アークノインという意味だ。フィーネがリージェスティン・シース・フィーネスタ――リージェスタの二番目の娘フィーネスタという名であることから考えても、二人は公式に兄妹と認められているらしい。カイハは気付かなかった自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。
 アークノインの広い背中の向こうには、金飾りのふんだんについたドレスを身につけた第二王妃がいた。彼女は頬を上気させ、意気揚々と、
「しっぽを掴んだのよ。やっとあの王太子の鼻を明かしてやれるわ」
「フェイのことですか? まさか、まだ私のことを王位につけようなどと画策しているのではありませんよね。いいかげん諦めて――」
 諦念を滲ませた声でアークノインが諭そうとする。
「でも!」
 王妃はあからさまに声を被せ、その発言を押しつぶした。
「貴方は表向き『先代国王の息子』よ? 本来ならあのハゲ親父よりも王位継承権は上のはず。あの憎たらしい、先代の遺書さえなければ……っ」
「不能の男との間に子供をなしたのですから、不義を疑われて当然です」
「だから、わからないように弟の――あのハゲの血を引かせたんじゃない!」
 二人の会話を聞きながら、カイハはごくりとつばを飲み込んだ。
 この言葉が本当なら、アークノインはフェイのいとこではなく、兄だ。
 二十年前に死んだ先代国王は、現国王の兄だった。話によると、第二王妃は先代国王の第一王妃だったが、彼の死後、現国王に娶られたらしい。陽の民だからということで、歴代グルディン王家ではよくあることだったようだった。
 第二王妃は怒りもあらわにその場を行きつ戻りつした。ヒールがカツカツと鳴る。
「貴方のほうが年も上だっていうのに、あの国王ったら、自分の子って知った上でなんて言ったか憶えてる?」
「『フェイよりも優秀ならば息子として認める』、でしたね」
「そうよ。そして貴方は何をやらせてもあの王太子よりも下」
 ぎゅっと、アークノインが右手を握りしめた。
 息子の様子を意にも介さず、王妃は続けた。
「結局、貴方は先代の子としてしか地位がない……ああもう、あの遺書ったら、憎らしいことこの上ないわ! 貴方の髪まで染めさせて。ああ、私の可愛いアーク。私が必ず王位を取り返してあげますからね!」
「いいかげんになさってください。――それで、今度はどんな方法であいつを暗殺するつもりなんですか?」
「暗殺なんてしなくてもいいのよ」
 王妃はけろりと言い放つ。
「不敬罪で打ち首よ」
 一拍、奇妙な間があった。
 アークノインは呆然と言葉を失ったあと、わずかに動揺した声で、
「まさか……あの本のことを……?」
「あら、知っていたの? だったらどうしてもっと早く教えてくれないの。危うく貴方が『民主論』の本当の作者かと思って、焦ってしまったわ。あの男、城下に出るときは貴方の髪色そっくりに偽装してるんだもの」第二王妃は扇をぱたぱたと仰いだ。「あの本の作者として捕らえてしまえば、あの息子にベタ甘の国王も、もう文句は言えないでしょう。――ついでに、目障りな小娘も一緒に始末できるわ」
「待ってください、もしかして、シェラ殿のことまで……?」
 シェラの名前が出て、カイハは扉に沿わせた手に力がこもるのを感じた。ぐっと、少しだけ身を乗り出す。
 王妃はあっさりと告げた。
「だってあの娘、あの本の信奉者なのよ? フィーネから王太子妃の座を奪ってしまって、どうしてくれようかと思っていたけれど、これですべてがすっきりするわ」
「――それはなりません、母上」
 アークノインの声は強ばっていた。
「彼女は関係ないではありませんか」
「あら、貴方もあの子の美しさに心奪われたのかしら」
 王妃は思わせぶりに微笑むと、胸元から一冊の本を取り出した。『民主論』だ。それを優雅にアークノインに見せびらかす。
「あの娘の持ってきた本よ。貴方はもう読んだかしら? なかなか面白かったわよ」
「原稿のほうは読みましたが……」アークノインは本を受け取り、ぱらぱらと眺めた。その表情が徐々に険しくなる。「これは……こんな、扇動的ではなかったのに――なぜ」
 王妃は扇を口元にあて、「ほほほ」と笑った。
 アークノインは重々しく読み上げた。
「……王権を、すべて民に与えるだと……?」
 その一言が、彼を変えた。顔は蒼白になり、眉間に盾筋が走る。本を持った手に力がこもり、皮の表紙に爪痕がついた。彼の態度すべてが、本の内容を否定していた。
「ほほほ、国王が即座に発禁扱いしたのもわかるでしょう?」
 アークノインの耳に王妃の声は届いていなかった。
 彼は青ざめたまま、なおも『民主論』を読みあさった。やがて、苦渋に満ちた表情で、本から顔を上げる。
「……あげく、こんな、暴動を煽るような……。――――最低だ」
 バサリと本を投げ捨て、アークノインは片手で顔を覆うと大きな溜息をついた。吐息で魂が削られてゆくかのような、悲痛な溜息だった。
 王妃がくすくすと笑いながら扇を煽る。
「やる気になってくれたかしら? うまくやれば、あの小娘と一緒に王太子を排斥できるかもしれないのよ」
「それはなりません」
 アークノインはなおも強硬に答えた。
「あら、どうして?」
 王妃はいっそ無邪気に問いかける。
「シェラ殿を排斥してはならないということです」アークノインはゆっくりと語り始めた。「王太子を排しても、陽の民を娶れない王は公的に認められません。フィーネは私の母系の妹ですから、結婚は無理です。――この意味がわかりますか?」
「第三王妃を娶ればいいじゃない。憎らしいことに、あの女、若くてぴちぴちしてるもの」
「現王が亡くなったときにも、若ければ、ね。いくつまで生きるかわかりませんが、あの男こそ暗殺は無理ですよ」
「まあ」王妃は目を丸くして口元を扇で覆った。「その通りだわ」
「ですから、シェラ嬢を娶った者が王位継承権を得ると言っても過言ではないのです。朽葉色の髪の持ち主であることと、陽の民を妻に持つこと。この二つが王位継承の絶対条件です。現在王家に現れた朽葉色の髪は私とフェイ、そして幼いカティルだけ。この三人の内、シェラ殿を娶った者が次の国王になる――。ご理解いただけましたか?」
「もちろんよ、私の可愛いアーク」王妃はくすくすと笑いながらアークノインの頬を撫でた。「貴方が王位継承権を得れば、フェイを殺しても、あの憎たらしい第三王妃の息子――カティルに王座を譲らなくても済むわ。それだけは絶対に阻止してちょうだい。もうわたくしには貴方しかいないのよ」
 アークノインは何も言わなかった。
「手配はもうしてあるの。ネズミの巣をね、一網打尽にするのよ」
「――私も行きます」
「あら、貴方、直接手が下したいの? ふふふ、それもいいわね」
 そういって王妃が扇子を翻したとき、扉の隙間のカイハの目と彼女の青い眼が合った。
 瞬時に、カイハは自分の魔法が解けていることを悟った。
「誰!? そこにいるのは!」
 金切り声に、アークが振り返る。
「誰だ!」
「――――っ!!」
 カイハが慌てて魔法を使おうとしたとき、扉が開かれ、アークの手がカイハの口元を掴んだ。呪文の詠唱が止まる。
「お前は、シェラ殿の……!」
 ぐいっと襟元を掴まれ、引き寄せられる。
 パサリと音がして、カイハの頭から侍女の証である折り頭巾が落ちた。
 カイハがとっさに頭を押さえるのと、アークノインが目を見開いたのは同時だった。
「お前、まさか――」
 しまった、と思ったときには、もう遅い。
 カイハは身柄を拘束された――。

   †  †  †

 小作りな喫茶店の前で、馬車の扉が開き、フェイがシェラの手を取った。
「ここです。参りましょう」
 二人が馬車から降り、喫茶店へ入ろうとした瞬間。
 馬車の脇をすり抜けてきた小さな女の子と、シェラがぶつかってしまった。
「きゃ――」
「ごめんなさい!」
 子供が麦わら帽子の影に顔を隠し、逃げるように駆け出そうとする。
「待ちなさい!」
 その腕を、フェイの手が掴もうとした。
「Ed,diffiy iscap!」
 突然の甲高い呪文にシェラが驚いたとき、突風が巻き上がってその女の子とフェイの間に小ぶりな竜巻が起こった。
「Ed,brukon et!」
 フェイの呪文が放たれると同時に、竜巻が霧散した。
 彼は続けて呪文を放つ。
「Ed,goot et!」
 どろり、と道を埋めているはずの石畳が溶け、その女の子の足をずぷりと埋もれさせた。動けなくなった少女は必死に足を引き上げたが、ぬかるんだ地面から足が抜けない。
「なにしたの! はなして!」
 甲高い抗議が道に響き渡る。
「その手に掴んだ物を放しなさい」
 フェイは落ち着いた声で指示した。彼は指先の動きだけで護衛たちに女の子を捉えさせ、彼の手から金の扇子を取り上げた。
「これは、わたしの扇子?」
「スリですよ。やっかいなことに、城下の結界が通じない者のようです」
「それって……」
 護衛が女の子の麦わら帽子を奪った。橙色の髪の隙間から、二本のツノがのぞいていた。
「鬼の子です。男ばかりを警戒していましたが、女児もいるとはね。油断していました」
「鬼の子――」
 シェラは呆然と女の子のツノを見つめていた。
 鬼の子とは、頭に二つないし一つのツノを持ち、結界や暗示の魔法などが効かない者のことを言う。原因は飛翔炎の異常だと言われているが、詳細は不明だ。結界下で通常の生活を送ることができないため、多くが幼くして親に結界の外へ捨てられる運命を辿るという。
「連れて行きなさい」
 フェイが護衛にその子供を引き渡した。
 護衛は子供を拘束すると、警邏に突き出そうと連れて行く。
「待ってください!」シェラはとっさに護衛にすがりついた。「その子をどうするおつもりですか? まさか……」
 フェイはシェラを引き寄せながら、淡々と告げた。
「鬼の子は街の中に入ることが許されません。永久追放ということになります」
「そんな」
 シェラは言葉を失った。
「仕方のないことなのです。事実、鬼の子による犯罪はこの街でも後を断ちません。皆の平和を守るためにも、鬼の子の排除は不可欠なのです」
「仰っていらっしゃることはわかります」
 シェラは自分よりも頭一つ背の高いフェイを見上げた。
「ですが」優しい碧眼をまっすぐに見つめる。「その子も人間です。それも幼い少女……賊がうろつく結界の外に放り出されれば、どうなるかは簡単におわかりになるでしょう?」
「それも天命とは言えませんか」
「言いたくなどありません。わたしは――……認められません」
 俯いて拳を握りしめる。扇子が手に食い込んだ。
 その手を、フェイが優しく取り、両手で包み込んだ。まるで子供に物を教えるかのように、
「シェラ。街の秩序を守ることは国の秩序を守ること。例外は認められません」
「ですがっ」
「あの娘を逃したとしても、彼女がまた罪を働かない保証などないのです。他人を傷つける魔法を使わない保証も、ね」
「……わかります。わかりますが……せめて追放だけはやめさせることはできませんか?」
「そうですね……善処してみましょう」
 フェイは護衛に減免を言付け、少女を連れて行かせた。その背はどんどん小さくなり、坂の向こうへ消えた。
「…………」
「行きましょう」
 フェイは二人が消えた坂を見つめ続ける彼女の肩を片手で抱き、喫茶店へ連れて行った。

     ◆

 古めかしい喫茶店の奥には、地下へと続く階段があった。
 フェイに手を取られて、たいまつの明りがともる階段を降りていく。やがて甘い香の薫りが漂ってきた。
 地下室の扉をくぐった先は、小さな酒場だった。
 優雅に先導していたフェイが、彼女へ振り返った。
「ここが、我々『春啼き梟の会』の集会所、『梟の巣』です」
「春啼き……梟?」
「現政権に異論を唱える者の集まりです」
 フェイはシェラの耳元に口を寄せ、穏やかにささやいた。
「私のことは、『イェーフ』とだけお呼びください。間違っても本来の身分では呼ばないように。ごく一部の者にしか、本当のことを教えていないので」
「わかりました。では、わたしのことは?」
「『ラーシェ』と名乗っておきましょう。アーゼン人の豪商の娘だと」
 シェラはこくりと頷いた。嘘ではない。ただ、真実を言わないだけだ。その難しさをシェラは日頃から骨身にしみてわかっていた。――カイハの件で。
 階段を下りきったとき、クローク係の者がシェラから面覆いを受け取ろうと、手を差し出してきた。
「あ、これは……」
「『宗教上の理由で』、彼女は男性の前では覆面をとれないのですよ」
 フェイがやんわりとクローク係をおさえた。
 男性の前で覆面をするのは、南グルディン人の特徴だ。一目でアーゼン人とわかるシェラがその理由を告げるのは不自然だった。けれどクローク係は文句も言わず、静かに礼をして下がっていった。
 だが、シェラはそのことよりも、フェイの言葉がひどく慣れたものに感じられて戸惑った。
 ――わたしにも、フェイ様はああして優しい嘘をついていらっしゃるのかしら。
 その心の内を察したのか、フェイが優しく説明をくれた。
「集会に訪れる夫人たちは、よくこうした覆面をしてくるのですが、大抵はあのクローク係に預けてしまうのです。貴方の場合は『特別である』、と皆に知らしめる意味もあり、あのように答えました。――……貴方は嘘がお嫌いですか?」
「いいえ、わたしにも答えられないことはあります。ただその、こういった高等なやりとりはあまりしたことがなくて……」
「すぐに慣れますよ。みな察しのよい方ばかりですから」
 フェイは恭しくシェラの手を持ち上げ、人々の中に引き入れた。カウンターで琥珀色の酒をもらい、シェラにも果汁の入ったグラスを渡す。そして、奥の角にある空いたテーブルへ彼女を導いた。
 シェラは覆面の下から室内にたむろする人々を見渡した。大きな声で笑いながら麦酒をがぶ飲みする男。その話を黙々と聞く老夫人。気鬱げな微笑みを浮かべて女性と語り合う青年。ダーツで遊ぶ若い男女。カウンターの向こうでは、グラスを拭きながら人々をやんわりとした微笑みで眺める酒場の主人がいた。
 中でも、部屋の中央でビリヤードに興じている一団には、見る者を惹きつける力があった。彼らは球をつく順番がくるごとに自分の意見を述べ合い、何か議論をしているようだった。
「そもそも、君の言う『指導者』とは――」と、紫色の髪をした年若い青年が球を打つ。「いったいどんな人物のことを言うのかな。僕にはわからない」
「『指導者とは』、か。なかなか面白い議題じゃないか」と、臙脂色の髪をした壮年の男が微笑んで、球へキューを添える。「どう思うね、諸君?」
 カツンと高らかな音がして、白球が黒い球に当たった。
 その様子を見ていたシェラは、小首を傾げて酒を飲んでいるフェイを見上げた。
「ここにいらっしゃるのは、どのような方々なのですか?」
 フェイは口元から酒を離した。
「様々な職種、業種の者がおりますが……そうですね、多いのは医者、魔法学者、科学者、豪商や芸術家、貴族の放蕩息子……と、その夫人。そんなところですか」
そのとき、フェイの後ろから隣のテーブルの若い男がひょいと顔を出した。
「ただの貴族じゃあないさ。没落貴族の子弟ばかりだよ」
 若草色の髪をした男は、慣れた様子でフェイと握手を交わした。
「やあ、イェーフ。こちらのお嬢さんはいったいどうしたというんだい。君は女性を同伴させないことで有名だったはずじゃないか」
 フェイの肩越しに伸びてきた手に手を取られ、シェラは身をすくめた。また手の甲に口づけされるのだろうか。
「初めまして、お嬢さん。僕はツヴェン。新聞記者をしているんだ。どうぞよろしく」
「ラーシェと申しま……言います」
「ラーシェ。可愛い名前だね」彼は手を軽く二回振っただけで彼女を解放した。「ここへ来たからには知っているかもしれないけれど、僕らは思想を同じくするものを平等に扱うんだ。男女や身分の貴賤も問わない。たとえ相手がこの国の王太子であろうとも、この部屋の中では一人の人間なんだよ」
 そう言ってフェイへウインクしてみせた。
 フェイは曖昧に頷いてみせる。それからシェラへ彼を紹介した。
「彼はこの会の出資者の一人です。いわゆる上層部なので、先程話した『ごく一部』にあたります」
「彼の本にちょちょっと落書きした者の一人さ。勇ましくなっただろ?」
 フェイはうんざりとした調子で彼の額をぽんと叩き、「おかげで即座に続編の催促をする羽目になったのは誰なんですか」とぼやいた。それからツヴェンへシェラを紹介した。
「こちらの彼女は……詳しい身の上は教えられませんが、私の賛同者です」
 シェラは目元だけでにこりと微笑んでみせた。
「よろしくお願いします」
「おお、それはそれは」
 すると今度はシェラの後ろから、野太い声をしたおじさんが声をかけてきた。
「このように若いおなごが、あの本を?」
 驚いて振り返ると、橙色のヒゲをもじゃもじゃさせたおじさんに手を取られた。
 おじさんはぶんぶんと手を振りながら、
「いやあ、嬉しいね。これからも賛同者がどんどん増えてくれるとありがたいんだが」
 ツヴェンが好奇心旺盛そうな目をシェラへ向ける。
「見たところ、貴女はアーゼン人のようだけど、あの本を読んだのかい?」
「はい。辞書と格闘しながら」
 くすりと笑ってこたえる。
 ツヴェンは目を丸くして胸に手を当て、「すごい」と動作で表現した。
 そのとき、カツンとビリヤードの球が当たる音がした。
「可愛いらしい声だな」
 球を打った黒いマントを着た男性がキューを撫でつつ振り向いてきた。臙脂色の髪をした精悍な壮年の男だ。彼はよく響く低い声で、
「イェーフにお連れがいるとは珍しい。そちらのお嬢さんもこの議論に参加してくれないか。題して『真の指導者とは』、だ」
 と、シェラへちょいちょいと手招きした。
 シェラがフェイの顔を見上げると、ささやき声が降ってきた。
「彼はノースト。『ごく一部』の一人です。議論好きで、絡まれると長いのが玉に瑕ですね。女たらしでも有名ですので、気をつけてください」
「人のものに手は出さんよ」
「だったら、そんな忠告はしませんけれどね」と、フェイは呆れを混ぜて微笑んだ。
 シェラは促されるまま、ビリヤード台へ近づいた。台の周りには三人の男と一人の女性がキューを持って立っていた。
 水色のドレスを着た小柄な赤毛の女性が、白球にキューを構えながら、
「いらっしゃい、お嬢さん。――それで、あたしが思うに、指導者ってのは強くないといけないと思うわ。魔力でも武力でも、いざというときに先陣を切れるのが真の指導者ってものよ」
「君にしては珍しく、古くさいことを言うな、チェリア」紫色の髪をした青年が、キューの先を布で拭きつつ皮肉げに口の端を持ち上げた。「力だけを求めていては、今の王制とまったく同じ理論になってしまうよ。やはり指導者とはカリスマ性だよ。民の心を掴み、導いていける者でなければならない」
「生まれたてのひよこみたいに弱々しくても?」赤毛の女性が小さな肩をすくめた。
「戦争に勝つためには、強い指導者のほうがいいだろうね」紫色の髪をした青年が、突き放したようにこたえる。「でも、これからの時代、戦争だけで食っていけるとは思えない。平和な時代を長く続けることができる指導者を捜さなくちゃね」
「それでも戦争が起こっちゃったらどうするのよ。会議室に引っこむだけの指導者じゃ、兵の士気は上がらないわ」
「それは極論じゃよ、娘っ子」丸眼鏡の老紳士が白髪交じりになった水色の髪をなでつけた。「しかしこれからは、どんな指導者であろうと、民の中から民を率いる者を選ばねばならん。見つけ出すのはそう簡単なことではないぞ。天性のカリスマ性を持つ者でも、教養がなければ人民の心を動かすことは不可能じゃ」
「だからこそ、教育の向上が必要なんだ」紫髪の青年が冷めた態度を保ちつつ、熱く語った。「この会の参加者たちが示すように、男女問わず、高い教養を身につければ高度な議論ができることが証明されている。古い習慣にとらわれずに、女の子にも教育を施すべきだ」
「それに異論を唱えるバカはこの会にはいないだろうな」
 ノーストが鼻で笑うように告げた。それから臙脂のヒゲが生えた顎をシェラのほうへ向ける。
「アーゼンでは男女ともに教育機関が設立されていると聞きますが、本当でしょうかね、お嬢さん」
「あ……はい」シェラはいきなり話題を振られて焦った。「あの、本当です。わたしは七歳から十二歳まで幼年学校へ通い、十三歳から十五歳までは女学校で暮しました」
「素晴らしい。アーゼンは進んでいるな」
「風習が違うので。グルディンにだっていいところはありますわ」
「たとえば?」と、紫髪の青年がビリヤード台に身を乗り出した。
「う……そう言われると、ええと……」
 とっさに何も思いつかなかった。食べ物がおいしい――いや、アーゼンのほうが作物が豊かだ。ドレスが素敵――アーゼンの装束だって負けてない――装飾品が華やか――というより、ごつくてセンスがないかも――宮殿がきらびやかで――それはこの場では話してならない内容だ――。
 シェラは答えに窮して、上擦った声を絞り出した。
「す……素敵な殿方がいらっしゃることかしら。背が高くて、がっしりとしていて。とても魅力的です」
「アーゼンの男は情けないの?」赤毛の女性があけすけに言った。
「比較的、なよやかな人が多くて……」シェラは必死になって目元に笑みを作った。「グルディンの方のほうが頼りがいがありそうですよね」
 アーゼン人は男女の区別が薄く、身長差もほとんどなければ、服装にもほとんど違いがない。あげく、男女問わず花を身にまとうので、他民族には一見して男か女か判断がつかないらしい。
 そのためか、アーゼン男子は全体的に気性がおとなしく、繊細だ。女性関係にも潔癖な男が多く、押しも弱い。そのため他民族からは弱気だの気鬱だのと言われている。
 それに対してグルディン人は、背も高く、恰幅のよい者が多い。女遊びも豪快なほうが男らしいと言われているくらい、派手だ。
 それを「頼もしい」と言っていいのかシェラにはわからなかったが、彼女のよく知るグルディン人の男性――フェイは、穏やかで頼りがいのある、素敵な男性だ。
「まあ、筋肉質な男のほうがいいってのは、あたしも認めるけどね」赤毛の女性は小さな手で琥珀色の液体の入ったグラスを持つと、一息に空けた。「酒が強くて甲斐性のある男が最高よ、結局」
「は、はあ……」シェラは意味がわからないなりに頷いた。
「――という、個人的な嗜好の問題はともかくとして、アーゼンの教育制度には見習うべき点が多いと思うんだけれど、どう思う?」
 紫髪の青年がコツン、と白球を打った。
「じゃが、あの国の真似をしても、あの国のような人間を大量に生み出すことになるのではないかね。わしは反対じゃ」丸眼鏡の老人は眉をしかめた。「お嬢さんには失礼だが、あの国の人間はいけすかん」
「それには同感だが、そもそも女性を労働力と考えないこの国のあり方が問題なのではないかね――」
 ノーストがやんわりと議論を移そうとしたとき。
「――ふざけるなッ! そもそもあの話を持ってきたのは君のほうなんだぞ!」
 シェラの背後から男の怒鳴り声が聞こえてきた。振り返れば、若草色の髪をした男――ツヴェンが立ち上がり、椅子に座っているフェイに掴みかかっている。
 フェイの赤がね色に染められた長い三つ編みが揺れた。「それは……」と呟き、俯く。
 ツヴェンはフェイの胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。
「なぜ、今更になって王座に執着し始めるんだ。君はもっと高潔な人間だと思っていたのに!」
 その声は怒声というより、悲痛な失望の響きを持っていた。
 フェイはツヴェンの青い眼をまっすぐに見つめた。
「私には……王太子として、いいえ、ひとりの人間として守るべきものができてしまったのです」
「やっぱり、女かい」ハッと、ツヴェンが吐息で笑う。「そんなもののために自分の思想を無碍にするとはな。僕は君を過大評価していたようだ」
「構いません。なんと言われようとも、私は彼女を守ります」
 トクン、とシェラの心臓が高鳴った。あの『彼女』とは、もしかして――自分のことだろうか。そうだったら嬉しい。
 シェラが期待をめいっぱいに詰めた視線でフェイを見つめていると、ふいに背後でパアンッと、火薬のはぜる音がした。
 人々が一斉に出入り口を振り返る。そこには、たくさんの部下を背後に、長い赤がね色の髪をした青年が宙へ銃を向けていた。その銃口から細い煙が上がっている。
「どういうつもりだ、ファーラフェイ」フェイによく似た声の青年――アークノインがツカツカと室内を横切り、シェラの前に立った。「こんな所へ彼女を連れてきて。お前は自分の身の危うさをまったく理解していないようだな!」
 と、シェラの腕を強引に引き、部下へ突き飛ばすように渡した。
「きゃあっ」
 勢いでシェラの面覆いがはがれ、豊かな淡い金髪があらわになる。
「……陽の民……!」周りの人々が目を剥いた。
「な、何をす……フェイ様っ!」
 シェラはフェイへと手を伸ばそうとするも、アークノインの部下に両腕を取られ、出入り口へと引きずられていく。
 フェイが鋭い碧の視線でアークノインを捉えた。
「どういうつもりなのです、アークノイン」
「それはこちらが先に言ったんだがな」アークノインは暗い笑みを浮かべた。「安心しろ、彼女はこの場に『いなかった』」
 次の瞬間、アークノインの高らかな声が狭い酒場に響き渡った。
「これより、我ら白鷲騎士団が貴様らを引っ捕らえる。――覚悟しろ、国賊の徒ども!」
 合わせて、彼の背後から部下たちが剣を手に駆けだした。
 混乱した人々が蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う。
「なぜ! アーク!」フェイは五人もの男たちに剣を向けられながら、冷静にアークノインを見つめた。「私を……裏切ったのですね」
 アークノインは一瞬、眉をしかめた。
「……裏切る? 先に手のひらを返したのはどちらだったか、牢の中でよく考えるべきだな」
 
 『民主論』の著者が幽閉されたことは、一日にして城下に広がった。
 皆が知りたがったその身の上は、けっして明かされることはなかった。
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