第四章 次男:勇二の章2

 一夜明け、俺は愕然とした。
 レイラたちが忽然といなくなってしまったんだ。
 彼らは朝早く出かけたんだろう。起きたのが太陽もそこそこ昇った昼前だったせいなのか、エゼルブルグ城には家主どころか、召使いの一人もいなくなっていた。金髪が目立ったレイラもいないし、俺を放り投げた庭師のムキムキなおっさんも見当たらない。
 痛む足で城中を探し歩いた結果、俺は人影を見つけることを諦め、閑散となった食料庫へ向かった。遅めの朝食にありつこうというわけだ。
 が、しかし。
 俺はけだるい腕を持ち上げ、最後のワイン樽に栓抜きのドリルで穴を開けた。
「……こいつもダメ、か」
 溢れてくるはずのワインは一滴たりとも残っておらず、内部はからからに干からびているらしい。
「それどころか、これだもんなぁ……」
 樽の前にしゃがみこんでいた俺は、渋々といった調子で立ち上がり、汚れのついた黒いスラックスをぱんぱんとはたいて辺りを見回した。
 リンゴが山のように積まれていた木箱は、空だ。洋なしの箱も同じく。それどころか、乾燥キノコや香草、小麦粉にいたるまで、すべての食材が倉庫から消えていた。レイラたちが城から出て行ったときに持っていったんだろうか。そんなバカな。多少の食料ならともかく、ばかでかいワイン樽の中から中身だけ抜いていくなんてことをするはずがない。
 俺は溜息をついて、痛む足を見下ろした。
 昨晩傷つけた左足は、どんどん腫れあがってきている。なんとか動くところから骨は折れていないだろうが、ヒビくらいは入っているかもしれない。それぐらいに痛みが激しく、動くたびに顔をしかめたくなる。
 痛む左足を引きずりながら、俺は食料庫の外へ出た。裏手へ回ると、井戸がある。
 昨日俺が壊した井戸は、つるべを落としたままになっていた。俺は足へ負担をかけないように井戸の縁に腰掛けると、カラカラとつるべを引き上げた。
 桶の中に水はなかった。
「っ、ちっくしょう。ここまでするか!?」
 誰へともなく憤り、俺は舌打ちした。いくら城を留守にするからって、井戸まで止めるか? いや、そもそもどうやって井戸を止めたんだ。水道でも閉めたのか? だとしたらこの井戸は湧き水じゃないってことになるんだが。
 乾いたつるべを井戸の底へ投げ込むと、カーンと硬い音が戻ってきた。完全に干上がってやがる。
「……水なしで人間がすごせるのは、三日だったっけ」
 ぞっとする計算を頭の中ではじき出しつつ、俺は水と食料を求めて厨房へ向かうことにした。足を引きずりながら城の地下へ向かう。螺旋階段を下ってすぐの場所だ。
 せっかく誰もいないんだ、少しぐらい物を拝借したっていいじゃないか。
 そんな甘い考えを、この城は許してくれなかった。
 結論から言うと、厨房にも食料や水は一つも置いてなかったんだ。

         ◆

 ドレッサーにあった女物の豪奢なピンクのドレスにむかって、俺は黙礼した。
 それから一気に引き裂く。ビビィとまさしく絹を裂く音がして、俺はえらく派手な色の包帯を手に入れた。綺麗なドレスを引きちぎるのは気が引けたけど、包帯に向いてそうな素材が他に見つからなかったんだから仕方ない。カーテンは分厚すぎたし、シーツもガサガサとした厚手の綿織物だった。現代みたいな薄い布地は使われていないみたいだ。
 俺は椅子の脚を折ってつくった添え木を左足に当て、ぐるぐるとピンクの包帯を巻く。
「……これで少しは痛みもひくかな」
 試しに床へ脚をついてみたが、痛みは劇的に減ってくれた。これならなんとかなりそうだ。
「この城のこと……できるだけ調べてみないとな」
 俺はそろそろと立ち上がり、男物のステッキを片手に歩き出した。城主のクローゼットで見つけた一品で、歩くのにとても役立っている。
 カツン、カツンと石造りの廊下にステッキの音が響く。この先の小部屋が城主の書斎だ。あそこならなにがしかの手がかりがあるだろう。
 木目込み文様のついた書斎の扉を開け、中へ入ろうとした瞬間。
 俺はびくりとして足を止めた。
 絨毯の広がる床から天井へ向かって、一本の木が生えていたからだ。
 木はそう広いとはいえない書斎いっぱいに枝を広げ、ご丁寧に小鳥の巣までついている。
「…………」
 ぽかんと口を開けたまま立ち尽くした俺へ、巣から飛び立った親鳥がチチチと鳴きながら飛んできた。鳥は扉をすり抜けて廊下の向こうへ消えていく。
「なんで……? 昨日は、なかっただろ?」
 昨晩、俺が一夜を明かしたのはこの部屋だ。こんなでっかい木が生えていたなら、当然気付いたはずだろう。誰かが昨日、植えたのか? それならせいぜいが苗木ぐらいだろう。なのに今生えているこの木は隆々とした枝を伸ばし、何十年も前からここにあったみたいな顔をしてたたずんでいる。
 この不可思議きわまりない事象に、俺はただただあんぐりと口を開けて木を見上げることしかできなかった。
「幻とかじゃ、ないよな?」
 俺は杖をつきながら、見事な枝振りを誇るその木に近づいた。太い幹は人が上体をひねったみたいにねじれていて、大きなウロが開いている。おそるおそる触ってみたが、ごつごつとした感触が返ってきて、頑としてそこに存在しているといったふうだった。
 俺はその堅い木肌をぺちぺちと叩く。
「なんてことない普通の木だよな……」
 ぼそりと呟いた、そのとき。
【――え、なにっ!? この木!】
 いきなり。
 ……ウロが、しゃべった。
 俺は三秒くらいその場で固まってから、ものすごい勢いで飛び退いた。
「な、何!? 何なんだこの木!? スピーカーでも仕込んでんのか!?」
【え、ちょ――勇にぃの声!?】
 即座に返ってきた言葉に、俺は息を呑んだ。
 勇にぃ――俺をそのあだ名で呼ぶのは、次女の秋代だけだ。
 俺は目の前にある数々の異常を無視して、ウロへ囓りくように飛びついた。
「秋代……秋代なのか? どこにいるんだ? 春海も一緒か?」
 返ってくる声も焦っている。
【ええっ、ちょ……、やっぱり勇にぃ生きてんじゃん! あの骸骨はなんだったわけ〜? 春海ならね、一緒にいたけど、はぐれちゃったの】
「骸骨? 何言ってんだ、お前」
【勇にぃそっくりな骸骨がいたんだよ、こっちには。あれが嘘八百なら、あたしたちが過去にいるってのも嘘だったのねッ、もう、ガセネタ掴まされちゃった!】
「過去……? まさかお前らも過去に飛ばされたのか!?」
 俺は思わずウロへ大声を投げ込んだ。
 秋代は一瞬押し黙り、
【お前ら、ってどういう意味よ、勇にぃ。……まさか、本当に十六世紀にいるなんて言いださないでしょうね】
 と、低い声でこたえてきた。
 俺は一度ぐっと押し黙ってから、秋代に負けじと大きな声を出した。
「そうだよ。俺はよくわからないけど、十六世紀にいる。お前らもここにいるのか?」
【…………】
 秋代は俺の質問に答えず、代わりに別の問いを重ねてきた。
【……勇にぃ、どこにいるわけ?】
「どこって、エゼルブルグ城に決まってるだろ」
【そのどこにいるのって聞いてるの】
「一階、階段奥の書斎だよ」
 頭の中で地図を展開しながら、俺ははっきりと答えた。
 秋代は間髪入れず、さらに明瞭な声で言い切った。
【あたしもそこにいるの】
 一瞬、言われている意味がわからなくて、俺は目を白黒させた。
「――はぁ!? 何言ってんだお前、都市伝説のメリーさんじゃないんだから、そういう恐いこと言うな!」
【勇にぃこそバカ言わないでよ。――だから、もしあたしたちがいるこの城がエゼルブルグ城なら、このバカでっかい木が生えてる一階奥の書斎にあたしもいるのっ】
「でも秋代。お前はこの部屋にいないだろ?」
【こっちにだって勇にぃはいないわよ。その代わりに殺人鬼がうろついてて、ほんと最悪なんだからね! ハルともはぐれちゃうし】
「殺人鬼って……」
 この誰もいないエゼルブルグ城に? 殺人鬼?
 そんなバカな、と否定しようとしたとき、俺の脳裏に兄貴のメールの一節が浮かんだ。

『――突然発狂した召使いによって、一家惨殺――』

 ゴクリ、と俺の喉が鳴った。
 俺が十六世紀に飛ばされたなら、秋代たちも過去に飛ばされた可能性だってあるかもしれない。それは俺とは違う、でも確かに存在した過去かもしれない。
 俺は嫌な予感を振り払うため、あえて軽い声の調子で訊ねた。
「……まさか、お前ら、十八世紀にいるとか言い出すんじゃないだろうな?」
【その台詞、さっきのあたしの真似?】
「いいから答えろって」
 秋代は一瞬押し黙ってから、もそもそと言い返してきた。
【十八世紀……っぽいけど、どうかはわかんない。ニールって男の子がいる……っぽい】
「確定だろ、それ。兄貴のメール覚えてないのか?」
【憶えてるどころかメモ付きだよ。勇にぃにそっくりの文字で】
「は?」
 俺は思わず首をかしげた。なんでも秋代曰く、十八世紀のエゼルブルグ城には、俺にそっくりの格好をしたうえに、俺のパスポートを持った骸骨がいたらしい。そいつのメモを頼りにニールを救おうとしているが、それで自分たちが助かるかは謎だそうだ。
 そこで俺は自分の事情を説明し、ニールを救うように強くすすめた。レイラとニール。この二人の呪いでこんなことになったとしか思えなかったからだ。
 しかし、救った後に秋代たちが俺のように食料も水もなくなってしまうのではないかと思うと、恐い。でも俺ははっきりと読んだんだ。『僕が掴まえているからね』というドイツ語の走り書きを。だからもう一人の霊から解放されれば、俺たちは自由になるんじゃないだろうか。そう期待して、俺は妹に自分の窮状を言わなかった。下手に心配させてはいけないと思ったのもある。
【――で、勇にぃのほうも、この変な木が生えてるんだよね?】
 秋代の胡散臭げな問いかけに、俺は素直に頷いた。
「ああ。結構でかいよな、この木」
【でかいなんてもんじゃないわよ。上の部屋まで突き抜けちゃって。樹齢何百年って経ってるんじゃない?】
「は? こっちは天井突破してないぞ。せいぜい五十年ぐらいだと思うが」
【うそ〜。やっぱりこっちのほうが二百年ぶん未来なんだぁ】
 秋代は大げさに【はぁ】と溜息をついた。
【なんか、変なのよ、この城】
 秋代は愚痴にも似た低い声で続ける。
【さっき廊下にチューリップ咲いてたし……。一瞬前まで空だった花瓶に花が活けてあったりして】
「なんだそりゃ。誰かいるんじゃないか?」
【だから殺人鬼がほとんど殺しちゃってるんだってば。そっちはそういうのないの?】
「さぁ――」
 俺が首をかしげたとき、ちょうど書斎の文机が目に入った。
 書きかけの手紙の残された机の上に、見慣れないグラスが置かれている。
「――水!」
 半分ほど水の入ったグラスを、俺は飛びつくようにして手に取った。
 これで水分の補給ができる。そう思って口をつけたとき、グラスの中で小さな赤いものがスィッとひるがえった。
 花びらか?
 いや違う。
 ――――――金魚だ!
 俺は口の中に入ってきた水を思いっきり噴き出した。
「うぼはうぇッ!!」
 奇声をあげて水をはき出す。
 ゴホゴホと咳き込んでいると、木のウロから秋代の窺うような声が聞こえてきた。
【ちょっとぉ、大丈夫なの?】
「だいじょ、ぶうぇっ! ぶへっ!」
 一通り咳いてから、俺は口元をぬぐいつつ、スラックスの尻ポケットから携帯電話を取りだした。
「こりゃ、そうとうおかしいな、この城は」
 パシャリと軽い音がして、携帯の画面に金魚が映される。写真機能で記録を取っていけば、より確実にこの城の異変に気づけるだろう。中学時代から写真部だった俺の実力をなめんなよ。
「俺もこっちで色々と調べてみる。また後で落ち合おう。俺はこのまま十六世紀を探ってみるから、お前らは無事でいろよ」
【そっちこそ。地下の暖炉裏でのたれ死んだりしたら許さないんだからねっ】
 ウロから返ってきた言葉は、相変わらずトキトキに尖って可愛くない、けれど元気な妹のものだった。

         ◆

 二百年後に届く手紙……か。
 俺は今の自分の状況を手帳に記しつつ、小脇に杖を挟みながらゆっくりと廊下を進んだ。
 殺人鬼のうろつく妹たちの世界とは違い、俺には脅威となるような存在がいない。いきなり襟首を掴んで外へほっぽり出してくるような住人たちもいないし、こそこそしなくていいだけ楽だ。まあ、代わりに味方の一人もいないんだが。この孤独に俺の精神が耐えられるうちは、特に主だった問題はないだろう――。
 ――と思っていた俺は、甘かった。
 突然「にゃあ」と猫の鳴き声がして、俺は廊下の先を見た。
 どこから現れたのか、一匹の黒猫が廊下の奥にいるじゃないか。
「猫っ、どこから入ってきたんだ?」
 猫好きなうえ、秋代と話した後で孤独感が膨れあがっていた俺は、思わず駆けよっていた。
 猫が走って逃げる、その後を追いかけて角を曲がった瞬間、俺はつんのめってその場でたたらを踏んだ。
 廊下にばかでかい穴が開いていた。落とし穴としか思えないそれは、暗い穴の底にたくさんのチューリップが咲いていた。ご丁寧に蜂まで飛んでいる。その穴の奥で、黒猫は丸くなって眠ろうとしている。
 なんて平和的な落とし穴なんだろう……。いや、ただの穴、か?
 俺が混乱のあまり後ずさると、今度は何か柔らかい物を靴の裏で踏んだ。
「うあっ」
 思わず足を上げると、めちゃりと靴の裏が鳴る。おそるおそる下を見れば――
 踏んだのは、ババロアと思われるケーキだった。
「なんで、こんなもんが……」
 呟いて後ろを振り返ると、廊下の両脇にずらりとケーキ皿が並んでいて、八等分にカットされたケーキがちょこんとのっているじゃないか。
 俺は開いた口を閉じれず、そのままぽかんと沈黙した。
 だって今通ってきた道にだぞ? こんなもんがあるわけないだろうが。
 混乱する頭とは対照的に、俺の腹がぐうっと鳴った。こんな怪奇現象を前にまったくもってのんきな腹だが、思えば朝から何も食べてないんだ。
 俺は震える手で携帯電話を取りだし、ケーキの並ぶ廊下を写真に納めた。これからは異変が起こる前の状況も撮っておこう。そうすれば後で何がどうなったのかわかりやすい。
 そして足元のショートケーキをおそるおそる手に取り、小さく囓りついてみた。
「……うまい」
 甘みの強いクリームに、苺の酸味が絶妙にマッチしている。口の中ではかなくほどけるスポンジがおいしくて、三口で食べてしまった。俺は次のケーキを手に取り、頬ばった。木イチゴのムースが甘酸っぱくて、これもまたいい。
 俺は夢中になってケーキを食べた。チョコケーキにモンブランやシュークリーム。どれも味は絶品だった。
 ただ、どれだけ食べても俺の腹がふくれることはなかった。
「とりあえずこんなもんにしとこう」
 口元をぬぐって杖をつき、立ち上がる。満腹感はなかったが、口が甘い物に飽きてしまったんだ。
「けどなぁ、いったい誰がケーキなんか作ったんだ? あの空の厨房で? そんなバカな」
 俺は改めて辺りを見回した。やはり人の気配はない。
「みんな隠れてるとか……? 俺を騙して遊んでる?」
 そんなはずはない。俺はガラスを割って不法侵入した男だ。普通なら騙す前にねじり上げて、ボコボコにしてから警察に突き出すだろう。
 色々な場合を想定しながら歩き、俺は小さな部屋へ入った。女向けの装飾がされた室内には見事なドレッサーがある。きっとこの城の奥さんの部屋だろう。
 部屋を眺め、俺はまず手元の携帯で写真を撮った。窓から差しこむ光が石造りの壁には反射している。
 それからドレッサーの引き出しを開け、中に入っている宝石類を物色――ならぬ、捜索した。別に貴金属が狙いじゃない。なにか役に立ちそうな物が入ってないかと思ったんだ。
「お、当たり」
 俺は宝石箱の中に、小ぶりな鍵が入っているのを見つけた。金でできているのかずっしりと重い。大きさは宝石箱の鍵というには大きすぎるし、扉の鍵というには小さすぎる。ちょうど金庫の鍵くらいだ。
「金庫の合い鍵ってとこかな。よし」
 その鍵を俺が目の高さへ掲げてみたとき、その背景がおかしいことに気付いた。急いで俺が壁に目線を戻すと。
 壁に、三枚の絵画が掛けられていた。さっきはなかったものだ。
「……は?」
 目の前で起こった変化に、俺は間抜けな声を出すしかなかった。
 壁には肖像画と思われる男の描かれたものと、花や果物が描かれたもの、風景の描かれたものの三つがかけられていた。
「嘘だろ……」
 俺の手元の携帯写真には、何もかかっていない壁が写っている。それを何度も確認し、俺は生唾を飲み込んだ。この城は完全に空っぽなのに、まるで目に見えない執事がいるかのようにどんどんと変化していく。それが……気味悪くなってきたんだ。やっとって言うのかな。今までは、考えただけで発狂しそうになるのを無意識に押しとどめるために、あえて恐怖を感じないようにしていたのかもしれない。
 俺は一階から逃げるようにして地下へおりた。ランドリーやアイロン室、暖房室も、もちろん人はいない。狩猟室や拷問室と思われる怪しい器具のある部屋にも、人影一つなかった。
 その間にも変な場所から生えてきたチューリップが咲いていたり、消してあったはずの照明がすべてついていたり、ないはずの花瓶に生花が活けてあったりした。
 それらの現象を見なかったふりして、俺は城を探索した。
 このままこの世界が狂いきったら、いったい俺はどうなるのだろう。
 秋代の言ったとおり、人知れぬ場所でひっそりと死んでいくのだろうか。
 そんなのは嫌だ。兄貴のようにとは言わないが、せめて迎えにきてくれる家族の一人ぐらいは欲しい。……四百年も待たずとも。
 俺は焦った。なにか、なにかあるはずだ。俺たちをこの時間から救う、すべが。ニールを救うのは秋代たちにしかできないが、それを手助けすることはできるかもしれない。なぜならここは過去だからだ。巧妙に隠せば、未来へはきっと届く。
 ……なにを?
 ふいに俺の脳裏へ、現実的な疑問がわいた。
 手にした鍵を見下ろす。金の鍵は光を返してテカリと輝いた。
 俺はいったい、秋代たちに何を届ければいいんだ――?

         ◆

 狩猟部屋と思われる地下室には、弓矢がいくつも用意されていた。
 そのうちの一つを手に取り、俺はしげしげと眺める。
「これなら、春海でも扱える……か? いや、やっぱ無理だな」
 ぽいっと机に弓矢を戻す。弓道の心得のあった兄貴なら立派な武器になり得ただろうが、春海や秋代じゃダメだろう。
 そのとき俺の脳裏に、兄貴が弓を射るときの真剣な横顔がうかんだ。
 普段はふざけたことばっかり言っている兄貴が、きりりと口元を引き締めて、それこそ射るような目つきで的に向かっているとき、俺はこのまま兄貴が別人になってしまうんじゃないかと不安になったものだった。それが、一矢放った後にこっちを向いたときには、もう緊張感なんか微塵も残っていない。へらりとゆるんだ笑顔で手を振ってくるだけだ。へたをすると試合の最中に投げキッスなんかを送ってきたりもした。
 『真面目にやればできる子』と言われていた兄貴に対して、俺は『真面目に取り組むだけが能の子』だった。
 特に五年前に母さんが病気で死んでからは、家事のうちほとんどが俺に回ってきた。いつも友達と遊び歩いている兄貴じゃあてにならないし、春海と秋代はまだ小学生だったから、自然と俺が料理を作ることが増えたんだけど。おかげで決して悪くはなかった学校の成績が、平均点をぎりぎりかするぐらいになってしまった。ただでさえ没個性的な俺は、学校という組織の中でよくあるものの一つになってしまったんだ。
 それでも大して不満に思わなかったのは、兄貴がよくよく俺をねぎらってくれていたからだった。
 ことあるごとに『ありがとうな』とか、『メシうめぇ!』とか言っては、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回してきた。細かいところによく気のつく兄貴だった。
 正直、その頃は大げさな態度にうんざりしていたんだが――こうして失ってみてよくわかる。俺はああやって褒められる度に小さな満足感を得て、癒されていたんだと。
 そんな兄貴はもういない。
 正直、複雑な気持ちだった。
 ずっとうざいうざいと思ってきた兄貴。俺よりもずっと要領がよくて、明るくて、みんなを笑わせて、人気者だった兄貴。
 いつも家族中心だった兄貴を、ねたましいと思ったのは一度や二度じゃない。
 本当は、誰よりも憎んでいたのかもしれない。
 ――なのに。
 兄貴を一番頼りにして、心の支えにしてきたのは、俺だったんだ。
「……今更すぎるだろ、俺」
 ぼそりとつぶやいて、俺はカツンと杖をついた。
 胸に渦巻く不安を振り切るように顔をあげる。
「なにか……他に武器になるものを探さないとな」
 秋代たちは殺人鬼に追われている。狭い――とも言えないか。この城よりは増築されているはずだから――城の中で武器も持たずに逃げ回るのも限界だろうと踏んだためだ。彼女たちを救うため、俺はなんとかこの時代の武器を未来に届けられないかと考えている。
 狩猟部屋を出て、隣の部屋へ向かう。
「っ、なんだ、ここは」
 そこは、拷問室だった。
 壁に取り付けられた拘束具。その下の壁には気味の悪い血の染み。重そうな鉄球は足につけるものだろう。巻き取られた長い鞭。木製のベッドには小型のギロチンが取り付けられている。そして、それにもうっすらと血の染みが……。
 あの有名などでかいマトリョーシカみたいな鋼鉄の処女? みたいなのはなかったが、充分に胸くそ悪くなった。
 俺はその部屋を見なかったことにして、地上へあがった。さわやかな空気が、最悪になった気分を和らげてくれる。
 軽く深呼吸して、俺は次の部屋に向かおうとし――
 廊下の壁際に立つ甲冑の手にある、細長い剣に目を止めた。
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