第三章 長女:春海の章

 気がつくと、石畳の上に眠っていました。
 わたしは冷たい石の感覚に驚いて、慌てて起き上がると、辺りを見回してみました。
「……どこ?」
 辺りは暗く、それこそ一寸先すら闇の中といったふうで、わたしは更に混乱しました。聞こえてくる轟音から、どうやら外は嵐みたいです。真っ暗な世界に激しい雨音だけが届き、ときおりゴロゴロと雷も鳴っています。部屋の中はなにやら妙な生臭さがありました。
「……わたしったら、あそこで夜まで寝てたの?」
 わたしは自分の記憶をたどりました。孝一兄さんが亡くなって、ドイツのエゼルブルグ城にきたところまでは覚えているんですが、そこから先はぱったりと覚えがありません。
「勇兄さん……? アキ?」
 名前を呼んでも返事一つないんです。聞こえてくるのは嵐の音だけ。わたしは心細くなっていつきちゃんの名前も呼びましたが、やっぱり返事はありません。
 やがて目が闇になれてきたんでしょう。正面を見てみれば、ここはどこかの屋敷のエントランスホールみたいです。エゼルブルグ城と違うのは、階段の作りです。あっちは優雅に曲がりくねって、二又に分かれていく作りだったのに、ここにある階段は上下の階でZ文字を描くように、斜めにまっすぐ作られています。
「ここはどこ? エゼルブルグ城じゃないの?」
「うーん……」
 こたえる声に見回せば、少し離れた場所に双子の妹の秋代が寝転んだまま寝返りをうっていました。わたしは闇の中で一筋の光を見つけたみたいに、妹へすがりつきました。
「アキっ! アキってば、起きてっ!」
 わたしが急いでアキをゆすると、アキは夢うつつといった様子で目を覚ましました。
「うーん、勇にぃってば、猫くらいで大げさだよお……――ってハル?」
 アキがわたしとそっくりの大きな猫目をぱちりと開き、起き上がりました。片手で目をこすると、呆然とした様子でわたしを見つめてきます。
 アキはわたしと同じ短めの指をついとわたしに向けて、
「ハル、その服、どうしたの?」
「え――?」
 自分の服を見下ろした瞬間、近くでドドンと雷鳴が轟き、わたしたちを一瞬だけ雷光が照らしだしました。
 その明りで自分の姿を見て、わたしは絶句しました。
 わたしの薄いピンクの服は、胸元からスカートまで、べったりと黒いシミがついていたんです。いいえ、黒じゃなくて、真っ赤に染まっていました。
「なに――これ、血?」
「ぎゃっ、あたしにもついてる!」
 慌ててアキを見ると、秋のGパンや黄色のジャンパーにも真っ黒く染みがついていました。
 上着の袖の匂いを嗅いでみると、錆びた鉄のような嫌な匂いがします。それはこの部屋いっぱいに漂っている生臭さによく似ていました。
 わたしたちは一瞬で真っ青になって、辺りを見回しました。そしてもっと青ざめました。
 辺りは一面、血の海だったんです。
「きゃあ――――!!」
 アキが叫びました。
 でも、わたしは叫び声すら出せませんでした。
 エゼルブルグ城と比べるとだいぶシンプルな柱が並ぶエントランスには、黒い影がごろごろと転がっていました。それらは皆、首を切られて倒れているこの館の使用人みたいでした。首を切り離されている人もたくさんいて、彼らの流した血で石畳はべったりと濡れています。
「こ、こんなの、一体誰が……!」
 明らかに他殺死体です。何者かが襲いかかって、彼らの首をなにか鋭利な物で切り落としたんでしょう。
 けれど一体誰が? どうやって?
 なにより、ここは一体どこなの?
 パニックのあまり呆然と座り込むわたしを、アキがぐっと引き上げてきました。
「に、にに、逃げようハル!」
「う、うんっ」
 わたしたちは身を寄せ合って立ち上がりました。
「で、でも、もしこの中に勇兄さんといつきちゃんがいたら……」
「いないってばっ、全部外人さんだもん!」
 もう一度雷が鳴り、薄紫色の光が辺りを照らしました。
 ちょうど近くでゴロリと転がった男の人の頭部――首から下のないその目が、うつろにわたしたちをとらえました。
「ひぃっ!」
「やぁっ!」
 その恐怖に歪んだ表情が脳裏にしっかりと焼きつきます。飴色の髪に青い瞳のそれは、白人さんみたいでした。きっとわたしたちはドイツのどこかの館にいるんでしょう。ここに来るまでの記憶がないですが、それでも国境を越えるほど移動していないでしょうから。
「と、とにかくここから出よう!」
「わ、わかったっ」
 アキに引っ張られるように正面玄関へ向かいました。
 必死に大きな扉へすがりつくと、二人で力一杯押し開けようとします。でも。
「なにこれ……鍵がかかってる!」
「うそぉっ」
 わたしたちは泣きそうな気持ちになりながら、大扉を押したり引いたりしました。内側の閂は開いているのに、びくともしません。まるで外に大きな石でも立てかけられたみたいに重く固く閉じられていて、どれだけ押しても開いてくれませんでした。
「出られないみたい。どうする?」
「どうしよう。他に人が生きてないか、さがしてみる?」
「それしかないみたいね」
 アキはぐっと真剣な表情をして、エントランスの絨毯上に転がる死体を見つめました。
 アキがゆっくりと歩き出し、手を繋いでいるわたしもそちらへ向かわなくちゃいけなくなります。血だらけのエントランスに道のようにしかれた絨毯が、びちゃびちゃと嫌な音をたてました。わたしはアキに引かれるがまま、恐くてほとんど目をつむっていましたが、その音の気色の悪さから吐きそうになりました。
 そうしてエントランスの階段までたどり着くと、わたしはアキに引きずられるようにして階段を上り、手短な扉に入りこみました。
 そこは細長い廊下を利用した細長いギャラリーみたいなところでした。左右の壁には絵画や鹿の頭が飾られ、優雅な彫刻や東洋の壺みたいなものが置かれています。
 T字型の廊下の曲がり角には、一人の侍女が腰を抜かしたように座り込んでいました。彼女は腕の中に幼い金髪の少年を抱きかかえています。
 少年は遠目にもわかる明るい金髪で、とても可愛らしい横顔をしていました。白いブラウスに短い紺色のズボンをはき、白いタイツをはいています。少年は侍女にひしと抱きつきながら、ひたと後方を見つめていました。誰もが天使と思うような顔立ちは恐怖に歪められ、今にも泣き出しそうです。
「Entkommen Sie bitte,Der Junge einer Mutter!」
 侍女は何事かを叫び、少年を手放して曲がり角の奥へむかって走らせました。少年は一目散に駆けていきました。しかし、侍女はその場にへたり込んだままです。どうやら彼女は足を怪我しているようでした。
 彼女が目を剥いて見上げているのは、西洋風の甲冑一式です。それが剣を片手に立っていました。その隣には、もう一体の甲冑があり、それが大きな草刈り鎌を――
 振り上げ、ました。
「Nein――!!」
 女性の悲鳴は血飛沫で中断されました。
 雷光がひらめく高窓を背に、血を噴き出す胴体と、刈り取られた首がゴトリと落ちる姿が影絵のように見えます。
 光の中でよく見れば、それは甲冑ではなく、騎士の兜を被った男です。服装はべったりと血に汚れた給仕服。兜のせいで顔はわかりませんが、振りかぶった大鎌が彼がどのくらい危険か教えてくれています。
 男は侍女を斬り捨てると、大鎌を振りかまえ、大股でこちらへ歩いてきました。その大鎌からは数滴の黒い――いえ、実際は赤い滴りが落ちていきます。
「や……なんなのッ!?」
「人殺しっ!!」
 アキがわたしの腕を掴んで後ろへ引っ張りました。
「ハル、こっち、早く!」
「う……うんっ!」
 アキは来た扉を戻り、血臭に満たされたエントランスの階段を駆け下ります。わたしもアキほどの運動神経はありませんが、必死でついていきました。
 階段を降りるうちに二階の扉が開いて、鎌男がやってきました。
 彼は重い足取りでゆっくりと歩いてきます。まるで獲物を追い詰める肉食獣のように、こちらが疲弊するのを待っているような歩き方でした。
「どうしよう、アキ……ッ」
「ああもう、こっち!」
 わたしたちは鍵のかかった玄関から反対側、階段下の中央扉へ向かいました。
 すぐ真上には殺人鬼がゆっくりと階段を下りてきています。
 わたしたちは決死の覚悟で両開きの扉を開け、中へ飛びこんで、すぐさま閂をかけました。
 扉の向こうは食堂と思われる部屋で、長いテーブルに真っ白なクロスがしかれています。その左右には上品な猫足の椅子がずらりと並んでいました。燭台の明りが不安定に照らす中を、わたしたちは走って逃げました。
「ね、ねえ、追いかけてきてる?」
 わたしが息を切らせて問いかけると、アキは鋭くこたえました。
「そんなの、わかんないよっ」
 そう言った途端、閂をかけた扉がドンドンッと叩かれ、カッという甲高い音がして、扉に大鎌の刃が突き刺さりました。ギィギィと扉を壊そうとする音に、わたしたちは震え上がりました。
「に、逃げるよっ」
 アキがわたしを促します。
 わたしたちは食堂から更に扉を抜けて、細長い廊下へ入りました。
「ハル、ここに階段があるっ!」
 アキが指さした先には、下へ向かう螺旋階段がありました。
 アキは走りながら脇目でわたしを確認します。
「降りよう、ハル。ついてこれる?」
「う、うん。たぶん……」
 わたしは足を止めて、一度呼吸を整えました。陸上部がほしがったアキの持久力に、わたしは完璧に負けていました。アキは日頃から部活の剣道部で走り込みや筋トレをしているせいか、とても足が速いんです。一方、わたしは手芸部で、運動音痴というほどではないけれど、あまり動くのが得意ではないんです。日頃の行いの違いでこんなに差が出るとは思いもしませんでした。
 そもそも、わたしたちは双子なのにずいぶんと性格が違っていて、活発なアキに比べて、わたしは昔からおとなしく、兄妹の中でも存在感が薄いほうです。……と言っても、勇兄さんよりはマシなんですが。
 などということをわたしが思っている間に、アキは螺旋階段を駆け下りていきました。
「もう、待ってよ、アキ!」
「速くおいで、あいつが来るよっ」
「もー、そういうこと言わないでよお!」
 わたしは急いでその後を追いかけました。
 涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえながら。

         ◆

 螺旋階段を下りて地下へ。
 狭い通路を通り抜けてランドリーと思われる部屋へ入ります。石造りの部屋には洗濯桶と、アイロンと思われる古めかしい作りの炭入れが置いてありました。
 そこを抜けると隣の部屋は暖房室らしく、大きな暖炉があって、ほとんど灰になった薪の中で熾火が赤く燃えていました。暖かい部屋の空気に緊張が少しほぐれたのか、アキとわたしは荒い息を整えようと、壁際に肩を寄せ合ってしゃがみ込みました。
「……もうダメ。これ以上は足が動かない」
 うずくまって震えるわたしに、アキは無理に笑ってみせました。
「軟弱だなぁ、ハルは。そんなんじゃ勇にぃのこと笑えないよ?」
「アキだって強がってるけど、足が震えてるじゃない」
「こっ、これはそのっ」
「いいの。全部わかってるから」
 わたしがお姉さんぶって頷いてみせると、アキは口をすぼめて舌打ちしました。
「ちぇっ、ハルってば実は余裕なんじゃん」
「そんなことないけど……アキはいっつもはじめに頑張りすぎて、すぐへばるから……」
 わたしの説明をアキは聞いていませんでした。アキは近くに積んであった薪の山へむかうと、そこから数本の薪を取り出して、暖炉へくべました。ぱっと灰が飛び散り、すぐに炎が上がります。
「とにかく今はあったまろ。ほら、おいで、ハル」
「うん」
 わたしたちはランドリー室にあったシーツを拝借すると、それを二人で被って暖炉の前にしゃがみこみました。
 パチパチとはぜる薪と揺らめく炎を見つめているうちに、わたしは気が緩んだのか泣けてきて、シーツに顔をうずめて鼻をすすりました。
「ハルったらまた泣いて。大丈夫、あたしがついてるじゃない」
 アキが呆れたような声で言い、背中を撫でてくれました。これじゃあどっちが姉かわかりません。
「うん……ほんとう、一人じゃなくてよかった……」
「まったくだよ。持つべきものは泣き虫な姉かな」
 そう言ってわたしをからかうと、アキは暖房室を見回して首をかしげました。
「ハルはここ、どこだと思う?」
「……わかんない」
「エゼルブルグ城じゃないってことは確かだよね。あそこがこんな風に人がたくさんいるはずないもん。ドイツのどっかのお城って感じかな」
「わたしもそう思う。けどそうなると、いつきちゃんと勇兄さんはどこ行ったんだろう」
「わかんない。あの時、ハル、どうなったか覚えてる?」
「覚えてない。本がぱらぱらってめくれて、笑い声がして……真っ白い光が」
「そんだけだよね。あたしもそこまで」
「わたしたち、人攫いにでもあったのかなぁ……」
 わたしは小さな声で呟きました。アキが「まさかぁ」と笑い飛ばしてくれると期待して。
 けれどアキも深刻な顔で答えるだけでした。
「攫われてきたとしても、なんとかしてあの鎌男から逃げないと。外は嵐だし、土地勘もないから森を抜けるなんて無理だし。今夜一晩はここに隠れてるのが確実かなぁー」
「でも、やっぱりお城の外に出たほうがいいんじゃないの? 助けも呼べるし……」
 わたしの提案に、アキは呆れて答えました。
「こんな大嵐の森を歩いて抜けられるとおもってんの? さっきから聞こえる遠吠えが、犬のじゃないことぐらい気づいてるんでしょ」
「それは……」
 わたしが口ごもったとき、パキンッと薪がはぜ、わたしたちは一瞬びくりと身をすくませました。すぐにアキが大きな息をつきます。
「ハァ――びっくりした。アイツが来るんじゃないかと思うとひやひやするわ。そこの扉についたてをしておくとか、できないかなぁ」
 アキが立ち上がり、扉のほうでなにやらごそごそとしています。
 一方、わたしはそのままそこから動くこともできず、じっと暖炉を見つめていました。
 どのくらいそうしていたでしょうか。やがてわたしは暖炉の炎の向こう側の茶色い煉瓦がおかしいことに気付きました。
「アキ。この暖炉……なんか、変」
 わたしは暖炉を指さして呟きました。
「どこが?」
「奥の煉瓦がスカスカなの。見て、ほら」
「ええ? どういうこと?」
 わたしが示した場所は、漆喰がきちんと挟まっておらず、間がスカスカとしています。
「もしかしたら、この向こうに何か、空間があるんだと思う。何か隠してあるとか……」
「ちょっと待って。いったん火を消してみよ」
 アキはランドリー室にあった水のはった桶を持ってきました。薪に水を注ぐと、ジュワッと煙と一緒に灰が舞い上がります。炎はすぐに消えました。辺りが暗くなったので、 わたしはスカートのポケットから携帯電話を取りだして、照明代わりにスポットライトをつけました。
「漆喰がないのってこの辺だよね――あちち、あちっ」
 アキは暖炉をまたぐと、素手で煉瓦を触ろうとしました。
「はい、これ」
 わたしが火掻き棒を渡すと、アキはそれで漆喰のない煉瓦の部分を突っつきました。
 ゴトリ。
 重い音がして、煉瓦がおもちゃのジェンガみたいにすっぽ抜けました。
 わたしたちは顔を見合わせます。
 アキは無言で煉瓦を突っつき、仕舞いには壁を突き崩してしまいました。
 壁の向こうには結構な空間がありました。暗くてよくわかりませんが、小部屋のようです。
「結構広いかも。もしかしたら隠れられるんじゃない?」
 アキが一仕事終えたというように額をぬぐいました。
 わたしはその後ろからこわごわと中をのぞきこみました。
「隠れられそう?」
「うん。奥に何かあるみたいだけど。これってさ、いわゆる隠し部屋ってやつだよね? すごい! ゲームみたい!」
「しっ、静かに。……うん、入れそう。だけど……入る?」
 わたしが気弱に問いかけると、アキも一瞬うろたえたように目を泳がせました。
「そ、そりゃ隠れられるんだもの。ちょっと暗いけどさ」
 アキも自分の携帯を取りだし、それから舌打ちしました。
「ちぇー、圏外かぁ。せっかく海外でも使えるケータイなのに」
「そんなの今はいいから。早く入ってみてよ」
 わたしがせかすと、アキは暖炉をくぐり抜けて隠し部屋へ入りました。
 わたしもくぐり抜け、崩れた煉瓦を二人で慎重に積み直します。入口をしっかりと直し、隠したあと、わたしたちは暗い部屋の中でやっと一息つきました。
「ああもう、どうしたらいいの……」
 また泣きそうになるわたしとは反対に、アキは携帯の明りを頼りに小部屋の中を探っていました。
「思ったより奥行きがあるみたい。けっこう広いよここ」
「そんなほうに行って、ネズミとか出たらどうするの?」
「そりゃ嫌だけどさぁ」
 そう言いながら、アキは小部屋の中を隅々まで照らしていきます。部屋には物らしい物はなく、部屋の隅に布の塊があるだけ――
 だと、思っていました。
「――きゃああああッ!!」
 突然アキの悲鳴が響き、わたしは思わず目をみはりました。
 アキの携帯が照らしていたのは、ボロ布の塊だと思っていた物体でした。
 小さな明りに照らされたそれは、黒い服をまとった人間の骨――
 白骨死体だったんです!
「これが噂の、子供の骨ってこと……? けど、子供にしてはでっかくない?」
 と、アキがわたしに抱きついてきました。
「あれは壁の中って話だったけど……」
 わたしたちは互いにひしと抱き合いながら、その骸骨を見つめました。
 すっかりと毛の抜け落ちた髑髏。壁に寄りかかるようにして座っている胴体は、綺麗に肉がこそげ落ち、黄ばんで古くなっていました。着ているのは黒いトレンチコートに黒のスーツ、白いシャツ。締めているネクタイまで真っ黒です。まるで喪服のような……と思ったとき、わたしの脳裏にまったく同じ格好をした人物がひらめきました。
 勇兄さん――次男の勇二兄さんです。
 考兄さんの喪に服していたため、日本から喪服を着てきていた勇兄さんは、この骸骨とまったく同じ姿をしていました。
 アキも同時にそれに気付いたのか、震える手で骸骨のかたわらに落ちていたショルダーバッグを指さしました。
「アレ、勇にぃと同じ鞄じゃない……?」
「うそでしょ、なんで勇兄さんがこんな……こんなところでいきなり、骸骨になってるっていうの?」
 アキはおそるおそるその鞄を拾い上げました。
「「きゃっ」」
 その際に鞄の上に乗っていた骸骨の左手が崩れ、わたしたちはびくりとすくみ上がりました。
 アキは古びたショルダーバッグを慎重に探ります。出てきた筆記具や手帳に見覚えがありました。アキが指先でそろそろと取り出したパスポートに記された菊の紋に、わたしたちは思わず息を呑みました。
 アキはわたしを見つめ、一度ごくりとつばを飲み込みます。
 わたしも同時に頷いていました。
 アキが震える指でパスポートを開き、一瞬、息を止めました。
 わたしはそれをのぞきこみ、小さく呟きます。
「うそ……」
 
   『YUJI SIROSAKI――――白崎 勇二』

 間違いなく、勇兄さんの名前でした。生年月日や住所もまったく一緒です。
 わたしは愕然とパスポートを見つめました。
「勇兄さんなわけないよ。だって……だって、たった数時間で、こんな骸骨になんてなるはずないもの!」
「そ、そうだよねっ! たまたまこの骸骨の隣に、勇にぃの鞄が落ちてただけだよねっ。ちょっと鞄もパスポートも古びまくってるだけで……」
 アキの声は乾いていました。
 わたしはパスポートの尋常でない古び方を見て、二の句がつげませんでした。黄色く黄ばんだ小さな冊子は、まるで何十年も前の物のようです。骸骨の服装もぼろぼろに破け、繊維が弱くなっているのが見た目にもわかりました。
 まるで……そう、まるで勇兄さんが何十年、何百年と昔に死んでしまったのではないかと思えるほどに、その遺体は勇兄さんそのものでした。そのものでありながら、あり得ないほど傷んでいるんです。
 わたしはわけがわからなくなって、アキのジャンパーをすがるように掴みました。
「あ、この手帳……勇にぃの」
 呟くや、アキは骸骨が右手に持っていた手帳を手に取りました。ぱんぱんと皮の表紙をはたくと、何か細かい埃のようなものが飛び散ります。
 アキはわたしにも手帳の中身が見えるように、それを携帯電話の明りにさらしました。
「やっぱり、日本語だ」
「勇兄さんの字にすごく似てる……」
 はじめのページは簡単なメモがしてあるだけでした。崩し文字に勇兄さん特有の右肩あがりな癖があります。ぱらぱらとめくると、3枚目から、細かな文字でびっしりと何事かが書き連ねてありました。
 わたしたちは互いの携帯の照明を当て、それを読み始めました。

『この手帳を見た人へ
 誰かが俺を見つける……なんてことが起こるとも思えないが、ここに書き記しておく。
 俺の名前は白崎勇二。一九九三年生まれの十八歳だ。
 そう。俺のいる時間――一五六八年からみると、ずっとずっと未来で生まれたことになる。ここの住人たちからすれば、俺は未来人ってわけだ。
 事情をはじめから書き連ねる余裕はないから、簡単に言おう。
 ここはエゼルブルグ城だ。
 そして俺は、この城から出られない。おそらくこの時間からもでられないんだろう。俺にはもう、同じ日を繰り返しているのか、違う一日なのかすらわからないんだけれど。
 俺はこの城の城主の娘、レイラの命を救ったんだ。
 井戸の事故で死ぬ予定だった彼女を救った。それが良かったのか悪かったのか、今の俺にはわからない。なにしろ、その日からぱったりと城の住人がいなくなってしまったからだ。倉庫にあったはずの食料も不思議と空になってしまっていた。
 城から出ても森の中をさまようだけで、麓の村にもたどり着けない。
 俺は完璧にこの城に閉じ込められてしまったんだ。
 飢えて死ぬもそう遠くないだろう――』

 そこまで読んで、わたしとアキは顔を見合わせました。
「つまり、この死体が勇にぃで……ここはエゼルブルグ城ってこと?」
「一五六八年って……。四百年以上も昔じゃない。そんなこと、あり得るはずないよ」
 わたしたちは目の前の髑髏をまじまじと見つめました。すっかり骨だけになった顔には勇兄さんの面影なんて残っていません。
「信じらんない、……けど、ほんとうに勇にぃのパスポートだし、携帯も……」
 アキは顔を引きつらせながら、鞄から取りだした青い携帯をぱかりと開きました。真っ黒な画面があるだけです。充電が切れているだけでなく、携帯には赤い錆が浮き、プラスチックの外装もぼろぼろになっていました。
 わたしたちは互いの顔を見て、頷きあいました。
「もう少し調べてみよ」
「うん」
 アキは勇兄さんと思われる骸骨の手帳を更にめくります。

『――ここから先は、俺の推測だ。もしかしたらまったく当てにならないかもしれないが、一応書いておく。
 俺が十六世紀に飛ばされてしまったとき、妹たちも一緒にいた。だがこの世界には俺だけだ。だからもしかすると――こんなことは思いたくもないんだが――妹たちも違う時代のエゼルブルグ城にいるんじゃないかと思ってる。
 兄貴のメールによると、この城の幽霊はレイラの他にもう一人いて、
 『もう一人は十二代目領主の次男ニール。こっちはすごいぞ、突然発狂した召使いによって、一家惨殺されたんだそうだ。この子は十八世紀頃にやってた増築のおかげで、壁の隙間に逃げ込んで唯一生き残ったものの、そこから出られず餓死』
 とある。
 もし俺の推測が正しければ、そしてもし妹たちも俺と同じ状況にあるとしたならば、あいつらは十八世紀の殺人鬼がうろつくエゼルブルグ城に閉じ込められているんじゃないだろうか。
 もしそうだとしたら、そして運良く妹がこの手記を見つけてくれたとしたら……。俺は妹に対してこう言いたい。
   春海、秋代、そしてもしかしたらいつきも。
   お前らを閉じ込めてるのは、ニールだ。
   そいつを何があっても助けろ。殺人鬼から救うんだ。
   それできっと、お前らは――もしかしたら、俺も――この城から出られると思う。
   お前らを救うためだったら、俺は何だってする。
   何だってするから。
   だからどうか、無事でいてくれ』

 そこで手記はぱったりと途絶えていました。
「勇兄さん……」
 わたしは震える手で目元をぬぐいました。勇兄さんらしい、朴訥とした文章に、この骸骨が勇兄さん以外の何者でもないと確信してしまったんです。
 勇兄さんが誰もいない過去で、飢えて死んでしまった。
 その事実がわたしの涙を止めどなく流させました。かたわらでひからびた骸骨を見下ろしながら、何度も鼻をすすります。
「泣いても仕方ないよ、ハル。今はどうにかして勇にぃの言ってるこの、ニール君? を見つけないと」
「で、でも……。考兄さんが死んじゃったばっかりなのに、勇兄さんまで死んじゃうなんて……!」
「でもここでうじうじしてたら、あの殺人鬼にニール君が殺されちゃうかもしれないんだよ? そうなったら……もし、勇にぃの言ってることが正しかったら……、わたしたち、一生この城に閉じ込められちゃうかもしれないんだよ? それともハルは勇にぃみたいになりたいの?」
「そ、そんなのは嫌だけど……!」
「だったら泣き止んで。あたし、あんたの子守までしてらんないからっ」
 きつい口調で言われ、わたしは思わず黙って俯きました。
 わたしは昔から泣き虫で、よくこうしてアキを苛立たせてしまいます。でも今はこんなところでグズグズしてられる状況じゃありません。自分の身体に「泣き止め泣き止め」と念じて、ハンカチで目元をこすりました。
 一方、アキは無言でぱらぱらと手帳をめくっていました。
「あれ? これ……、地図?」
 呟きに誘われて、わたしは手帳の最後のページをのぞきこみました。エゼルブルグ城の内部と思われる簡単な走り書きの地図に、ひとつだけ×印がついています。
「この印、何かな」
 わたしが首をかしげるとアキも同じ角度で首をかしげていました。
「わかんない。とにかくこの手帳、もらっておこう」
 ジャンバーのポケットに手帳を滑り込ませると、アキは改めて勇兄さんの鞄をあさりはじめました。
「パスポートに財布、ハンカチとティッシュ。筆記用具に携帯、それと……電子辞書!」
 ぱっと鞄から取り出されたそれは、真っ赤に錆びついた電子辞書でした。
 アキはそれをぱかりと開き、携帯を見たときと同じように、わたしへ黒い画面を見せました。
「チッ、やっぱり電池切れかぁ。こんなことなら考にぃの遺品の電子辞書、無理言って貰ってこればよかった。ドイツ語なんてできないけど、ここは気合いで行くしかないかぁ」
「ドイツ語の挨拶って、『ぐーてんたーく』だったっけ?」
「たしかね」
 アキはわたしに頷き返し、それからふっと考え込むように口元へ片手を添えました。
「――ねえ、ニールってさ、さっき逃げてった男の子のことかな?」
「わたしもそう思った。金髪の男の子でしょ?」
「そう。あの白タイツの子」
 わたしの脳裏に恐怖に歪んだ横顔が蘇りました。幼いながら端正な顔立ちには、殺人鬼への恐怖がありありと浮かんでいました。あんな幼い子が目の前で人を殺されて、錯乱しないはずがありません。あの後、一体どうやって逃げ延びたんでしょう。勇兄さんの手記を信じるなら、あの子には無事でいてもらわないと……。
「でもさぁ……」
 アキは嫌な予感を振り払うような声を出しました。
「あの子の格好さ、今時あんな白タイツなんてないよね?」
「うん。すごく古めかしい格好だった」
 わたしはニールとおぼしき少年の姿を思い出しました。白いブラウスに紺のズボンも時代がかっていましたが、あんな白いタイツをはくなんて、いくらドイツとはいえ、今時ありえません。
 自然と顎に片手を添えて、わたしは考え込むような仕草で呟きました。
「エントランスの雰囲気も全然違ったし……。勇兄さんの推測を信じるなら、ここは十八世紀のエゼルブルグ城ってことみたいだけど……。わたしたちの知ってるエゼルブルグ城とはずいぶん違うみたい」
「あの城は何度も改築されてるんでしょ? 昔のエゼルブルグ城の姿なんじゃない?」
「勇兄さんが生きててくれたら、きっとゴシックだとかルネサンスだとかって、詳しく教えてくれたのにね」
 建築に詳しい兄さんたちと違って、わたしたちはまったくそういったことがわかりません。それでもあのZ型階段が、現代の二又階段と違うことぐらいわかります。ここが本当にエゼルブルグ城なら、わたしたちはその過去にいるに違いありません。
 わたしたちは自然と勇兄さんの遺体を見下ろしました。
「もし、勇兄さんみたいに、この城に閉じ込められたら……。どうしよう。春からやっと高校生になれるっていうのに」
 わたしは看護士になる夢のために、春から念願の看護高校に通う予定なんです。このために一生懸命勉強して、中学三年の夏から冬を勉強漬けにしてしまいました。今思うとちょっともったいなかったなとは思いますが、後悔はしていません。なのに、このまま過去から出られないなんてことになったら……。そんなの絶対に嫌です!
「あたしだって花の女子高生になるために必死になって受験したんだもん、絶対に無事に日本へ帰るからね!」
 そう言ってアキは携帯を握る手に力を込めました。
「まずはニール君を捜そう。話はそれからだよ!」
「うんっ」
 わたしも涙をぬぐい、出入り口の暖炉の壁を振り返りました。

         ◆

 アキは手帳をぺらぺらとめくりながら、蝋燭の照らす暗い廊下を先導していきます。
「勇にぃの残してくれた地図、今のエゼルブルグ城とはだいぶ違ってるみたい。あんまり当てにならないかも」
「古い地図みたいだから、増築された部分は描いてないんじゃないかな」
「あー、一階だけなのか! それも中央部分だけなんだ。なーんだ、わかった、わかった」
 アキはぽんと手を打つと、ボールペンで地図に部屋を書き足していきました。
 わたしたちが今いるのは、城の一階部分です。さっきの螺旋階段を上り、食堂奥の廊下を歩きながら、扉の開いている小部屋をしらみつぶしにのぞきこんでいるところです。採光窓からのぞく外の森は真っ暗で、嵐が窓ガラスに水滴を叩きつけています。
 ニール君らしい姿はどこにもありませんでした。室内にときおり倒れている遺体の中にも少年らしいものはなく、皆この城の召使いのようです。全員が鎌で首を切られていて、血にまみれていました。この光景だけは何度見ても慣れません。わたしはこみ上げる吐き気を押さえこむのに必死でした。
 わたしたちは燭台を片手に、新しい扉を開きました。暗い室内からぷんと血の香りが漂ってきます。ああ、これは『ある』と、わたしの経験が反応します。
「ニール、いる?」
 狭いサロンのような小部屋には、床に転がった椅子と、それにもたれるようにして俯いた血まみれの遺体がありました。他の遺体と同じように首をざっくりと切られ、全身血だらけです。
 わたしは小さく息をのみ、叫び声を押し殺しました。
「……ほら、ハル。探すわよ」
 アキは気丈にふるまった声を出し、遺体を無視して部屋を探索し始めました。ベッドの下をのぞきこんだり、クローゼットをばっさりと開いたり。机の下やカーテンの裏を探していきます。
「……う、うん……」
 わたしは視界に遺体を入れないように努力しながら、そろそろと部屋の隅を確認するのが精一杯でした。しかし喉の奥からこみあがってくる物を押さえきれず、ついに部屋の隅で吐いてしまいました。苦くて不快な味が口いっぱいに広がり、涙がこぼれます。
「えっ、ハルっ! 大丈夫?」
 アキがわたしの様子を見て心配したのか、声をかけてきました。
「だい、じょぶ……」
 わたしは欠片も残っていない元気を振り絞って答えました。日頃から看護士になりたいと言っているのに、いざ人の死に直面したらこんなに自分が使い物にならないなんて、思ってもいなかったです。悔しさと情けなさで涙がこぼれました。
「わたしは大丈夫だから、ニール君を捜して」
「わかった。けど、無理しないでね、ハル」
 アキは優しい声で告げると、クローゼットの奥を漁り始めました。
「ニール、ニールくん」
 呼びかけにも応える声はありませんでした。
 そのとき、アキがわたしを壁際へ手招きました。
「――……ねえハル、この部屋じゃない?」
 わたしは吐き気を無理やりこらえて顔をあげました。
「なにが?」
「勇にぃの地図についてる×印だよ」
 そう言って、アキは手帳をわたしに押しつけました。地図にはこの部屋と元母屋と思われる場所の接点に、×印がついています。
「この辺の壁みたいなんだけど、またさっきみたいに隠し部屋でもあるんじゃない?」
 そう言ってアキは石造りの壁面をこんこんと拳で叩きました。
 この城の元母屋部分は無骨な大石がみっちりと組み合わされているんですが、増築部分は煉瓦のように小さく切られた石が組み上げられています。わたしはその壁へ近づくと指先で隙間をなぞり、アキへ首をかしげました。
「探してみるの?」
「もちろん」
 アキはコンコン、と壁を叩き始めました。
 わたしも蝋燭で壁を照らしてみます。何の変哲もない壁です。さっきの暖炉みたいに漆喰が挟んであるわけでもなく、ただ石だけが積み上がっています。
 でもその壁の石の一つが、妙につるつるとしていることに気付きました。
 何気なく触ってみると、そこだけ石の大きさが一回り小さかったんです。つるりとした感触の心地よさに掴んでみると、その石だけがすっぽりと壁から抜けてしまいました。
「アキ、この石、引っこ抜けたんだけど……」
「ええ? あららぁ」
「何か奥にあるみたい」
「ほんと?」
 アキは無防備に穴へ手を突っ込みました。
「あ、ほんとだなんかある」
 アキは穴から金色に輝く鍵を取り出しました。
「鍵?」
「ちょっと待って、まだ何かありそう」
 カサリという音がして、アキは古びた紙を取り出しました。書いてあるのは日本語です。またもや勇兄さんの筆跡でした。
 手紙には簡潔に、

『これは金庫の合い鍵だ。あの金庫は作り付けだから、きっと未来でも役に立つだろう。
                                     勇二』

 とありました。
「勇兄さん……助けてくれようとしてるんだ」
 わたしが呟くと、アキがしみじみと頷きました。
「手帳にも『何でもする』ってあったもんね……。くっそう、なんかいきなり勇にぃが格好良く思えちゃったかも」
「他にもこういう手紙、あるのかな?」
「わかんないけど、×印はこの場所だけだよ」
「そっかぁ」
「他にももっと残してくれてたらいいのにね」
 わたしたちはそろって頷きあいました。
「とにかく、いったん戻ってみる? あの殺人鬼ももういないかもしれないし」
「う、うん……。ちょっと怖いけど」
 わたしは扉に突き刺さった鎌の刃を思い出しました。あの後、あの殺人鬼はどこへいったんでしょう。わたしたちより早くニールを見つけてしまったりしてないといいんですが。
「とりあえず食堂から出て、二階に行こう」
「ニールを捜すんだね」
 わたしたちは互いに顔を見合わせ、頷き合いました。
 そうして食堂へ戻ったわたしたちが見たものは、無残にも壊されて大きな穴の開いた大扉でした。

         ◆

 食堂を軽く探してみましたが、それらしい人物は見つかりませんでした。
 あるのは真っ白い布がかけられた長いテーブルと、その上にぽつりぽつりと置かれた燭台、何十もの猫足の椅子だけです。壁には風景画がお洒落な額に入れて飾られていました。食堂はしんと静まりかえり、人影もなければ気配もありません。
「ニールくーん、どこー?」
 揺らぐ蝋燭の明りがアキのぶすくれた顔を照らしていました。
 わたしは壁を触る手を離して、アキを振り返ります。
「ここにはいないんじゃないかなぁ」
「かなぁ」
 アキはテーブルクロスの下をのぞきこみながらこたえます。
「じゃあ、あとは二階?」
「うん、そうなるね」
 そう言って、わたしたちは食堂を出て、階段をのぼりました。
 二階のギャラリーのような廊下はT字型になっていて、絵画や壺と一緒に、木彫りの扉がたくさん並んでいます。わたしたちはまたさっきみたいに、しらみつぶしに扉を開けていきました。
 サロンと思われる部屋には優雅な椅子と机が置かれています。寝室には天蓋付きのベッドが置かれているし、狩猟用具が所狭しと置かれた部屋には、鹿や猪の首から上の剥製がずらりと並び、うつろな目をわたしたちに向けました。ドレッサーと思われる部屋には婦人用のドレスがいくつもかけられていました。どれも役者の着るような古めかしいドレスで、わたしたちは改めてここが過去なのだと思い知らされました。
 手前から三番目のサロンで、アキは掃除用具を片手に死んでいる掃除係の女性から、モップを拾い上げました。柄の長いモップで、長く使われているのか汚れきっています。
「やったね、武器ゲットっ」
 ぶん、とモップを一振りして、アキがにんまりと笑いました。十数を越える死体を目にして、アキはすっかり死体慣れしているようでした。
「そんなの振り回して、危ないよ」
 答える私の声も、さっきよりはだいぶしっかりしています。この異常な状況に、徐々にですが、私の感覚も麻痺してきてしまっているんでしょう。
「ハルってば、あたしが何部か忘れたの?」
 アキは剣道の構えでモップをわたしに突きつけてきました。
「竹刀にはかなわないけど、結構いけるよ、モップも」
「魔女の宅急便じゃあるまいし。それであの殺人鬼にかかっていくなんて、無謀にもほどがあるよ」
「いーからいーから。ハルはあたしの実力を知らないんだよ。殺人鬼なんかイチコロにしてみせるんだからねっ」
 ひらりと手を振り、アキはモップをかついで部屋を出て行きました。
 わたしは仕方なくついていきます。いくら剣道の有段者とはいえ、アキは十五歳の女の子です。大人の、それもドイツ人みたいな大きな人にかなうわけがありません。
「でもアキ、本当に危なくなったら逃げてよ。アキが怪我するの、わたし、嫌なんだからね。殺人鬼が見つかったらすぐに隠れるんだよ?」
「ハルこそ隠れるときは静かに隠れなさいよ。めそめそ泣いて殺人鬼に見つからないようにねっ」
「う。そ、それは……」
 わたしは何も言い返せませんでした。涙もろいうえに恐がりなわたしが、一人でクローゼットに隠れたりしたら……きっとべそべそ泣いてしまうでしょう。その嗚咽を殺人鬼に聞かれでもしたら……。恐くってまた涙が出そうです。
 言い合いともいえない口論をしながらT字の角を右へ曲がったとき、廊下の奥から悲鳴か聞こえてきました。
 甲高い子供の悲鳴です。
 わたしたちは一瞬、そっくり同じな顔を見合わせました。
「いくよっ!」
「う、うん……」
 アキが素早く走り出しました。わたしもついて行きます。
 声がした一番奥の扉をアキが勢いよく開きます。中は子供部屋でした。入口の木馬がキィキィと音をたてて揺れています。
 玩具が散乱した部屋には、ベッド脇に座ったままぬいぐるみを抱えた少年と、それに向き合うようにして大鎌を振り上げた男がいました。男は甲冑のマスクをつけ、扉に背を向けて立っています。少年は鎌にやられたのか、足元が血でべったりとぬれていました。
「だめ――――!!」
 大鎌が振り下ろされるのを見て、わたしは思わず駆けだしました。
 ベッド脇の少年を抱きしめ、覆い被さるように守ってしまったんです。
 ビシッと嫌な音がしました。
 わたしは少年を抱きしめ続け、来るべき痛みのために目をつむっていました。
 けれどその瞬間はなかなか訪れません。おそるそる振り返ると、脇腹をアキのモップの柄で打たれた殺人鬼が、目標を誤ってベッドへ大鎌を突き立てているところでした。
「ハル、逃げて――!!」
 アキの叫びに、わたしは頷きもせず、少年を抱きしめたまま立ち上がりました。それから自分でも驚くぐらいの怪力で少年を抱え上げると、一目散に扉から飛びだします。
 ギャラリー廊下をつきぬけて、たまたま開いていた扉に飛び込みます。
 中は図書室のようでした。壁際は本棚で埋められ、中央には大きな本棚が背中合わせに並んでいます。鍵がないので施錠できませんが、わたしは扉を閉めると、大きな本棚の影に少年と二人でしゃがみ込みました。
 ほっと一息ついて、後ろを振り返ります。
「ありがとう、アキ。アキのおかげで助かっ――」
 にっこりと笑いかけた先に、アキの姿はありませんでした。
 わたしの全身の血がさあっと下がります。
 わたしったら、
 わたしったら……。
 アキを殺人鬼のところに、置いてきちゃった――――

         ◆

 わたしはブラウスの裾を歯で噛み、ビィッと引き裂きました。白く細い布を少年の足に巻き付け、きつく縛り上げます。簡易な応急処置ですが、これで止血できるでしょう。
 少年の足首は鎌にやられたのか、ざっくりと裂けていました。骨がむき出しになり、止めどなく血が流れ出していた傷口を思い出し、わたしは身震いしました。
 いけない、いけない。
 仮にも看護士志望なんだから、こんなことで怯えてちゃいけないのに。
 少年はわたしの仕草一つ一つに怯えていたみたいですが、手当が終わるとほっとしたらしく、表情を緩めて泣き出しました。何を言っているかわかりませんが、きっと『痛い』とか『助けて』と言っているんでしょう。
「大丈夫だから、落ち着いて。ね?」
 わたしは泣きじゃくる少年をそっと抱きしめました。本当はアキとはぐれて自分が泣き出しそうな状況ですが、子供を前に弱気になってはいられません。
 少年はひっくと息をのむと、やがてゆるゆるとわたしに寄り添いました。
「ニール」
 わたしが優しく名を呼ぶと、彼は驚いたように身を離して、目を一杯に見開きました。
「Warum wissen Sie meinen Namen?」
 何かをドイツ語で言っていますが、わたしにはさっぱりわかりません。
「わたしは春海。ハル」
 自分を指さして、もう一度ゆっくりと言い聞かせます。
「ハル」
「は、る……」
 つたない声で繰り返されて、わたしは思わずにっこりと微笑みました。
「そう。ハル」
 その笑顔がニールにはどう見えたんでしょう。少年は急に目元をうるませると、ぎゅっとわたしに抱きついてきました。
「Helfen Sie mir,はる!」
「しー、静かに」
 声を潜めたのが伝わったのか、ニールは無言で頷きました。
 家族や召使いたちが軒並み殺されてしまった今、ニールが頼れるのはわたしだけです。頼りなげに見上げてくる青い瞳には、不安と恐怖が色濃くありました。
 わたしだってアキがいなくて不安です。でもそれを表には出すまいと、ぐっと口元を引き締めて少年の小さな肩をかき抱きました。
 ……しっかりしなきゃ。ニールが頼れるのはわたしだけなんだから。
 それからどれぐらい経った頃でしょう。わたしがニールのやわらかな金髪を撫でたとき、ニールのお腹がぐぅっと鳴りました。
 ニールは小さな手でお腹を押さえ、顔を真っ赤にして俯いてしまいました。
 わたしはにっこり笑います。
「お腹がすいたの?」
 ニールは俯いたままぴくりともしませんでした。
 わたしがにこにこしていると、今度はわたしのお腹が派手な音をたてて鳴りました。
「……キッチンに、行ってみようか」
 ニールの手を引いて立ち上がりました。
 彼は一瞬抵抗しましたが、またお腹が鳴ったため、黙ってついてきました。

         ◆

 ひっそりと食堂を通り抜けようとしたわたしたちは、驚いて足を止めました。
 食堂のテーブルには、豪華な料理一式が準備されていたんです。
 二人分の席には、綺麗に並んだナイフとフォーク。焼きたてのドイツパンに、温かいスープ。サラダはすでにドレッシングがかかっているのか、ツヤツヤと照り輝いています。湯気をあげる肉料理は分厚いステーキ。魚料理には白いソースがかかっています。中央に置かれた篭にはリンゴや洋なしなど、フルーツが山盛りにのっているじゃありませんか。
「どうして? さっきはなんにもなかったのに……」
 明らかに今さっき準備されたように見えるフルコース一式に、わたしは驚きを隠せませんでした。
「もしかして、他にも生きてる人がいるの? シェフとか?」
 豪勢な食事を前に、わたしが立ち尽くしていると、ニールは繋いでいた手を離して椅子へ駆けよりました。慣れた仕草でちょこんと席に座ると、フォークとナイフを小さな手にとって、上品にステーキを切り分け始めます。
 ニールは一口ぱくりと食べて、
「はる、Ich bin kostlich!」
 わたしへにっこりと笑いかけると、同じく料理がセッティングされた向かいの席へ手をさしのべて、座るようにと促しました。
 わたしはおずおずと席に着きました。辺りを見回してみましたが、蝋燭が照らす薄暗い室内に、他の人の気配はまったくありませんでした。
 わたしは銀のフォークを手に取り、ドレッシングで艶めくサラダをそっと口に運びました。
「――おいしい!」
 香草風味のサラダはお酢の酸味がきいていて、わたしの口にとてもよく合いました。
 重量感のある銀のナイフでステーキを切り分けると、中はほどよくレアです。赤みの残る肉をソースと絡めて口へ運べば、そのおいしいこと。今までに食べたことのない茶色のソースが抜群においしく、かみしめれば肉汁があふれてきます。おそらく肉質そのものは日本のそれと比べれば劣りますが、空腹という名の調味料が加わったお肉は、実際の五割増しでおいしく感じられました。豪勢で温かいディナーを、私は夢中でほおばりました。こんな状況にありながら食欲の減らない自分を、内心でそら恐ろしいと思いながら。
「……でも、いったい誰がこんな料理をセッティングしたの?」
 澄んだコンソメのスープを口へ運びつつ、わたしは呟きました。
 向かいで大きなドイツパンをちぎっているニールは、何も不思議に思っていないようです。こうして素晴らしい料理を出されることが当たり前の生活をしてきていたんでしょう。
 色々と聞きたいことはあるものの、ニールはドイツ語しか話せません。わたしのつたない英語すらまったく通じないため、身振り手振りでなんとか意志を通じさせるしかないんです。
 おいしそうに料理をほおばる少年を眺め、わたしは独りごちました。
「こうして料理が作られたってことは、まだこの城に生きた誰かがいるってことなんだよね……」
 白身魚の骨をナイフとフォークで不器用に取り除きながら、状況を想像します。
 殺人鬼がお城中の人々を殺して歩いているなか、一人気づかず料理を作り続けているシェフ。給仕が来ないために、自ら食堂へ赴き、料理をセッティングするも、すぐ隣のエントランスの死体に気付き、慌てて外へ――
 ありえなくはないと思います。でも、こんな可能性はほとんどないと、理性が告げていました。あちこちに死体がある城で、誰がのんきに給仕なんてするでしょう。それにスープだけならまだわかりますが、すべての料理が一度に並べてあるんです。コース料理の出し方としてはいささか不自然でしょう。……もしかしたら、この時代ではまだ、フルコースの出し方が違っているのかもしれませんが……。
 わたしが首をかしげながら篭に盛られたフルーツへ手を伸ばしたとき。
 ギィィィ、と妙に響く音がして、エントランスから食堂へ通じる、穴の開いた大扉がゆっくりと開きました。
 少しずつ、暗いエントランスに立つ、兜を被った給仕服の男が姿を現します。
 男の持った鎌が蝋燭の明りにギラリと光りました。
「――――!!」
 わたしたちはとっさに椅子から腰を浮かし、男とは反対側の扉へ向かって走り出します。
 二人で扉へかじりつき、押し開こうとしたとき。
 カッと、扉に大鎌が突き刺さりました。
 男が鎌を投げつけてきたんです。ニールの頭上、わたしの顔の真横に突き刺さったそれを、肝が冷える思いで見つめました。
 わたしたちが動きを止めた一瞬を、殺人鬼は見逃してくれませんでした。
 男は素早くわたしたちに駆けより、その血に濡れた手でわたしの首を掴もうとしました。
「きゃあッ!」
 とっさにしゃがみこみ、間一髪で避けました。
 ニールが何事かを叫びながら走り出します。
 わたしもとっさにそれにならい、ニールの後を追いかけました。
 彼は開いているエントランス側の大扉からするりと逃げていきます。わたしもそれに続きつつ、ちらりと後ろを確認しました。
 殺人鬼は扉にささった大鎌を抜こうと必死になっているところでした。大の男が力一杯引っ張っても抜けない様子からして、凄まじい力で投げられたんでしょう。あれに当たっていたら命はなかったことは確実です。
 わたしとニールは一目散にエントランスの階段を駆け上り、二階へ逃げました。
 先を行く少年は、今度はギャラリー廊下には向かわず、反対側の吹き抜けのエントランスをぐるりと走る細いコの字型の通路へ逃げ込みました。エントランスの正面を飾る薔薇窓の下まで来ると、手すりの下に隠れるようにしゃがみ込みます。わたしもそれにならい、ニールの隣に座りこみました。
 やがて、殺人鬼の大鎌が石床をこするザーリ、ザーリ、という音が響きはじめました。
 男はゆっくりと階段を上ります。鎌がコンコンコンと木製の階段を叩きます。
 やがてまたザーリ、ザーリ、と石床を歩く音が聞こえ始めました。
 男はギャラリー廊下へ続く正面扉へ向かい、扉へ手をかけました。
 そのとき、ニールの足元でコトンと音がしました。震えた足が石床を叩いてしまったようです。
 小さな音は、静まりかえった吹き抜けのエントランスによく響きました。
 殺人鬼の被った騎士の兜が、ゆっくりとこちらを振り返ります。
 兜は辺りを眺めると、またザーリ、ザーリ、と鎌を鳴らして、今度はこちらへ歩き始めてくるじゃありませんか。
 コの字型の回廊に、逃げ場はありません。わたしたちは殺人鬼に見つからないよう、手すりより低く身を低くかがめたまま、にじりにじりと角を曲がって逃げていきます。
 殺人鬼の足取りはゆっくりでした。ザーリ、ザーリ、と大鎌が床を擦る音が聞こえます。
 わたしは今にも泣き出しそうになる自分自身を叱咤するのに必死でした。こんなところで嗚咽をあげたら、一発で見つかってしまうでしょう。わたしたちはただただ静かに、足音をたてずに逃げていきました。
 コの字型の回廊の端まできたとき、わたしはニールの手を掴み、正面扉へ向かってだっと駆け出しました。隠れられる角はもうありません。だから、さっきと同じようにただ走ったんです。
 ニールの足の怪我のことを忘れて。
 さっきは恐怖で痛みが麻痺していたのが、今はそうではなかったんでしょう。走り出してすぐ、少年は顔をしかめて叫び声を上げると、足を抱えてしゃがみ込みました。いきなりかけだして、ひねってしまったのかもしれません。
 殺人鬼が走り出す、バタバタとした足音が迫ってきます。
 わたしはもう一度少年を抱え上げようとし、腕の力の限界を感じました。きっと最初に抱えたときほどの混乱が、今のわたしには起こっていなかったんだと思います。
 ニールを抱えて逃げ切ることなんてできない。
 困惑するわたしの視界に、狭い壁の隙間が見えました。どうやらこの城は増築部分と母屋の部分に細い隙間があるようです。わたしには入り込めませんが、ニールなら大丈夫でしょう。
 わたしは力を振り絞ってニールを抱き込み、その細い隙間へ挟みこみました。
「奥へ! 逃げて!!」
 手で少年を押しこみ、もっと奥へと合図します。
「鎌の届かないところへ、逃げて!」
 ニールは戸惑いながらも後ろ向きににじり下がっていき――
 ぐらりとよろけました。
 そのまま背中側から倒れていき、ストンと視界からいなくなってしまいました。
 わたしは一瞬、呼吸を忘れました。
 ニールが、落ちた。
 壁の隙間から。
 下ってことは、一階?
 一階にそんな隙間、あった? いや、ない。
 バタバタと迫る殺人鬼の足音が、いやに遠く感じました。わたしは呆然としたまま、その場に座りこみそうなほど気力が抜けていくのを感じていました。
 この隙間は、一階の壁の隙間部分へ通じる、穴になってるの?
 穴って。出られるの? 
 ……うそ。
 そのとき、わたしの脳裏に考兄さんのメールの一説が蘇りました。

『この子は増築途中の壁の隙間に逃げ込んで、唯一生き残ったものの、そこから出られず餓死』

 餓死。
 そんな、うそ、うそでしょう?
 全身の血が足元へ向かっていきます。考兄さんの死を知ったとき以来の感覚が、わたしを襲いました。
 どうしよう。
 わたしがあの子を殺したんだ――――!!
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