第二章 次男:勇二の章1 混濁した意識の中で、夢を見た。 小さな井戸をのぞきこむ金髪の少女。赤い外套をしっかりと着込んで、歌を歌いながら、たゆたう水面に鏡のように自身を映している。 その頭越しに揺らめく古いつるべ。 ギシリ、とつるべが揺れる。 ギシリ、ギシリ。 ギシギシギシ。 カン、と木の割れる音がして、つるべが落ちる。 井戸をのぞきこむ少女の後頭部を目指して。 硬いモノをしたたかに打つ音がして、少女の短い悲鳴があがる。しばらくののち、ぼしゃんと水面を打つ派手な水音が響き渡った。 つるべと共に、金髪の少女が水に浮かぶ。 『冷たい――!』 異国の言葉なのに、俺にはその意味だけが届いた。 『寒い、助けて、お母さん――!!』 助けを呼ぶ声が細い井戸の中で反響するも、誰も気付かない。 いつまでも、いつまでも。 少女は叫び続けた。 いやな夢だった。 頬に感じる冷たい石の感触で目が冷めた。体中が冷え切って、かちかちにかじかんでいる。寝返りを打つと、全身のいたる所が痛い。おそらく石床に長く寝転がりすぎたんだろう。 俺がそろそろと起き上がると、辺りは真っ暗だった。 月の光がわずかに差しこむこの場所は、どこかのエントランスホールのようだった。きっとあのままエゼルブルグ城で夜まで眠ってしまったのだろう。そう思って闇に慣れた目で見れば、あの二又に分かれた優美な階段はなく、無骨な大扉が鎮座しているだけだった。それどころか三階建てだったはずの建物は一階しかないように見えた。もちろん、兄貴を押しつぶしたあの瓦礫の山もない。 「ここは……? エゼルブルグ城じゃないのか……?」 俺はぽかんと辺りを見回した。 エゼルブルグ城のエントランスに並んでいた太い柱はなく、代わりにアーチ型の穴の開いた壁が並んでいる。あの装飾華美だった彫刻や天井の絵画は、額縁に入った小さなものになっている。飾りといえば、城主が狩りでとったと思われる鹿の頭の剥製と、壁の燭台くらいだった。 全体の作りもエゼルブルグ城よりずっと無骨でシンプルだ。一階建てだし、石積みの壁に装飾はほとんどなく、飾り梁が多少目立つ程度。無骨な壁面は古典的なロマネスク調の建物を思わせる。 しかし、それほど古いとも言えないようだ。石造りの城はきっちりと手入れがされていて、壊れたりヒビの入っている場所は補修されている。近くに人の気配はないが、燭台に飾られたろうそくは短く溶けていて、誰かしらが住んでいる気配があった。 「ここは一体、どこなんだ? みんなは……?」 四つん這いのままそろそろと辺りをうかがうも、妹たちの気配すらない。 「春海、秋代、いつき? 誰かいないのか?」 こたえはなかった。しんと静まりかえったホールに俺の声がこだまする。 俺は萎えた足でよろよろと立ちあがり、固く閉ざされた奥の間へつづく扉を押し開けた。 「……ここにいるのか? まったく、いつき、こんなときにかくれんぼなんかするなよ」 ぼやきは揺らぐ明りにかき消された。 エントランスからつづくその間は、長いテーブルが中央に鎮座する食堂だった。壁とテーブルの上にぽつぽつと置かれた燭台の光が、不安定に辺りをうつしだしている。 テーブルの奥には三人の男女が腰掛けていた。給仕にワインを注がれている太った壮年の男。上品にナイフとフォークを皿へ向けている金髪の女性。そして、今まさに肉料理を口へ運ぼうとしていた明るい金髪の少女。不思議なのは、みな古式ゆかしい正装やドレスを着こんでいて、まるで映画の一場面のようだったことだ。 一瞬の沈黙の間、俺は少女の青い目とばっちりと見つめ合ってしまった。 「Wer sind Sie?」 聞き取れないドイツ語で館の主人と思われる太ったおっさんが叫んだ。 すぐに給仕をしていた背の高い男が駆けよってきて、俺の腕をがしりとつかむ。 「Was machen Sie hier? Ist das Bauen hier und die Verwirrung, das ich es den feudalen Herrn kenne!?」 「wha……what's?」 英語しか話せない俺は必死になって問いかけた。けれどまったく通じなかったようで、腕をねじり上げられて拘束された。 給仕は早口のドイツ語で主人へ問いかけた。 「Er ist ein Orientalisches.Konnte es die Person der Reise sein, aber was wurden Sie machen?」 「Schicken Sie diesen Mann!」 主人は俺を指さして叫んだ。 即座につりあげるように引きずられ、扉の外へ連れて行かれる。 「ちょ、ちょっと待ってください、俺は怪しい者じゃありません!」 「Werden Sie schweigsam!」 暴れようとしたところにやってきた庭師と思われる筋骨隆々とした男に、俺はなすすべもなく押さえこまれ、門からぽいっと城壁の外の森へ捨てられた。 そのときちらりと見えた小さな井戸に息をのむ。さっき見た夢の井戸とまったく同じだったからだ。 だがそれ以上に、俺を唖然とさせたものがあった。 それは外から見たその館の外観だ。 無骨な石造りの、四角い箱のような館。塔はなく、簡単なくりぬきアーチの窓と扉があるだけだ。柱の装飾も直線的で、古典形式といえば聞こえはいいが、野暮ったい作りだった。瀟洒なエゼルブルグ城とは比べるまでもない。 ……一体、どこに来てしまったんだ? オオカミの遠吠えが聞こえる森の入り口で、俺は愕然と立ち尽くした。 ◆ 覆い茂る下生えの草をざくざくと踏みしめながら、俺は前方に見える灯火を見つめた。 ちかちかとまたたく小さな明りが、今度こそ麓の村のものだと信じて。 いつの間にか陽はとっぷりと暮れ、背後の山からはフクロウの鳴く声と、ときおり狼の遠吠えがこだましてきている。そのたびにびくりと身をすくませながら、俺は自身の無事を祈った。どうか狼や熊とご対面なんてことにはなりませんように、と。 小枝を避けるために前屈みになったとき、ぐう、と腹の虫が鳴った。俺は腹を押さえて空腹をかみしめる。麓の村に着いたらまず、どこでもいいから何か食おう。それから妹の携帯に電話して――そこまで思って、俺ははたと足を止めた。 ズボンの尻ポケットから携帯電話を取りだす。当然のように圏外だ。これはもうさっきからずっとで、山をどれだけくだっても電波の一本も立ちやしない。俺が今どこにいるか知らないが、ドイツでも相当な田舎にいるんだろう。 妹たちがまだエゼルブルグ城にいる――ことはないか。もうとっくに日も暮れている。俺のことを探しているかもしれないが、凍える三月の夕べにいつまでも外にいるとは思えない。きっとエゼルブルグの町に戻っているだろう。ならば、携帯もつながるはずだ。いざとなったら警察に事情を説明して、エゼルブルグまで帰してもらおう。 俺は肩からさげたバッグを抱き込むようにして前方の木を避けた。その拍子に、突き出た木の根につまづいてしまう。 「――ッわっ!」 受け身もとれず、俺はそのままゴロゴロと斜面を転がり下ってしまった。 「うう……っ、痛てぇ」 呻きながら立ち上がる。かなり盛大に滑り落ちたみたいだ。身体のあちこちが枝や茂みに打たれて、痛い。特に左足の足首をひねったみたいで、ズキズキとした嫌な痛みがある。 「やっべぇ、これは骨までいったか?」 足は動かないというほどでもないが、ツキンと響くような痛さだ。大丈夫だといいんだが。 俺は枯れ葉や土で汚れた服を払った。頭から枯れ葉を落としたところで、そばに革のショルダーバッグが落ちているのに気付いた。危ない危ない。この鞄を落としたりしたら大変だ。予約した宿の連絡先もこのバッグに入っているし、パスポートや帰りの航空チケットもこの中だ。大切な鞄をしっかりと抱き込み、俺は痛む足を引きずりながら更に山をくだり続けた。 麓の明りは徐々に近づいてくる。 やがて鬱蒼とした森がひらけ、その建物が見えてきた。 「……ちくしょう、またかよっ」 俺は足を止め、顔をしかめて舌打ちした。 目の前にそびえ立つ無骨な城塞のような建物は、さっき俺がほっぽり出された城館だった。俺が求めた小さな明りは、城壁の門に焚かれた篝火だったんだ。まったく、この館から出て山をおりていったはずなのに、その城へ戻ってしまうとはどういうことだろう。 実はこれが三度目の遭遇だった。 俺は鳴り続ける腹を押さえて城壁へ寄りかかった。空腹ももう限界だ。足も痛いし、ここからまたあの道なき道を進んで町まで降りる元気なんてものはない。それにこの森にはきっと、なにか道を迷わせる仕組みがあるんだろう。富士の樹海みたいに。 山を下りることを諦めた俺は、固く閉ざされた城門を見上げて立ち尽くした。ここで大声なんか出してまたあの厳つい男たちに連行されるのも嫌なので、そうっと鉄の柵を掴んでゆすってみる。びくともしない。 俺は溜息をついてうつむいた。 このまま、この森で夜を明かすしかないのか……? 門から見える城館を眺めてみる。美しく刈りこまれた芝生や植木のむこうに、簡素な四角い城館がたっている。端のほうは改修か何かしているようで、白い幕が張ってあった。玄関の飾り柱が闇にほの白く浮きあがるほかに、飾りらしきものは見当たらない。 「典型的なロマネスク様式だな……。いや、ロマネスク・リヴァイバルか」 どこの城か知らないが、今の俺には唯一の人間がいる場所だ。あんな風に放り出されたんだから、すでに一泊の宿を求めるには無理な状況だが、ドイツの寒い三月の夜風をしのげるならば、どうしたって入りたくなる。 『誰かいませんか?』 俺は門の鐵柵を軽く叩き、英語で問いかけてみた。 こたえる声はない。 門の横に備え付けられた門番用の小屋も明りがともっていなかった。きっと無人なんだろう。 俺はしばらく悩んだあと、エゼルブルグ城に入ったときに使った隠れた入口を思い出した。この城もドイツのものには違いないんだから、似たようなものがあるんじゃないだろうか。……似たような所に。 そう思い、茂みをかき分けてみれば、想像通り鉄柵のはまった小さな入口があった。 けれど太い鉄の柵が三本あって、どう身をよじっても入れそうになかった。 「……でも、いざというときに通れないんじゃ、隠し入口の意味がないし……」 俺は太い鐵柵を掴み、そっと上下に動かしてみた。 もちろんびくともしない。 はずだった。 なのに、少しだけ動いたんだ。上下に。 俺はしゃがみ込んだまま、鐵柵にぐっと顔を寄せた。 「……回してみる、とか?」 俺は思いつくままに鉄棒を回してみた。するとぐるぐると回るじゃないか。そのままスコンという手応えがあって、鉄棒が外れてしまった。 「ラッキー。これで中に入れる、か?」 俺は暗い前庭を物陰に隠れるようにして進み、その城館に近づいた。 辺りの空気はいっそう冷えてきて、俺は身震いしながら壁際に取りつく。やけに分厚い窓ガラスの中をのぞきこめば、真っ暗だった。月明かりを頼りに目をこらすと、見えてきたのは大きな書棚やどっしりとした文机。どうやら主人の書斎らしい。 俺ははやる気持ちをおさえて、窓をそうっと持ち上げてみた。びくともしない。鍵がかかってるんじゃなく、はめ込み式の窓らしい。 「仕方ない。人が来ないといいんだが……」 呟くや、俺は足元から手頃な石を掴んで窓ガラスへ左手を添えた。ええっと、音がしないようにガラスを割るにはどうするんだったっけ。セロハンテープを貼っておくとか聞いた覚えがあるな。そんなものを持ってきていないから、どうしようもないか。 俺はできるだけそっとガラスへ石を打ちつけた。 ――カシャン。 小さな音がしてガラスが割れた。俺は慎重にガラス片を取り除いて、人一人が何とか入りこめそうな穴を作ると、黒いコートをその窓へ引っかけた。 怪我をしないようにそうっと乗り越える。 そっと、音がしないように。 石造りの床にカツーンと俺の靴音が響く。 ぎょっとして息をのむも、辺りは無音。気付いた人はいないらしい。一晩とはいえ、不法侵入なんて生まれて初めてで、俺の心臓は早鐘みたいに鳴りまくっていた。 俺はコートを回収し、震える手で辺りを確認した。壁にあるのは火のついていない燭台と思われる蝋燭の燃えかすで、明りのスイッチと思われるものはなかった。 そっと辺りをうかがうも、人の気配はない。 俺は安心してその場にしゃがみこんだ。石造りの室内は冷えていたが、毛足の長い絨毯がしかれていて、生活のぬくもりがあった。暗い森の中を歩くのよりもずっと心が落ち着く。 俺はしばらくそうしていたが、やがて鞄の中に食べ物があったのを思い出してバッグをあさった。出てきたのは一本のスニッカーズだ。 「とりあえず今日のところはこれで済まそう」 俺は音が鳴らないように袋を破り、チョコの固まりにかじりついた。粘りけのあるキャラメルが歯にくっついてくる。甘い味が不安な気持ちを溶かしてくれて、俺は夢中でスニッカーズをかじった。そうしてコリコリとしたナッツの食感を楽しんでいるうちに、どこからか遠い足音が聞こえてきた。 「――!」 俺は慌てて文机の後ろへ回り込んだ。しゃがんで足音が扉の前を通り過ぎるのを待つ。 コツコツコツ……。と、足音は規則正しく部屋の前を通りすぎていく。 足音が充分に遠ざかったのを確認して、俺は文机から顔を出した。 「行っちまったよな……?」 そうしてまた文机に引っこむ。勢いで侵入してしまったはいいが、これからどうしよう。一晩この部屋に隠れて、明日の朝早くに出て行こう。そうすればきっと麓の町にもたどり着けるだろう。けれど、もしも見つかってお縄を頂戴した場合、どうなるだろう。妹たちに会えるだろうか? 警官ならここの人たちと違って英語も通じるかもしれない。いっそ捕まってみるのも手かもしれないと思い始めたとき、闇に慣れた目に、文机の下に落ちている書類が止まった。 「なんだ……? ドイツ語だな」 手を伸ばして拾い上げる。流麗な筆記体で書かれた文字を目で追うも、さっぱりわからない。 そのとき、鞄の中に電子辞書が入っているのを思いだした。あの中ならドイツ語の辞書も入っているはずだ。 俺はすぐさま電子辞書を取り出し、その場に座り込んで和訳をしはじめた。 内容は単純な手紙だった。 『親愛なる我が友、バイロンへ 長い冬も終わろうという季節だが、体調のほうはいかがだろうか。 そちらではもう春の先触れの花が咲いているかもしれないが、こちらはまだ雪が残っているくらいだ。いつになったら樹木の新芽が見られるのか、待ち遠しくてたまらないよ。 さて、この前の件に話を進めよう。 その節は我が城の修繕のために、多額の援助をいただき、誠にありがたい限りだ。君の言った通り、領民の心血が注がれたお金だから、過剰な贅沢はせず、慎重に使うようにと、しっかりと心得ているよ。 修築は順調に進んでいて、今年の夏にはできあがりそうだ。 そうそう、君がお勧めしてくれた建築家のカーライルくん。若いせいか、多少鼻持ちならないところが気になるが、彼が非常によい それから娘のレイラだがね、この冬で七つになった。まだまだ遊びたい盛りで、我が城を駆け回って遊んでいるよ。幸いにも器量のほうは妻に似てくれたから、いずれは立派な男の元へ嫁がせることができるだろう。そのときには彼女のこれまでのいたずらのこと、くれぐれも他言しないようにお願いしておくよ。 では、これからも君によき神の恵みがありますよう―― エゼルブルグ城より 君の友人 アルヴィン』 「エゼルブルグ城……?」 震える手で手紙を持ち、俺は放心したように呟いた。 手紙に折りたたまれた形跡はなく、まだ下書きのようだった。ならばこの城の主は、受け取り主ではなく、送り主だ。 となると、この城こそがエゼルブルグ城ということになる。 信じられるか? この無骨で典型的な古典ロマネスク調の建物が、あのエゼルブルグ城だというんだぞ。ありえない。あの豪奢なゴシック・リヴァイバルの城が、こんなちんまりとした城館だなんて。この城の主人は耄碌か何かしているのか? それともやはり、こちらが手紙を受け取ったほうだとでも? 俺は焦る目で手紙を読み返した。つるつると目が滑ってよく読めない。それでも忍耐強く文字を追うと、手紙の端に日付が書いてあるのを見つけた。 ――――一五六八年 三月 二十六日―――― 十六世紀……だって……? 俺は目の前が真っ暗になるということを、人生で初めて経験した。 ◆ 書斎で一晩を明かし、翌日の未明。 俺は自分の腹が鳴る音で目を覚ました。 「こんなときでも腹は減るんだな……」 苦笑混じりに呟いて、重い体を起こす。書斎を抜け出し、痛む左足を引きずって隠れながら、食料庫と思われる小屋に移動した。 小屋の中には小麦のふくろに混じって、果物が山になって置いてあった。俺は空腹の前になすすべなく青いリンゴをつかみ取り、盛大にかぶりついた。硬い。酸っぱい。甘さもそれほどでもなく、妙なえぐみがあった。まだ熟れていないんだろうか? それともやはり、ここが過去だからリンゴの品種改良も進んでいない、とかか。 「香りだけはちゃんとリンゴなのにな……いてっ」 左足を押さえてうずくまる。足の痛みは引くどころか、昨日から徐々に痛みを増してきている気がする。きっと骨にヒビが入っているんだろう。腫れ方も尋常じゃなく、足首が膨れあがっている。 「この足もやばいな。添え木とか、要るのかな」 足を撫でつつ、俺が三つめのリンゴをかじっていたとき、倉庫の窓の外を小さな影が通っていった。 慌てて物陰に隠れてうかがってみれば、それは城主の娘だった。確か名前はレイラだったか……。この名前、どこかで聞いた気がするんだが、いまいち思い出せない。彼女を見たのは食堂で長いテーブルに座っていたのを見て以来だが、見事な金髪の少女は見まちがえようもなかった。 彼女は倉庫の横にある井戸をのぞきこみ、何事かを叫んで、その反響を楽しんでいるようだった。彼女の声はぐわんぐわんと反響して、倉庫の中まで響いてくる。 それが、この城で目覚めたときに見た夢の叫び声と重なった。 そのとき、急につるべが落ちてきた。 「あぶ……!」 思わず叫びそうになるのを押しとどめる。 レイラの頭すれすれをかすめたつるべは、しばらくののちに派手な水音をたてた。 レイラはそれが面白かったようで、きゃはきゃはと笑っている。 ――きゃははは…… その声がエゼルブルグ城で妹たちと一緒に聞いた、笑い声を思い出させた。まったく一緒の、甲高い笑い声だ。あの時は風に乗ってきたように聞こえたが、今回は違う。 俺はごくりと喉を鳴らした。 「まさか……、あの城のオバケが生きてる時代に飛ばされたってことなのか……?」 慌てて携帯電話を取りだし、兄貴のメールを確認する。 『一人目は三代目領主の娘レイラ。幼い頃に井戸へ落ちて死んだらしい』 全身がぞわりと総毛だった。 領主の手紙にも娘のレイラとあった。三代目領主の娘、レイラ。 彼女が井戸に落ちて死んだのが、この城の城主の血統がはじめに途絶えた原因だという。 もしも、今のこの異常な状態がエゼルブルグ城の悪霊の呪いだというのなら。 「……なら、もしかして、あの子をあの井戸から救ったら……」 あの子を救えば、きっとこの時代から解放されるんじゃないだろうか。 俺は倉庫の窓にかじりつくようにして彼女の様子を確認した。つるべは落ちている。今なら、あの夢のように井戸に落ちる心配はない。 俺がじっと見ていると、彼女はふと井戸から顔を上げた。 召使いの洗濯女が桶を抱えて水を汲みにきたのだ。彼女はレイラに何事かを言い、井戸から離した。 レイラはひらりと桃色のドレスを翻し、ぱたぱたと駆けていった。 俺はその姿を見送りながら、決意した。 あの子はきっと、あの井戸のせいで死ぬ。 だから、その前に手を打とう。 ◆ しばらくの後、レイラはまた井戸をのぞきこみにやってきた。 上体を乗り出すようにして井戸をのぞきこむ。 その頭上で、キシリとつるべの滑車が鳴った。 キシリ、キシリ、キシリ。 キシリ。 ――けれど、つるべは落ちない。 なぜなら俺の手によって、壊されてしまったからだ。 井戸の底には、落ちたままのつるべがぷかりと浮かんでいるだろう。 少女は湖面に何を見たのか、にこにこと笑っている。 そのとき、ざわりと空気がざわめいて、まるで時間が止まってしまったかのような違和感をおぼえた。 ふと見下ろせば、床に絵筆で描いたような、子供っぽいドイツ語が記させている。 そこにはこう書かれていた。 ――あの子の過去を変えたね。 それでも君は帰れないよ。僕がつかまえているからね―― くすくすくすくす―― 笑う少年の声が、遠く聞こえてきた気がした。 |
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