第一章 エゼルブルグ城

 ――というメールをよこした次の日、兄貴は死んだ。
 件の城を見学している最中に、老朽化したテラスの崩壊に巻きこまれたらしい。
 死因は圧死。旅行中の不慮の事故だということで、事件性はいっさいないそうだ。
 次男の俺はドイツの大使館から連絡を受け、あっけにとられた。「は?」という一言を残してこの世のすべての時間が止まってしまった俺に、担当者は異国語訛りの日本語で淡々と事実を語ってくれた。
 曰く、兄貴の無言の帰宅を日本で待つか、それとも遺体を引き取りにドイツへ行くか。
 どちらか選べとのことだった。
「――行きます」
 考えるより先に答えていた。
 電話を切るなり、去年の家族旅行で使ったきりのパスポートを探しだした俺を、双子の妹たちが怪訝そうに見つめてきた。「どうかしたの?」という不安げな催促に、短く「兄貴が死んだ」と答えたのだけを覚えている。
「バカ言わないでよ! 新手のオレオレ詐欺に決まってんでしょ!? きっと考にぃの保険金をねらってんのよ!!」
 次女の秋代はいじっていた携帯を握りしめて叫んだ。口元を押さえたまま叫び声すらあげられない双子の姉、春海とは大違いだ。
 秋代の意見は現実逃避からの言葉に違いなかったが、その希望的観測が魅力的すぎて、俺もそうだったらいいのにと思ってしまった。だから父さんに連絡する前に、兄貴の携帯に連絡を入れたのだが――でたのは、へたくそな英語でドイツ市警を名乗る男だった。
 つたない英語でやりとりしても、相手は金なんか要求したりせず、ただ静かに遺体の引き取りに来るようにと告げてきただけだった。まだ誘拐犯に身代金をゆすられるほうがマシだ。
 結論は一つだった。
 兄貴は死んだ。
 五年前に母さんが死んで以来の、どうしようもない体の震えに、俺はただ自分の携帯を握りしめて突っ立っていた。
 事情を察知して青ざめた双子たちとは対照的に、末っ子のいつきは何もわからない様子で俺の服の裾をつかんできた。不安げに「勇おにいちゃん」と見上げてくる幼い妹の姿に、俺は胸がいっぱいになってしまって、おもわず力強く抱きしめていた。
 それが、二日前のことだ。
 俺は普段のおとなしさからは信じられないくらいの行動力で家族分の飛行機のチケットを用意し、鉄道の切符を手配してドイツ南部にあるその町までのルートを確保した。
 そして今、その町――エゼルブルグにいる。
 ここに来るまでの道中は、我が家にはあり得ないほど静かだった。春海は無言で泣き続け、秋代はふてくされたように窓の外ばかり見ている。末っ子のいつきは事態の深刻さがわかっていないのか、泣き叫んだりはしなかった。その代わりに、ずっとうつむいてクレヨンで家族の絵を描いている。
 いつもなら孝一兄貴が古くさいお笑い芸人のネタで妹たちを笑わせたり、末っ子のいつきが駄々をこねたりして、我が家の旅行が無事ですんだことなんか一度もなかったのに。まあ、ある意味では今回も無事ではすんでいないんだが……。
 うざいうざいと思っていた兄も、いざいなくなると家族が一回りも二回りも小さくなってしまったように感じる。父親が仕事で二日も遅れてくるせいもあるだろうが、こんなに静かな妹たちを俺は今まで扱ったことがない。
 スンスン、といまだに鼻をすするのは、タクシーの後部座席の中央にすわる春海だ。その右隣にはイライラと麦畑を眺める双子の妹の秋代がいる。同じ顔をしているのにえらく印象が違うのは、春海の長い黒髪と秋代の短めのボブカットに現れているように、それぞれの性格がまったく違うからだ。
 秋代はさっきまわった遺体安置所で、俺だけが兄貴の遺体と面会したことをすねているみたいだった。受付嬢にドイツ人特有の無表情で面会を控えたほうがいいと言われたとき、「兄貴だってまだ高校生なのに……」と呟いたまま、いっさい俺と口をきかなくなってしまったからだ。
 促されるままに兄貴の遺体――それも、轢死体――と対面した俺からすれば、まだ中学生の妹たちにあんな姿のものは見せられないというのは正しい考えだと思う。ただでさえ春海なんてこの二日間泣き通しだし……、……――その泣き方が、母さんが死んだ五年前を思い出させて、みんなを不安にさせているくらいなのに。
 タクシーの窓にうつる景色が刈り終わった小麦畑から森へと変わった。道は砂利道になって、がたがたと車体が揺れる。
 俺は、ガラスにうっすらと映る喪服を着た自分自身を見た。噛み締めるように口を閉じ、眉間に深いしわを刻んでいる。愛想のない目元は父親似で、小作りな鼻から下は母親似だ。兄弟の中ではいつきと似ているらしいが、当のいつきは大否定している。
 じっと外の景色を睨みつけていると、助手席の俺に運転手がつたない英語で話しかけてきた。
『……本当に見に行くのかい? あの恐ろしい城を』
『ええ、そのつもりです』
 英語で素直に答えると、運転手は山道特有の急カーブを華麗にさばきながらぼやいた。
『俺が言うのも何だが、やめておいたほうがいいんじゃないかね。あそこにはいい噂がない』
 ちらりと、森の端から黒っぽい尖塔がのぞいた。びくりと心臓が跳ね上がる。それに気付かないふりをして、俺は鞄から電子辞書を引っ張り出した。
『まさか、幽霊が出るという話を信じてるんですか?』
『信じてなかったさ、あんたらの兄さんが死ぬまでは。あそこに行く阿呆なんてもう、この何年っていないからなぁ』
『どうしてですか?』
 カーブを曲がると、森の端に尖塔がちらりと見えた。白い石造りの壁に、黒い屋根瓦が載っている。瀟洒な文様とドーム型の高窓の躍動感あるつくり。
 まるでゴシック調の見本のような建物に、そういった建築が好きな俺は不謹慎ながら目が釘付けになってしまった。
 俺も兄貴と同様に、幼い頃から城や寺みたいな歴史的建築物が好きで、密かに建築家を目指している。大学では兄貴と同じ建築学を専攻する予定だ。幸い東京の第一志望に合格できて、この春から一人暮らしになり、うるさい家族たちから離れられるはずだった。
 城が少しずつ見えてくるのとは反対に、辺りを包む森は深さを増していった。うっそうとした下生えが覆い茂り、うっすらと霧が立ちこめてくる。温かい三月の陽光はぼやけ、木立の合間に落ちる前にかすんでしまっていた。
 運転手は前を向いたまま、慣れた様子でハンドルをさばいた。
『……あの城からはな、悲鳴が聞こえるのさ。夜な夜な金切り声みたいな声が聞こえてくるんだ。気味悪いったらありゃしねぇ。それに、五年前だったかな。あの城に行ったきり帰ってこねぇ子供がでたんだよ』
 おどろおどろしげに言い、舌打ちする運転手。
 俺は一瞬はなじろんだあと、電子辞書で言葉を調べながら言葉をかえした。
『どうせ、隙間風の音でも聞こえてくるだけでしょう。ずいぶん老朽化しているそうだし……』
『まあな、古いからな』
 不味いものでも食べたみたいに口を閉じて、運転手は黙りこんだ。
 その様子に不穏なものを感じ、俺はおそろおそる口を開いた。
『……あの城について、なにか知ってるんですか?』
 訊き終えた瞬間、視界の端に城の塔が飛び込んできた。
 俺がじっと城を見つめていると、運転手はちらりと城を眺め、すんと鼻を鳴らした。
『誰でも知ってることだ。元はこの辺りを統べる領主さまの居城で、十二世紀にはもうあったらしい。何回か増築を繰り返して今の姿になったそうだよ』
『古いんですね。一見、ゴシック調に見えますが……』
『建て直すたびに子供絡みの事故が起こったからな。もう修理する奇特な奴がいねぇ。あの城が三世代ともたないのは、あそこで生まれた子供に不幸が多かったからだとか……。――そんなこんなで、ぼろぼろに崩れて誰も近づかなくなった頃に、あんたらの兄さんが、な』
 気遣うように見下ろされ、俺は居心地の悪さを感じた。この町に着いてから幾度となく感じた空気だ。
『……その節は、うちの兄がご迷惑をおかけしました』
『いいってことよ。そんなことより、事故の起こった現場が見たいなんて、あんたらも十分奇特だがね』
『………………』
 俺は黙りこみ、景色を眺める。黒い尖塔がいやでも目に入った。そして静かに告げる。
『……まだ、信じられないんです、兄が死んだなんて。妹たちは面会もできなかったし……。現場を見れば納得するかもしれないと思ったんです』
『なるほどね』
 俺は胸ポケットから携帯電話をとりだし、メールを確認した。新着はゼロだ。数日前のメールを開き、内容を読みこむ。
 兄からの最後のメールは、いつも通りいいかげんに書かれていた。どんなときでもおどけてみせるのは、あの兄らしいと言えば兄らしい。けれどよくよく精読すれば、ふざけた調子で家族の様子をうかがう合間合間に、これから城へむかう緊張感のようなものがにじんでいるように思えた。
 特に俺が気になったのは――。

『この二人の呪いでか、この城を手に入れた者はみな三代ともたず滅んでいるんだとか。さらに所有者がいなくなっても、不審死や行方不明が続いているとか言われてて……。ついたあだ名が『子殺しの城』だ。はんぱねぇ』

 ――子殺しの城、エゼルブルグ城。
 大学生の兄貴が子供だとは思えないけれど、これも不審死の一つとして数えられるだろう。迷信を信じるわけじゃないが、素直にただの事故だったと思えないのも事実だ。
 ……あの城には、何か原因があるんじゃないか。
 それを知るだけでこの胸の不快感が消えて、兄の冥福を心から願えるようになるんじゃないか。そう思うといてもたってもいられなくて、俺は宿の亭主にタクシーを頼んだ。
 妹たちを連れていく気はなかったが、見知らぬ土地で三人を置いていくのも気が引けた。なにより秋代が地団駄を踏んで『ついて行く』とごねたため、しかたなく兄妹四人そろって車に乗り込むことになったのだ。
 いいや、俺たちはただ、自分の目で確かめたかっただけなのかもしれない。
 死体を見ても納得できないこの胸の焦燥が、まるで俺をその古城へ吸い寄せていくようだった。
「――それにしても」
 窓の外を見ながらぶすくれていた秋代がイライラとつぶやいた。
「いくら老朽化してても、テラスがまるごと落ちてくるなんて、どんだけアンラッキーなのよ。考にぃってば……もうもうもう!」
 こぶしを握りしめる秋代へ、春海がなだめるようにこたえる。
「しかたないよ。考兄さんがついてないのは昔っからだもの。秋代だって、考兄さんが就活のためにスーツを新調した日、覚えてるでしょ?」
「家から出るなりカラスの糞が降ってきたんでしょ」
「本人は『ウンがついた』なんて言って笑ってたけど……ほら、大学の試験の日だって」
「インフルエンザで四十度近い熱だしながら受けたんだっけ。よく受かったよね」
「第二志望以下は総滑りだったもんな……」
 俺は遠くの尖塔を見つめながら二人の話に割って入った。
「あの時に、『生まれ持った運を全部使い果たした』って笑ってた。あながち外れてないみたいだな」
「考にぃらしいって言えば、らしいんだろうけど……」
 秋代が手で目元を覆う。
 春海がぐすりと鼻を鳴らしてから俺に話しかけてきた。
「勇兄さんは、城に行ってどうしたいの? もう、なにをしたって考兄さんは帰ってこないんだよ?」
「なにって……。現場検証ってやつだよ。あんないい加減な説明で納得できないんだ」
 俺は警察官から受けた説明を思い出す。一人のときに起こった事故で、目撃者もいないが、事件性は考えられない。おそらくただの事故だろう。――それだけだった。
「警察でもないのに現場検証なんて。そんなことをして意味があるの?」
 ハンカチを握りしめて問いを重ねた春海へ、秋代が横から手を出して制した。
「考えすぎだよ、ハル。お父さんが来るまではただの観光客をやってればいいじゃない。ほら、そんなに泣いてみんなに迷惑かけないの。いっちんだってもう泣き止んだのに。ハルはお姉ちゃんでしょ?」
「そうだけど……でも、考兄さんがいなくなるだなんて……」
「いつまでもすぎたことをグズグズ言うなよ。確かに俺じゃ何もできないけど……どんな建物が兄貴を殺したのか、知っておきたいんだ」
 俺は徐々に大きくなってきた尖塔を見つめた。あそこで兄貴が死んだ。それを思うと、いやに心臓が高鳴る。不安と緊張と、豪奢な建築物へのほんの少しの羨望。それらが合わさって俺の中で渦を巻いているようだった。
「でも、もし勇兄さんまで何かあったらどうするの?」
「……別にどうもしないだろ。もしものことなんて気にするなよ」
 俺は答えに詰まり、無意識にいらだった声を出していた。振り向いて春海と目を合わせようとしたが、相手はうつむいたままだ。
「……なによ」
 春海はぶつくさとつぶやき続けた。
「もうちょっと、優しくしてくれたっていいじゃない。考兄さんならきっと優しく……ううん、もっとアホっぽく慰めてくれるのに」
「諦めなよ、ハル。勇にぃにそんな男気なんかないよ」
 けっと秋代が鼻で笑う。
 なめきった様子の妹たちを睨みつけてから、俺は前へ向き直った。正直なところ、とっさに言い返すことができなかったからだ。俺は兄貴みたいに器用じゃない。話術も下手だし、泣いている女の子を慰めるなんて芸当、逆立ちしたってできやしないんだ。
 そのとき、森の端にちらちらとのぞいていたエゼルブルグ城が、はっきりと目の前に現れた。
 幾本もの細い尖塔を天へ伸ばし、悠々とたつ大きな城だ。正面には半分に割れたステンドグラスの薔薇窓があり、足元を飾るアーチは豪奢な彫刻で装飾されている。左右に見える側面は、飛び梁についた小ぶりな尖塔がトキトキとまわりを覆い、まるで城そのものが針葉樹の森みたいになっていた。
 すると、それまで葬式のようだった後部座席の妹たちがわっとわきたった。秋代が俺のシートの頭部を掴んで、まっすぐに城を指さす。
「大きな城! 勇にぃ、ああいうの詳しいんでしょ?」
「ゴシック式……かな。ゴシック・リヴァイバルかもしれないけど……。もっと近くで見ないとわからないな」
 俺は眼を細めて城の瀟洒な尖塔を見つめた。
「すごいすごい、考にぃちゃんが行きたがってたのもわかる!」
「かっこいいね、いかにもお城ってかんじ!」
 のんきに喜ぶ秋代と春海。
 そんな二人とは対照的に、俺は薄い霧の向こうにたたずむエゼルブルグ城の姿に、なにか仄暗い影のようなものを感じ、自然と息を潜めていた。
 すると運転手が英語で『そういえば……』と低い声でつぶやいた。
『あの城の壁の中には、まだ子供の白骨が埋まっているって噂があったな……』
『骨が?』
 俺の『bone』という発音に、後部座席にいる妹たちの顔色が変わった。
「ほね?」
 秋代が「お兄ちゃん訳して」と、こんなときばかり妹面をして身を乗りだす。
 俺が手短に訳してやると、運転手はちらりとフロントミラーで妹を見て、話を続けた。
『たしか二百年くらい前に死んだ少年のものだ。改装中に壁の隙間に落ちたんだが、誰にも気づかれずひっそりと息を引き取ったらしい』
『ニール……ですか?』
『そんな名前だったかな。おや、お嬢さんたちを驚かしてしまったみたいだ』
 運転手がフロントミラー越しに妹たちへ笑いかけた。言葉は通じずとも、怯えた気配は伝わったらしい。妹たちは怖々とした様子で互いに肩を寄せ合いながら、徐々に近づいてくるエゼルブルグ城を見ていた。
「骨が埋まってるうえに、オバケまで出るって言われてる城でしょ? もうやだ。一瞬でも行ってみたいって思った自分がバカだったわ」
「でもでも、あくまで噂だし……。って、アキってば寄ってこないでよ、狭いでしょ」
「いいじゃない、ハルは私よりも二キロも体重軽いんだしっ」
「はあ? アキは剣道のせいで筋肉質だから重いだけよっ」
「そうだけどさぁ〜」
 そんな二人の盛り上がりを運転手はあほらしげに眺めて、ぶつくさとつぶやいた。
『あんな城、そう大したもんでもないんだけどなぁ。城といえば、ノイシュヴァンシュタイン城ぐらい格好良くないと。君らのお兄さんもそういう有名なところを観光すればよかったのに……』
 それから彼は急に声色を張りのあるものにして、俺へ問いかけてきた。
『日本にはすごい城があるって聞いたけど、本当かい?』
『はあ、まあ。地元の名古屋城ぐらいにしか行ったことないですけど……姫路城とかなら外国人さんでも喜ぶんじゃないですか』
『へぇ、どんなんなんだい?』
『それは……』
 英語で言うのは難しいな、と思ったとき、それまでずっと黙りこくっていた末っ子のいつきが後ろから「ん」と一枚の画用紙を差し出してきた。見れば、七歳児にしては上手な落書きで名古屋城が描かれている。青い屋根瓦に乗った金のしゃちほこが無駄にでかい。
 それを横目で見た運転手はピュウと口笛を吹き、「exotisch!」と目を輝かせた。
 飛行機の中からずっと絵を描き続けているいつきが心配になって、俺は振り返った。
「いつき、車の中でくらいは絵を描くのをやめろよ。乗り物酔いしたらどうするんだ」
「だいじょぶ、もうなってる」
「なにが……っておい待て吐くな、車内で吐くなあ!」
 両手で口を押さえたいつきに、俺は真っ青になった。
「ぎゃー、いっちんが! ハルッ、ふくろ、ふくろっ」
「待って、待って待って――」
 ガサガサとビニール袋が広がる音がして、何か液状のものがぼとぼとと落ちる音がした。
「――――セーフっ!」
 ぐっとガッツポーズをつける双子たち。
 合わせて車内に広がったえもいわれぬ異臭に、俺は眉を寄せてつぶやいた。
「……いや、アウトだろこれは」
 ビニール袋の中にある昼食のソーセージとフライドポテトを見て、俺は力なく溜息をついたのだった。

         ◆

 ぐねぐねと曲がりくねった山道は、エゼルブルグ城の門前で終わっていた。
 錆びついた門には大きな錠前がついていて、しっかりと施錠してあった。向こうに見える前庭は荒れ果て、腰丈ほどに伸びた草に植木と銅像が埋もれている。その奥に見える城館は、ところどころが崩れた廃城となっていた。細い尖塔がいくつもある石積みの外観には、低めの城壁がぐるりとあたりを一周している。どこかこじんまりとして見えるのは、中央の作りが低くなっていて、無骨な印象になっているからだ。周りの飾りは華々しいのだが。
「これが……エゼルブルグ城……」
 錆びた鉄棒を掴んでみると、ギシギシといやな音をたてるだけで開く様子はなかった。
 俺が困ったようにタクシーの運転手を振り返ると、彼は車中から顔の前で手を振った。
『そっちはダメだ』
 と言って車を降りると、石積みの城壁沿いをてくてくと歩いて行く。門から二百メートルも離れただろうかというところで足を止め、城壁を覆っているつる草をかき分けた。
 つる草の下には大人がかがんで通れるくらいの穴が開いていた。元々あったと思われる鉄柵は取り払われ、覗き込めば草だらけの庭が見えた。
『あの門は閉じられて長いからな。鍵ももう誰が持ってんだかわからねぇ。だからこっちから行くのさ』
 運転手が不器用そうにウインクする。
『わかった、ありがとう』
 俺は礼を言って彼へチップを渡した。
 相手は笑って金をジーンズの尻ポケットへねじ込んだ。
『夕方に迎えにこればいいんだな?』
『来たいなら一緒に来てもいいですよ』
 俺が皮肉げに微笑むと、相手はさもいやそうに眉根を寄せた。訛りの強いドイツ語で、「おらぁそげなおそろげなとこ入る勇気なんぞないべさ」というようなことを言って、肩をすくめた。
 『じゃあな、幸運を』と去っていく運転手に、いつきが無邪気に手を振った。

         ◆

 俺たちは城壁をくぐり、荒廃した庭へ入った。抜け道の先には草を踏みしめてつくった小道がある。数日前に警察が出入りしたせいだろう、小道はしっかりと踏み固められていた。この道をつくったのはやはり、兄貴なんだろうか。それとも警察なんだろうか。
城までの距離は五百メートルくらいだ。俺たち兄妹はその小道をなぞるように進んだ。腰まで伸びた雑草がガサガサと音をたて、城の屋根に止まっていたカラスたちを逃がした。不快な鳴き声を残して去っていく彼らを、俺は眼を細めてながめた。
 間近で見るエゼルブルグ城は、かつての壮麗さを残しつつも、見事なまでに荒れ果てていた。正面に咲く薔薇窓とアーチ型に長く伸びた高窓はすべて割られ、ステンドグラスが半分ほどしか残っていない。エントランスを支える太い柱はひび割れつつもなんとか残っていたが、その柱頭の彫刻は無残にも砕け散っていた。飾り柱も欠け崩れ、以前の姿を残しているものはまれだ。
 重そうな入り口の扉は開けはなたれていて、警察が貼ったと思われる黄色と黒のテープが行く手をはばんでいた。
 遠目から見た印象とのあまりの違いに、俺はしばし絶句した。
「勇兄さん……。ほんとにここに入るの?」
 春海が俺の黒いトレンチコートを引っ張りながら、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。日本から喪服を着てきた俺は、上下とも黒いスーツを着ている。
 俺はごくりと喉をならしつつ頷いた。身をかがめてテープをくぐる。
 玄関ホールには、割れた薔薇窓から陽の光が差しこんでいて、宙に舞うほこりをキラキラと輝かせていた。その日だまりの端は割れ残ったステンドグラスの色に染まっている。アーチが続く壁面から天井にかけては宗教画のようなえらく遠近感を感じさせる絵画が描かれているものの、ところどころがはがれてしまっていた。繊細な彫刻類は言うにもおよばず、みな砕けている。
 二又に分かれた正面階段は、その接合部でぐしゃりと潰れていた。そこに積もった瓦礫の様子から察するに、ふきぬけに張り出ている三階のテラスが崩れてきたのだろう。瓦礫には警察のテープがいっそう厳重にまかれている。
 俺は優雅な曲線をえがく石造りの階段をのぼった。ほこりの積もった手すりをつかんで、一歩一歩慎重に。すぐに瓦礫が鎮座する事故現場へたどり着く。
 その床には、白いチョークで人型が描かれていた。
「階段を降りてる途中に、上のテラスが崩れてきたんだな……」
「考にぃってば、ツいてないにもほどがあるよ。どうしてこんなところで突っ立ってたのさ」
 秋代が地団駄をふむ音に振り返れば、三人の妹たちはいつの間にかいつきを真ん中にして手をつないでいた。春海がまた泣き出しそうな声をだす。
「仕方ないよ、アキ。考兄さんだって好きこのんで死んじゃったわけじゃないんだもの」
「でもでも、こんな辺鄙な場所で、冗談みたいに死んじゃったんだよ。もう、ふざけてもツッコんでくれるおにぃはいないんだよ。いやだよ、こんなの」
「そりゃ、わたしだって死んじゃったのは悲しいけど……」
 春海はポケットからハンカチを取り出し、すっかり腫れてしまった目元を押さえた。
 末っ子のいつきまでがぐずりと鼻をすすりだす。
「考おにいちゃん……。ほんとに死んじゃったんだ……」
 涙を流す妹たちに背を向けて、俺は床にしゃがみ込み、瓦礫からはみ出すように描かれたチョークを指でなぞった。近くの瓦礫についた血のあとを見つけ、ぐっと眉をしかめる。
 見上げれば、吹き抜けへ張り出ていたはずの部分がごっそりと欠けたテラスがあった。
 そのとき、カサリと足元で軽い音がした。
 瓦礫の下を見おろせば、古びた冊子が開かれた状態で落ちていた。上に乗っている小さな瓦礫をのけて手に取ると、その薄い冊子には皮の装丁がしてあり、表紙には金箔でドイツ語が書かれていた。
「なんでこんな所に本が落ちてるんだ?」
 ぱらぱらとめくると、図形のようなものが描かれている。よく見れば、この城の古い設計図集のようだ。図面を見るのが好きな俺は、その複雑な図形に思わず引き込まれていた。
「へぇ、こんな設計図、残しておくものなんだな」
「なに? ご本?」
 絵本が好きないつきが駆けよってきて、俺の隣にしゃがみ込んだ。すっかり涙も引っ込んだ様子だ。
「なになに?」
 秋代と春海も腰をかがめて俺の手元を覗き込む。
 俺はみんなにも見えるようにページをめくった。一番はじめのページは、十八世紀にゴシック・リヴァイバル――今の形式にしたときのもの。高く弧を描くアーチがふんだんに使われ、空間に独特の浮遊感がある。まるで異世界へ迷い込んだかのような装飾華美な世界だ。次は十六世紀にゴシック式に立て替えられたときのもの。大幅な増築がなされて、今の姿の原型のようなものがうかがえる。最後のぼろぼろに古びたページは、最も古い十二世紀に建てられたときのものだ。シンプルなロマネスク形式で、城館も小さく、全体的にこじんまりとしている。
 俺が手元の図形と城を照らし合わせるため、辺りを見回していたとき。
 ――きゃははは……
 子供の笑う声がふきぬけに薄く響いた気がした。
 驚いていつきを見るも、不思議そうに見返されるばかり。春海と秋代にも聞こえたらしく、二人とも顔をひきつらせて辺りを見ていた。
「なに? 今の」
「な、なんでもないでしょ、ただの風だよ」
「風じゃないだろ……この中って感じでもなかったけど」
 エントランスホールの中で聞こえたにしては、声が遠かった気がする。きっと、城の庭にでも遊びに来た子供がいるに違いない。そうだ、そうに決まってる。
 俺たちが引きつった笑みを浮かべあっていると、末っ子のいつきが何かを見つけて二人の姉たちの手を振り払った。
「女の子! ちょっと見てくる!」
「ちょ、待ていつき!」
 ててて、と軽い足取りで階段を下りていった妹を追いかけて、俺が立ち上がる。同時に手にしていた冊子がパサリと床へ落ちた。
「――ッ!」
 すると冊子は風もないのにぱらぱらとめくれ、古く黄ばんだページを開いた。
 瞬間、眩しく輝く。
「きゃっ」
「え?」
「うわッ――」
 突然の閃光に目を奪われ、とっさに腕で目を守る。
 俺が覚えているのは、そこまでだった。
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