第七章 子殺しの城 ――その時は、いつまで待ってもこなかった。 俺は強くつむっていた目を、おそるおそる開く。 「あ、兄貴……っ、あれっ!」 俺は覆い被さっている兄貴越しに天井を指さした。そこには、重さ一トンはありそうなテラスが、見覚えのない太い梁に乗っかってゆらゆらとしていた。 ぐらりと傾く大きな石の塊は、今にも落ちてきそうだ。 「――っしゃあ! 逃げるぞ、勇!」 兄貴が俺の腰をぐっと抱き起こす。 力のままに引っ張られ、春海たちがいる階段の上方へ駆け上がったとき。 ドゴンッ、と重い音が響いて、テラスが落ちてきた。 「っ!」 階上に勢いよく投げ出されて、俺は顔面から苔むした石床に滑り込んだ。 兄貴も背中からざっと床へ寝転ぶ。 「へ、へへ……。なんとかセーフってヤツ?」 引きつった笑みを浮かべつつ、兄貴は俺の頭をくしゃりとなでた。 二人そろって両手を口元へあてていた妹たちが、止まっていた息をふぅーっとはき出す。普段はばらばらなくせに、こういうときだけそっくりだ。 先に硬直をといたのは、秋代のほうだった。 「ふ、二人とも、大丈夫?」 と、俺たちのほうへ駆けよってくる。 「兄さんたち……怪我してない?」 春海もおそるおそるといった調子で近づいてきた。 秋代が俺の手を引っ張って上体を起こさせた。 春海も孝一兄貴に同じことをしている。 俺と兄貴は、そろって答えた。 「ああ、大丈夫だ」 「なんとか、な」 ばらばらな答え。だが、その意味はどちらも同じだ。 妹たちは二人そろって軽く黙りこんだ。春海は目元の涙をぬぐい、秋代はぷいっとそっぽを向く。 それから秋代は服の袖でささっと涙をぬぐい、こっちへ振り向くと。 「――よかったー! 勇にぃ、生きてたあ!」 珍しく大げさに抱きついてきた。 「もう、勇にぃのばかぁ! ほんとに死んじゃうかと思ったんだからぁー!」 と、俺の胸をべしべし叩いてくる秋代。けっこうな力があって、痛い。 それに合わせるかのように、春海がぼろぼろと泣き出した。ああもう、ほんとにこいつは泣き虫だな。 「ほ、ほんとに無事でよかったぁ、勇にぃさん……。会えても骸骨だったらどうしようって、ずっと思ってたんだからあ……」 そう言って春海まで俺の肩をべしべしと叩く。地味に足まで響いて、とても痛い。 「大丈夫……とは言えないけど、生きてるよ。心配させたんだな、ごめんな」 俺が苦笑いを浮かべながら春海たちの頭を撫でると、兄貴がにやにやと笑ってはやし立ててきた。 「おやおやあ? なんか知らないうちにモテモテになったな、勇」 「なに言ってんだよ」 ふてくされた俺の声を無視し、兄貴はニカッとした笑みでくしゃりと頭を撫でてきた。 「それにしても助かったな、あのばかでかい飾り梁がなかったらと思うと、ぞっとする」 「飾り梁……?」 「ああ。どう見てもただのお飾りだ。こんだけ無駄のない整った設計なのに、なんであんなもんつけたんだろうな?」 俺たちは自然と上を向く。一時的にでもテラスを乗せていてくれた、命の恩人のような大きな梁。 しかし設計的に見ると、明らかに無駄な構造だった。太い梁が吹き抜けの間を無粋に横切っていて、美しい天井画を見るのに、思いっきり邪魔になっている。その天井画も、ほとんどがはがれてぼろぼろなのだけれど。 はっと、隣で秋代が息をのんだ。 「あ……そういえばあたし、あんな梁を描きこんじゃった気がする……過去で」 「過去で?」 「そう。設計図に」 秋代がピッピと宙に二本の線を引く仕草をした。 俺と春海、そして秋代は互いに顔を見合わせた。 自分たちがさっきまでどこにいたのかを、視線で確認し合う。 それは、この城の過去だ。 俺は大きく喉を上下させてから、おそるおそるつぶやいた。そんなバカな、とみんなに言われるかと思いながら。 「じ――じゃあ、秋代が過去を変えたから……」 先を言うのをためらい、小さく息を吸い込む。それからひたと妹たちを見つめた。 「兄貴が生きてるってことか? 本当に?」 こくりと頷く秋代。その眼に嘘はなかった。 「過去が変わったから、今も変わったんだと思う。考にぃは、助かったんだよ」 ――兄貴は助かった。 その言葉が俺の胸の奥でじんじんと響いて、全身に広まってくるようだった。 俺たちのやりとりを春海は目をまん丸にして見つめていた。そして「……ほんとに?」とつぶやいて、また泣き出した。 秋代たちのいた十八世紀に再増築されて、今のエゼルブルグ城がある。だから、秋代が描きこんだのは一番新しい、今のこの城の設計図のはずだ。素人の落書きをそうとは思わず、忠実に再現した結果がこの飾り梁だったらしい。あるいは、建築士がその落書きから新たな発想を得たのかもしれないが。 そんなことはどうでもいい。 今は、そのおかげで兄貴が無事でいることのほうが、百万倍大事だった。 俺は大きく息をついてしゃがみ込んだ。 「兄貴……よかった。本当によかった……!」 緊張の糸が切れたのか、俺はその場で泣き崩れそうになった。 もちろん妹の手前そんな真似はできず、スン、と鼻を鳴らす程度におさめる。 それでも兄妹にはバレバレだったらしく、兄貴が肘で俺の脇腹を小突いてきた。 「なに泣いてんだよ、勇二。男がこのぐらいの城でこわがんなっつーの」 「こわがってんじゃねぇよ」 「やっぱり考にぃがいると心強いね。勇にぃだけでも……まあ、十分ではあったけど」 「なんだって?」 「なんでもない」 秋代と春海はそっくり同じな顔でにんまりと笑った。春海なんてさっきまで泣いてたくせに、現金なヤツだ。 俺はむっとしながらも、かける言葉が見つからなかった。こういうときは放っておくにかぎる。 気分を変えようと、俺は真面目につぶやいた。 「そんなことより、俺たちはどうしてこんな場所に――いてっ」 無防備に起き上がろうとして、痛めた左足に激痛が走る。あわてて庇ったものの、遅い。じんじんと痛みが襲ってきた。 くそっ、この足さえ無事だったなら、さっきみたいな事故に巻き込まれなくてもすんだのに。 しゃがみ込んだまま動けないでいる俺の隣へ、春海がしゃがみ込んだ。 「勇兄さん、この足……」 「ああ、転んで痛めたんだ」 春海は急に看護婦らしい顔つきになって、俺の足を少し持ち上げた。 「いてっ」 「すっごく腫れてる。これ、折れてる?」 「ことはないけど、ヒビぐらいはいってるかもしれないな」 春海はさっと辺りを見回した。 「考兄さん、アキ。添え木になるような物ってない?」 「ないな……」 「なんにもないよ」 兄貴と秋代がそろって首を振った。辺りには苔むした石床と雑草しかない。階下にも、崩れた石や石柱の欠片が転がるばかりだ。 「そっか……」 と春海は小さくつぶやくと、自分のフレアスカートをさっと口元へ持っていた。 ビビィッ、と布を裂く音がして、俺は目を丸めて春海を見た。 春海はなんのことはないというように笑って、 「軽くテーピングしてみるね。少しは楽になると思うから」 慣れないながらも丁寧に布をまかれて、俺の足の痛みは少しだけ和らいだ。 「ありがとう、楽になったよ」 「ううん。本当は添え木があるとよかったんだけど……」 言いよどむ春海の隣から、秋代がずいっと顔を出してきた。 「大丈夫? 勇にぃ。ずっとこんな足で無理してたの?」 と、いつになくしおらしげなことを言う。 思えば、過去で木のウロを介して秋代と話したときには、足のことを言っていなかった。心配させたくなかったのもあるし、状況がそれどころじゃなかったというのもあったけど、やっぱり、兄として弱音が吐けなかったのが大きい……のかな。 だから俺は今回も痛みをこらえて、苦笑みたいな笑顔を作った。 「もう大丈夫だ。……ああ、杖になる物がないな。どうするか」 「わたしにつかまって。せーのっ」 春海が肩に俺を乗せると、するっと上手に立ち上がらせた。成長期を終えてひょろ長くなった俺は、中学生の女の子が運ぶには重いだろうに。どうやら関節技をうまく使って立ち上がらせたらしい。立派なもんだ。 しかし俺の体重を支えたまま歩くのは難しかったらしく、春海は一歩進んでぐらりと俺ごとふらついた。 「!」 「大丈夫か、春」 さっと兄貴が俺の腕を取ってくれた。 春海の顔がほっと緩む。 「考にぃさん、手伝って。腕を肩にまわすの」 「こうか?」 「うん」 右手には春海、左には兄貴。俺はほとんど宙づりにされるみたいになって、歩き始めた。 だが、数歩も行かないうちに足元でカサリという音がして、俺たちは下を向いた。 「?」 足元には、開かれた薄い冊子が落ちていた。 「……兄さんたち、これ、この城の……」 「設計図だ!」 秋代がぱっと冊子を拾う。革張りの装丁がされた薄いそれは、この城を訪れたときに手に取った設計図集とまったく同じものだった。 だが違うのは中身だ。一目見ればわかるように、クレヨンで所狭しと落書きがされている。 「この落書き……まさか」 「いつきちゃん!?」 冊子の中には色とりどりのチューリップや、猫、魚やチョウチョの絵が描き加えられていて、とてもじゃないが元の姿を留めていなかった。ページをめくれば大きな木が。その木のウロには虫食い穴が開いていて、下のページがのぞいている。 二枚目の設計図に書き足された一階エントランスの換気口に、俺の視線が止まる。俺が描きこんだ換気口だ。線の太さの微妙な違いが、後から書き加えたことを明確に証明している。 ページを戻って確認すれば、一枚目にも妙に太い線でエントランスに梁が書き足されていた。 三月のドイツだというのに、背中を一筋の汗が流れるのを感じた。 いつでもクレヨンを手放さず、紙と見るや即座に落書きを始めていたいつき。幼稚園児らしいカオスな絵に、俺はいつもどう褒めたらいいのか迷わさせられていたんだが……。 まさか、あの城の奇妙な現象は……。 いつきの絵が、モデルになってるんじゃ。 ページをめくって三枚目の、シンプルな設計図を見下ろす。細い木やケーキ、赤い金魚が宙を泳いでいる。 ……俺が経験した怪異のほとんどが、ここにあった。 だとしたら。 もしかして、俺たちがいた世界は過去じゃなく。 ……この設計図の中だったのか? 「――ねえ、これを描いたのがいっちんなら、近くにいるんじゃない?」 急に秋代の言葉が耳に飛び込んできて、俺は自分が思索にふけっていたことに気付いた。そうだ。今は過去のことより、目の前の現実に集中しよう。 「そ、そうだな。いつきを捜そう」 「呼べば聞こえるかな。いつきちゃーん!」 春海が口元に両手をあてて叫ぶ。薔薇窓から日差しの差しこむエントランスに、澄んだ声がよく響いた。 しーんと、沈黙だけが返ってくる。 俺たちは顔を見合わせて、急に大きくなった不安を確かめ合う。 「いつきも一緒に来たんだよな?」 「当然でしょ、勇にぃってば、なに言ってんの」 「すまない」 「いつきちゃーん!」 春海がなおも叫ぶ。 兄貴が頭をかきながら辺りを見回した。 「おっかしいなぁ、いつきならさっきまでその辺で遊んでたんだけど。……あれ? いねぇな」 俺から離れて、階段を軽やかに下りていく兄貴。適当に辺りを見回したあと、青い顔をして二段飛びでこっちへ戻ってくる。 「やべぇぞ。こんなとこで迷子になったら、いつ見つかるかわかりゃしねぇ」 いつになく真剣に焦った様子で、兄貴が眉をしかめた。 そのとき、冊子を見ていた秋代が「ぎゃっ!」と短く叫んだ。 「どうした?」 「どうかした?」 「どうしたんだ?」 俺たちの三重奏が秋代に降りかかる。 「こ、こここ、これ!!」 秋代が冊子の一ページ目を指し示す。 そこには赤いクレヨン――いや、血のような赤いインクで、大きくバツ印が描きこまれていた。 「いきなりこの印が浮かび上がってきたの! きんもー!」 と、冊子を俺へなすりつける。なにしやがんだこいつは。 俺は受け取った冊子を見下ろし、首をかしげた。いつきが描いたかと思えるくらい、つたない線だ。本当に今浮き上がってきたのか? 内心で首をかしげたとき。 ――Danke. 幼い女の子の声が聞こえた。 ダンケ、それは、「ありがとう」という意味。 その聞き覚えのある声に、俺は辺りを慌てて見回した。 「……レイラ?」 「え? なに?」 春海が目をしばたたかせる。 俺は辺りを見回した。 「いや、今の声、子供のだったろ」 「子供? なんのこと?」 辺りを見回す春海と目配せしあってから、秋代が首をかしげた。 「声なんか聞こえなかったよ?」 「大丈夫か勇。足の熱が頭まできてんじゃねぇだろうな」 兄貴が額に手を当ててくる。俺はそれを邪険に払って、 「なんでもない。風の音を聞き間違えただけだ……と、思う」 「――そんなことより、今はあたしを信じてよ! これ、ほんとにいきなりぶわっと浮き出てきたんだから!」 秋代が俺の持つ冊子をべしべしと叩く。そこに浮かんだ血の跡のような赤いバツ印を避けるようにして。 春海が俺の手元をのぞきこんだ。 「ここって……食堂?」 「ああ。一階の食堂だろうな」 俺たちは互いに視線を交わしあい、小さく頷きあった。 俺が思うに……これはきっと、この城に巣くう霊からのシグナルだ。 ここに一体、何があるのだろう。 「行ってみましょう」 「けど、いっちんはどうするの?」 「まあなんだ。いつきを捜しつつ、いっちょバツ印のところも見てみるか。もしかしたらお宝がざっくざく、なんてこともあるかもなっ」 「もしかしたら、ここにいつきがいるのかもしれないしな……」 兄貴は春海たちから俺を奪い取るようにして肩を貸してくれると、ゆっくりと階段を下りていった。 俺は手にした冊子を見つめ、低くつぶやいた。 「……レイラ」 ◆ 朽ち果てた食堂には、腐ったテーブルや椅子の欠片が散乱していた。ボロボロの布はテーブルクロスだったんだろう。以前は白かったと思われるそれは、くすんで汚れ、雨漏りによって腐敗しきっていた。 「いつきちゃーん! こっちにいるのー?」 「いっちーん! 出ておいでぇー!」 妹たちが大きな声で叫ぶ。春海たちは部屋の中央で崩れているテーブルを避けて二手に分かれ、室内を見回しながら大声でいつきの名を呼び続けた。 遅れて階段を下りてきた俺と兄貴が、ガランとした室内を見て首をかしげる。 「いつきのヤツ、どこ行ったんだ? 姿形どころか、足跡もありゃしねぇ」 「あまり奥の方へ行ってないといいけどな」 兄貴に肩を借りたまま俺がつぶやくと、兄貴はうへぇと変な顔をした。 「こっから奥はほとんどが崩れてるから、入れないところが多いぞ。まあ、隠れられそうな場所もないけど」 「なら、近くにいるといいんだけどな……」 俺は食堂を見回した。バツ印が浮かんだのは部屋のほぼ中央。だがそこには腐って崩れたテーブルとテーブルクロスが陣取っていて、隠れられるようには見えない。 ここにはいないだろうと、溜息のような吐息をついたとき。 「……――ちゃん」 か細い声が聞こえた気がして、俺ははっとして顔を上げた。 「いつきか!?」 兄貴が驚いて目を丸めた。 「なんだ? なにか聞こえたのか? 勇」 「ああ、小さな声だけど、いつきの声だった」 確信に小さく頷く俺へと、秋代が部屋の奥から手を振ってきた。 「あたしも聞こえた! 『おにいちゃん』って!」 「わたしはわからなかったわ」 春海が首を振りながら秋代のほうへ歩いて行ったとき、 「――たすけ……おにいちゃん」 もう一度、小さな声が聞こえた。 「いつき!」 今度は兄貴にも聞こえたらしい。兄貴は俺を支えたまま、秋代のほうへ駆けだした。 「いつき! どこにいるんだ!」 「そう遠くないわ。近くにいるかも」 「けど、どこに?」 「わからない。――いつき! かくれんぼのつもりなら、いいかげんやめて出てこい!」 俺が怒鳴りながら辺りを見渡すと、ふと奇妙なことに気付いた。部屋の中央を陣取る大きな長いテーブルが、まるで一本の足が欠け落ちたように崩れているんだ。テーブルクロスで覆われてよくわからないが、もしかしたら……。 俺は兄貴と一緒にその場所へ近づくと、そうっとかがみ込み、テーブルクロスをひっぺがした。 そこには、床に大きな亀裂が走っていた。劣化した石床が崩れ落ちたらしく、ぽっかりと暗い穴が開いている。穴は四十センチ足らずと言ったところか。小さな子供なら入れるだろうが、俺たちには無理な大きさだった。 その穴の中から、今度ははっきりとしたいつきの声がした。 「こわいよう……たすけて、おにいちゃんたち」 俺は携帯電話を尻ポケットから取り出すと、明りをつけてぽっかりとした暗闇にかざした。 「いつき、いつきなのか!?」 だが携帯の明りでは辺りを照らすことはできなかった。声だけが返ってくる。 「ここ……うごけないの。くびが……」 「わかった。地下だね!」 秋代が叫ぶや、ものすごい勢いで食堂奥の扉の向こうへ駆けだした。 その背中を春海が心配そうに見送る。 「大丈夫? 今度はアキが消えたりしないよね?」 「恐いこと言うなよ。しっかし秋の奴、足はえーなぁ」 「今は秋代を信じるしかない。……すまない、俺のせいで」 「そんなことない! 兄さんが無事で本当によかったんだから」 兄貴と春海は俺を支えてゆっくりと歩いてくれようとした。 「いや、いい。俺はここに残る」 春海が、今にも泣きそうな目で俺を見上げてきた。 「いいんだ、こんな足じゃ足手まといだし、地下に降りるのも時間がかかるだろうし。ここからいつきに声をかけてみるよ」 「ダメよ、そんな足でひとりになんかさせられない! 勇兄さんになにかあったらどうするの」 「だけど……」 「勇、ゆっくりでいいから一緒に行こうぜ。いつきだってお前の顔が見たいだろうし。大丈夫、すぐに見つかるさ。それに――こうすればいいだろ?」 兄貴はニカッと顔一面で笑うと、俺を背中に背負ってスタスタと歩き出した。 「いいよ兄貴、重いし」 「なに言ってんだよ。ちっこい頃はよくこうやってかついでやっただろ? 近所のガキンチョにいじめられたりしたときに」 「そういうこと、今言うなよ……」 俺は兄貴の広い背中に顔を埋めるようにしてつぶやいた。いじめられっ子だった頃、よくこうして家に連れていってもらった。傷だらけで帰る気力もなくなった俺を、兄貴が背負って、鼻歌なんか歌いながら。どうして怪我をしたとか、なんでいじめられるのかとか、細かいことはいっさい訊かれなかった。 そんな昔話を思い出しているうちに、兄貴は携帯の明りを頼りに、地下へ向かう螺旋階段を下りて、食堂の下へと向かっていった。だが―― 狭い地下通路には、呆然とたたずむ秋代が待っていた。彼女の目の前には土砂で埋まった廊下がある。きっと老朽化で崩れたんだろう。ざらざらと積まれた砂の山は、軽く払ったぐらいじゃ通り抜けできないのが一目でわかった。足元には廊下を形作っていたと思われる大きな石がいくつも転がっている。 「ひどい崩れ方だな。通れるか?」 兄貴が声をかけると、秋代が困った顔でこちらをふりかえった。 「無理。完全に道が埋まっちゃってる。他の道を探そっか」 と、俺の手から設計図集を奪いとる。ぱらぱらとめくり、「ない」とはっきりした声で断言した。 「地下の図面がない!」 「だな。だからさっきの赤いバツ印は、食堂についたんだよ」 俺の答えを無視して、秋代はボブカットの髪をぐしゃぐしゃにして頭を抱えた。 「なんでないのよー! 地下ってキッチンもあるし、けっこう大事なとこじゃないの!」 「そんなもん俺が知るか」 「ご丁寧に城の正面図まで描きこんであるくせに、地下は放置ってどういうこと? そんなに知られたらヤバイ部屋でもあるわけ?」 「ああ、それは……」 俺は地下の石壁に手をついて、まじまじと見つめた。この不揃いの石を組み合わせる方式は、俺がいた十六世紀――十二世紀に建てられたままのエゼルブルグ城と一致する。 「思うに、地下は昔のままなんじゃないか? 増築された気配がない」 「あ、じゃあ一番最初のページにあるかも」 ぱらぱらと冊子をめくる秋代。 その様子を春海と兄貴が不思議そうに見ている。きっと俺もそんな顔をしているんだろう。 「――あった。すごく簡単な図面」 地下は大きなコの字型の廊下を九十度右へ回したような、上の部分が開いた箱みたいな図形になっていた。右の階段からも左の階段からも自由に行き来できるようになっているらしい。 秋代の指がつつつ、と紙面をすべる。 「食堂の真下は……――」 俺たちは一瞬、顔を見合わせた。 「拷問室だ」 俺の低い呟きが細い通路に響く。 「拷問室!? まさか、いっちん……」 春海と秋代の顔色がざっと変わった。二人とも息をのんでいる。 緊迫する俺たち三人と違って、兄貴はどこか余裕を漂わせながら顔をしかめた。 「うへぇ。そんな部屋の真上で物食うとか、ありえん」 「今はそんなことはいいだろ。それよりいつきの所に行くには――」 俺の声が不自然に途切れる。 視界の端を、なにか黄色いものが横切ったからだ。 俺が目をしばたたかせるのと同時に、春海と秋代がそれを見つけた。 「ニール……?」 厨房の入口に小さな男の子が立っていた。闇の中でもキラキラと輝く明るい金髪。白いブラウスに短いズボン。真っ白なタイツをはいた足は細い。 「うそ。助かったの!?」 少年は整った顔を春海と秋代へ向けてにっこりと笑いかけると、細い指で厨房の入口を指さして。 ふっと、煙のようにかき消えた。 それからしばらく、俺たちはなにも言えなかった。ただただ少年の消えた闇を凝視することしかできない。 最初に沈黙を破ったのは、兄貴だった。 「え、ちょ、まじで?」 明らかにうろたえた様子で半笑いをする。焦ったときの兄貴の癖だ。 「マジで見ちゃったの? オバケ」 「「うん!」」 春海と秋代が元気よく答えた。 「ニール君、笑ってた」 「うん、すごくいい笑顔だったね」 笑顔でつぶやく秋代に、春海がこくんと頷き返す。二人とも晴れやかで嬉しそうな笑みだった。 俺はニールが消えた扉へと視線を向けた。 「この扉を指さしたってことは、キッチンにいけってことか?」 「うん、行ってみよう、勇にぃ!」 厨房の中は古びた調理器具がきちんと整頓されて置かれていた。壁には鍋やレードル、包丁などがずらりとかけられているし、料理台の上にはまな板が置いてあった。煤けた竈には灰が残っている。どうやらこの城の最後の住人は、家財道具すべてを置きっぱなしのまま、いずこかへ立ち去ったらしい。 物が多いわりに整ったキッチンは、奥の壁面が崩れていて、廊下に繋がっていた。そこをうまく通り抜け、俺たちは先へと進んでいった。 「ニールのおかげだね」 「うん。でも、どうしてニール君が助かったんだろう? あたしたちのせいじゃないよね」 ごほん、と俺が咳払いをする。 自然と振り向いた妹たちへ、設計図集の二ページ目を開いて見せた。 「ここ。俺が過去で書き加えたんだ」 「なにこれ。通気口?」 「そうだ。子供ならここから出られるだろ」 春海と秋代が二人して顔を見合わせて、それから俺を見た。妙にきらきらした眼で。 「勇にぃ、すっごーい!」 「さすが勇にぃさん! ありがとう!」 言うなり、二人そろって抱きついてきた。 もともと兄貴に背負われている俺は、三人にぎゅーぎゅーと締め付けられて、むさ苦しさに目が回りそうになった。 「これからも頼りにしてるからね、勇にぃ!」 「これからも頼りにしてるからね、勇兄さん!」 二人そろって笑顔を向けられて、俺は目を白黒させた。 それから……、良いことはしておくものだ、と思った。 きゃあきゃあ騒ぐ妹たちを引っぺがしたとき、兄貴が前を向いたまま話しかけてきた。 「今日のお前らはえらく仲がいいな。ほんと、いつもこうだったらいいのになぁ」 「兄貴……」 「なあ、勇」 ふっと考え込むような雰囲気で、ぽつりと、兄貴がつぶやいた。 「一人くらい、ダメか……? ――いや、なんでもない」 「え?」 「いつきちゃん――!!」 春海の叫び声が、俺の声をかき消して、狭い廊下いっぱいに響き渡った。一足先に拷問室の扉を開けた春海は、今にも倒れそうなくらい白い顔をしている。 「いっちん! 大丈夫!?」 だっと秋代が室内へ駆け込んだ。 拷問室の扉は背が低かった。俺は兄貴の背中から降りると、兄貴に肩を貸してもらいながら室内へ踏み込んだ。 荒れ果てた室内には様々な拷問器具が転がっていた。重い鉄球のついた足かせや、壁にひっさげられたムチや棍棒、針の椅子や縛り台……。過去で俺が見た拷問部屋とそっくり同じのままだった。ただ、その器具がすべて錆びきっていることをのぞいて。その他にも何に使うのかわからない鉄の器具が転がっていて、俺は足元の謎の器具につまずきかけた。 部屋の奥、天井の裂け目から陽の光が注いでいる場所には、木でできた背の低いベッドがあった。そこに横たわっているのは―― 「いつき!」 「おにいちゃん、おねえちゃん! うぇえぇええ〜」 首をなにか赤錆びた器具に固定され、身動きがとれないでいるいつきがいた。 よく見れば、首を固定している器具は小型のギロチンで、今にもいつきの細首に食い込まんとしている。ギィギィと響く音は、そのギロチンが落ちていく音だった。 俺は足が痛むのも忘れて、兄貴を振り払って寝台へ駆けよった。 「いっちん、目ぇ閉じてて!」 秋代がギロチン台を蹴りつける。ギロチンが大きくたわんだ。だが鉄でできた台を壊すことはできない。 「これを挟み込むんだ!」 俺は足元に落ちていた鉄の器具をいつきの首元へ挟み込み、ギロチンの落下を止めた。 春海がハンカチをいつきの首元にあて、ギロチンの刃を掴んで引き上げようとした。 「だめ、錆びついて動かない!」 俺も上から刃を掴む。痛む足で踏ん張り、力一杯引き上げた。 「くっそ! なんでこんなに硬いんだよ!」 「兄貴たちはそのまま引っ張ってて! あたしがもう一度蹴りつける!」 言うや、秋代は筋肉質な足を後ろへ振り上げた。 「――えーい!」 どこか間抜けなかけ声をあげながら、秋代がギロチンのど真ん中を蹴りつけた。 メキョッと、金属が折れる音がして、錆びたギロチンがばらばらになって壊れる。俺たちは力を込める場所を失い、たたらを踏んだ。 「いつき! 大丈夫か?」 「いつきちゃん、もう大丈夫よ」 「いっちん!」 いつきはベッドに横になったまま、必死に目を閉じていた。俺が肩を揺らすと、その大きな目がゆっくりと開かれる。 いつきは一度目をまんまるにしてから、ぶわっと涙を溢れさせた。 「勇おにいちゃん! おねえちゃんたちもぉぉっー!」 「いつき、怪我は? 首はついてるな?」 「あたりまえだよ勇おにいちゃんのバカぁあああー!」 いつきはベッドの上に身体を起こして、両手を目に当てるとびぇえええと派手に泣き出した。幼稚園児のいつきにとって、今までに経験したことのない恐怖だったんだろう。それは分かる。わかるけど……。 「……なんで罵倒されてんだ、俺」 疲れた気分でぼやいたとき、バタンと大きな音がして、入口の扉が閉まった。 振り返れば、暗闇の中、ゆらりと立つ兄貴がいた。その俯いた頬の輪郭線がほのかに光って見える。 「兄貴……?」 なかば呆然とした呼びかけに、兄貴が顔を上げた。 いっさいの感情のない、仄暗い表情。 「……さみしい、と思わないか? 俺一人だけ」 低いつぶやきは、まるで耳元で話しかけられたかのように聞こえた。 秋代が怪訝そうに眉をしかめる。 「? 考にぃ、なに言って……?」 春海が不安げな顔つきでいつきを抱きしめた。まるで何かから守るかのように。 「お前らが羨ましい。いや、ねたましいよ」 ゆらりと、兄貴が一歩こちらへ歩み寄る。闇の中で兄貴がまとう燐光が尾を引いた。 「……どうしてこんなところへきたんだ。このまま静かに眠っていたって、俺はよかったのに」 「――Es ist falsch」 リン、と響く少女の声がして、俺たちは目をみはった。 兄貴のすぐ右側に、白いワンピース姿のレイラが姿を現したからだ。彼女は小さな白い手で兄貴の手を取り、ぎゅっと握りしめた。 兄貴はかたわらを憎々しげに見下ろす。 「『それは違う』だって? なにがだよ、悪霊ども」 レイラはそれ以上何も言わず、ただ悲しげに兄貴を見上げた。そして小さく首を振る。 そのとき、兄貴の左側にもう一つの白い影が降り立った。キラキラと輝く金髪の少年、ニールだ。 少年は悲しげな瞳を兄貴へ向けたまま、黙って兄貴の左手を取った。ぐい、と闇のほうへ引っ張られ、兄貴が抵抗する。 「いやだ、お前らと一緒になんかいたくない!」 闇の奥にはチカチカとまたたく小さな光があった。ニールはそれを目指しているようだ。レイラもまた、そちらのほうへと兄貴の手を引く。 兄貴は前のめりになって、それに抵抗した。 やがて光が広がっていき、ニールとレイラを包んでいく。 兄貴もまた―― だが、その足元には、まるでその場に縛り付けるかのように、真っ暗な闇がこごっていた。闇はまるで蛸の足のように粘着質にうごめき、兄貴を足元から浸食している。 「兄貴ッ!?」 俺は目を見開いた。 兄貴の肩が徐々に下がっていっている。足元を見れば、まるで底なし沼にはまったように暗闇に沈んでいくじゃないか。 にもかかわらず、兄貴は前へと進もうとする。しかし前には進めず、ただずるずると闇の淵に堕ちていくだけだというのに。 「だめだ、兄貴! そっちは違う!」 俺は反射的に叫ぶと兄貴に駆けよろうとし、足の痛みにその場にかがみ込んだ。痛みに顔を歪めながら、なおも兄貴へと手を伸ばす。 代わりに秋代が兄貴へ駆け寄り、腹まで沈んだ肩を掴んで引き上げようとした。しかし、秋代の細腕はするりと兄貴の腕をすり抜けていく。「あ」と秋代が叫びともつぶやきともつかない声をあげた。それから自分の両手と兄貴の顔を見比べ、拳をぎゅっと握りこむ。 「うそ……」 兄貴は苦々しく、歪んだ笑みをうかべた。 「そうだよ。俺はもう、死んでるんだ」 笑うその瞳の奥に、濁った闇のようなものが見えた気がした。 兄貴の足元の闇がいっそう激しくうねり、ずぶずぶと兄貴を引きずり込んでいく。 兄貴を縛っている闇――それはおそらく、この城だ。 一刻も早く、この闇から引きずり出さないと、兄貴は。 俺はレイラとニールを見つめた。白い光りに包まれた二人はまるで天使みたいだった。俺のすがるような視線を受けると、二人は悲しげに微笑み返し、小さく頷いてくれた。 俺は二人へ頷き返すと、兄貴へむかって告げた。 「違うんだ、兄貴、聞いてくれ。その子たちはもう、闇に捕らわれてなんかない。俺たちが――救ったから」 「お前らが……?」 兄貴が目を見開く。その姿は腰まで闇に埋まろうとしていた。 春海がいつきを抱きしめたまま、一歩踏み出すと、細い片手を兄貴へ差し出した。 「兄さんも秋代のおかげで救われたはずよ。わかって……」 「うすうす気付いてたんだ。考にぃはもういないんだって。もうあたしたちだけで生きていかなきゃならないんだって……でも。でも、もう一度会えて、それだけでも本当に、嬉しかったんだよ」 秋代の声は泣いていた。そのまま顔を覆って泣き叫ぶ。 「でも、こんなお別れはいやだよ! 明るい方へ行って! 考にぃ!!」 いつきが春海に抱かれたまま、不思議そうに小首を傾げた。 「考おにいちゃん、どこかに行くの?」 「春海、秋代……いつき」 兄貴はなかば呆然と、妹たちの顔を順番に見つめていった。 その視線が、最後に俺をとらえる。 「勇二。お前も俺にいけと言うのか」 「兄貴」 俺は穏やかに聞こえるように、泣き声を低くおさえた。 「助けてくれてありがとう。本当はわかってるんだ、兄貴が俺たちになにかできるはずがないって。……――そうだろ?」 テラスの崩壊から、兄貴は俺を身をていして守ってくれた。俺を負ぶって無事に運んでくれた。望むなら、階段の途中で振り落としたってよかったのに。 それにいつき。今にもいつきの細首を切断しようとしていたギロチンは、俺たちがもう少しもたもたしていたら落ちきってしまっていただろう。そのぐらいの時間稼ぎが、兄貴に出来ないはずがなかった。なのに、兄貴はぎりぎりで間に合わせてしまった。レイラと、ニールのおかげもあって。 兄貴は何を言われたのかわからなかったんだろう。少しの間きょとんとし、それからいつものへらりとした笑顔になった。それは兄貴にとって、精一杯の苦笑だった。 「……そうだな、ああ。本当にそうだ。俺は自分で殺そうとして――」 ぴたりと、兄貴を飲み込もうとしていた闇が動きを止めた。 「――自分で救ってる」 どろりと、闇が溶けた。 霧散した闇は、その残滓さえ光に飲み込まれて消える。 兄貴は一度、二人の手を放すと、ぱんぱんっと、ジーンズを埃でも払うようにはたいて、ニカッとした笑顔をうかべた。 「ごめんな。兄ちゃん、バカだったわ」 秋代が片目をこすりながら頷いた。 「考にぃらしいよ」 「まったくだ」 俺も足の痛みをこらえて、兄貴へと近づく。春海といつきもついてきた。 兄貴は一度俯いて、決意をにじませた真面目な顔をあげた。 「ありがとうな、みんな」 そして後ろを振りむくと、光に包まれたレイラとニールの手を取った。 最後に一度、兄貴が振り返る。 「俺、もういくわ」 俺たちは頷き返すことしかできなかった。 光が兄貴を飲みこみ、俺たちのほうへ迫ってきて――すべてを包んだ。 世界が白く染まる。 見覚えのある光景に、俺は心の片隅でなにかが腑に落ちた。 ああ、あの光は、あちら側のものだったんだな、と。 ◆ 「――ッ!」 唐突に俺は目覚めた。 視界いっぱいに広がる天井画を眺めたのは、ほんの一、二秒だ。俺は慌てて起き上がる。知らない間にエントランスの階段の踊り場に寝転がっていたらしい。冷たい石床に冷やされて、背中がカチコチに固まっていた。 見回せば、足元に春海や秋代、いつきまでが赤ん坊のように身体を丸めて眠っていた。 その中央には、あの設計図集が皮の表紙を閉じて、宝石かなにかのように鎮座している。 兄妹の中に一人だけ足りない人物に気付いて、俺は顔を歪めた。 「兄貴――兄貴ッ!?」 いないと知りつつも辺りを見回せば、目に入ったのは元通りに崩れた三階のテラスの残骸。キープアウトの黄色と黒の縞模様がぐるぐると巻きつけられ、その下には。 白いチョークで人型が描かれていた。 「兄貴……」 俺は全身の力が抜けたように、その場へ座りこんだ。 「ん……」 「勇兄さん……?」 俺の声に呼び起こされたのか、妹たちが目を覚ましはじめた。春海と秋代はすぐにはっとして飛び起き、いつきは眠たげに目をこすっている。 「勇にぃ、ここは……」 不安げに寄りあう春海と秋代に、俺は黙ったまま頷き返した。 秋代と春海も辺りを見回し、テラスの残骸に「あっ」と小さく叫んだ。それですべてを悟ったのか、春海はぼろぼろと泣き出し、秋代はそれをぎゅっと抱きしめた。 ふいに、いつきが我に返ったように高い声を出した。 「考おにいちゃんは、どこ?」 「いつき」 俺は優しく呼びかけた。 「兄貴はもういないんだ」 「うそ! さっきいたもん!」 いつきはぱっと立ち上がると、階段を駆け下りていった。 「いつき! 危ないぞ!」 慌てて追いかけようとして、俺は足の痛みに「うっ」とその場に膝をつく。左足は腫れ上がり、とてもじゃないが歩ける状態じゃなかった。 「やっぱり……夢じゃないんだな」 「勇にぃ、肩持つよ」 「気をつけて。立てる?」 秋代と春海が心配そうに顔をのぞきこんできた。 俺は頷き、足元の冊子――設計図集を片手に立ち上がった。 妹たちに両肩を支えられて階段を下りると、いつきが食堂の扉の前で立ち尽くしていた。 「……どうして?」 いつきが放心した様子で食堂の中を指さした。 そこはガランとした空間だった。あの腐った長テーブルも、ずらりと並んだ椅子も、くすんだテーブルクロスも、ぐずぐずの絨毯や壁に掛けられた絵画、剥製すらも、家財道具と呼ばれるものすべてが。 すべてが取り払われ、閑散とした空間と化していた。 いつきは室内へかけいり、両手を口元に宛てて叫んだ。 「考おにいちゃん、考おにいちゃん!」 もちろん応えはない。 それでも兄貴を呼びつつけるいつきがせつなくて、俺たちは声をかけられなかった。 春海がすん、と鼻を鳴らして涙をこらえていた。秋代も俯いて顔を見せない。 「考おにいちゃん!」 俺は手にした設計図集を開いた。 そこにはいつきの落書きはなかった。ただ俺の描きこんだ通気口が、俺の筆跡ではなく、もっと子供っぽい歪んだ線で描かれていた。クレヨンじゃないから、いつきでもない。秋代の飾り梁もそうだった。 俺は冊子をびりびりと引き裂いた。 「考おにいちゃん――!!」 古い紙は粉々になり、風に乗って、空っぽの室内に散らばった。 |
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