第六章 次男:勇二の章3

 ジャッ、ジャッ、と金ヤスリで石を削る。手元に細かい粉がまぶされて、まるで天ぷらを揚げるときみたいだ。
 とか思いながら、俺は作りかけの小部屋で座りこんで作業を続けた。
 どうやらこの部屋は増築の手が入り始めていて、石壁を作る途中らしい。壁際に積まれた石や、投げ出された工具がその様子を保証している。壁も固まりきっておらず、工具でつけば漆喰が崩れてくる。
 俺はその石壁から一つの石を選んで、バールみたいな工具でほじくって取り出した。
 そうして同じく工具の中から発見した金ヤスリで、その石を磨いて一回り小さくしている。もちろん、この城を探索して手に入れた戦利品を、未来へ届けるためだ。
 家捜しをしまくった結果、俺は使われていない個室に作り付けの金庫を見つけた。夫人の寝室で見つけた金庫の合い鍵を使ってみたところ、さっくりと開いたんだ。
 そんなわけで、用途の済んだこの鍵を、この石壁に隠したい。
 最初は暖房室奥の隠し部屋に一緒に置いておこうかと思った。でも、もしも二百年の間にあの部屋が見つかってしまったら……。そう思うと恐くて、別の、もっと人知れない、いや、思いもつかないような場所に隠そうと思ったんだ。リスクは分散するべきだろ。
 だからこうして手間暇をかけて、俺は第二の隠し場所を確保しようとしている。
 石壁にぽっかりと空いた穴に鍵を入れ、一回り小さくなった石を戻した。
「――よしっ」
 俺の予想通り、石はすっぽりと収まって、違和感なく他の石に紛れてくれた。
 これでここに金庫の合い鍵があるだなんて、誰も思うまい。二百年後に秋代たちが見つけるまで、ひっそりと眠っていてくれるだろう。
「後は……と、どれどれ」
 俺は壁から離れると、足元に置いておいた分厚い本を手に取った。
 この鍵で開けた金庫に入っていたのは、この一冊の日記だけだった。他にもっと入れる物があるだろと思ったが、家主にとってはこれが一番の秘密なんだろう。
 流暢ながら読みやすい文字で書かれた日記を、俺は電子辞書の力を借りて読み解いていく。あまり意味のなさそうなところは飛ばしているものの、かなりの量がある。少し訳しては飛ばして、また訳してと、面倒くさいことこのうえない。
「こんなことなら、兄貴の遺品にあったドイツ語の参考書、持ってくればよかったな……」
 はあ、とため息をつくと、ジンッと左足が痛んで、俺は顔をしかめた。
「――ッ! ……てぇ」
 どうもこの足、本格的にヤバイらしい。動かせるから骨が折れているわけじゃないだろうが、ヒビは確実に入っているだろう。腫れ上がり方もいよいよ凄まじく、足の関節がズドンと象の足みたいになっている。
「くそ、この足さえなければ、もっとこの城を探索できたのに……」
 かたわらに立てかけた杖を見つつ、俺はぼやいた。この杖には本当に感謝している。もしこの杖を見つけられなかったら、俺は痛む足を引きずって、ろくに身動きがとれなかっただろう。
「そんなことより、今はこっちだな」
 溜息とも深呼吸ともとれる息をついて、俺は日記のページをくった。
 重い革張りの本を開くと、電子辞書を開いて単語を訳する。文法は英語に近いから、本当に助かった。大学受験で必死に勉強したかいが、こんなところで出てくるとは。
「っと……、Rekonstruktionは……『改築』、か。ここは大事かもしれないな」
 鞄から筆記具を取り出して、床へ日記と電子辞書を置く。窓から差しこむ陽の光が、埃をキラキラと輝かせながら日記一式を照らした。
 俺は痛めた左膝を立てたまま本へ覆い被さるようにして、本格的に和訳する体勢を作った。
「なになに、三月二十四日――……?」

『  三月二十四日
 人間というものは、不快すぎるとその存在を遠ざけるか、イライラと繰りかえし思い出すかの二通りに分かれるらしい。
 私はもちろん後者だ。今もあの男のふざけた発言が頭をよぎっている。
 この胸にこごる吐き気に似た気分をどうにかするために、今日は少々長めの日記を書こうと思う。

 事のはじめは単純なミスだった。
 エントランスの計り間違いで、二階に不自然な隙間ができてしまうというものだ。
 発覚したのは工事に着手した後で、今からだと不自然な歪みができてしまうらしい。一刻も早く訂正しなければならないというのに。
 即座に修正を求めた私に対し、あの男――建築士カーライルはこう言った。
『こんな計り間違いがあっただなんて、思いもしませんでした。ミスをした測量係を今すぐクビにしてください。もちろん、僕の完璧な設計を汚した罪でね』――と。
 私はしばらく口がきけなかった。日頃から傲慢な男だとは思っていたが、雇い主である私に指示まで出してくるとは。
 それだけならまだいい。私も寛大な心で受け入れようと思う。
 だが、奴はさんざん愚痴を言い放ったあげく、
『これまでの設計を崩したくないから、隙間を残してエントランスを作る』
 などと、のたまいだしたのだ。
 二階の端とはいえ、エントランスという客人を迎える一番の場所に、だぞ。そんな場所に設計ミスの象徴のような間隙を残すなど、もってのほかだ。カーライルは飛び梁の絶妙な設計がどうこうと言っていたが、そんなことはどうでもいい。
 今すぐ修正しろと言いつのる私を無視して、カーライルは『それらしい装飾の一環として』壁の隙間を設計に盛り込んでしまったのだ。
 私は生まれて初めて、自分という人間の無力を知った。領主として、この城の主として、今まで不可能だなどというものはほとんどないと思っていたのだが。
 こうなると、この城のすべてが気に入らなくなってくる。
 私は毎晩のように設計図を眺めては、ここを変えろだとか、秘密の部屋を作れなどと、カーライルへの嫌がらせを兼ねて、意味のない指示を出している毎日だ。我ながらむなしいと思う。
 今は一日も早く増築が済むことを祈っている。
 神よ、どうか我が城にあなたの息吹が舞い降り、この城が素晴らしきものとなってくださいますよう――』

 日記はそこで終わっていた。
「エントランス二階の、増築部分」
 俺は低くつぶやいて、本から顔を上げた。
「兄貴のメールには、壁の隙間に挟まって出られなくなったってあったな……」
 俺は携帯を取りだして、兄貴のメールを確認する。

『もう一人は十二代目領主の次男ニール。こっちはすごいぞ、突然発狂した召使いによって、一家惨殺されたんだそうだ。この子は壁の隙間に逃げ込んで、唯一生き残ったものの、そこから出られず餓死』

「餓死……」
 小さくささやいて、俺は目を閉じた。秋代たちのいる二十八世紀へ意識を飛ばすように。
 城の中には殺人鬼が闊歩している。そこへ見つけた小さな壁の隙間。子供だけが入れるくらい、狭くて隠れるにはもってこいの場所だろう。
 そこへ押し込まれる、小さな少年の身体。
 殺人鬼から逃れるため、更に奥へ、奥へと進む。
 突然なくなる足元。
 二階から一階へ――少年は叫び声も上げられず、落ちる。
 打ち所が悪ければ、即死。よければ、壁の隙間で身じろぐこともできずに……。
 きっと関係者全員が殺されて、助けも呼べなかったんだろう。壁に挟まったまま三日もすごせば、脱水で簡単に逝ける。
 そうならないためには――――
「……っ、いてぇ」
 俺は杖をついて立ち上がった。痛む足を引きずって、増築中の部屋を出る。
 目指すのは、家主の寝所だ。
 日記にはこうあった。
 『毎晩のように設計図を眺めて』いる、と。
 きっと寝室に大事な設計図をしまいこんでいるはずだ。

         ◆

 寝室のベッド脇には小ぶりな文机が置いてあった。
 引き出しを引くと、するりと開く。一番上に置いてある四つ折りの紙を取り出し、机に広げた。
 厚手の紙には神経質そうな筆致で、城の設計図が描いてあった。平面図だけでなく、城の外観を細かに描きこんだ絵もある。ざっと見たところ、どこぞの大聖堂と見まごうようなゴシック風の城に変身させるつもりのようだ。
「これが……秋代たちのいるエゼルブルグ城か……?」
 ごくりと喉を上下させて、俺は紙面を指でなぞる。現代ではありえないほど装飾華美な構成だ。装飾のためにすべてが集約されていると言ってもいい。
 一階建ての四角い箱のような今……十六世紀のエゼルブルグ城に対して、この城は二階建てで、小さめの塔をいくつも抱えている。かなり大幅な増築をするつもりのようだ。
 広々とした吹き抜けのエントランスホールには、いくつもの柱を飾り付け、今の無骨なロマネスク様式の面影は、ほとんど残っていない。
 俺は精緻な図面を必死になって読み解いていった。
 注目したのはやはりエントランスだ。
 エントランスの壁の奥に、ニールが閉じ込められているはずだから。
「ここで、間違いないな」
 エントランスの二階部分の端に不自然な空白を見つけ、俺は小さくつぶやいた。
 震える手でインク壺にささった羽根ペンを取る。慎重に筆先の余分なインクを落とすと、設計図に小さな四角を描きこんだ。
 これは、換気口だ。
 ちょうど子供が一人抜けられるくらいの。
 一階の壁に用途のない換気口を作るという、完全な設計ミスを起こしたんだ。
 これでニールの命は救われるだろう。
 俺が羽根ペンを手放して目を閉じ、深く溜息をついたとき。

 ――完璧。

 耳の奥で、どこか懐かしい男の声が聞こえた。

 ――完璧だよ、勇二。

 驚いて目を見開く。
 世界は真っ白な光に包まれていた。右を向いても、左を向いても光だけ。手元すら輝きに覆われた中で、俺は完全にパニックに陥った。
「なッ!? なんだ!?」
 目映い光りは俺の世界すべてを埋め尽くし――
 やがて、一瞬で途絶えた。

         ◆

 突然暗くなった視界に、俺は慌てて瞬きを繰り返した。瞳孔がうまく光りを調節できず、本来よりだいぶ暗い。湿った空気の匂いと、青臭い草の香りがした。
 そこは、仄暗いエントランスだった。割れた薔薇窓から差しこむ光がちょうど俺たちを丸く照らしていた。
 その階段の踊り場には、俺と、よく見知った二人の少女――
 春海と秋代が座りこんでいた。二人は呆けたように、二階から階段の踊り場へ降りてくる一人の人物を見つめている。
 妹たちの長い黒髪と短めのボブの向こうに見える姿に、俺は目を見開いた。
 ボサボサの茶髪。ラフなジーンズにトレーナー。片腕には大きめの鞄とコートを抱えている。
「兄貴……?」
 俺の呟きはおそらく誰にも届かなかった。
 相手がにっ、とお得意の笑顔でこたえる。
 そこには長男の……死んだはずの、孝一兄貴が、いた。
 兄貴は緊張感なくへらりと笑う。
「ほら、何時までもンなとこでヘタってないで、こっちのほう見てみろよ。けっこう保存状態いいんだぜ、この城」
「う、うん……」
「ええ……」
 二人が兄貴の手を取る。すり抜けたりなんかはしないで、ちゃんと質量があるみたいだった。
 兄貴は二人の手をぎゅっと握りこむと、その様子をただただ呆けたみたいに見ている俺へと視線を向けた。
「ったく、お前までなんつー顔してんだ、勇二。戦争から帰ってきた負傷兵に会ったみたいな顔しやがって」
「だ……っ、だって、だって兄貴は――」
 うわずった俺の声が、吹き抜けのエントランスにいやに響いた。
 俺は兄貴を凝視したまま、ごくりと生唾を飲みこむ。
「……――死んだんだろ?」
 くいっと兄貴の片眉があがる。まるで心外だと言わんばかりに。
「お前、受験で脳みそやられたのか?」
「なっ。でっ、でも――」
 そのとき、ゴツリと低い音が頭上から聞こえてきた。
「危ない! 上!!」
 秋代の叫び声。
 見上げれば、三階から出っ張ったテラスがこちらへ向かって落ちてこようとしていた。
 ぐらりと揺れる大振りなテラスは、自重に耐えきれず壁から引きはがされていく。
「逃げろ!!」
 兄貴が妹たちを引っ張り上げた。
 俺も逃げようとした、そのとき。
 ずきりと左足が痛んだ。
「ッ――!!」
 痛みで顔をしかめる。その一瞬の隙が、明暗を分けた。
 俺は落ちようとする石の塊をその場で見上げていることしかできなかった。
「勇にぃ、逃げて!」
「勇にぃさん!!」
「ちくしょう!」
 兄貴の舌打ちが、ひどく近くで聞こえた。
 兄貴は俺に覆い被さり、そのまま――

 ゴトン、と重く大きな音が響いた。


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