9.家に着くまでがおつかいです。 俺たち三人がその部屋へ入ったとき、閣下は一枚の手紙に目を通していた。 興味薄げに傾げられた首を這う黒髪が色っぽい。休憩中だったせいか軍服をラフに着こなしていて、開け放たれた襟元が……いかん、これ以上は軍事機密に触れる。 俺たちは彼女の逆鱗をくすぐらないように、できるだけ大人しく整列していた。以前とはビビリ方の度合いが違う。なにしろ思いっきり任務に失敗してるんだ。緊張でめまいか腹痛か、もしくは両方起こして倒れそうだった。 あらかじめ書類で報告していた内容をレニィが繰り返す。 その間も閣下は一度としてこっちを見なかった。黙々と手紙に目を通していて、報告が終わってもそのままスルー。……あああ、放置プレイはほんと堪忍してください。 「それで」 パサリと手紙を投げ置き、彼女はおもむろに口を開いた。 「わざわざダイヤを調査団に明け渡して、のうのうと戻ってきた、と?」 「申し訳ありませ――」 「謝罪も弁明もいらない。私は是か非かを問うている」 平坦な物言いで青い視線を投げかけられて、俺の血圧が一瞬で下がる。 ちょっ……どうしよ。魔物の三百倍くらい怖いんですけど! 「確認しよう。たった一人の人間を救うために、千金に値する宝玉をなげうったのか? 自分の命まで危険にさらして?」 なぜか閣下は俺を直視し続ける。え、これ、もしかしなくても俺に聞いてる!? つか個人攻撃くね!? 「答えろ」 「じ、事実です……」 『はい』と素直に認められるほど、俺の肝っ玉は残っちゃいなかった。にじり下がろうとする足を留めるので精一杯だ。 だから、にたり、と閣下が笑んだときは、心臓が止まるかと思った。 「予測通りのバカだな」 バカの一言が瀕死の心臓にグサッと追い討ちをかける。うえー、予想してたんなら最初っから俺なんかに頼まないで下さいよう。あなたの周りにはもっと適任な奴があり溢れてるじゃないっすか。 「うう、すみませんでした……」 「バカ者。褒めているのだ」 「はい?」 「狙い通りうまく動いてくれた。多少抵抗した旨をシュヴァイツェンに証言させられれば御の字かと思っていたが、想定以上の出来だ」 指を組み、閣下が不敵に笑う。 それを見て顔を見合わせたのは俺とレニィ。どうやら怒られているわけではないらしい。ルシェクリードはとっくに察していたらしく、顔色一つ変えなかった。 「シェヴァイツェン……って、あの調査隊の隊長さんですか?」 「ああ。彼はシュヴァイツェン中将――アレで齢七十を迎える、引退間際の老将だ。前線を退いて久しいが、無類の戦好きで、調査にかこつけては『お出かけ』ばかりしている。まだまだ耄碌してくれる気はないらしい」 「ちッ、中将ッ!? しかも御年七十の!?」 なななな、なんで将官サマが遺跡調査なんてマイナーな小隊の隊長なんかやってんだっ。しかも七十の現役だって!? 武官は所属にもよるが、平時でも殉職率が半端ない。西の対魔物前線――魔物の侵攻を防ぐ常時戦闘地域にして、学院上がりの新兵がまず最初に投入される場所――なんて、歩兵部隊の将校の平均年齢が三十前半だそうだ。他の部隊を合わせても四十ない。退役年齢がないのにこれだから、現場の惨状は想像に難くないだろう。 加えて、同族はその精神を現して肉体が成長・老化する。経験を漏らさず吸収できる子供と違って、成長期を終えた大人はなかなか伸び行くことが難しい、らしい。だいたい三十歳を境に、それ以上肉体が成長できない者がチラホラ出てくるそうだ。この閣下も人間だと三十半ばぐらいに見えるけど、実は五十目前で……あ、これ禁句な。 で、そんな一風変わった成長の仕方をするせいで、ちょっと特殊な老化現象も起こる。精神的に。そのおかげで肉体の寿命より早く人生終了のお知らせが来ることが多いんだ。だから軍人でなくても、同族で六十歳を超えてる奴はまず居ない。魔物の襲撃にあったりもするしね。 つーわけで、あの隊長さんがどれだけレアな存在か、年齢を聞いただけでもよーっく分かる。道理で強いはずだよ。言動も妙に好々爺臭かったし。 「うはあ、そんな凄い人だったんですか。危うく殺されるところでしたよ」 感嘆に紛れて飛び出した文句へ、閣下が涼しい顔で答えた。 「それはない。そもそもアイツは始めからお前たちを迎えに行ったようなものだ。学生が遺跡へ向かったと告げたら、子供になんてことを教えるんだとずいぶん怒られた」 「閣下御自ら、そのようなことを?」 「わざと言ったんですか……」 自分で情報漏洩してたんすか。しかも怒られたんすか。 悪びれすらない閣下に、レニィと俺は言葉をなくして立ち尽くす。ただ一人、ルシェクリードだけが「だろうと思った」と呟いていたが、反応してくれる親切な聞き手は居なかった。 「ああ見えて中将は大の子供好きでな。特に先日、初のひ孫が産まれてからは、子供を見るたび『大きくなったらあんな風に云々』と言いづめだ。父性本能が強いのか知らんが、未成年に害を及ぼすはずがない」 「あの中将、ひ孫までいるんだ……」 既に忘れつつある隊長さんの顔が、子供好きなおじいちゃんのイメージにすり替わっていく。つか俺たち子供に含まれるの? ギリギリじゃね? 俺の隣で、ルシェクリードがバカらしいと言いたげに溜息をついた。 「ったく、余計な事を。おかげで要らん誤解をして、遺跡の地下を駆けずり回ったんだぞ」 「お前たちでは迎えが必要だろうと、私なりに気を使ってやったのだ。嫌味ついでに『知り合いの学生に近頃の調査団の俗悪さを嘆いたら、自分たちが宝を守ると、すっかりその気になってしまった』と聞こえよがしに呟いてやっただけだがな。奴ときたら、目の色を変えて出立していったよ」 ふんと鼻を鳴らして、閣下がいやらしく微笑まれる。敵に回したくない女の笑みだ。 ……でもね閣下。そのお迎えが事態をややこしくしたんですよ? なんて言えない。 「なんにせよ、皆無事でなによりだ。こうして無事、宝も手に入ったことだしな」 閣下が懐から二つの透明な石を取り出す。 「あ!! なんでそのダイヤ!? 二個も!」 その薄いピンクの石は、紛れもなく調査団に引き渡した宝玉だった。微細な文様も見間違えようがない。ただし、全く同じものが二つ。一つは隊長さんの言ってた他の遺跡の発掘品だろう。二つの石が間接照明の光を拾ってきらめく様は、真っ暗な地下で見たよりもずっと貨幣的価値を感じさせた。 「良い事はしておくべきだな。日頃から善行を積んでおくと、宝のほうから此方を選んでくれるらしい」 「言いさらせクソババア。どうせ自分のところへ回すよう、最初から相手の言質をとってあったんだろうが」 即座に閣下の胸ポケットにあったペンが飛び、ルシェクリードのミゾオチを直撃した。ぐえっという耳障りな呻きを残して、俺の視界の端っこから奴の黒髪が消える。一騎撃沈。 「口を慎まないと生まれの卑しさが知れるぞ。言っておくが、『それほど宝が欲しいなら、自分で取りに行け』と啖呵を切ってきたのはあいつの方だ。そのご好意に甘えて、今日、私自ら保管庫へ出向いてきた」 「それ盗難じゃ」 「許可は出させたが。敵もさる者、来期の予算を思いっきりふっかけてきた。立ち回りのうまいことだ」 と、閣下の忌々しげな舌打ちが響く。 俺はシェヴァイツェン中将の人を食ったような態度――あ、これ比喩ね。『喰った』じゃなくて――を思い出し、閣下が『相性が悪い』と言っていた理由をなんとなく理解した。 「ですが、最初からそうやって手を打っていただけていれば、こんな面倒なことにはならなかったんじゃないですか? 俺……じゃなくて、僕らの行動が調査団との交渉素材になったことは分かりましたけど、でもそのせいでたまたま居合わせた人間が――」 「ところで、そこの赤いの」 俺の発言をスッパリ無視して、閣下がいたずらげな笑みを投げかけてきた。だからその笑顔やめてください。ひぃってなりますからっ、ひぃって。 彼女は俺の隣でうんざりと立ち上がろうとしているルシェクリードを、親指でくいっと示し、 「話は聞いている。――コイツはなかなか美味だったろう?」 「あ、はぃ。…………はい?」 瞬間、部屋の空気が、凍った。 え。 閣下がコイツの味を知ってるってことは。 一度でもコイツを喰った経験があるというわけで。 男女間でそれはつまり。 二人ってまさか……そういう関係? 「る、る……ルシェクリードぉぉおおおおおおお!!!!」 間髪いれず絶叫したのはもちろんレニアローツェ。両手で自分の耳を押さえているから、この突き抜けるような声量の自覚はあるようだ。 彼女の細い指が友人の生っ白い首を掴む。カッと見開いた目が「この下衆を今すぐ絞め殺してやる!」と叫んでいた。 「ちがっ、待て! レニィ!」 さすがに命の危険を感じたのか、ルシェクリードが青い顔で弁明し―― 「きいいぃぃさあああぁぁまあああああ!!!」 聞いちゃあいねぇ。 それどころか友の首がギリッギリに絞まってる。超絞まってる。うーわーわー、ヤバイんじゃないのコレぇえええ!? 「レニィやめっ! ちょ、すんませっ、し、失礼します!!」 俺はルシェクリードからレニィを引き剥がして羽交い絞めにし、一足飛びで扉へ向かう。不躾ながら扉を蹴り開け、ぺこぺこしながら部屋を出た。 なお硬直する彼女を引きずりながら、俺は盛大な溜息をつく。 やっぱ、閣下に敵う日は遠いですよ……。 しょぼんと肩を落としながら、俺はふと大事な事を聞きそびれたことに気付いた。 ルシェクリードの見つけた古代魔法――あれはやはり、閣下が一枚絡んでいるんだろうか。 + + + + + 足音が遠ざかる。絨毯の上で何かを引きずる音も。 情けない顔で首振り人形のように謝り倒していた友人。奴の煮出しすぎた紅茶みたいな赤毛を思い出し、俺は首を押さえて溜息をついた。 そうやって甘い顔をしてるから、レニアローツェにいつまでも舐められてるんだ、バカが。常に戦闘時のテンションだったらとっくに落ちてるだろうに。レニィは昔から押しの強い相手に弱いんだ。……まあ、普段からあんな頭のネジが飛んでる奴だったら、俺は友達なんかやってないがな。命がいくつあっても足らん。 失礼があっただのなんだのと、今頃は青い顔をしているだろう友を思い、俺は目の前で楽しげに笑う女を睨みつけた。 「……からかうなよ」 「事実を言ったまでだ。ルシェクリード、お前は美味い」 「知ってる」 思いっきり誤解した二人の顔が浮かんで渋面になったが、できるだけ平坦な声を心がけた。一瞬でもムキになってみろ、調子に乗ってどうしようもない。 「同族間の吸血では、人間保護法は適用されない――そうだろう?」 「そうとも。同族には、な」 余裕の笑みを返す相手が心底憎い。 この女と知り合って十年近く……幾度となく家を連れ出され、無理やり遺跡探索へ同行させられた。数々の罠にはめられ、発見・解除方法を体に叩き込まれ、この女が魔物を殲滅する姿をまざまざと見せ付けられてきた。おかげで今では初見の遺跡の攻略パターンですら読めるほどになっている。 だが、技術の継承なんてものは二次的な結果に過ぎない。 本来この女にとって、俺はていのいい『携帯喰料』だった。 とうの昔に滅んだはずの古代魔法を復活させたのはこの女だった。遺跡に封印されている魔方陣を読み取り、その魔術の元となるものを抽出する。それを体内――正確には精神内で飼い慣らし、肥え太らせる。それこそが古代魔法が他の魔法と異なる点だ。 そして、もう一つの特徴が魔力に加えて血液を消費するということ。大概は攻撃対象の魔物か、術者本人のものでまかなうのだが。 問題は、俺たちが吸血鬼と呼ばれる種族だということだ。 古代の人間たちが使っていた頃は、ただの貧血を起こす魔術だったのかもしれない。もしくは、多大な犠牲を要求する術式、か。 しかし、俺たちが扱えばどうなるか。 瞬時に理性を失うほどの飢餓を引き起こし、生き血を求めて暴れ狂うだろう。……あの時のロイエスのように。 それを回避するには大量の血液が必要だ。けれど、血液パックでは遺跡に閉じ込められた際に鮮度の問題が出る。人間を連れて行くのは法にもとる。ならばとこの女の考え付いたのが、同族の――俺を伴っておくことだった。 幼い頃はどうして俺だけがこんな目にあうのか分からなかったが、この年まで生きていれば答えも見えてくる。……自分の体質と特徴を考えれば。 思うに、俺はそう遠くない血縁に人間が混じっているのだろう。 異常なほど印象に残らない顔立ちは、俺の造形に問題があると言うより、同族が人間の顔を識別し辛いと感じるところに由来するらしい。人間が家畜の区別に苦心するようなものだ。 無意識に同族……いや、仲間ではない、と、認識されているのかもしれない。 苛立ちを溜め息にして吐き出し、目の前の女へ意識を戻す。 学院に入ってからは連れまわされることも減ったものの、長期休暇になると駆り出されるのはいつものことだった。だが今度は友人までを巻き込んで大騒ぎしてくれた。幼い頃からの習慣とはいえ、俺としても腹に据えかねている。 古代魔法のことはバレるわ、野郎には噛まれるわ、重ねてロクなことがなかったんだ。これで怒らないほうが難しい。俺は腕ぐらい喰われてもなんとも思わないが、相手がそこまで割り切れていないせいで、あれから微妙な空気が漂って仕方がないんだ……。勘弁してくれ。 だがそれを責めたところで、この女はそらとぼけて答えるだろう。『お前一人じゃ無理だから、護衛をつけてやったのだ』と。 俺が武器さえ扱えれば、あの二人を巻き込まずに済んだかもしれない。少なくとも、あそこまで危険なことにはならなかった。 無意識に拳を握り締め、俺は女を睨みつけ続ける。 幼い頃から振り回してきたガキの内心などお見通しなのだろう。女は口の端だけに笑みを残して、子供をあやすような口調で促した。 「それで? 他に報告はないのか」 「ダイヤの『抜け殻』の他に、古代魔法が一つ。保存魔方陣は破壊済みだ。状態は最悪だが」 「なぜそう言い切れる」 「試しに使ってみたが、それほど効果がなかった」 「それはお前がヘタレだからだ」 悪びれなく言い切られ、俺は不機嫌の色を強くする。 そんな態度には微塵も配慮せず、女が黒い手袋をはずしてこちらへ手を伸ばした。深紅のマニキュアがてらりと艶めく。 「渡せ」 命じられるままに、その手の上へ自分の手をかざす。 俺の袖口からコールタールでベタついたヒルのような、黒い半液体状のものが現れた。手首を伝い、指先を下り、どろりと女の手のひらへ落ちる。 「ふうん。本当に雑魚だな」 指先で軽く弄ばれるそれを無感動に眺めながら、俺は内心舌を巻いていた。 これは魔方陣から抽出した、古代魔法の元。 この『寄生蟲』を体に巣食わせることは、途方もなく精神を疲弊させる。 しかもそれだけでは済まない。魔術を使う際の不快な酩酊感、嫌悪、憎悪、破壊衝動、そしてその先にぽっかりと空いた、闇のような絶望感――精神で飼い慣らすことはおろか、こうして肌で触れているだけでも途方もない負担がかかる。 俺が知るだけでも、この女の宿した蟲は数十。 考えるだに、ぞっとしない。 古代魔法の主成分は狂気と、それを制御する意思の力だ。どちらもこの女にかなう同族はいない。 精神に致命的な弱点を抱える俺などは、自ら考案した自衛用の数式魔方陣がなければ、とっくの昔に狂っていただろう。理性を礎とした魔方陣は蟲の制御にもってこいだ。その分、常に魔力を消費し続けるし、使用時も魔法の威力は格段に落ちるが……。 この女にそんな保身は必要ない。 女はぬたぬたと蟲を手のひらで遊ばせた後、あっさりと袖の中へ隠した。その制御力に感服する。そんな態度は微塵も出さないが。 「まあいいさ。あの地域の禁呪には、はじめから期待していない」 あっさりと告げ、彼女は黒い巻き毛を後ろへ払う。シンプルなイヤリングがちらりと覗いた。 女の痛手のない様子に、俺は若干眉を寄せた。 俺の予測では、この女の求めたものはダイヤの中に封じられていた魔法。それを得るために俺たちだけでなく、調査団まで利用した。 にもかかわらず、ダイヤの魔法はもぬけの殻。 さぞ不機嫌極まりないだろうと思っていたのだが……。 俺の表情から全てを読み取り、女が意地悪く口元を持ち上げた。 「なんだ、お前まで宝の意味を履き違えていたのか。それはそれは、僥倖だったな」 女は滑らかに指を折り、一つ一つを確かめるように数えていく。 「たった一つの宝石と、たった一人にしか使えぬ魔法。そしてたった一人が持つ、千にも万にも及ぶ知識」 ニタリ、と女の赤い唇が闇夜の三日月を模す。 「お前はどれを宝と呼ぶ?」 頭痛がした。 「……はめたな」 女が笑顔で応える。それは満面の、底意地の悪い笑み。 「ヒントは与えてやったぞ。言ったはずだ、宝を“保護”しろ、と」 「なら最初から素直に『人間』って言え」 おかげで無駄な苦労をした。魔物の追跡を受けながら、どこにあるとも知れない魔方陣を探し出し、そのうえ調査団にも追われるなんて、二度とごめんだ。 口先では逆らってみたものの、徒労は百も承知だった。 「大体、なんであのおっさんがあの遺跡にいるって知ってたんだ」 「オゼット教授、だ。西方古代文明の権威であらせられるぞ。気安く呼ぶな」 先ほど熱心に読んでいた手紙を投げつけられた。軽く弧を描こうとするそれを指先で捉え、ざっと目を通す。頭痛がひどくなった。 「愛しの文通相手サマだ。こちらの身元は明かせないが、長年にわたって考古学を師事させてもらっている。教授には手紙で散々『その頃合いでは行くな』と言い含めていたのに、あの通りの人柄だからな。自分は東方の出身だから、魔物に狙われることはないと高をくくっておられる。これで少しは懲りてくれればいいが」 手紙には嬉々とした文章で、遺跡での発見や他の遺跡との類似、差異、それらに関する鋭い指摘や見解、今後の調査の方向性が述べられていて、ちょっと齧っただけの俺にすら内容の高度さが透けて見えるほどだった。あののほほんしきりのおっさんが書いたとは思えない。……いや、逆に俺たちに関する記述が一行で済まされた辺りが、おっさんらしさなのかもしれないが。 それにしてもあのおっさん、騙されてんぞ。 種族がどうというのは、この際目を瞑ろう。だが、手紙の中でこの女が「お嬢さん」呼ばわりされているのが解せん。見た目がどうあろうと、この女がおっさんと同年代なのは紛れもない事実なのだから。 とはいえ、この女を通じて自分もまたあの人間に師事を受けていたのかと思うと、内心複雑だった。 「自分の師匠を助けたいなら、もっと確実な人員を割けば良かっただろう」 「言ったろう。お前たちだから意味があったのだ。それに教授が死んでいたら、それはそれでシェヴァイツェン中将を辞職へ追い込む口実になっていた。労害はただ去り行けばいいのだ」 この鬼が……っ。 悪態を噛み潰し、俺は女を睨みつける。 「……実際はもっと前から仕組んでたんじゃないのか。一つ目のダイヤが発見されたときに、アンタが教授へ何も報告しなかったとは思えない」 「言いがかりだな。検事を装うなら証拠ぐらい用意してきたらどうだ」 「そんな物、お前が残しているはずがない」 「そうとも。よく分かってるじゃないか。流石は私の小さな相棒だ」 子供の頃に遺跡の中で呼ばれた形容をされ、俺は不機嫌をあらわにする。 「……何を企んでる」 警戒心をむき出しにする俺へ、女はただ、鷹揚に嗤った。 「命じねば人ひとり守れぬ駒など、いてもらっては困るのだよ。ルシェクリード」 言葉の意味を計りかね、俺が目を開いて停止する。 その一瞬が致命的な仇になった。 布張りの椅子に泰然と背中を預けていたはずの相手が、一瞬でデスクに腰掛けていた。気付いたときには遅い。バカ細いヒールが服の上から胃の入り口をギリギリと圧しつけていた。 女が鮮やかに鼻で笑う。 「まさかお前だけに課したとでも? ずいぶんと思い上がったものだなぁ、意気地なしのクソガキが。刃も持てない欠陥品の分際で」 徐々に強まる圧力に、俺は顔をしかめて息を止めた。後ろに下がることだけは絶対にしない。一歩でもよろめいてみろ、横殴りに膝が飛んでくる。 「お前たちは試されたのだよ」 鋭く、耳へ言葉が飛び込んできた。 「我々は完全な組織社会だ。命令に従えぬ者ははじめから必要ない。有事の際には一糸乱れぬ統率力、結束力を発揮してもらわねば困る」 「……だろうな」 「ゆえに、学徒には入学時から徹底した服従心を叩き込む。多少の折檻もいとわない。最終的には、命令のために街一つ平然と壊滅させるような仕上げ具合が理想だ」 まさしくレニアローツェがそれに当たる。あの盲目的な優等生は、それが公的に下された使命であったなら、なんであろうと忠実にやり遂げるだろう。 「しかしそれが常でも困るのだよ。いちいち命じなければ命の重さすら量れない、思考停止したバカを量産されたところで、実践では使い物にならないのだから。仲間が巻き添えを食らうのを承知で大爆発を起こしたり、戦地に猛毒をばら撒いてむこう五十年は人の住めぬ毒野へ変えたりと、ここ最近は特に度が過ぎる」 「その指令、ことごとくお前の部下が出したんじゃないか」 「お前の養父でもある。あいつがイカれてるのは今に始まったことじゃないが、以前はここまでではなかった。下部組織がホイホイ言うことを聞きすぎるのも一因だ」 「命令厳守を叩き込んでおいて、その言い様はなうぇっ」 問答無用で強まった圧力に短く呻いた。 俺は元々胃弱なうえに、さっきロイエスのおごりで無理やり飲まされた血液が許容量を超えて詰め込まれているから、たまらない。気を抜くと今にも逆流しそうだった。 くそっ、こっちに八つ当たりしてくるくらいなら、ストレートにあの腐れ外道をシメやがれ。 内心の悪態を聞き取ったのか、女が足を組みなおすしぐさでヒールをどけた。 女の青い目に冷たい光が走る。 「お前も知っているように、我々は強靭な肉体や高度な文明を有しているが、引き比べて精神面が強くない。理性さえなければ頭のいい魔物と大差ないのだ。戦場でフラフラ『あちら側』へ行ってしまう、お気楽なバカも多い。いや、多すぎる」 心当たりがあるゆえに、俺は慎重に口を閉ざした。 女は続ける。 「そういった原因が学院の行き過ぎた『教育』にあるのではないか、と適当に槍玉を挙げてくる現実逃避の好きな連中もいてな。『不安定な思春期ならなおさら神経に害が及びやすい。そういった学院の行きすぎを防ぎ、取り締まろう』と、うるさく喚いている。そこで、まず手始めに挙がったのが、お前たち三人の名前だ」 「それは見当違いだろう」 俺の声が温度を下げる。 確かにレニアローツェはこの女に対して強い服従心を示すし、ロイエスは見ての通りの戦バカだ。 だが、どちらも同族ならそう珍しい現象じゃない。 たとえば服従心。こいつは自分より強いと認めた相手にほぼ無条件で働く、同族独特の心的作用だ。人間と違って、俺たちは産まれ持った素材の良し悪しが大きく響く。強い力を持っているものは自然と上へ昇っていくし、滅多にないことだが、人間と大差ない腕力しか持たずに生まれれば、日常の付き合いの中でも下層に置かれることになる。これらは個人レベルで起こる自然な反応だ。それがレニアローツェの場合、ごく限られた方向へ向けて若干強すぎるだけ。視野の狭い若者にはよくある現象だろう。 ロイエスなんて特にありふれている。 同族の五大欲求――睡眠欲・食欲・喰欲・性欲・暴力欲――は常識だ。これらを理性で拘束できてやっと一人前の大人らしいが、そんなことができる同族はほとんどいない。むしろ軍人なんか志す輩はもともと暴力欲が強い。日常生活ではどうしても解消できない欲望を、魔物という『理あらざるもの』で満たしているのだ。 ただ、アイツは殺して満足するだけじゃなく、暴力そのものを愉しむ癖がある。愉しみを見出したヤツはいずれ追求を始めるのが世の常だ。その点だけが気がかりだが、未成年ゆえに自制が利かないと思えば、同レベルの若者は掃いて捨てるほどいる。 あの二人に問題がないと百パーセントは言えないが、俺の知る限り、学院にはもっとヤバい連中がたくさんいる。 日常のストレスを手当たりしだい喰いまくることで発散する女学生。 昆虫採集が大好きで、生きながら羽をむしっては喜んでいる先輩。 幻覚の女を殺すために四六時中武器を握り締めているクラスメイト。ここまでいくと立派なあちら側だ。 心的な理由で武器の持てない俺はどちらかというとそっちの部類なせいか、不本意ながらそういう輩に好かれる。特に過喰女には危うく145番目の被害者にされかけられたから、取り締まってもらえるなら逆に喜ばしいぐらいだった。 だが、そんなヤツラをサラッと無視して俺たち三人に的を絞るのは、意図的に意味を取り違えることで利益を出そうとしている奴らがいるという証明に他ならない。 「まったく大層なご名目だが、ようはこれ以上アンタの脇を固めそうな駒を仕入れるなってことじゃないのか」 「強者は常に畏れられるものだ」 そよ風を愉しむような顔をして、女が口元を不敵にゆがめる。 俺たちの共通事項は、この女と直接の面識があるという一点のみ。 俺とレニィは親の関係で。ロイエスは俺と寮が同室だったせいで、何度か顔を合わせているうちに気に入られた。『素直』と書いて『単細胞』と読むようなところが良いらしい。 この女は見ての通りのドSだから、ヤツには苛められた記憶しかないようだが、まさしく“かわいがられて”いるわけだ。物騒なほうの意味合いで。 「そういえば俺が『秘蔵っ子』だとか言われたぞ。あの二人はともかく……武器の使えない奴を警戒したところで、杞憂になるのは目に見えているだろうに」 「同感だ。貴様のようなガラクタ、あろうがなかろうが大差ない」 言い切るなよ。 思わず文句を口走りそうになり、きつく口を閉じる。即座にコイツの前で自分を卑下したことを後悔した。昔から傷口を見せるとすかさず爪を立ててくるような女だと知っているのだから、もっと自衛すべきだった。 いつの間にか席へ戻った女が、肘掛に肘を乗せて両の指先を絡めた。弱い間接照明の光を反射して、口紅と目元が濡れたように光る。 「まあ、山のように建前を積み上げたところで、私の権限を抑えたいというのが連中の本心だろうよ。だが、それに便乗してくる厄介な犬どもがいてなあ」 どこか楽しげに。しかし隙なく見上げてくる青の双眸。 「目に余る忠誠心、抑えが利かないバーサーカー。武器の持てないトラウマ持ち。このような特性を学生のうちから現している者を軍籍におくべきではない、と」 「公安執行部隊……始末屋か」 「まったく、えらいものに好かれてくれたものだよ」 公安執行部隊、通称ダンピール。 皮肉な呼び名で称されるその部隊の主な仕事は、同族の身辺調査と、狂人の発見、始末だ。独立した指揮系統、権限を持ち、その名が示す通り“公安”を維持するために害を成す者を独断で死刑“執行”する。行政執行部と名前が似通って紛らわしい。同族殺しを揶揄して『ダンピール』となどと呼ばれているが、れっきとした同族の集まりだ。一説には部隊の成り立ちに貢献した同族の英雄が混血だったという噂もあるが。 しかし、奴等の調査対象は成年に限っていたはず。最近はそれだけでは満足がいかなくなったのか。 女の顔に不敵な笑みが戻る。敵を前にしたときの、尊大で傲慢な微笑みだ。 「奴らを黙らせる方法は一つ。お前たちが勇敢で正義感が強く、この上なく善良な学徒だと見せつけてやる他はない。たとえばそう、たまたま荒野に紛れ込んだか弱い人間を保護し、守り抜くくらいには」 やっとこの女の真意が読めてきた。こんな遠まわしな命令を下した意味も。 公安執行部隊の情報収集能力は常軌を逸している。そいつがまともか否か、たったそれだけのことを見極めるために、ありとあらゆる情報を仕入れる。何に人生を狂わされたかなんて、本人にすら分からないことが多いからだ。親戚の親戚が何十年も前にやらかした小犯罪をサラッと尋問のネタにしてきたなんて噂もよく聞く。 そんな鼻の良い猟犬に狙われた状態で、直接指令があった痕跡など、絶対に残せない。 命令で人間を助けても、評価対象にはならないだろう。「宝」を対象に赴いた先で、宝を放棄してまで「人間」を助けなくては意味がない。 だからこの女は黙っていた。 黙ったうえで、舞台を与えた。配役から演出まで、万事滞りなく。 思わず出てきた長いため息を真下へ落とす。 うつむいた顔を上げるときには、このクソアマを睨み返すのを忘れない。 「もし俺たちがあの人間を助けなかったら、どうするつもりだったんだ」 「どうもしないさ。それまでだ」 だろうな、と腹の中で冷めた返事をする。 実際、かなり危ない選択だった。俺一人では確実にこなせなかっただろうし、レニアローツェと二人だったら、おっさんは早々に放棄されていただろう。魔物に追われていた時は置いていこうか何度も考えた。 そうならなかったのは、あの悪友がいつも俺たちの前に立っていてくれたからだ。 あのバカに自覚があるかは知らないが、あいつは何でも守ろうとする。脆弱な人間は当然のこと、武器の扱えない俺や、同じ剣士であるレニィですらも、まずは自分の後ろに置く。何の目論見もなく、ただ自分が最初に突っ込みたいがゆえに。根本的に考えなしだからできる芸当だ。 だから俺たちもつられて、バカみたいに必死になっておっさんを守ってた。 くそ、思い出すだけで恥ずかしい。 「おめでとう。無事、合格だ」 不意に投げかけられた、優しい母親のような、優美な微笑み。もう一度差し出された右手は、賞賛を示して握手の形で宙に留まっていた。 俺はその手をしばらく見つめ、十分に考えた後、女へ背を向けた。迂闊に握れば指を折られると判断したからだ。同じスタイルで何度痛い目にあったかしれない。 その判断は間違っていなかったらしく、チッと鋭い舌打ちが室内に響く。 無言で部屋を出ようとする俺へ、女の静かな声がかかった。 「ルシェクリード=アネル=キャスティルニア」 扉へ手をかけながら振り返ると、珍しく笑みのない女の顔があった。 「今回の件、よく覚えておけ。誰もが『始めは』そうだったのだよ」 「どう」と聞き返そうとして、女の言葉が蘇る。 ――勇敢で正義感が強く、この上なく善良な学徒―― 始めは、誰もがそうだった。 「気を抜くな。奴らを呼び寄せるのはお前自身だ。内なる敵を御しきれぬ者は、犬の餌になる他ない」 それは上官が部下へ下すものではなく、いずれ軍門へ下る全ての若者への訓戒。 俺は目を閉じて、平坦な声を作る。 そうして、これから先幾度となく繰り返すであろう美辞麗句を舌先で転がした。 「……御意のままに。『親愛なる総統閣下』」 END |
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