6.人生時々綱渡り


 しばらく安定した道が続き、このまますんなり地表へ出られるんじゃないかと期待し始めた時のことだ。
 思いもよらない形で、絶望が立ちふさがった。
 バックリと裂けた足元と、はるか対岸にある通路の続き。
 長い年月の間に幾多の地殻変動を経て、地下神殿は地割れの谷と化していた。
 真っ暗な谷底は何も見えない。
 だが、臭いで分る。
 遠い谷底でぼこりと鳴る液体は、原油。
 そう、ここがあの臭いの元だったんだ。
「これは一旦休憩ですねぇ」
「え。早く行きましょう。魔物があのままの保証はないし……」
 渋々呟くおっさんを困ったように急かしたのはレニィ。ごもっともな意見だけど、さっきからどうも彼女の中に焦りが見える気がするんだが。気のせいだろうか。
「急ぐのは俺も賛成だ。さっきの魔法は初めて使ったから、俺も効果の自信がない。それと……」
 ルシェクリードがつい、とレニィを見据えた。
「レニィ。予備、喰っただろ」
 有無を言わせない言葉。
 彼女は目を合わせない。
「……ジョムスさん見てたら、つい、喉渇いちゃって」
「俺たちが魔物と戦ってた時に」
「一人で喰ったの!?」
「ち、ちゃんととっておこうと思ったのだけど……」
 どこか斜め上の方を見つつ答えるレニィ。珍しく愛想笑いなんて浮かべてる。めちゃめちゃ可愛いんだけど、でもそれとこれとはちょっとかけ離れすぎてる。
 彼女の言い分もわかる。さっき俺が飲んだ時も、危うく一気に空けてしまうところだった。全身の理性をかき集めて耐えたけど、ぶっちゃけ半分よりちょっと多めに飲んじゃったし。もちろん、その残りで彼女が満足するはずもなく。
「じゃあ、もう予備、ないんだ……」
 元々俺が自分のボトルを失くしたのが始まりだから、レニィを責めることはできない。ん、だけども。
 分かりきってたことなのに、背筋を駆け上がってくる焦燥感。海辺で遊んでるうちに潮が満ちてきて、気付いたら胸まで浸かっていた時のような。
「だから早く行きましょ?」
「行くっつってもどうやって」
「それは――
「休憩。ロイエス、体休めとけ」
 何故だか決定権を握ったルシェクリードが、勝手にその場へ腰を下ろした。
 俺たちも渋々それに続く。
 おっさんはとっくに休んでて、酒だか薬だか良くわからない変な匂いのするボトルを傾けていた。んー、滋養強壮剤、かな。ハーブっぽい匂いだし。
 不思議なもので、浄化のガムは不快なガスや石油の匂いは消しても、そのほかの無害な匂いは消さなかった。きっとこれ噛みながらメシ食っても美味しく食べられるように出来てるんだろう。元は飴だったことといい、このガムを作った魔術師は相当な食いしん坊だったらしい。
「おっさん、このガムっていつまでもつの?」
「さあー。とりあえず口にあるうちは大丈夫なんじゃないでしょうかねぇ」
 適当な返事を適当に受け流しつつ、俺は暗い谷を覗き込んだ。さっき落ちた祭壇の下なんてメじゃないぐらい深い……というか、底が黒くて目測じゃ正確な深さが分らない。じっと見ていると、この先にあるのは漆黒の油なんかじゃなく、世界の終わりなんじゃないかと思えてくる。
 大して期待せず覗きこんだ先で、妙に赤茶けたものを見つけた。
 一本の細い橋。
 いや、橋なんて高尚なもんじゃない。地割れでこの谷ができた際に両サイドから突き出た二本の巨大な岩が、その細い先端を偶然触れ合わせているにすぎないのだが。
「十分すぎるっ……」
 思わずうめいた。感無量すぎてうめいた。
 ここから降りてあの細い先端を歩くなんて、運動神経の鈍い人間たちだったらまず無理だろう。その点、俺たちなら、先端まで行かずとも危険な頂点を飛び越えてしまうことができる。
 元気だったら。
「キッツ〜……」
 無意識にさっきの戦闘で痛めた足を庇い、溜息をついた。ボサボサになった自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにする。
 勢い余って頭がちょっとふらついた時、おっさんが横から同じように下を覗きこんだ。
「何が見えるんです?」
 むせ返るような甘い匂い。
 瑞々しい果物の香り様なそれを、今までになく強く感じた。
 これは……まずい。
「ルシェクリード」
「なんだ?」
「おっさん連れてあそこ渡れ。レニィ、先に行って安全確認してきてよ」
「いいけど……ロイエスは?」
「俺、ちょっと脚の包帯が緩んじゃって。巻き直してから行くから」
 もちろん嘘だ。嘘だけど、言ったほうが言わないより百倍マシな嘘。
 レニィは身軽な動きで崖を降り、岩へと辿り着く。最初に負傷したはずの彼女が、今じゃ一番元気だ。野郎二人は心身ともにボロンボロン。精神的にキてるルシェクリードより、あちこち血だらけな俺の方が百倍くらいピンチだけど。
 すぐにルシェクリードがさっきと同じようにおっさんを首に引っ掛けて降りていった。締まらないのかね、あれ。
「ふー……」
 俺はその場に座り込み、手で顔を扇いで甘い空気をかき消した。
 痛みと一緒にできるだけ自覚しないようにしてきたが、そろそろ限界だ。押し寄せる渇きに眩暈がした。自分の血の匂いですら鼻について、集中できない。
 意味がないと知りつつ、水を飲む。透明な液体は喉の表面を流れて消えた。
「くそっ」
 分っていても心のどこかで期待していたらしい。落胆からいっそう渇きが増す。
 こんなに渇いたのは、ガキの頃に遠足ではぐれて荒野に置き去りにされた時以来だ。あの時は寸前で保護されたから良かったものの、今回は助けに来てくれる大人なんていない。
 空になったボトルを投げ捨てて立ち上がる。
 背後でカーンと高い音がして、反響がこだました。捨てるなら通路側より谷底の方が良かったかと、のんきなことを考えていた時。
 グシャリ
 真鍮のボトルが潰れる音がした。
 即座に首を巡らせて、俺はごくりとつばを飲み込む。
「る……る、る」
 眩暈で倒れそうになる。もちろん今度は精神的な理由で。
「ルシェクリードの、役立たずーーーーー!!!」
 本気で絶叫した。
 だっておま、さっきすんげー強そうな魔法使ってたじゃねぇか。『永久に云々〜』とか大げさな呪文言ってたの、聞いてたんだからな。これじゃ十五分ももってねぇじゃねぇか。せめて、もうちょっと効いてると思うだろコラァ!!
 つくづく魔法の才能ないんだなぁと、俺が哀れみとブチギレ気分を同時に噛みしめた時、崖下から友人の「うるせえ」という文句が届いた。声の感じからするに、ちょっとやそっとで登って来れそうな距離じゃない。まあ、居たところでアテにならんけど。
 魔物の片目と目が合う。さっき俺が耳をそいだ方の目はどす黒い血を流したままだ。
 態度のわりにヘタレな友を心底恨みつつ、俺は正面から剣を構えた。
 悠長に渡っている暇はない。
 なら、やることは決まってる。
 コイツの首をね飛ばすか、背後の崖から蹴り落とすか。立ち位置的にちょっと辛いが、後者が確実だろう。
「あー……喉渇いた」
 誰にともなく呟いて、地を蹴る。
 だが何度も懐に飛び込ませてくれるほど、相手もバカじゃなかったらしい。太い腕が遮るように振り払う。
「っそ!」
 瞬時に剣で爪を受け止めたものの、横からの力に体勢が崩れた。相手の勢いに合わせて飛びすさるには狭すぎるのもあり、無様に床へ叩きつけられる。
 この狭さだ。懐にさえ潜りこめればこちらのもの。だがその隙がない場合、相手の巨体が鉄壁の守りになる。加えて背後の崖が厄介だ。自由に身動きが取れないし、精神的にも切迫感がデカイ。どうにかして立ち位置を逆転できないものだろうか……。
 ちっ、やはり一人じゃ限界がある。
 立ち上がりながら小さく舌打ちをした時、素早い追撃が繰り出された。
 即座に避けたものの、額を爪が掠ったらしい。前髪の一部が斬られ、額は鋭利な刃で切られたようにぱっくりと裂けた。場所が悪かったのか、傷の浅さに対して血の量が多い。顔の左側面がべったりと血で汚れ、片目の視界が赤く濁った。
 頬を伝う熱い滴りが口の端を伝う。
 ああ……甘い。
 もっと、もっと欲しい。どんなものでも構わない。そのためなら、なんだってしてもいい。
 無意識に舌なめずりをして、そのわずかな満足感に浸った瞬間。
 巨大な手の平が俺を捕らえた。
「な」
 上半身を握りこまれ、ヤツの目線まで掲げられた。顔を歪めて抵抗するも、加圧は増すばかだ。息が出来ない恐怖。肋骨ごと肺を押しつぶされる感覚に、声すらままならない。それどころか、ヤツが親指をちょっとずらすだけで俺のチャチな首なんてぽろっともげる。
――ッぁ!!」
 ギリギリと増してくる力に圧し負け、最後の吐息が搾り出された瞬間。
 ビン! と硬い音がして、鋭利なナイフが魔物の親指の付け根に突き刺さった。
 俺は一瞬の隙を逃さず身を捻り、四本の指から脱出する。親指がないだけで加圧が三分の一以下になった。こんな冷静かつ合理的な攻撃を仕掛けるのは。
 対岸でスラリと佇む金髪美女。レニアローツェ=アネル=ヴァージェント女史だ。
「ナイスフォロー! レニィ」
「次はないわ。早くこちらへ!」
 ルシェクリードより一足早く対岸へ登りきった彼女は、魔物へ鋭い視線を向けている。
 早く来いって言われても、なぁ。
 今の身体能力でそんな簡単に行けんなら、最初っから行ってるよ。
 情けない自分を自覚して、俺は苦笑いを浮かべた。
 体に力が入らない。手にした剣すら何倍も重く感じられた。さっきから続く耳鳴りは貧血のせいだろう。眩暈なんて酔いそうなくらいだ。加えて足の傷。これじゃ、魔物を振り切ってあの細い岩の先端を駆け抜けるなんて芸当は出来そうにない。
 この魔物をどうにかしない限り、俺の生存率はマイナスのままだ。
「やるしかねぇな」
 意を決して剣を振りかぶった。瞬時に高く響く金属音。予想通り腕の骨に遮られ、ほとんど傷つけることは出来ない。
 だが、それはいい。
 即座にしゃがみ込み、足からスライディングして丸太のような腕の下へもぐりこむ。腹の正面で全体重をかけて突きを繰り出そうとした瞬間、気付く。
「げ」
 さっきの衝撃で、俺の剣が根元から折れていた。瞬時に耳へ意識を回せば、はるか崖下でカツーンと悲しく反響するものがあり。
 お先、真っ暗。
 その言葉の通り、眼前に迫った腕に吹っ飛ばされ、俺は勢い崖の下へ。
 落ちる寸前で、ギリギリ通路の端を掴んだ。片手だけでぶら下がってなお、剣の柄は放さない。気絶しても手放さないように、さんざん訓練されてるからな。
「ああもう、今行く!」
 珍しく焦りに満ちたレニィの声が届いた。
「やめとけレニィ」
 折角登った崖を降りはじめた彼女を制し、俺は崖下でおっさんと一緒に岩を渡っている友人を見下ろした。
 今俺がとれる行動は二択。登るか、降りるかだ。
 登ればさっきと同じで魔物を相手にしなきゃならない。しかも俺の得物は剣の柄と鞘。ナイフみたいな小物も持ってなくはないが、安全圏から投てきするのとじゃあ条件が違う。
 かといって降りれば、魔物だってついてくるだろう。そうなれば、今岩の橋を渡ってるおっさんと、魔力空っぽの木偶の坊を魔物の餌にすることになるわけで。
 瞬時に状況を判断し、俺は端的に告げる。
「ルシェクリード。その橋、落とせ」
 架け橋をぶっ壊した後なら、俺が降りても魔物は二人の方へ行けない。岩の根元は太いから、十分な広さがあるだろう。高さの制限がないだけでも、通路の中で戦うより何倍も楽になる。
「断る」
 ボールを投げたら鉄球が打ち返されてきたっつーぐらい、揺るぎない断言。ま、予測はしてたけどな。
 ――無理だ、と友人は言わなかった。
 魔法だけがヤツの武器じゃない。ルシェクリードはひょろい見た目に反して力だけなら相当ある。魔物には通用しないが、岩を叩き折るなんて朝飯前のはずだ。
 頑固者を説得している暇はない。俺はあっさりと引き下がった。
「じゃあレニィ」
「!」
 俺は腕一本でぶら下がったまま、見上げる形で対岸の彼女を見据える。
 レニィは黙ったまま、じっと俺を見返した。
 上からザッザッと砂を踏む音が届く。魔物がゆっくりと近づいている。上から落ちてきた砂が髪にかかった。おそらく俺を引っ張り上げてからブチッと潰して、パクっと食べちまうつもりなんだろう。
 なお黙り込む彼女から視線を外し、俺は叫んだ。
「出来ないならさっさと行っちまえ! 今すぐだ!!」
「なんでよ、ロイエス!」
 あなたなら逃げられるでしょうと、彼女の声色が告げる。
 俺は頭上にせり出した魔物のでかい顔をにらみつけ、答えた。
「保障がないからだよ」
 言いたくないが、体のだるさが限界だ。
 傷口からの出血だけじゃなく、血液摂取が足りてない。喉が渇いておかしくなりそうだ。しかもこれ、目ぇ霞んでないか。勝手に焦点がどっか行っちゃうよ? 他にもこう、上から手でグリグリ押さえられたみたいに、頭が勝手に変な方向くんですけど。
 こんな状況で逃げおおせて、もし途中で俺が暴走したら?
 魔物が二体に増えるんだぞ。
 ……お前ら、その時生き残れる保障、あるか?
 気を抜くと意識が抜けそうになるのを必死でこらえていると、ついに魔物がバカでかい手を伸ばしてきた。
 降りるしかない、か。
 降りてまず最初に俺が、自分で岩を叩き割ってしまえばいい。
 諦めに似た心境で通路の端を掴んでいた手を放そうとした時。
「嫌よ」
 芯の通った声が届いた。
「レニ……っ」
「嫌だって言ってるのよ!」
 サーベルを抜き払い、一閃、魔物へ投げつける。
 ぶつりと鈍い音を発てて、サーベルが魔物の隻眼に突き刺さった。
 狂人が泣き叫ぶような怒号が響き渡る。
「さすが」
 呟くと同時、俺は手の中に残った柄を投げつけてサーベルへ当てた。てこの原理で翻る刃。その切っ先に残る魔物の眼球と、追随する赤い帯は視神経。
 一方俺はぶら下がる手に力を込めて、くるりと反転。通路へと舞い戻り、サーベルをキャッチして――
 両目を失い、顔を押さえる魔物の脇を駆け抜けた。
「形勢逆転」
 かかとを軸にして勢いを殺さず180度の高速回転。壁にサーベルの切っ先が触れてジャッと耳障りな音をたてたけど、刃が欠けるほどじゃない。
 俺はごく自然に、爽やかかつ人の悪い笑みを浮かべた。
「一名様、地獄の果てへご招待!!」
 心臓を狙い、体ごと投げ打つように突きを繰り出した。
 魔物の上体がゆっくりと後ろへ倒れる。
 漆黒の油が満ちる谷の底へ。
 一緒に倒れ込んだ俺は、サーベルを手放すとヤツの腹を蹴りつけて跳躍し――
「いっ!」
 足の怪我が疼き、一瞬、反応が遅れた。
 その足を魔物に掴まれる。
「げ」
 重力+体重+突き飛ばし>>>ジャンプ力
 アホな方程式をはじき出しながら、俺は魔物と一緒に谷底へ垂直落下。した。
「ロイエスー!!」
 闇をつんざく絶叫は、レニアローツェ女史。
 彼女をここまで動揺させただけでも、俺って結構すごかったのかも。
 ……なんてね。
「はははっ、俺、ダサッ」
 両岸から突き出た鋭利な岩。
 尖った切っ先をわずかに触れ合わせるそこに片手で捕まりながら、俺は渇いた笑い声をあげた。
 このスタイル、ほんと、何度目だよ。



 通路で待つ三人の所へ俺が登りきれたのは、それからだいぶ経ってからだった。怪我があるとはいえ、普通ならここまでかからなかっただろう。
 俺が遅れた原因は妙な眠気にあった。貧血からだと思うが、頭がふわふわして力が入らない。それだけじゃなく、気を抜くと一瞬、カクンと落ちるように眠くなるんだ。
 やっとこさ皆のもとへ辿り着いた時には、俺は半分眠ってたように思う。
「ロイエス、大丈夫?」
 だからレニアローツェが近寄って肩に触れた瞬間、一気に意識が覚醒した。
 そして自覚される、辺りに漂うあの、果実のように甘い香り。
 人間が発する芳香。
 血の匂い。
 頭の奥が一瞬で沸きたつ。
「ロイエス?」
 覗きこまれた小さな顔を、もはや認識していただろうか。
「どうしたんです? どこか調子でも――
 見開いた目で見詰める先には、一人の人間。
 脆弱で、無防備な、そう、闇の中では丸裸の赤子のように無力な。
 その身に、はち切れんばかりの真っ赤な血液を詰め込んで。
 喰歯が疼く。
 ああ……美味しそう。
 うっとりと浮かべられた満面の笑みは、見開いたまま凝視を続ける瞳と少しも似合わない。
 間を邪魔する金髪を片手で掴み、投げ捨てた。
 鋭い女の悲鳴。聞こえない。
 今欲しいのはそんなものではない。
 ――血が。
 真紅の甘美な滴りが。
 甘く、苦く、この果てない渇きを癒す唯一のもの。命を潤すおぞましくも美しい液体が。
 欲しい!!
 獣のように相手へ飛び掛り、喰歯を柔らかな首筋へ立てようとしたその瞬間。
 ひらりと間へ入り込んだ腕が、鋭利な牙を受けた。
 口の中いっぱいに広がる甘い味。
 一瞬の恍惚。
 と。
「うおうぇえええええええええ」
 その血の味で我に返った俺は、すぐさま相手から飛び退り、四つんばいになって飲み込んだものを吐き出そうとした。というか吐きそう。マジで吐きそう。味とかそういうレベルじゃなくて、精神的ダメージで泣きじゃくりそうだよ!!
 でも飲み込んじゃったものは戻らない。がっくりと肩を落とす俺へ、冷めた声がかかった。
「……失礼な奴だな」
 呆れながら微妙に不機嫌なルシェクリード。押さえた右手からは、俺の歯形と共にじわりと血が滲んで。
「なっ、なんでそこでお前なんだルシェク……うっ、うえええええっ」
 改めて吐き戻したくなる。泣きそうだよ。つーかもう泣いてるよ俺!!
 対するルシェクリードは冷静に溜息なんぞついてる。
「なんでって。おっさん喰らって監獄送りの方が良かったのか?」
「そういう問題じゃねぇええ! なんかもっとこう、色々あったんじゃね!? 他の選択とか最良の手段とか神の一手とか!!」
「レニアローツェを無視したのはお前だ」
「追い討ちかけんなバーカバーカ!」
「ああ? そもそもボトルを失くしたのはテメェだろうが!」
 バカバカ言いすぎたせいか、ルシェクリードが軽くブチギレた。
 こうなるともう俺たちの喧嘩は止まらない。「そもそもの発端はお前じゃねぇか」とか、「最初っから足引っ張ってたのはテメェだ」とか、「この前とっておきの菓子食っただろ」とか、「先週足踏んだだろ」とか、大昔の確執や有ること無いことを言い出して収拾がつかなくなる。
 しまいには口喧嘩から殴りあいに発展しようとした時。
「ロイエス……」
 とても控えめに、いやむしろ引き気味に可愛らしい声がかけられた。
 俺たちは互いに胸倉を掴んだ状態で、はっとレニィを見下ろす。
 それを困ったようにじーっと見つめ返す、大きな目。
 なんてピュアな瞳だ!
 が、その小さな唇から紡がれた言葉は、純粋なんてもんじゃなかった。
「二人って……やっぱりそういう関係だったの……?」
 一瞬にして凍りつく俺たち。
 待て。その関係ってつまり、同族同士で吸血しあうような関係ってこと? 恋人同士が仲睦まじく、つーか欲望のままについつい致しちゃうアレですか。
「ちがっ! これは、そう! マウス・トゥ・マウスだって!!」
「犬に噛まれただけだ」
 背筋にぞっとするものを感じて、俺とルシェクリードが素早く離れた。
 あああ違うんだ! 別に好きでコイツを選んだんじゃなくて、誰でも良かったっつーか、一番美味しそうなおっさんに寄ってったら邪魔されたっつーか、勝手に口ん中突っ込まれたっつーか、むしろそれでも良いやとか思っちゃったっつーか!
 ……ん? ちょっと待てレニィ。
 『やっぱりそういう関係』の、『やっぱり』……って?
「人見知りの激しいルシェクリードが懐いてるから、前々から不思議には思ってたのよね……。二人、寮も同室でしょ?」
「「それだけはない」」
 そろって低い声になる。何を考えているんですかあなたは。
「だーかーら、暴走状態でつい噛んじゃったんだってば!」
「でも普通、このメンバーで同性の同族は選ばないわ」
 力説する俺を、レニィはドン引きの目で見返してきた。うあ、なんかグサッと来たグサッと。
 俺も、たとえ暴走しても同性は避ける傾向にある……という話を聞いたことは、ある。それ以前に同族間での吸血は生理に反するし、禁じられてこそいないけど一種倒錯的なところのある行為だ。誰彼構わずするもんじゃない。
「おかしいのかな……俺、おかしいのかな……」
 俺は顔を両手で覆い、さめざめと嘆く。
「出されたから思わず喰っちゃったんだけど。俺、本当におかしいのかな……」
 魔物に踏まれた真鍮ボトルのようにペッシャンコになった俺へ、ルシェクリードがぽんと肩を叩き、優しいんだか生ぬるいんだか良く分からない視線で慰めた。
「気にするな。よくあることだ」
「よくなの!?」
 それは同性間での吸血がか。それともお前が襲われることですか。
 ショックの波状攻撃に俺がポカーンと口を空けていたとき、それまでずーっと黙って座り込んでいたおっさんがひょいと立ち上がってきた。
「ほっほーう、皆さんどうもそれっぽいと思ったら、やっぱり吸血鬼だったんですねぇー」
「気付いてたんですか!?」
「ええ、今」
 けろりと頷かれてはこっちのリアクションに困る。てゆーか会話が繋がってませんよ。
「とっくに気付いてたと思ってたわ……」
「逆にびっくりだな」
 呆れ返るのは同族のお二人。
「いやー、それっぽいそれっぽいとは感じつつ、ほんとにそうだったら怖いなー……なんて」
 おっさんはポリポリと頭をかいて、怖がる様子は微塵もない。それどころか。
「しっかし吸血鬼が古代遺跡に興味があったなんて! いやぁ、我々人間のほうは後継者不足でしてねぇ。吸血鬼とはいえ、若く志のある方がこんなにいてくれて嬉しいですよぉーー」
 ニコニコ顔で小躍りしそうなおっさん。考古学の将来を憂う前に、自分の今を憂いだらいかがですか。
 そんな能天気な人間を尻目に、俺たちはそろって溜息をついた。
 このおっさん、やっぱりどっかおかしいんじゃねぇの……?
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