5.おいかけっこinダンジョン


 前方から漂うわずかな悪臭。人間には気付けないかもしれないが、俺たちには分かる。
 そして、何より馴染みがあった。
 西方を支配する広大な荒野は、水を寄せ付けぬ死の荒野。そんな中で俺たちが生きるために見つけた、唯一の資源。それが石油だ。
 水を汲むために掘られた井戸から湧き出した漆黒の油。元は滅びの象徴だったそれを、エネルギー資源として活用し始めたのは近年のこと。今では暖房やジープの燃料としてだけでなく、軍の研究機関によって様々な分野への応用が始まっている。
「だとしたら……さすがに俺たちでも入れないな」
「ああ」
 もし本当にこの先が油脈なら、注意すべきはガスだ。原油とともに地中から湧くのは、可燃性の有毒ガス。ガスマスクなしで不用意に突っ込めば、中毒か窒息のどちらかが待っている。
 元は水路だった暗い穴を覗き込み、ルシェクリードが呟く。
「手詰まり、か」
「……だな」
 さっきの魔物が通れるぐらい広い通路とはいえ、ここは密閉された地下。どこにガスが溜まっているとも分からない。
「そんな。せっかく昇ってきたのに……」
 気力の糸がぷっつりと切れてしまったらしく、レニィがその場に座り込んだ。
「どうしました? 早く行きましょう」
 気落ちする俺たちの空気なんかまったく読まずに、おっさんが急かす。その手元にはマッチと、携帯用の小さな松明。
「ぎゃあああああ! 何やってんのおおおお!!!」
 思わずおっさんの手からマッチを毟り取り、思いっきり放り投げた。カツーンと切ない音が響く。
 俺の素早さについてこられなかったおっさんは、火をつけようとした形のまま。
「あれ?」
「あ・の・ね! おっさんには臭わないかもしれないけど、この先にはガスが溜まってんの! だから先へは行けないんだよ!」
「おや。皆さん、毒ガス対策をお忘れですか?」
「は?」
 予想外の切り返しに、俺の動きが止まった。
 俺たちが忘れてるということは、遺跡探検の必需品ってことでしょうか? でもルシェクリードはそんなことは一言も……。
「え、おっさん防ガスアイテムなんか持ってんの? まじで!?」
「何を言ってるんですか。ここへ来るのにも毒ガスの沼を越えなきゃならなかったでしょうに」
 当然のように告げられて、三人で顔を見合わせる。
「そんな場所あったっけ……?」
「そうですよー、エンザードの最後の砦を出てすぐのところです」
 エンザードとは、西の荒野を自分たちの領土だと主張している国だ。立地的に一番西に位置している国だからとかいう話だが。
 俺たちが住んでいるヴァルツは、そのずっと西にある。
 もちろん、ヴァルツの北西にあるこの遺跡に来るのに、俺たちがそんな砦を通る必要はないわけで。
「あー……ああー! そっ、そうでしたよね! すみません、ちょっと記憶が混乱してて。まさかココでも要るなんて思わなかったなぁー……なんて」
 とっさに嘘で取り繕う。
 そうかー、人間がここに来るのは、そんなに大変な道のりを越えてこなきゃならないのか。なら3日やそこらで帰りたくなくなるのも分かるかも。次も無事に来れる保障なんてないもんな。
 おっさんが腰のポーチをあさる。チラッと中が見えたが、色んな小物がグチャグチャのギチギチに詰まっているみたいだ。
「ガスならこれで大丈夫ですよ。はい、どうぞ」
 ころりと渡されたのは、小さな飴玉に似た物体だった。
「これは?」
「浄化の魔法をこめた、ガムです」
「が、ガムですか」
「はい。知り合いの魔術師さんにお願いして作ってもらったのですが、はじめは飴玉をくれましてねぇ。なめているうちになくなってしまうので、ガムにしてもらいました」
 便利でしょう? と満足げに微笑みかけるおっさん。
 そのピュアすぎる笑顔に、俺はツッコミを諦めて緩く笑い返した。
 いや便利とかそういう問題じゃなくて、なんでガムなの。確かにカサばらないけどさあ、普通に風邪引いた時の紙マスクにとかじゃダメだったんでしょうか。これじゃ、飲み込んじゃったらどうすんの。
 でも何も考えずに決めるわけじゃないだろうし。一応何らかの利便性を求めた結果のガムなんだよな、きっと。
 と考えて自分を納得させようとしたんだけど、さあ。
 俺は手のひらの上のガムをまじまじと見つめる。
「……一体、どんな必要性が……?」
「すべては魔術師のセンスだからな。常人には理解できない」
 俺の期待をあっさり裏切り、とルシェクリードが「理屈じゃないんだ」と肩をすくめた。
「お前でも分んないもんなの?」
「魔術師だぞ。あんな右脳だけで生きてるような人種、どうやって理解するんだ」
 忌々しげにルシェクリードが眉をひそめた。平素が不機嫌だからあんま違いないけど。
 専門外の俺にはさっぱり分らないが、魔法使いと魔術師は微妙に違うらしい。
 魔術師ってのはなんでも、精霊の力を借りられる極少ない人間にしかなれないんだそうだ。根本的に頭のつくりが俺たちとは違うらしい。
 俺が知っている魔術師は一人だけなんだけど、なんつーか、こう。
「お前の教授も相当な変わりモンだもんな」
「言うな」
 苦労の多い友人は暗い顔で目を逸らす。
 脳がどうこうってのは良く分らないが、そのへんの影響で同族の九十パーセント以上が魔法を使えないし、精霊なんて絶対呼べない。上級魔法のほとんどが精霊の力を借りなければならない中で、この才能の差は絶対的な壁になる。
 ルシェクリード自身、どれだけ努力しても精霊が呼べず、上級魔法は一切無理だ。そこが魔法専攻の将来性が薄い原因なんだよなー。
 元は悪くないんだから、剣さえ使えれば文句ないのに。
 薄幸な友人に心底同情する。
 でもまあ、いつまでもこんなところでタラタラしていられないわけで。
「ま、とにもかくにも、あざーっす!」
「いいですよいいですよ、上に出れば荷物の中にまだまだありますから」
 おっさん、まだ上に戻るつもりでいるんだな……。多分軍の調査団が張ってると思うけど。
「へへっ、いっただきまーす!」
 持ち前の愛想の良さで笑いかけ、俺は甘い匂いのするガムを口へ放り投げた。
 うっわ渋苦酸っぱまず! ぜんっぜん甘くねえーっ!
 口を押さえてふらつく俺。レニィもルシェクリードも硬直したまま眉間にしわを寄せている。うん、これは予想外だ。
「おや、美味しくないですか?」
「や……ちょっと酸っぱいかなー?」
「え? そうですか? 私は甘すぎると思うんですけどねぇー。すぐに味は消えますよ」
「そ、そうですか……あははははははははは」
 ハハハ、人間ってこういうもん食って生きてんのかー、フシギな生き物ダナー。
 根性でしっちゃかめっちゃか噛みまくり、味をなくしてからやっと魔法の効果を感じることができた。ガスの匂いは(甘い匂いで隠されて)感じないし、空気そのものに清涼感がある……気がするようなしないような。
「けど、本当に魔法って便利ですよねー」
「そうですよねぇ、私も使えるものなら使いたいです」
 うんうん、と他人事のように頷くおっさん。
「あのう、にんげ……ジョムスさんでも、使えないものなのでしょうか?」
 じーっとおっさんの話を聞いていたレニィが、おずおずと話しかけた。そういえばいままでレニィはあまりおっさんに話しかけなかったな。やっぱ人間相手で緊張してるんだろうか。
「無理ですね。私の従兄はすばらしい魔法使いですが、うちの親族でもまともな使い手は彼ぐらいですから」
「そうですか」
「そんなもんなんすねー」
 俺も人間なら大なり小なり扱えんのかと思ってた。そういうわけでもないのか。
「そういえばええと、そこの彼」
 明らかに名前を覚えてない調子で、オッサンがルシェクリードを指差す。
「確か先ほどの魔法に数字が使われていたと思うのですが、すごく珍しいですよねぇ。ご自身で考案されたんですか?」
「ちょっとした補助です。俺は魔術師ではないので」
 そつなく返すルシェクリード。
 ほほう、数字を魔法陣に含めるのは一般的じゃないのか。いつも簡易魔法ばっかり使ってるから、俺もあいつのまともな魔法なんて見たことなかったんだけど、言われてみればちょっと変な感じだ。
「精霊との交信には素質が要りますからねぇ。数字、数字ですか……これは新しい」
 俺たちよりも魔法に慣れ親しんでいる人間からすると、もっと奇異に見えるのだろう。おっさんは興味深げに頷いている。
「じゃ、魔法も効いてきましたし、そろそろ行きましょうか」
 と言って、おっさんがどこかから取り出した二つめのライターでいそいそと松明に火をつけようとした。
 もう一度俺がライターをブン投げる。
「毒ガスって分かってて何やってんだああーー!!」
「へ? なにがです?」
 きょとんと隙だらけの顔をするおっさん。
「何がってあのね!」
 大爆発起こすだろうが。
 言わずもがなと詰め寄ろうとした俺へ、レニィがちょいちょい、と腕を引っ張った。
「多分、可燃性ってことが分ってないんだと思うわ。人間は未だに薪や墨を使って生活しているって話だし……」
「えええっ? いつの時代だよ、それ」
 振り向くと耳元に小さな顔が寄っている。ちょ、無駄に緊張するんですけどっ。
「私たちだって、ほんの数十年前まではそうだったのよ。鉱山みたいな特殊な場所で生活していなければ、そんなことは知らないのが普通なのかもしれないわ」
「そ、そうかもしれないで、す、ね……」
 赤面して尻すぼみに答えてしまう。俺たちって夜目は利くけど彩色感覚は鈍いから、バレてない……はず。うん、きっとそう。
 気付かれないようにそそそと離れると、妙に訳知り顔で呆れているルシェクリードと目が合った。
「ヘタレ」
「お前が言うな!」
 すれ違い様にさらっと言葉の刃で辻斬りされた。レニィといいコイツといい、名家育ちは涼しい顔でキツイからヤダ。
 うう、日頃はコイツの方がへたれてるというのに。これが水を得た魚ってやつなのか。
 ひとしきりうなだれた後、俺はキッとおっさんへ向き直る。
「いいかおっさん、暗くて何も見えないと思うが、絶対に火をつけるなよ。ボンだからな、ボン!」
「はあ、分かりましたぁー」
 やっぱり間延びした調子に聞こえる返事に、俺はもう一度がっくりと肩を落として溜息をついた。
 やばい、すごい心配だ……。



 道は幾重にも枝分かれし、そのたびに行き止まりになる厄介な構造になっていた。
 何しろ行き止まりにはガスが溜まっているんだ。物語に聞くダンジョンとやらではそんなところに宝物があるらしいが、ここは親切設計の真逆をいく自然の洞窟。期待するだけアホだった。
 道が分かれるたびに勘で方向を選んでは、ガス濃度の上昇を感じたら引き返すを繰り返した。
 いいかげん皆が無口になってきた頃、壁にどう見ても人口的なレリーフが刻まれていることに気づいた。見つけたのは意外なことにおっさんで、眼の見えないため壁を伝っていたのだが、指先に触れる磨耗した凹凸に規則性があることに気付いたんだそうだ。それを辿ればもしかすると、もしかするかもしれない。
 わずかな希望に俺たちが気を取り直しかけたとき、背後で何者かが動く気配がした。
「ッ!」
 先頭を歩いていた俺は、とっさにおっさんを突き飛ばして最後尾まで駆け戻る。同時に抜き放った剣を相手も確認せずに薙ぎ払う。
 ギンッと嫌な音がして、俺の一閃が受け止められた。
 金属音? 違うね。魔物の骨に刃が弾かれた音だ。
 暗闇に浮かぶ巨体は見間違えようもない。祭壇の間で俺たちを襲った、巨大な魔物。
 その巨体を屈めるようにして、通路いっぱいにふさがっている。
 野郎、どっかの分かれ道に潜んで隠れてやがったな!
「走れぇッ!!」
 俺が怒声を発するまでもなく、ルシェクリードがおっさんを脇に抱える。レニィも足を庇いながらそれに続いた。
 俺は腕に渾身の力を込め、三人と距離が開くまで魔物を抑え続けた。吹っ飛ばされる前に十分だと判断し、一気に身を翻す。溜め込んだ力の行き場を失って、魔物が上体をふらつかせた。
 その隙を突いて、俺は通路を一気に駆け抜けた。
 巨体のヤツにこの通路は辛いはず。素早さならこちらの方が有利だ。ならば、ヤツと同様にそのへんの分かれ道で待ち伏せし、背後を狙う。そのまま逆方向へひきつけられれば万々歳だ。
 が、そう考えたのは俺だけではなかったらしい。
 突然横から伸びた手に腕を引かれ、俺は細い小道へ引きずり込まれた。
「!」
 その細い腕はレニアローツェ。勢いよく飛び込んだ俺ともみ合うようにして転がり、彼女の一つにまとめていた金髪が解ける。金糸のような細い髪が豊かに広がった。
 その鮮やかな色に目を奪われて、高揚していた意識が戻る。戦闘時のものじゃなく、いつもの俺に。
「レニィ、何すむぇっ」
 彼女は抱きつくように圧し掛かり、手で俺の口を塞ぐ。
 やばい、心臓、うるさい。
 すぐ近くを魔物が通る。一度足を止めて鼻をひくつかせたあと、ゆっくりと通り過ぎていった。
 永遠のような沈黙の後、彼女がそっと離れた。
「油断しないで。まだ近くにいるわ」
 押し殺す声は低い。
 俺は耳を澄まし、魔物の位置を把握する。彼女の言う通り、近い。そう認識した途端、さっきの高揚感を思い出し、意識が別の次元へ飛ぶ。早鐘のようだった心音が収まり、鋭く研ぎ澄まされた。
「ルシェクリードは?」
 視線で魔物を追いながら問う。
 すると、視界の端でレニアローツェが一瞬怯んだ。
「?」
 振り返った時には、彼女は青い瞳に冷徹な堅さを乗せている。いつも通りの冷静な彼女だった。
「……奥で何か見つけたみたいなの。ロイエスを呼ぶように言われて」
「あんのバカ」
 離散したならしたなりの対処があるだろうに。下手に集合することがどれだけ危険か分ってねぇな。今ここで見つかったら一網打尽になるんだぞ。
 俺はレニィにその場を見張っているよう指示し、奥へ進んだ。
 不思議と小道は整備されていた。傾斜もなく、明らかに人が通るように設計されている。緩やかに蛇行した先は、少し開けた小部屋になっていた。
 そこではルシェクリードとおっさんが、壁に向かって何かしている。
 その壁の意味を理解して、俺は言葉を失った。
 壁一杯に描かれた細密画。狂った画家がその内面を描いたら、こういうものになるだろう。空白という空白を恐れるかのように描き込まれた幾何学模様が伝えることは一つ。
 魔法陣。
 それも、とても凶悪な。
 ルシェクリードは俺に気付くと、いつも通りの平坦な口調で呼びかける。
「手伝え、トロイエス」
「お、おま、何してんの?」
「崩すんだ。こういったものは軍の中途半端な知識人に知られる前に消し去ったほうがいい」
 言うなり壁を蹴りつけ、ボロボロと崩す。
「いいのか? そんなことして」
「ああ」
 応える声は無彩色。
――……もう、覚えた」
 続けて投げかけられた、見知らぬ声色は。
 振り向かない友の背中が別人のように見えた。
「……だからお前は遺跡に詳しかったんだな」
 俺は精一杯の虚勢で溜息をついて、自分の赤毛をぐしゃぐしゃにかき回す。
 こういった遺跡には何度も来ていると言っていた。閣下と一緒に来ていたと。罠を自然に見分けられるくらいだ、相当な回数だろう。インドア派なヤツにしては珍しい趣味だと思っていたが、まさか禁呪の蒐集に来ていたとは。
「軽蔑するか?」
 穏やかな問いかけには笑みすら含まれる。
 ……しないと思ったら、はじめから隠し立てなんてしないだろうに。
 瞬間、目も眩むような怒りが湧き上がる。
 俺は自分の憤りに素直に従った。ヤツの後ろ姿を睨み付け、思いっきり怒鳴りつけた。
「知らねえよ! その魔法陣が何かとか、古代魔法がどうなるとか、閣下が何考えてるかとか、俺には知ったことじゃねーんだよッ!」
 専門外だから、教えてもらってないからとか、そんなことを言ってるんじゃない。知ったところで俺にはどうしようもないことだ。
 あるものを変えることはできないし、なるものも仕方ない。閣下の思惑を思えばぞっとするが、俺ごときの雑魚が吼えたところで潰されて消えるだけ。
 そのぐらいは見えてるよ。
 でもな。
 誰だよ。
 隠した挙句にそれが知れた途端、俺が軽蔑するとか決め込んでんの、どこの誰だよ。
 ルシェクリードは振り向かない。その事実がいっそう俺をイラつかせた。
 この遺跡に来るとき、閣下に反論したのは誰だ? 分りきった罠に引っ掛けて、足止めさせようとしたのは誰だ? 他人に知られて困るような、見つけ次第ぶっ壊さなきゃいけないような魔法陣を覚えて、どうするつもりなんだよ。
 だいたい、ジョムスのおっさんがいなかったら、俺たちなんて早々に煙に巻いてたんじゃねぇの。それで一人で魔物に向かってってプチっと終わってたんじゃねぇの。
 だってお前、言ったじゃねぇか。
 長く使えば身を滅ぼすとか、そう、自分で言ってたじゃないか。
 他にも黙ってること、山ほどあるんだろ。
「こんのっ、大バカ野郎!」
 飛び出した自分の言葉に、自分で笑った。それから大いに納得する。
 ふう、と肩の力が抜けた。
「……そうだった。お前、根っからの魔法オタクだもんな」
 コイツが寝喰忘れて魔法陣いじって、ぶっ倒れたのも一度や二度じゃない。図書館にこもりきって勉強してたのだって、単位のためなんかじゃないだろう。消音詠唱の技術と発動までの素早さじゃ、教授だって敵わないって言われてる。
 でも、それでも生まれ持った才能には敵わない。
 『そんな暇があるなら剣でも覚えろ』って、何人に言われた? 軽く受け流しながら拳握りしめてたの、大抵のツレなら知ってる。
 とうにお見通しなんだよ。
 お前が負けず嫌いのド根性バカだってこと。
 禁呪の研究ぐらい、とっくにやってて当然だ。
「危険も顧みず魔法なんか探しやがって。普通、宝探しだろうが」
「お前だって戦闘バカのクセに」
 振り返った顔は、いつも通りぱっとしない。ただ、その口元は珍しく微笑んでいた。
 俺はズカズカと大股で近づく。
「あーそーですよ、そうともよ。バカだからバカのお前に付き合ってやれるんじゃねーか、よッ!」
 最後のセリフに合わせて壁を殴りつけた。俺のムカつきを反映して、古い壁がごっそりと抉れる。
「バカバカ言うな、このバカが」
 ボコっとルシェクリードも壁を殴る。
「うっせえバーカバーカバーカバーカ!」
 バカの数だけ殴り続けた。老朽化した壁はもろく、すぐに粉々になって砕ける。魔法陣なんかとっくに消え去っていたが、それでも殴り続ける。
「バカシェリードの大バカ野郎!!」
 これで最後とばかり、力いっぱい壁を叩きつけた瞬間。
 ボコッと壁そのものが崩れた。
 ガラガラと落ちていく破片の向こうから現れたのは。
 さっきの魔物。
「うっわ……これは本当にバカ的展開かもしんない」
 巨体を呆然と見上げつつ、とっさに呻いた自分を褒めたい。
 最も俊敏な反応を見せたのはルシェクリードだった。
「おっさんはレニアローツェのところへ走れ! ロイエス!」
「わーってるよッ!」
 答える頃には跳躍していた。抜刀する勢いで斬りつけ、金属音に似た嫌な音が響き渡る。
「五秒でいい」
「魔法、使えるのか?」
 ルシェクリードが下がる気配はない。
 ヤツは身を屈めて足元の砂と化した壁の残骸を握り、立ち上がる。
「この陣の魔力を使う。ただ、それにはヤツの血が要る」
 紫の瞳が鋭く光る。握り締めた拳から、砂粒がサラサラと零れ落ちた。
「できるか?」
「やれって言え! よッ!」
 俺はあえて剣を寝かせ、魔物の胸を薄く切りつける。表面を浅く撫でることで、骨に邪魔されずに広く傷つけることができた。
 だが次の瞬間、横薙ぎに払われた腕に振り飛ばされ、背中から壁に激突する。
「ってぇ」
 抉れた壁とその破片に挟まれ、身動きがとれない。見れば、尖った破片が太ももを貫いて、床に縫い付けている。
 それに気づいた瞬間、痛みが堰を切って押し寄せた。
 脂汗が噴出すのを感じながら、俺は友へにやりと笑いかける。
「五秒経ったぞ」
「よくやった」
 ルシェクリードは俺の前に立ち、掴んだ砂を魔物の足元へ撒いた。真紅の血溜りが塵芥に触れた瞬間、どろりとした漆黒に変わる。闇よりも暗く艶めくそれは。
覚醒めざめろ、そして呪え。お前の恨み、漆黒の呪縛となりて永久とわに縋り狂え……」
 呟くような呪文は宥めるようでもあった。
 呪文に呼応し、黒い澱みがボコリと泡立ち始める。地表でぱちりと泡が弾けるたびに、吐き気を催す臭気が立ち込める。やがてタールのようなそれはじわじわと広がり、細い腕を伸ばして魔物の足に絡みつく。
 生理的な恐怖を感じて魔物が腕を振り払う。だが、粘り気のある液体はべたりと張り付くだけで、引き千切られはしない。
 俺は無意識に眉をひそめた。
 醜い。こんな魔法ものがこの友人から生み出されるのか。
 魔法は術者の内面を体現する。普段は意識の中に紛れている有象無象なものたちを、呪文で無理やり増幅しているんだとか。だから術者の中に無いものは、どんなに呪文を弄しても生み出すことはできないはずだ。
 そう思いながら友人を見れば、ルシェクリードは蒼白な顔に玉のような汗を浮かべて震えている。見開かれた目に映るのは魔物ではない。何かもっと遠い、覗いてはいけない深淵のその先を。
 歯を鳴らしながら必死に紡ぐのは純白の数字列。さっきの魔法では一本だったそれは、今や何十という光の帯になってヤツを守るように渦巻いている。
「此れは最早もはやお前の物。望むがままにもてあそび続けよッ!」
 最後の呪文は悲鳴に似ていた。
 同時、幾本もの腕が伸び上がり、天井まで届く。べたりと張り付いたそれは魔物を含んでそのまま固まり、どんな鋭い刃も受け入れそうにはなかった。
 ルシェクリードを包んでいた数字の羅列が解けて消える。ヤツはよろめき、俺の近くの壁へもたれかかってずるずると崩れた。汗で前髪が額に張り付いている。呼吸は荒いが、それは安堵の気配が強い。
 疲れきった友人へ、俺はねぎらいの笑顔を向けてやる。
「ヘタレ」
「……お前にだけは言われたくない」
 憮然としたその顔は、いつも通りぱっとしない。
 ふん、と互いに妙な連帯感を持ちつつそっぽを向き合ったとき。
「あら、もう終わったの。なら二人ともヘタレてないで。今のうちに早く行くわよ」
 おっさんを連れて現れたレニィが、あっさりと俺たちを総括した。って、えええ、ちょっとぐらい心配してくださいよ!
「れ、レニィちょっと待って、俺、足縫い付けられてんだけど。蝶の標本みたいにこう、シュピッとぶっ刺さってまして……ね?」
 言いながら自分の失態に気付く。しまった。レニアローツェ女史は繊細そうな見た目に反して、変なところで大雑把っていうか無慈悲で……って、ちょっと待って〜〜!!
 と思う間もなく、足に刺さった破片を引っこ抜かれた。
「痛ってええええええええ!!」
「はい止血。見た感じ血管も神経も大丈夫そうだし、このぐらいならすぐ止まるでしょう」
 傷口を布でギューギュー巻きに縛られて、別の意味でも俺悶絶。
 ……死ぬ。俺死ぬ。今死ぬすぐ死ぬ痛くて死ぬ!
 このぐらいなら血ィ喰って寝てりゃすぐ治るけど、気力的な意味で死んじゃうからっ。うああん、レニアローツェの鬼ぃーー!
「さ、行きましょ」
「はいっ! ただいまっ」
 半ば引きずられるように連れて行かれたおっさんは、恐怖に引き攣っていた。
 のた打ち回る俺を心底哀れんだ目で見下ろし、ルシェクリードが呟く。
「なあ、本当にあの女のどこがいいんだ……?」
 聞いてくれるな、友人よ。
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