4.タイムリミットは腹の虫


 やがて俺たちは地面に叩きつけられ……は、しなかった。
 ルシェクリードが放った風の魔法のおかげで、地面にすれすれのところで落下の力をそがれたからだ。それでも余った勢いが下向きから横向きに受け流され、俺とレニィは床をゴロゴロ転がることになった。
 これがまた痛苦しい。
 なにしろ床が地中をくり抜いただけのぞんざいな造りなので、出っ張った岩やら小石やらがゴッツゴツだ。上になり下になりしながらその上を転がるんだが、相手の体重がかかる瞬間の背中の痛いこと。さっきの傷口によく沁みる。
 これがふかふかのベットの上でのことだったら大歓迎だったんですがねーとか、一瞬やらしいことを思ったのは極秘事項だ。
「……ってぇ」
「どうなってるのかしら……」
 全身ボロボロで床に大の字になる俺とは対照的に、レニィはすぐに立ち上がって辺りを見回した。さすがは我が校屈指の冷徹美人。余韻とか一切ないんですね。
 真っ暗だなぁと思ってから、サングラスをかけたままだったことに気付く。さっきはカンテラがあったから支障がなかっただけで、さすがの俺たちでも本当の真っ暗闇でグラサンは無理だった。
 痛む体をぎこちなく動かして黒眼鏡を取ると、思いっきりヒビが入ってた。地味にショックだ。割れにくいやつは高いのにィー。
 すぐに暗闇に目は慣れた。明かりはなかったが、奥の一角にわずかに光る苔のようなものが生えていからだ。これだけで俺たちには十分な光が供給される。
 どのぐらいの距離を落ちたのかと、穴の方を見上げる。ぼんやりとオレンジ色の半円が見えるが、月じゃない。穴の向こうでおっさんのカンテラが光っているんだろう。軍が明かりを使うとは思えない。
 明かりの形から穴の円周とそこまでの距離を割り出し、俺は素直によじ登るのを諦めた。
「どーすんの、これ」
 仰向けのまま現実逃避して呟いた時、げしりと靴先で頭を小突かれた。
「油断してんな。さっきの魔物をここに落としたのを忘れたのか?」
「そっ、そういうことは早く言えええ!」
 飛び起きて辺りを見回す。魔物の死体は……転がってないな。
「この場所にはいないみたいよ」
 レニィの声が遠くから届く。
 カツカツと不規則な足音がするから大体の位置は把握できるが、できればあんまり遠くに行かないでください。あなた足挫いてんですから。
「それよりも、ちょっとこれを見てちょうだい」
「どうした?」
 呼ばれた場所へ向かうと、足元がザリリと嫌な音をたてた。ん? ザリリ?
「っげー!」
 靴底を確認して気付く。
 当たり一帯に散らばっているのは、さっきのお宝……の、破片。
 そういや陽動で投げたんだった。見事にバランバランになってるよ。一面、上からこぼれるわずかな光にきらめいて、アホのように幻想的なことになっちゃってるよ!
 うーわーどうしよどうしよどうしよ、閣下に殺されんじゃないの、俺。
「水晶の方はどうでもいいの。これを見て」
 差し出されたのは、わりと大振りなピンクの欠片。
「おっきな破片?」
「ピンクダイヤよ。それも、何か不思議な文様が刻まれているわ」
「そーれはですねぇ!」
 突然後ろから声をかけられて、俺はビクッとすくみあがった。
 うお、おっさん無事だったんだ。元気そうで良かったわー。ルシェクリードがいなかったらグシャだったよな、グシャ。
 俺たちですら危なかったから、人間が生きてるなんて奇跡だ。髪の毛ボサボサで砂まるけだが、そこは俺も同じなんでしょうがないか。
「これは呪術的な宝物ほうもつを掲げ、かつカモフラージュする際に用いられた方法です。一般的な神殿ではまずお目にかかれません。これだけの物が安置されていたということは、ここは相当位の高い神殿だったのでしょう。いやー面白い。実に面白い!」
「へ、へぇー……そうだったんですかぁー……」
 じゃあ、俺が思ってたよりはずっとお宝らしいお宝だったわけだ。宝石の審美眼なんて持ち合わせちゃいないが、あのサイズのダイヤモンドってだけで、どれだけの値打ちがあるかは予測がつく。いや、逆に想像もできないけどさ……庶民なんで。
「あの高さから落ちてよく欠けなかったわね。ダイヤは衝撃に弱いのに」
 さすがは元名家出身のお嬢さま。宝石には詳しいですね。
「水晶が衝撃を吸収したか。いや、この文様……」
 興味なさそうに構えていたルシェクリードの目元が、ついと細まる。遺跡の構造をおっさんが説明していたときよりももっと真剣で、鋭い視線。一瞬のことだったが、俺の殺気センサーは誤魔化せない。
「もうほとんど魔力は残っていないが、多少の効力はあったみたいだな」
 ひょいと首をすくめる頃には、いつものぱっとしない顔つきに戻っていた。
「それは恐ろしいですねぇ。古代魔法は危険なものが多い。今では禁忌となっているために、一度呪われたら対処できません」
「古代魔法?」
 レニアローツェと俺がそろって首を傾げる。そんな魔法、聞いたこともない。
「失われた禁断の魔法です。魔術師が扱う精霊魔法を聖なるものとするならば、古代魔法はよこしまなるもの。魔物の本質に近いとすら言われています」
「魔物っぽい魔法ってことですか?」
「そう聞いています。私は魔法使いではないので、詳しいところは分りませんが……」
 ちらりとレニアローツェがルシェクリードを見やる。無言だが、なかなかに圧力がある。
 その目に促され、ルシェクリードが気だるげに口を開いた。
「魔物の本質は狂気。長く使えば身を滅ぼすという。だからこれらの文明は滅んだ」
「そういう説もありますね」
「その石にはもう、祝う力も呪う力もない。大した価値はないさ」
 軽くあしらうその声を、女史の一声が貫いた。
「あら。でもこれ一つでちょっとした貴族の全財産に値するわよ」
「まじでっ」
 食いついたのは俺。
 もちろん貴族なんて昔の話だが、なんとなく金持ちのイメージくらいはある。
「資産価値はもちろんあるさ。だから、軍のやつらもそれを狙ってるんだろ」
「やっかいね……」
 真剣な顔で考え込むレニィ。彼女の頭の中には、このダイヤを閣下へ献上することしかないんだろう。
 そう思うと、ちょっと頭が痛くなる。
 なので話の矛先を変えようと、俺は建設的な意見を口に出してみた。
「でもさぁ。今はここから脱出する方が先じゃね?」
 ハナからそう思ってたんだろう。ルシェクリードが同意する。
「だな。魔物がいないってことは、どこかに出口があるはずだ」
「よっし、探すぞ!」
 ぐっと拳を握り締める。
 が。
 ぐーきゅるるるるる。
 意気込む俺を、おっさんの腹の虫が邪魔した。
「あっははははは。すみません、お腹減っちゃいました」
 笑って誤魔化しつつ頭をかくおっさん。
「荷物は上……ですよねぇー」
 ぽかんと上を見ると同時、おっさんの腹がもう一度ぐうう〜と鳴った。
「えーと、皆さん、食料とかは持ってます?」
 反射的に黙り込む俺たち。
 あなたが喰料です、なんて言えない。
 おっさんから白々しく目を逸らし、二人を振り返る。
「携帯用の固形食料なら……各自、身につけてるよな?」
「ああ。考えて食えば五日はもつ」
「良かったら、ちょっと分けてもらえませんか? 私、リュックの方にまとめてしまっていたんですよー。水なら持ってるんですけどねぇ」
「良いですよ」
 俺は人当たり良く応じる。
 襲撃の時におっさんのリュックを吹っ飛ばしたのは俺だ。だからこう、罪悪感がひしひしと、ね。
 自分の食糧を割り、おっさんへ手渡す。
 けど正直、俺としては微妙な気分だ。
 あ、べつに自分の食料が減るからじゃないぞ。
 だって人間って、鉄分を甘く感じないんでしょ?
 ヴァルツ特製の携帯食は俺たちの味覚でもはっきり不味いって言えるぐらい栄養のことしか考えていないから、人間には辛いだろうなーって思ってさ。
 予想通り、おっさんは一口で涙目になった。
「こ、この食糧サビてませんか」
「いやだなぁ、カビてなんかいませんよ〜」
 軽く笑ってやりすごす。あはははは……おっさん、ごめんなー。
 俺が無理やり苦笑いをかみ殺したとき、ふと俺とルシェクリードが同じ目つきで顔を見合わせた。
 しょくりょう、という響きで思い出すことがある。
「……で、アッチは?」
 声をひそめて問いかけた。
 もちろん血液の話だ。俺たちは定期的に血液を摂取しないと、渇きと貧血でちょっとその……とても凶暴なことになる。
 携帯食料にも多少の養分は入っているらしいが、別口で血液を携帯するのが常だった。
「俺はコレで一週間は大丈夫だ」
 ルシェクリードが胸ポケットから小指ほどの銀のボトルを取り出した。
「ちっさ! 何その量!? 予備とかないわけ!?」
「だからコレが予備だ。出発前に十分喰ったから、本当なら帰るまでいらない予定だった」
 そこでなぜかふてくされるルシェクリード。なにを拗ねてるんだお前は。
「量は心配要らないが……問題は鮮度だな」
 保冷ボックスはカサ張るからジープに置いてきた。手持ちの方も保冷用のビンに詰めているが、劣化は早いだろう。
「俺もボトルいっぱいにはある……けど、さっきの戦いでかなり動いたから、もう喉カラッカラ」
 と、太ももの外側に固定していたボトルへ手を伸ばし、文字通り真っ青になった。

「……ない」

 ガッチリ取り付けたはずの銀の筒が、パック五本分は入ってたはずの携帯ボトルが、ない。
「おおお落とした!? いつ落とした!? どうしよどうしよヤバイってコレーー!!」
 すぐっさま這いつくばって、怒涛の勢いで辺りを探す。落下したときに転がってったんじゃないかなッ、そうじゃないかなッ、だったらいいなッ!
 だが、俺のボトルはこの閉ざされた空間のどこにも有りはしなかった。
 魔物と戦ってるときに落としたか、はたまたその前の罠か。心当たりがありすぎて絶望的な気分になる。
 俺たちにとって血液の予備がないってのは、水なしで砂漠に放り込まれるぐらい危機的状況だ。マラソンのあとにドリンクなしで放置されるのにも似ている。しかもこの渇きは水じゃあ癒せない。吸血しなければ。
 喉の渇きは運動をすればするほど強くなる。さっきの魔物戦みたいな瞬発力と筋力を使ったあとが一番ひどい。剣士みたいな前衛は、常に予備を多めに持っておくのが基本だってのに。
 落とした……。
 目の前が真っ暗になる。もともと真っ暗なんだけど。
「どうしたの、ロイエス。今にも発狂しそうな顔して」
 辺りを確認していたレニアローツェ女史が帰ってきた。そんな不吉な比喩ヤメテ。本気で笑えないって。
 悶絶し続ける俺を、ルシェクリードがくいっと親指で指す。
「ボトルを無くしたんだそうだ」
「えっ? なんですって?」
「落としたらしい」
「…………」
 ルシェクリードの平坦な説明と、レニィの冷たい視線が、ざっくり俺の胸へ突き刺さる。
 俺は四つん這いになったまま、がっくりとうなだれた。血液ボトル不携帯は同族としてサイテーのルール違反だ。顰蹙ひんしゅくをかうなんてもんじゃない。公共の場でやったが最後、次の日から存在を抹消されるくらいなんだから。
 無言の二人はさぞや俺を軽蔑していることだろう。あああ消えたい、できることなら今すぐ灰になってしまいたいっ。
 落ち込みまくる俺と違って、女史は切り替えが早かった。
「とりあえず、私の分を分けてあげるわ。ロイエスじゃ足りないかもしれないけど……」
 言うなり、膝をついて自分のボトルを俺へ差し出す。
「れ、レニィ!」
 一瞬、涙が出そうになった。
 レニィだって剣士だ。戦闘後の乾き方は俺と変わらないだろう。この先なにがあるか分からない状況を考えたら、誰だって自分のためにとっておきたいと思うじゃないか。それなのに、なのに、俺に分けてくれるだなんて。
 感動で何も言えない俺へ、彼女は冷静に分析する声色で告げた。
「今の私は足を痛めているから、下手をすれば足手まといになりかねないわ。もともとあなたは私よりも身体能力が優れている。確率から言って、あなたに賭けたほうが生存の可能性が高い」
 でーすーよーねー。
 言ってることが正しすぎるうえに、一片の情もなくて、ぐうの音も出ないぜ。
 舞い上がった直後に急降下する俺。いいかげん一人祭りに慣れてきたよ、こんちくしょー。
 そんな俺のテンションの変化に気付きもせず、レニアローツェ女史は続ける。
「それにもし、この場であなたが暴走したら……」
「学者のおっさんを助けた意味がなくなるな」
 後半の一番大事なところを、ルシェクリードが奪った。
 一番言われたくない所を突かれて、俺は「うぐっ」と言葉を詰まらせる。
 一般的に、喉の渇きが極限に達すると理性が飛ぶと言われている。
 血液パックで完璧に管理されてきた俺たちの世代ではほとんどの奴が経験したことのない現象だが、それはそれは野蛮かつ凶暴なことになるそうだ。人間のみならず、同族まで牙をかける恐れがある。
「い……嫌だ」
 俺は頭を抱えて叫んだ。

「あんなおっさんが初めてなんて、嫌だー!!」

 採血機関から供給される血液パックに慣れてしまった俺たちは、もう人間から血を吸うことはほとんどなくなった。そのせいか、いや、元々そうだったのかもしれないが、『吸血』という行為のニュアンスが微妙に変わってしまってきている。精神的な面で。
 今はその……なんていうか、同族が戯れに、その、恋人同士とかで……。
――まあ、」
 ルシェクリードがぱっとしない顔に「未経験なのか」という文字を貼り付けて頷く。
「いざとなったら、マウス・トゥ・マウスだと思って諦めろ」
「なにその経験者は語るみたいな貫禄!?」
「犬に噛まれたと思っても……いいな……」
 微妙にたそがれた顔で説得された。一体コイツの過去に何があったんだ。
「でも、この場合『犬が噛む』よね」
 お嬢さんも理知的にノってこないでください。
「いーやーだー! 絶対に嫌だ! 俺はその辺、お堅くありたいんですッ!」
 『誰でも彼でも経験値』みたいな、そんな軽い男じゃねぇんだよっ。
「そうよねー、やっぱり初めては好きな人とじゃないと……」
 頬を染めて手を組み合わせ、俺に同意してくれるレニィ。
 でも、彼女の意見にも賛成したくない。あなた方向性間違えてますから。それただのミーハーだから。
 ぎゃいのぎゃいの騒ぐ俺たちを見兼ねてか、携帯食を食い終えたおっさんがおぼつかない足取りでこっちへ寄ってきた。途中、何かに突っかかって転ぶ。うーん、人間にこの暗さは酷だなぁ。
 俺はおっさんを助け起こしつつ、近くのガレキを蹴っ飛ばした。
「気をつけてください。そこ、変なでっぱりとかあるんで」
「いやあ、お恥ずかしい。しかしこんな真っ暗じゃ、危ないですよねぇ。皆さんは平気なんですか?」
「ええ、まあ」
 俺たち基本、夜行性ですから。
 とは答えずに、「若いんで大丈夫です」と適当にはぐらかす。
「それで、何の話をしてたんです?」
「いやその、ナンデモアリマセン……」
 まさかあなたを喰う喰わないで争ってました、なんて言えない。
 適当にお茶を濁して笑いかけたものの、その匂いが鼻につく。
 人間独特の、花のような匂い。同族の香水のような香りとは違い、甘ったるく喰欲を誘う。
 急に口の中が粘ついた。
 やっべ、渇いてる。
 俺は慌てておっさんから離れた。
 暗闇に紛れ、レニィのボトルに口をつける。甘い鉄の味に、一瞬満足感が広がる。もっと欲しい。だが、全部飲むわけにはいかない。本来ならレニィの分なんだから。
 ちょっと足りないけど、これでしばらくは何とかなりそうだ。
 おっさんに見つからないようにレニィへボトルを返し、俺は軽くなった体をほぐして辺りを見回した。
「なあ、おっさん。ここに落としたはずの魔物がいないってことは、どっかに出口があるってことだろ?」
「ええ。どこかにはあると思いますが……もともと罪人を閉じ込めるための場所ですからねぇ。内側から開くかどうか」
 答える声は自信なさげだ。
「でも魔物はここにいない。この遺跡を根城にしているくらいだから、多少の知恵はあるんだろうけどさ。……俺たちがそれ以下ってことはないだろ?」
「もちろん人間の知恵が魔物に劣るとは思いません。ですが私、今まで大した罠にハマったことがないんですよねぇ。事前の対処ならそこそこ自信があるんですが。ほら、毎度律儀にハマってたら、命がいくつあっても足りないじゃないですか」
「なるほど」
 俺が序盤にハマった罠は、どれもいかにも罠! ってかんじの古臭いヤツだった。俺の場合はハマっても力技でどうにかなったけど、人間がひっかかれば十分即死レベルだっただろう。
 典型的ゆえに見破ったり解除したりするのは簡単なのかもしれないが、おっさんが今生きてここにいるってことは、今までの冒険で一度も致命傷に至らなかったっていう事実があるわけで……。
 俺とはまるで正反対だ。
「じゃあ、この中で一番罠慣れしてるのはー」
「ルシェクリード、ちょっとこれを見てくれる?」
 言う前に、レニィに会話を奪われた。
 彼女は奥の一角にしゃがみこみ、壁を確認している。
 俺たちが駆けつけると、そこには薄緑に淡く輝くコケがうっすらと生えていた。
「ヒカリゴケの一種だな。こういう場所にはよくある種類だ」
 ルシェクリードが平坦に告げる。
「でも、コケが生えるってことは……」
 レニアローツェが続け、
「水がある」
俺が答えた。
 隣でコロンと、おっさんが怪訝そうに首をひねる。
「こんな荒野の地下に、水脈があるんですか?」
 ヴァルツを含め、西方一帯は植物なんて滅多に生えない死の荒野だ。人間たちには過酷すぎる環境ゆえに、俺たちが住み着いた。だからこんなところに水脈があるなんて、それだけで大発見なのだが。
 ルシェクリードは顔色を変えない。
「あった、というのが正しいんだろうな。今は枯れてしまって、コケが生える程度が染み出すのでせいぜいなんだろう。思うに……」
 ヤツは壁に手を添えて、わずかな湿気を確かめる。
「この場所は、水責めのためにあった」
 懐から小さなマッチ箱を取り出し、慣れた手つきで擦る。同族が目をくらまさないよう紫の色をつけられた明かりが、ひょいと上へ投げられた。
「あった」
 一瞬、紫に染まった空間の中で、ぽっかりと浮かび上がる巨大な漆黒の闇。
「給水口だ」



 指先、足先、腹筋、そして背筋。
 全身全霊に力を込めて、俺は叫んだ。
「な、ん、でッ、ロック・クライミング!?」
 給水口まで何とかして登らなければいけないのはもちろん分かる。だが、この壁には突起という突起がほっとんどない。老朽化して欠けた部分や、岩同士のわずかな隙間に指をかけ、ほとんど爪の先で体を支えている状態だ。
 万全の状態ならまだしも、魔物との戦闘や落下の衝撃でボロボロの体には、いささか辛すぎる。うお、なんか全身プルプルしてきっ、たっ、ぜっ!
「魔力がない」
 聞いてもいない質問に答える声は、いっそ清々しいほどに無感動だった。
「コッチの予備もねぇんだよ!」
 予備とはもちろん血液のこと。割合的に俺の方がやばくね? 魔力無くたって死なないし!
 人間の魔法使いに比べて魔力が極端に少ない友人は、落下から身を守るために最後の魔力を使い切った。ヤツはもともと武器という武器が使えないので、今では正真正銘の荷物持ちだ。ちなみに荷物というのはおっさんと、足を挫いたレニィのこと。
「だから二人は俺が連れて行く。お前は先遣隊だ」
「隊とか言って一人じゃん! 寂しいじゃん!」
「ロイエス、子供みたいなこと言わないの」
 ぴしゃりと叱る声は女史。
「言いたくもなるって。これ、ほんと、キツ、い、か、らっ!」
 給水口の端に手が届くなり、俺は壁を蹴って背中から一回転し、ストンと中へ降り立った。
「やりぃ、ロイエス君かっこいー!」
 自分で自分を褒めてみる。テンション上げてかなきゃやってられん。
「魔物は?」
 釘を刺すのはレニィのクールな声。
「いない。けど、かすかに奥のほうから変な臭いが……」
 俺は語尾を濁しつつ、顔をしかめた。俺たちは人間の何倍も鼻が良い。この臭いはもしや……。いや、でも、俺一人じゃ確信が持てない。
「大丈夫なら、まずはレニィを連れて行く。フォローできるな?」
「ああ」
 ルシェクリードがレニィを背中へ引っ掛けて、驚くほど身軽に壁を登ってきた。ほんとにコイツ、出発前に喰ってきただけなのか?
 ルシェクリードは武器こそ扱えないが、筋力が弱いわけじゃない。武術センスだって、拳術だけならそこそこ良いモノを持っている。ま、魔物相手には拳じゃ通用しないから、学院の専攻にはないんだけどさ。
 そういや、たまたま喧嘩中の仲裁にきた剣の講師を殴りとばして以来、「魔法なんかやめて剣を覚えろ!」と休み時間毎に追い掛けまわされていたっけ。力があって燃費が良いのに武器が扱えないなんて、本当にもったいないヤツだ。
 かつて友に腕相撲で負けたことを思い出し、俺は憮然としたくなった。俺たちの筋力は鍛えて付くものじゃないから、体質にケチをつけてもしょうがないんだけどさ。
「早くしろ」
「あいよ」
 俺は入り口の一歩手前へ来たところでレニィを受け取り、ひょいと持ち上げた。
 かっる! 女の子って見た目より軽いよな? なんで?
「そういや脂肪って体積の割に軽いんだっけ……ぐふっ!」
「ロイエス。あなたデリカシーなさすぎよ」
 持ち上げたままの体勢で、ガラ空きのみぞおちに膝を入れられた。ヒドイ、俺は事実を言っただけなのに。
 とん、と彼女を置いたとき、レニィが一瞬顔をしかめた。
「足、大丈夫?」
 とっさに二の腕を掴んで支える。レニィはちらっとその手を見たが、すぐになんでもないという調子でこちらを見上げた。
「ええ、だいぶ。ちゃんと血液があれば回復も早かったんでしょうけど」
「スンマセン」
 悪いのは全面的に俺です。
「ジープに冷凍したものがあるわ。だから早くここを出ましょ」
 このまま出られないなんて少しも考えない、すっと前を見る眼つき。
 いいなぁ、と思う。
 俺はこの眼に惚れたんだ。
「ああ」
 自然と湧き上がる笑みを隠そうと口元を押さえたとき。
「手伝え。トロイエス」
「うお、ルシェクリード、はやっ!」
 おっさんを背負った友がひょっこりと首を出していた。
 慌てておっさんを引き上げ、よじ登ろうとする友人に手を貸す。
 全員そろって息をついたのを見計らい、俺はおそるおそる口を開いた。
「……なあ、もしかするとこの先さ」
 地下の空気はほとんど流れていない。だから、俺の鼻でもはっきりと言いきれるほどの臭いを感じるわけじゃないんだが……。
「油脈に続いてない?」
 言われて、ルシェクリードとレニィが同時に顔をしかめた。
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.