吸血鬼のおつかい


 1.おつかいは命懸け


 あなたは遺跡探検の体験があるだろうか。
 古代の人々が作り上げた素晴らしい芸術作品を遺跡と言うならば、いくつかはあるかもしれない。先人によって調査しつくされた後、安全という太鼓判を隅々までパッカパッカと押されたものならば。
 けれど彼女はそれらを“遺跡の成れの果て”だと言う。
 曰く、
 『遺跡とは、内に数々の秘密を秘めていてこそ、その名で呼ばれるに相応しい』
 ……つまり。
 “暗い、怖い、危ないの三大形容詞が揃った、前人未踏の遺跡を踏破してこい”
 と、おっしゃっているわけだ。この御方は。



「簡単な“おつかい”だ」
 あっさりと告げられて、俺は整列したまま胡乱な顔で女を見つめた。
 年の頃は人間なら三十路を越えた程度だろうか。ぶっちゃけ相当な美人だ。きつめの化粧がはっきりとした目鼻立ちに良く似合う。
 最も目を引くのは目元だ。暗い紫のシャドウに走る漆黒のアイライン。目の際全体をぐるりと走るブラックの中央に鎮座する虹彩は、サファイアの青。この瞳に見据えられたが最後、自負や誇りなんてものは一切合財脱ぎ捨てて、ひたすら平伏しなけりゃならない。とにもかくにも命が惜しい。そういう気分にさせる目だ。
 だから絶対に目だけは合わすまいと誓って、俺は必死に整った鼻梁やら口元へ視線をさまよわせる。
 それに気付いて、彼女の深紅の唇が持ちあがったまま停止し、鋭利な笑みを描いた。
 内心、ヒィッと叫んだね。
 彼女は上等なデスクに長い足を組んだまま乗せている。先の尖ったヒールの踵がこちらを向いているが、踏まれたら悶絶間違いなしの狂暴な細さだ。惜しむらくはミニスカートではなく、黒のスウェードをはいていることか。艶のある革張りの椅子に身を沈め、悠然と構えている。
 その前で横一列に並ばされた俺たち三人は、さながら校長室に呼び出しをくらったガキンチョだった。実際に俺たちは士官学院の学生で、相手は軍のお偉いさんなんだから、状況的には似たようなものだけど。
 俺ことロイエス=ネル=リズバーグを右端に、冴えない友人ルシェクリード、うるわしのレニアローツェ女史へと続く。
 皆足を揃えて整列し、張り詰めた面持ちで彼女の反応を待っている。
 女は笑みを崩さず、ただ鷹揚に足を組み替えた。
 途端に俺たちの背スジがビッと伸びる。
「ここから西北に五百キロ。歩いて行けない距離ではないが、一応ジープを貸そう」
 三人のうち誰一人として了承していないにも関わらず、余裕で事を進めだす。
 暗黙の了解という言葉があるが、この場合、無言の降伏と言えばいいのか。半端なく命令慣れしたアルトは、一介の学生が敵う相手じゃない。
 俺が諦めて敬意を示そうとした時。
「断る。俺たちはあんたの部下ではないし、学生の身だ。いまだ軍に籍を置かない者を、あんたがどうこうする権利はない」
 隣の男が極めて正当な主張をしやがった。
 馬鹿正直に相手の不当性を非難したのは、ルシェクリード。こいつは自分の置かれた状況が飲みこめていないのか? 軍のお偉いさんに用務を言付かってんだぞ? 俺たちの未来がかかってるようなもんだぞ?
 ああ、俺の軍人人生終わった……始まる前に終わった。
 俺はとっさにフォローできないチキンな自分を恨みつつ、視線で奴に罵倒を浴びせかけた。お前っ、あとで『市民の名言』を三十回書き取りしろよ! 『国家権力には屈するべし×30』ってな!!
 問答無用で張り倒された挙句ブラックリストに載った自分を想像していた俺は、相手の笑みがいっそう深くなったのを見て、心底驚いた。
「勘違いするな、ルシェクリード。これはあくまで私的な依頼だ。私の地位によってお前達が極めて断り辛い立場にあろうとも、私は決して職権を濫用しているわけではない」
 分かってるんじゃねぇか。という言葉を飲みこむ俺と友人L。
「だったら自分の部下を使え。どうして俺たちみたいな学生に……」
「彼らには彼らの任務があるのだ。重大な責務が、な。フラフラしていてもらってはこっちが困る。一方、お前たちは?」
 はい、明日から夏休みですっ。
「ちょっとした“おつかい”だ。知り合いの暇そうな学生に頼んで何が悪い」
 俺以外の二人は親も幹部のエリートだ。どちらもこの女の直属の部下で、二人とも彼女とは小さな頃から知り合いらしい。一方俺は両親共に一般市民なんで、こうしてまともにお目通りしたのは士官学校に入ってからだった。噂の閣下がこんな美人だと知ったときは、そりゃあ驚いて感動したもんだけど……今となっては知らない方が良かったかも。
 ってかこの人、遺跡探検を“おつかい”とか言ってるよ。ナチュラルに命懸けだし!
 思わず反論しそうになった俺たちの気配を察したのか、閣下は悠然と微笑みながらもう一度足を組み替えた。相手が弱者だからこそ通じる、さり気ない牽制だ。
「私はお前たちの実力を高く買っているのだよ。信頼しているからこそ頼むのだ」
 とてもじゃないが頼っているようには見えないドSな笑顔で、さらっと甘い爆弾発言。
 あー、ここでそうきましたか。
 瞬時に俺とルシェクリードが眩暈にも似たドン引き気分を味わう。俺たちはこの女の本性を知っているから、こんな言葉が一ミリグラムも本気だとは思えないし、こんな笑顔には絶対にほだされない。何の効果もない猿芝居だ。
 でもさ、世の中にはこの言葉がクリティカルヒットしちゃう、純粋な子もいるんだなぁー。
 俺たちが絶句した一瞬の間を突いて、今まで黙っていたレニアローツェ女史が一歩進み出た。目線は真っ直ぐに目の前の女性を捕らえ、ご丁寧にも胸の前で手を組み合わせている。上気した頬が白粉を透かしてうっすらと染まって……可愛い。めちゃくちゃ可愛い。くそう、一度でもいいからあんな目で見つめられたいもんだ。
 が、その発言は俺の気持ちを萎えさせるのに十分だった。
「そうですわ! 閣下はわたくし達を『信頼』して密命を申し付けられたというのに、二人はご期待を裏切るというの?」
 くるりとこちらを振り返り、俺たちに訴えかける女史。
 やっぱりスイッチ、オンですか……。
 予想通り過ぎて、思わず意識が遠くなりかけた。俺の思いっきり引きつった口元と、閣下がニヤリと歪めたそれが微妙に似ていた気がしたが、この場合どうでもいい。
 平素のレニアローツェは、いわゆるクール・ビューティーだ。いつもつんと澄ましていて大抵のことには動じないし、何事にも合理的っつーか、女の子らしい笑顔を浮かべるサービス精神は持ち合わせちゃいない。美しい金髪が目を引いて言い寄る男は多いものの、おあいにくさま、取り付く島もないんだよ。……俺も含めてな。
 そんな彼女なんだが、閣下が関わると話が別だ。
 レニアローツェはこの女の前だと、思いっきり人が変わる。普段の冷静さをかなぐり捨てて、視野はピンポイント、思考回路は完全に停止。閣下万歳のイエスマンならぬイエスガールに成り果てるのだ。普段の彼女に少なからぬ好意を抱いている俺としては、なんかもう、見たくない姿です。まじで。
 おそらくこの現象は一種のファン心理というやつで、彼女がある種の特殊な嗜好を持っているわけではない。……と、俺は願っている。女性ばかりの歌劇団『トレジャー・マウンド』通称『宝塚』に、世の女性が心奪われるのと同じだ。たぶん。
 でも、これだけは言いたい。
 密命っていうか、ただの趣味だって!
 閣下の依頼は、ある遺跡の内部に眠る宝を軍の正式な調査団が入る前に盗ってこいというもの。古美術収集を趣味に持つ彼女は、調査団が見つけた貴重品をろくに調べもせず、保管庫に入れっぱなしにしておくことが許せないらしい。しかも彼らは貴金属類ならば宝石だけ取りだし、加工して新品に作り直してしまう。古美術の価値を知らない阿呆どもの愚行だそうな。
「でもそんな、正規の調査団に逆らうようなことは……」
 俺は視線を女性陣と合わせないよう必死で工夫しつつ、ヘタレに聞こえない声色でのたまった。見つかれば俺たちの人生が終わるも同じなんだから、抗議ぐらいしたって良いだろう。
 にもかかわらず、俺の必死の抵抗は閣下によって軽く流された。
「あいにく調査は五日後からだ。それまでにお前たちが宝を保護すればいい」
「保護って」
 さも正義の味方みたいな言い回しだが、やってることはただの横取りじゃん!
「無粋な輩から古代の英知を守るのだ。保護以外の何と言う?」
 子供をあやすよりも、もうちょっと嫌らしく笑みを返された。彼女には反論なんて何の意味もないらしい。指先でひねるようにして、軽く屈服させられた。
 しかし俺は諦めない。
 そんな墓荒らしみたいな真似をしなくても、閣下がちょっと別の方へ職権を濫用すれば軍の体制も変えられるのでは……と、控えめっつーか恐る恐る申し上げてみた。
 すると、閣下は鼻で笑われたのでゴザイマス。
「調査団の元締めとは相性が悪くてな」
 言わずとも行動済みだそうだ。ダメだったならそこで諦めましょうよ、閣下。
 加えて、女史が半ば軽蔑した目で俺たち二人を睨んできた。
「二人とも往生際が悪くてよ。まあ、あなた達が行かないと言うのなら、私一人でも行きますけれど」
 レニアローツェにそう言われると、俺の立場は一気に悪くなる。そんな危険な場所に彼女を一人で送り出せと?
 ……無理。
 ああそうですよ、恋は盲目なんですよ。
 その女史の向こうから、閣下が微笑んでいる。完璧な笑顔なのに、なぜか攻撃性を感じさせた。背すじがおぞぞとむず痒くなる。
 俺は隣で黙ったままの友人に視線で『スマン』と送った。
 ルシェクリードは何かを応えようとして、途中で止めた。肩を落とすと深い溜息をつく。あーコイツ、こういうしょぼくれた格好めちゃ似合うなー。
「決まりだな」
 閣下は満足げに頷き、指先一つで退出を促した。



 上を見上げれば一面の星、星、星。眩しすぎて鬱陶しいくらいだ。
 だからといって下を見ても面白い物があるわけでもなく、赤茶けた岩がひたすら広がる味気ない荒野が広がるばかり。目を凝らせば一つ二つの草が見つけられる程度で、それすら枯れていることが多い。
 俺たちが住む都市、ヴァルツは世界で最も西にある街だった。ここより西に進んでも、ひとっこ一人住んじゃいない。不毛な大地が人々の移住を許さないからだ。そのうえ魔物と呼ばれる肉食動物らしきものがウヨウヨいるから、たとえ俺たちでもそうそうは出向かない場所だった。
 だからかどうかは知らないが、西の荒野に点在する多くの遺跡にも調査の手が伸びない。ちゃんと調べられるのは都市周辺の小さなものがせいぜいで、今から行く遺跡なんて名前すらないんだそうだ。
 岩の転がる悪道……っていうか道自体ないから悪野? だったけど、障害物がないからジープは最高速度ギリギリで走行している。この分なら野宿は一回で済むだろう。
 俺はゆるゆるとブレーキをかけながら、後部座席の金髪美人、レニアローツェ女史に声をかけた。
「レニィ、腹減らない?」
 ふふん、いいだろ。俺はレニアローツェ女史に略名呼びを許されているんだ。普通、略名呼びは子供っぽいという理由で家族や幼い頃からの知り合い、もしくは恋人(ここ重要!)しか呼ばないが、まあ、日頃の努力の賜物だ。……いや、ルシェクリードもレニィって呼ぶんだけどさ。二人は本当に子供の頃から知り合いらしいから、ココはノーカウントってことで!
「そうね、そろそろ食事にしましょうか。明日も早いのだし」
 ジープが止まるやいなや、スパッと言い切ってレニィが飛び降りた。彼女はもともと合理的な性格なので、感情論というやつは滅多にぶつけてこない。心酔する閣下の前でさえなければ、ね。
 てきぱきと二台から荷物を降ろしながら、彼女が振り返った。
「喰事のほうはどうする?」
「俺要るー!」
「俺はパス」
 喜んで手を挙げる俺とは対照的に、ルシェクリードのテンションは低い。が、コイツの喰欲がないのはいつものことなので気にしない。
「食事は摂るんだよな?」
「ああ」
 食事と喰事の違いは簡単だ。食事は人間が摂る普通の食べ物。
 喰事は人間の血。
 そう、俺たちは人間じゃない。
 人間の血を喰らって生きる、人間より強靭な肉体を持った存在だ。
 そんな俺たちを恐れて、人間は俺たちを昔話に登場する化け物の名で呼ぶ。

 吸血鬼、と。

 えらく物騒な名前で呼ばれているが、俺たちの見た目はほとんど人間と同じだ。平均的に多少大柄なくらいだろう。
 もし人間との違いを見極めたいのなら、瞳を見ればいい。
 明るい場所では俺たちの瞳孔は縦に細長い。猫がそうであるように、夜行性の俺たちは暗所で物が見える代わりに、明所で光の調節をしなければならないからだ。
 もう一つの特徴は、やはり二対の牙だろう。人間の八重歯にあたり、喰歯と呼ぶ。ただこれは瞳に比べて確認がしづらいし、人間にだって立派な八重歯を持った奴もいるだろうから、あてにならない。かつてはこの牙で獲物の首筋に傷をつけ、生き血を啜ったといわれているが……今ではそんな事態は稀だ。なぜなら――
「はい、次はロイエスの分」
 レニィがアイスボックスからパックを取り出し、ルシェクリードへ渡す。友は一瞬で血液を解凍して、こっちへ投げてよこした。
「サンキュー」
 かつては狩猟民族だった俺たちも、文明の発達につれ野蛮性が薄れてきた。今では採血機関が人間からリッター毎幾らで血液を買い取り、それを同族へ売りさばいて商売が成り立つほどになっている。
 冷凍血液が不味いというのは周知の事実だが、生まれた時からこれを与えられてきた俺たちの世代には、あまり違和感がない。それに解凍の仕方で味もいくらかマシになるのだ。
 同族としては珍しいことに、ルシェクリードは魔法が使える。
 人間なら十人に一人は使える魔法だが、同族の中ではそれこそ学年に一人いるかいないかって程度だ。その珍しい奴を友達に持っていると、冷凍血液の味が格段に良くなる。こいつと知り合ってからは、自然解凍のやつが飲めなくなったよ。
 ジープの振動から開放されて、俺は地面に足を投げ出した。隣の岩にルシェクリードが座り、面白くもなさそうに辺りを見まわしている。
 ストローをパックにさし込み、深紅の液体を呑み込む。うむ、さすが魔法解凍。
「うまー。やっぱ持つべきものは友に限る! でもお前、ほんと少喰だよな。ちゃんと喰ってる?」
 ルシェクリードはめちゃめちゃ小喰だ。同族にしては平均的な体格のクセに、摂取量がその辺の女の子よりも少ない。食事の量は俺と変わらないから、なおさら不思議だった。
 俺のおせっかいをいつものことと受け流しつつ、奴は律儀に答える。
「三日に一回は喰わされるけど、一週間ぐらいなら無しでも平気だな。喰い過ぎると胃がもたれて逆に調子が悪くなる」
「ありえねぇ。俺なんか三日も空けたら死んじゃう」
「インドア派なんでね。そもそも運動量が違うんだろ」
 詳しいことは忘れたが、血液の摂取量は運動量に比例するという。
 ほとんどが魔法を使えない俺たちにとって、武術が己の身を守る最高の手段だ。強靭な筋力を生かすため、多くが剣や斧、槍などを使う。銃器とかいう軟弱な武器もないことはないが、今の技術ではせいぜい筋肉を削る程度。人間相手ならいざ知らず、同族には通用しない。俺たちにしたら、弓矢の方がよっぽど危険な武器に成り得た。
 だから俺たちは普通、学院で勉強と同じかそれ以上に武術を習う。実技の試験の方が配点が高いので、テスト前はペンよりもっぱら武器を握っているぐらいだ。
 しかしこの腑抜けた友人、ルシェクリードだけは違う。
 俺が剣術を専攻した上でもう二、三種類の武術を学んでいるのに対して、ルシェクリードは魔術に特化した授業を受けている。辛気臭い部屋に一日中篭って呪文やら図式やらを覚えているわけだから、運動量が違って当たり前だった。
「でもなぁ、俺が一日中稽古もしないでだらーっとしてたとして、一週間ももつか? もたねぇよ」
「結局体質なんだろうな。食事は人並みだから、胃が小さいってわけでもないらしい」
 俺たちがダラダラとくだらないことを話している内に、レニィが食事を作ってくれた。野菜炒めをフライパンごと差し出された時は内心ちょっとびびったが、三分で作ったにしては上出来だ。願わくは、もうちょっとニンジンを薄く切ってほしかったが……。彼女は育ちが良いわりに色々と大雑把だ。まあ、そこが良いんだけどさ。
 切り分けたパンを渡しながら、レニィが低く呟く。
「一分で食べ切りなさい。アレが辿り着くまで、あと一分二十五秒あるわ」
 俺とルシェクリードは同時に頷いて、丸呑みにする勢いでかっ込む。
 アレというのは、今も聞こえてくる足音の主。
 西方に生息する特殊な生物だ。人間はおろか俺たちでさえも上回る筋力を持ち、醜悪な容姿を持つ。種類は把握できないほど存在するが、総じて魔物と呼ばれている。
 一分で食べ終え、傍らの剣を抜き放つ。威力を削らぬよう少しだけ重さを持たせた刀身が月の光を返して瞬いた。
 目標は一体。この辺りをテリトリーとすると思われる。
 遠く視界の先で、黒い影が動いていた。ゆっくりと左右に動いているように見えるが、距離がありすぎるからそう錯覚するだけで、実際は凄まじい勢いで近づいてきている。ひっそりと忍び寄るほどの知能はないらしい。
 ジープを壊されてはたまらない。少しでも場所を変えるため、こちらから迎え撃つ。
 飛び出した俺に合わせてレニィが右をカバーした。彼女が持っているのは俺のものよりもいくらか細いサーベル。素早さを落とさず突きで攻撃するタイプだ。スピード重視の彼女に合わせた武器のように思われがちだが、実は違う。いつかやってくる軍役の日々のために、彼女の方が支給される剣に合わせた戦法を身に付けた。
 鋭く目を細めて、レニアローツェがささやく。
「雑魚ね」
「ああ」
 相手は魔物にしては小振りで、成人男性と大差ない大きさだった。あのくらいなら突進しても厚さ三十センチの鉄壁に穴すら開けられないだろう。ならば筋力的には俺たちと大差ない。魔物の中では下の下だ。
 魔物の見た目を一言で言うなら、皮を剥いた人間。それに余分な筋肉を付け足して、獣の牙を生やせばいい。瞼のない目や穴だけの鼻など、なまじ自分達と似通っているために気持ち悪さもひとしおだ。
 鋭い牙の並ぶ口元から、ぎゃあ、と悲鳴に良く似た音が放たれる。別に俺たちが攻撃を仕掛けたわけじゃなく、あれが奴らの鳴き声だ。赤ん坊の泣き声のようでもあり、年寄りの断末魔のようでもある。一晩中近くで鳴かれたら軽く発狂できそうなぐらい気味が悪いことだけは確かだ。
 魔物は顎が外れたかと思うほどに口を開いて俺に飛びかかる。正面から食らい付くつもりらしい。太く鋭い牙がずらりと並んだ口内は、生き血を啜った直後のように紅い。
 押さえ込むために延ばされた二本の腕が俺の肩口に食い込もうとしたところで、剣が奴の鎖骨にぶち当たった。
 当たり所はイマイチだ。俺たちの力は人間の比じゃないが、剣では魔物の筋肉を断つのがせいぜいで、骨までは砕けない。狙うなら腹部か、肋骨の間。
 その僅かな隙間へ滑りこむように、サーベルが刺し込まれた。
 魔物の構造は多くの哺乳類と同じ。あばらの中には肺があり、その下に心臓がある。彼女の一撃は心臓へは達しなかっただろうが、位置からしてそこへ続く動脈と静脈を切り裂いたに違いない。あっさりと背へ突き抜けたサーベルは、肋骨に沿って胴体を真横へ切り裂いていく。
 片身を裂かれて魔物が傾く。どろりとした液体を口から流して、わずかに後退した。
「あーらよっと」
 俺はすかさず踏みこんで、がら空きの顎を下から突き上げた。斜めに差し込むことで口腔から延髄を貫き、小脳を破壊する。剣先が頭蓋に突き当たったところでひねりを加え、可能な限り脳に損傷を与えると、一気に引き抜いた。
 心臓がなくなっても魔物は一定時間動き続けるが、脳を破壊されれば他の哺乳類同様まともな動きはできない。ただ大抵の場合、統率の取れなくなった神経が痙攣し、予測の付かない動きをとる。止めを刺したからといって気を抜くと、肉の塊によって痛い目に合わされるってわけだ。
 俺は飛びすさって間合いを取ると、相手の様子を確認して剣を下ろした。まだ多少動いているが、筋肉の反射だろう。意識があってのものじゃない。しばらくすれば、まさしく物言わぬ肉塊になる。
「一丁あがりっ」
 嬉々として剣を鞘に戻そうとして、血と脳しょうで手までドロッドロなことに気付いた。
「うーげー」
 さすがに顔をしかめた俺に対し、レニアローツェは涼しい顔。
「離れましょう。血の臭いで他の個体が集まってくるかもしれないわ」
「レニィ、ハンカチ持ってない? 早く拭かないと俺が臭いの元になりそう。さすがに雑魚でもワラワラ来たら死ぬし」
「使い捨てにできるモノはないわ」
「俺の命はハンカチ以下ー!?」
 ツッコミを軽くスルーされて置いて行かれてしまったので、俺は渋々手入れ用の布を取り出し、自分と剣を拭き始めた。
 時間かかるんだよなーこれが。
 剣は使い勝手が良い代わりに手入れが面倒だ。これを楽しんでこそ真の剣士と言った教官がいるが、彼の領域にはまだまだ辿り着けそうにない。
 楽勝だったのに損した気分でジープに戻ると、ルシェクリードがのん気に食事を続けていた。そういえばこいつ、後衛だから忘れてたけど、戦闘に参加してねえ!
「人が命賭けで戦ってたっつーのに、おま、飯食ってたのか!」
「一応構えてたけどな。秒殺だからすることもなく」
 魔法は時間も手間も集中力も要る、面倒くさいものだ。
 そのうえ俺たちはどうやら生まれつき人間より魔力が少なく――俺を含め多くの同族に魔法の素質がないのは、そのことが原因らしい――ぶっちゃけ威力も弱い。
 だからルシェクリードは滅多なことでない限り、魔法を使わない。今回も魔物の程度を見るや、俺たちだけでどうにかなるだろうと判断し、魔力の温存に努めたんだろう。これから先何があるか分からない以上、正しい判断だといえなくもないが。
「だからってメシ食うなよ」
 すぐそこでミンチ作ってたようなもんなのに。よく食えるなお前。
「俺が剣のひとつでも使えれば、もう少し前に出てたんだがな」
 さらりと告げられる自虐。
 ルシェクリードは剣が使えない。いや、武器全般を持つことができない。
 代わりに魔法を極める事で、自らの武器としているんだ。
 一度、剣の稽古の厳しさに根を上げて、こいつに愚痴を垂れたことがある。俺も魔法が使えたらなぁとかいう軽いものだったけど、奴はいやに自嘲じみた笑い方をして、自分がどれだけ腐心して魔術に専念しても、人間の扱う魔法の半分の威力もないと言い出した。何十年とかけて同族が魔法を極めるよりも、人間の魔法使いを雇った方が生産性も良い。知ってるか? 魔法専攻の就職先、事務以外ないんだぜ、と。
 だったら何で武術をやらないんだと問い詰めれば、一応拳術は習ったと軽く流された。
 未だに理由は俺も知らない。
「……けっ。面倒な奴」
「じゃあ、ルシェクリードは後片付け係ね」
 俺の言葉をどこ吹く風とスルーしていた友が、女史の冷めた一言でうんざりと眉をしかめた。
 はっはっは、ざまあみろ。



 そうこうしている内にあっさりと夜が明けて、東の空に太陽がのぞいた。閃光に目を刺され、三人揃って目を細める。
 目の上に手を当てて光を防ぐレニアローツェ女史。朝日に透ける金髪が甘い色合いに輝く。そのまま彼女は光りに呑まれて、俺には見えない。
 ルシェクリードは早々に光へ背を向けてジープに向かった。奴の長く伸びた影と、風になびく黒髪が同じ向きをしていた。
 そんなにじろじろ見ていたのか、友と目が合って不機嫌そうに眉をひそめられた。今や奴の瞳孔は縦に細く、暗闇の中よりも鋭い印象を受ける。同族によくある紫の瞳といい、特徴のない顔立ちといい、どうもぱっとしない野郎だ。
「……寝る」
 不機嫌の理由は、眠かったかららしい。
「そうするか。食ってすぐ寝ると太るらしいけどな」
「あなたたち荷台で寝なさいね。私は座席で寝るから」
「えー、レニィずるー! 俺もいっ」
「何か?」
「……いや、荷台って堅いよなぁ……寒いし」
 なんとも情けない言い訳をしつつ、ジープへ向かう。魔物は俺たちと同じ夜行性とはいえ、一刻も早くこの場を離れたほうが良い。適当な岩の陰にでも移動して、寝よう。
 太陽はもう東の空に浮かんでいる。
 明るい世界は、人間達のものだ。
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