終章


 総統執務室の大きな窓から昼の光が差し込んでいる。
 光は部屋中に飾られた少女人形たちを華やかに照らし出していた。どの娘も豪奢な衣装と艶やかな髪、そして硝子の瞳がきらめいている。微笑み顔の子はもちろんのこと、物憂げな顔立ちの子までが、絶妙な陰影によって不思議と微笑んでいるように見えた。
 中央の平卓に置かれた駒遊びチェス台へ、指の長い男の手が騎士駒ナイトを置いた。
「結局、君はどっちの味方だったんだい?」
 切れ長の眼が上目遣いに向かいの長椅子に座っている女を見る。
 女は背もたれへ鷹揚に背を預け、腕と足を組んだまま目線だけで男を見下ろした。
「どっちも気に食わん、というのが本心だな。そもそも年寄りが行く末を決めつけて大騒ぎするなど、ばからしいと思わんか?」
 ぞんざいな口調のこの女はパルフェ・タムールだ。支部章のついた黒い詰め襟とその下の白い胴着をはだけさせ、首元を露出させている。その気になれば豊かな胸の谷間まで覗くことができるだろう。彼女はラトゥールの残り少ない同期だった。辺境の支部にありながら、諜報部での経験と人脈を生かして、今なお軍で暗躍している。
 今回の件でも二重諜報員という自身の立場を利用し、同盟会議でランスヴァルドとラトゥールを引き合わせるという、とんでもなく手っ取り早い解決法を成し遂げた。事件の遠因にして最大の立役者でもある。半ば本気で裏切った様子もなくはなかったが、決定的な証拠は残されておらず、おとがめ無しということになった。
 この女は毎回こうだと思い、ラトゥールは溜息をついた。
「それであの子に好き勝手させたっていうのかい?」
「未来は若者のものだよ、総統閣下。捨て駒かと思いきや、なかなか面白い男に育ったな」
 美しい指先で駒をいたぶりながら、女はにやりと笑った。
「聞いたよ。諜報部へ引き抜こうとしたんだって? やめときなよ、神様があの子に与えなかった物はいっぱいあるけど、一等ないのが忠誠心なんだから。僕は二重諜報員モグラを二匹も飼うのは御免だね。……まったく、あのかわいくなさは誰に似たんだろ」
「お前以外の誰なんだ」
「はあ?」ラトゥールが整った顔を歪ませた。
 女は何かを思い出してくすりと笑う。「それにしても、ああやって笑うと生き写しだったな。いつまでも死んだ男を引きずってないで、あっちに乗り換えればいいだろうに」
 ラトゥールは眉をしかめて警戒を示した。息子が滅多に見せない満面の笑みを見せたのは、あの事件の最後だけだ。あれをこの女はどこかで見物していたらしい。まったくもっていいご身分だ。だがそこをつつくと自然と嫌な話を掘り返されそうだったので、彼はあえて話をどうでもいい方向へ持っていった。
「……あのね。同性愛者ゲイ扱いはいい加減にしてくれる? 僕は俗事になんか興味ないんだからね」ふん、と彼はそっぽを向く。「まあ、この体になってからは女性の胸とかにも目が行くようになったけど……何、その目」
「お前、本当に餓鬼だったんだな」女の低い声には呆れと同情が混ざっていた。
「うるさいな」舌打ちしつつ、ラトゥールは駒を台へ叩き付ける。「僕には軍事お人形遊びのほうがずーっと楽しいんだってば」
 女はしばし、せせら笑った。「――で、例の自殺願望のほうは治ったのか?」
「さあね。どっちにしろ当分は無理かな」
 彼は西向きの小窓を一瞥した。荒野の果ての対魔物前線では、魔物の活性化の兆しが見え始めていた。前回の襲撃から五十六年が過ぎている。ランスヴァルドが動いたことからも、そう遠くない未来に魔物の大群がやってくるだろう。
 面倒なことに、今の軍にはラトゥールの他にそれを指揮できる人材がいなかった。
「今回の件で背後の危惧はなくなった。これで安心して魔物の襲撃に備えられるってわけだ。――これが君の狙いだったんだろう?」
「まさか。誰かさんが面白いことを言ってこなければ、黙って見過ごしたさ」
「どこまで本当なんだか」低く呟いて、ラトゥールは深々と溜息をついた。「また死にぞこなっちゃったな。……僕は貧乏くじばっかりだ」

     ◆

「よくまあ、あの総統に斬られて生きてたもんだなぁー」
 小刀で器用に林檎の皮を剥きながら、ロイがしみじみと頷いた。
 彼の視線の先には、病院の寝台に上体を起こしているリダーがいた。患者用の薄い寝間着の襟元から、左肩から胸へかけて包帯が巻かれているのが見える。
「内蔵逆位なんだって?」
「ええ、心臓が右なんです。子供の頃もそれで生き延びて、左肺の三分の一が切除されてたんですけど……今回ので半分になりました」苦笑する青年の顔には寂しげな影があった。
「そんだけで済んだのが奇跡だよ」シャリシャリと林檎を剥いて、ロイは明るく笑った。
 あの戦争から二週間が過ぎていた。
 リダーはルジェが証言した通り、黒精霊に取り憑かれていたということで処理された。実際、彼には黒精霊の欠片が憑いていて、それが決め手となったのだ。本当は意識を乗っ取る類のものではなかったのだが、ランスヴァルドの死を知ったリダーは急におとなしくなり、敵の情報を流す代わりに命を救うという軍の申し入れを受け入れたそうだ。今後は他の裏切り者から命を狙われるかもしれないが、ロイには今生きていることが嬉しかった。
「あれからエンとテアはどうなりましたか?」
「エンは沈黙、テアはフェルネちゃんの国葬から喪に服してる。どっちもおとなしいもんだ、被害も少なかったしな」小刀を持つ手を止め、ロイは遠くを見るように眼を細めた。「まあ、『五割の男』がいなかったら、あの何倍の災害になったかわからんけど……」
 ランスヴァルドが倒された瞬間、エンの兵士たちは一斉に我に返った。自分がどこにいるのかもわからずに慌てふためく彼らを襲ったのが、ロイを含め、戦闘に狂乱した同族数名だった。笑いながら胴を切り捌き、片っ端から首を刎ね、それはもうひどい有様だったらしい。取り押さえようにも同族が近寄ると一緒に暴走してしまうため、手が付けられないままかなりの人間が殺されていったという。
 ロイが覚えているのは、無愛想な呼びかけからだ。「おい」と不機嫌な声をかけられて振り向けば、ルジェがいた。友は一言――「お前、社会の窓がガラ開きだぞ」
「はあッ!?」と股間を確認するロイへ、ぱっとしない顔の友人はけろりと告げた。
「嘘に決まってんだろ、ばーか」
 ……まったくもってわけがわからない。今思い出しても謎すぎる発言なのだが、ロイが呆気にとられて笑い声が止んだので同族が我に返り、事態は収束したのだった。
「……先輩は絶対にルジェ氏のそばを離れないほうがいいですよ」リダーは青ざめていた。
「お前まで気持ち悪いこと言うなっつの。戦闘時はマジでアレがアレなことになるから、ああいう冗談はほんっと笑えないんだからな!」
 方々から感謝すべきと言われるが、ロイには実感がなかった。
「そうそ、結局テアとは同盟じゃなくて、軍事不可侵条約を結ぶことになったらしいぞ。経済的な同盟の話は進んでるみたいだから、これでしばらくは安泰だな」
「ですが……フェルネットさんは、もう二度と……」
「それは仕方ないわな」ロイは切り分けた林檎と一緒に飴を皿に乗せ、寝台脇の机へ置いた。「お前、退院してからもしばらくは更正施設入りなんだって? 大変だな」
「ええ、最低でも一年は」リダーは飴の色紙をじっと見ながら答えた。
「その後はどうするんだ?」
「わかりません。でも……」そっと手を伸ばし、リダーが飴を掴む。「いつかもう一度、金融課に戻れたらと思っています」
「貧乏人から巻き上げるのは嫌なんじゃなかったのか?」
「はい。だから金持ちからもっと吸い上げられないかと思って」寝台の上で一生懸命考えたんです、とリダーは笑った。「人間の企業融資も株式化してみたいんです。これだと投資額は増えるけど、少しずつ、延々と吸い続けてやれる」後半をぞくっとする声で呟いて、リダーはぱっと笑顔に戻った。「僕みたいな下っ端の提案じゃ、いつになるかわかりませんけどね。これが、僕が選んだ復讐です」
 リダーは小さな喰歯を見せたまま、飴を口へ放り込んだ。
「それってさ」ロイは少し考えてから、笑った。「どっちかっつーと献血じゃね?」

     ◆

 真昼の太陽が総統府の広場の赤煉瓦を灼いていた。辺りに人気はなく、壁沿いをぐるりと囲う英霊墓だけが目立った影を作っている。その中でもっとも新しく、もっとも花と剣、そして血の代わりに火酒が供えてある石棺――ルイ‐レミィの墓の前にルジェはいた。
 彼の前には一人の人物が背を向けて立っていた。長い金髪を陽の光で真珠色に輝かせ、腕いっぱいに色とりどりの可憐な花を抱えている。
「……本当に、わたしを生かしておいて良かったんですか?」
 前を向いたまま、澄んだ声が問いかけた。声色にはまだ少し怒っているような、怒った振りをしているような、不慣れな硬さが残っている。
 あのとき、フェルネットの心臓は確かに止まっていた。総統が直々に確認し、テアへ引き渡したのだから間違いない。彼女の国葬は盛大に行われ、テアは今も喪に服している。
 彼女が森へ戻れない場合――『不可』だったときの対処法は、あらかじめ王太子と打ち合わせていた。ルジェが血液包の血で殺害を偽装し、同時に太子の魔法で彼女の体内の水分を一時的に凍らせる。そして軍と人間たちに死亡を承認させるという方法だった。
 ルジェは少女の背中へ事務的に答えた。「お前の身柄は不可侵条約の証としてテアから委譲された。この条約が続く限り、お前は我々の保護下にある」
 人質としてテアがのうのうと『名もなき王女』を引き渡したとき、ルジェは当然のごとく呼び出しを食らった。普段は目も合わせられないような上役に散々いびられ、上司からは張り手を食らい、戦時の活躍で昇級したはずの階位も降格させられて、また元の中尉に戻った。中でも減俸が一番痛かった。けれどこの程度で済んだのは、全て事前に総統が彼女の死を保証していたからだ。……むしろ総統の顔に泥を塗ったと怒られたのだが。
 国葬で彼女の存在は永遠に亡き者とされた。今後は『名もなき王女』として、ヴァルツで生きていかねばならない。公然の秘密がまかり通るヴァルツでなら、彼女の居場所はある。だがもし彼女の生が再び人間に知れ渡れば、今度は同族と人間の全面戦争が勃発する可能性すらある。その時、ルジェは世界中から一斉に非難されるかもしれない。
「フェルネ」この名はもう二度と呼べない。彼の与えた結末は彼女の半身を奪ったに等しい。けれどそれでも……生きている。そう思いながら、ルジェは慣れた言い回しを穏やかに続けた。「今後の生活は俺が支援する。法に触れぬ限りの自由と権利も保障しよう。しかしお前がお前である以上、身の危険は常にある事、くれぐれも忘れないように」
「――はい」すっと良く通る、澄んだ声だった。以前とは違う芯がある。
 フェルネットは石棺に近寄り、花を置いた。棺へ口づけを落とし、小さく囁く。
「ありがとう」
 その様子を目に焼きつけながら、ルジェは胸元へ添えた軍帽を握りしめた。
 亡き英雄へ敬意を込めて。
                                                  〈了〉


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