五章  ▼標的ターゲット3・英雄


 夜の帳が降りる頃、戦場はしばしの休息を迎えた。
 広大な大河を挟んで両陣営が睨み合っている。西のエン軍は鬱蒼とした森に沈み込み、木々の間からゆるゆると煮炊きの煙を上がらせていた。対岸のテア陣営は荒野さながらの荒れ地と化し、地を穿つ爆発の後が生々しい。夜闇に紛れる半円状の黒い結界からは、煮炊きの煙はおろか火さえも覗けなかった。
 昼過ぎにぶつかった両国軍はすぐさま盛大な魔法戦を始めた。大魔法を連発するエンへ、テアは地の利と長年培った術式技術を駆使して防戦した。大河から精霊を呼び集め、強固な結界を張って凌ぐ。一方、エンもまた大河の精霊を利用して大魔法の砲撃を繰り返した。やがてテアの結界に穴が開き、兵へ被害が出始めた頃、突如として大魔法の嵐が止んだ。
 そこからは伝統的かつ暴力的な闘争だった。
 精導士たちが河の水を塞き止めて路を作る。そこへ両軍の騎馬隊及び歩兵がなだれ込み、正面からぶつかった。魔法の才がある者は水面を馬で駆けて遊撃し、あるいは宙を飛んで後ろへ回り込む。精導士が敵の魔法を封じれば、向こうもまた封じ返してくる。
 その間も河の中央では剣戟が繰り返され、水のない川下は真っ赤な血を垂れ流していた。あちこちで爆発が起こり、馬がいななく。竜巻が起こり、地が割れ、雷が落ちた。
 白兵戦でもまたテアは不利だった。元が突然の侵略に慌てふためいてかき集めた近場の兵士と、魔術大国ゆえに武力をおろそかにしてきた騎士たちである。長年、圧倒的な精導士の数に物を言わせてきたツケが一度に押し寄せてきたようだった。
 それに対して、エン軍は恐ろしく統率がとれていた。現場の端々を束ねる上官全てが迅速に指揮官に従い、突撃、退避、反撃、転進と、あらゆる指示を一斉に実行する。指揮系統が整っているのだろうが、その動きはどこか機械的で、気味が悪いほどだった。
 これだけの動きができるなら即日侵攻を始めてもおかしくない。補給線さえ断たれなければ、数日でテアを落とせるだろう。ヴァルツの前線軍さながらの動きを思い出し、ルジェは内心で危機感を覚えたほどだった。
 遠い丘の上から両陣営を眺めている彼の元へ、夜風が濃厚な血の匂いを運んできた。
「冷えてきましたね。どうぞ」傍らに控えたジャック・ユニ少尉が血液包を差し出した。
「いや俺は……」
「十分な血液摂取と予備の携帯は武官の鉄則でしょう? ここは戦場です。いついかなることがあるとも限りませんから」
 押しつけられた血液包を受け取り、ルジェは苦々しい顔で懐へしまった。ただでさえ怪我人だからと血を多めに飲まされているのだ。これ以上飲んだら絶対吐く。
 そのとき、視界の端に人間の一団が現れた。数人の護衛に囲まれているのはテアの王太子だろう。地味な外套を羽織っているが、歩く度に金擦れの音がする。甲冑でも着込んでいるのだろうか。人間では、というより彼の体格では、体力を削ぐだけだと思うのだが。
 ルジェは黒眼鏡を付けようか一瞬迷ってからやめた。この暗さで眼鏡をかけたら、何かあったときに対処できない。代わりに軍帽を目深に被り、太子へ問いかけた。
「それだけの人数でよろしいのですか?」
「重鎮までいなくなれば目立ちます。一応、私の替え玉は置いてありますが、この状況で大将が逃げたと思われるのは避けたいのです。それに我が国の重鎮は皆、精導士ですから」太子は丘の下を振り返り、大河一帯を眺めた。夜になったとはいえ、戦況は不利のままだ。「全権は私にありますので、ご心配には及びません。貴方がたを信頼します」
 緊張気味に微笑む太子はやつれていた。けれど瞳には硬い鉱石のような光がある。おそらくこれが、病床の王に代わって早くから執政を務めてきた青年の、本当の姿なのだろう。
 ルジェは黙って頷き、彼らを会場へ導いた。丘を大河の反対へ下った先に小さな洞穴があり、その中に地下へ向かう業務用の昇降機がある。これで百米ほど地下へ降りれば会議の場へ直行できるのだ。円蓋型の地下施設は軍の古い穀倉で、長らく使われていなかったが電源も発電機能も健在だった。貯蔵を目的として作られただけあり、施設は広く、天井が高い。掘り下げた高さがそのまま内部の容積に貢献している。
 昇降機の扉が開いた瞬間、太子の呼吸が乱れた。
 広い内部にはほとんど何もなく、中央に大きな円卓が置かれているだけだった。それをぐるりと取り囲む白い軍服の甲種と、少し離れて左右一列に並んだ黒服の乙種。ほの暗い間接照明の光を受けて、彼らの淡い猫の瞳が一斉に光った。
 太子は一瞬ためらってから、すっと息を吸い込んで一歩を踏み出した。そのまままっすぐ円卓へ向かう。途中で外套を脱ぎ、金の装飾がついた銀甲冑を顕わにした。
 ルジェと少尉は乙種の列の末席、太子とその隣の甲種との中間へさりげなく並んだ。
 顔を動かさないようにして円卓を見回せば、甲種はどれも軍では名だたる将官ばかりだった。ルジェから左の最奥にいる髭の男は元帥だ。その隣は参謀長官。中央事務総長、支部総長以下、支部総司令やその代理三十八名が並んでいた。右へ来るほど位も身に着けた徽章も少なくなっている。そして一番右端に王太子が立っていた。
 円卓の中程には一人だけ乙種の女が混じっていた。艶やかな黒い巻き毛の彼女が東部第三支部総司令パルフェ・タムールだ。妙齢の美女はこちらへ妖艶に嗤いかけた。
 ルジェの耳に女の低い美声が蘇る。――『最高の舞台を用意してやる』
 せいぜい上手く立ち回れということだろう。そう判断し、目を伏せる。
 ルジェの役回りはロイがフェルネットを確保できるよう、調印を遅らせることだった。軍が本格的に動き出せば彼女は瞬殺される。その前に、この中の誰がラトゥールから全権を委任されているかを見極め、状況に応じてさりげなく対処するのだ。
 太子は席へ着こうとはせず、立ったまま形式通りの挨拶を述べ始めた。
「この度は急なことにもかかわらず、我が国の申し入れを受け入れていただき、ありがたく存じます。貴殿らにおかれましてはご機嫌麗しく――」
 案の定、すぐに甲種の横やりが入る。「冗長な。これだから人間は面倒くさい」
「ご機嫌取りは要らん。戦況を述べられよ、王太子殿」最奥の元帥が促した。
 太子がちらりとルジェを見た。頷き返すと、彼は魔法で霧のようなものを作ってそこへ映像を映し出した。ルジェの知らない術式だが、原理は映写機と同じだろう。
「正直に申しまして、状況は厳しいです。未だ前線は破られておりませんが、死傷者はおよそ二割。明日到着する援軍を加味しても、不利なことに代わりはありません」テアの陣営はに大魔法による大穴がいくつもあいていた。結界から外れた川岸は荒れ果て、炭化した樹木が根こそぎ倒れている。「大魔法への対策として序盤に全勢力を守備と結界に回しておりましたので、見た目ほどの被害ではありませんが……敵軍との能力差が大きいかと」
「そのようですな。若干の希望的観測も含まれておりますが」
 眼鏡の甲種に軽く詰られ、太子がわずかに黙りこんだ。
「……大魔法は百五十発を境に止みました。おそらくこれが一日にフェルネットから奪える血量の限界だと思われます」太子は目を伏せた。「魔術師が回復するまで一日の猶予があります。その前に……朝までに、フェルネットを見つけ出せば――」
「して。無論、あてはあるのでしょうな?」禿げ上がった老年の甲種が口を挟んだ。
「そ、それは――」
 太子がうろたえた一瞬を突くようにして、彼の左隣、末席に座る男が助け船を出した。
「考えるまでもないことでしょう、将軍。血液を全体へ速やかに運搬できる場所といえば、後方接続部――補給線の根本しかありえませんよ」
「それもそうですな」太った壮年の甲種が頷く。
「しかしそこは兵の配置の最奧。テアに突破は難しいのでは?」
「なに、斥候を回り込ませるぐらい、わけがない」
「情報によれば同族の協力者がいるそうだが」
「裏切り者か……。捨て置けんな」一斉に甲種の猫の瞳がぎらつく。
 不穏な空気が漂い始める中、一番外見の年老いた甲種がのんびりと呟いた。
「馬のような喧しい乗り物では、同族に気づかれるやもしれませんのう」
 一通り意見が出そろったのを見て、末席の男が太子へ微笑みかけた。
「どう思われますか、王太子。貴国お得意の魔法とやらで対処ができるというのなら、我々としても安心してお任せできるのですが」少し低い、柔和さを装った声だった。
 太子は訥々と答える。「空を飛べる者はおりますが、集中砲火の危険がありますので……。それに魔力の動きは敵に感知されやすいので、魔法使いは斥候に向きません。本来なら兵士を使いたいところですが……」
 厳めしい顔つきの甲種が鼻で笑った。「それで同族に勝てると? 片腹痛い」
「……重々承知しています」
「将軍、そんなにいたぶっては可哀想でしょう、相手は人間なのですから」末席の男が上品に苦笑した。どうも彼は調整役を務めるつもりのようだ。「まあ、我々を使えば話は早いのですがね。そのような重要任務を任せて頂いて本当に宜しいのか、と先に伺いたくて。我々も善意だけで生きているわけではありませんので……」
「もちろん、すべてが終わった暁には」
 真面目に答えようとする太子を軽く手で制し、末席の男は強引に言葉を続けた。
「そう早く、事を終わらせないかもしれないですよ?」いたずらげな響きがあった。
 太子は目を少し見開いて男を見つめ、徐々に険しい顔つきになっていった。
「……戦を煽られるおつもりですか?」
「さあどうでしょう。――ひとつ、気づいてもらいたいのですが」男は長い指を顎へ添え、面白げに目元を緩めた。「貴方に許された選択肢は少ない。我々を使うからには、今後とも何らかの干渉を受けることになるでしょう。『覚悟はお有りか?』と伺っているのです」
 男の笑みが言う。『お前の行為は国賊に片足突っ込んでるんだよ』、と。
 いつの間にか周りの甲種たちは押し黙り、息を潜めて二人の様子を窺っていた。その中でパルフェ・タムール支部総司令だけが妖艶な笑みを浮かべ続けている。
 ルジェは確信した。間違いない、この末席の男がこの場を仕切っている。
 男の外見は人間なら三十過ぎというぐらいだろうか。ルジェからは背中側からしか見えないが、銀髪で背が高く、肩幅が広い。横顔から察するに甲種特有の人形のような美貌を持った男だ。彼が総統から全権を委任された使者なのだろう。
「お言葉ですが、閣下」ルジェは微動だにしない乙種の列からするりと抜けた。卓へ近づき、太子との間を断つように片手を差し入れる。「エンに裏切り者がいる以上、こちら側の情報漏洩も懸念されます。素早い処置がご賢明かと――」
 ルジェが男を見下ろした瞬間、炸裂音がした。眩い閃光が視界を白く染め上げる。
「なっ!?」
「閃光弾!!」目が眩む中、誰かが叫んだ。
 そのとき何者かが風のように円卓の上を駆け抜けていく音がした。
「てきしゅ……!」声が途切れると同時にぶつりと嫌な音がして、熱い液体が飛び散った。
「ひっ!」ぐしゃり。「うあっ!」ぶちり。「まっ……!」ぶつ。
「この殺し方、ルイレミぃぐ――」喉がつぶれる音。
 最後の叫びに視覚の戻りつつある目を見開いて、ルジェは息を飲んだ。
 円卓は血で溢れていた。座席には前頭部のみ割られた者、顔面を握り潰された者、首を引き抜かれた者。血を噴き出す死体たち。噴水のように噴き上がる血は、まるで――
 それらを凄まじい速さで生み出す黒い影が円卓の上を駆けてくる。見覚えのある血に染まった長外套。それは片手間に死体を量産して、円卓の端に立つ王太子へと迫った。
 とっさに王太子を突き飛ばしたルジェが長外套の前へ飛び出した。包帯の巻かれた大きな手が血を滴らせて眼前へ伸びてくる。
 それを横から伸びた手がしなやかに掴み、その場へ縫い止めた。
 ふふっ、と低いが耳に覚えのある笑い声がする。
「元気そうで何よりだね」末席の男が優雅に微笑んだ。「君が生きているとわかったときは本当に嬉しかったよ、『荒野の雨』」
「ら……」喘ぐようにルジェが息を飲む。
 外套の奧からくぐもった声がした。
「貴様――ルイ・ラトゥールか」
 そのとき頭上で凄まじい爆発が起こり、地下施設の天井がバラバラと崩れ始めた。
 滝のように流れ落ちる土砂と――大量の水。
 そして無数の銃弾が降り注いだ。

     ◆

 エン軍の補給線は大河へ続く支流に沿って続いていた。
 ロイは鬱蒼とした森を風に紛れて駆け抜け、人間はおろか軍馬や軍用犬にすら気づかれないよう野営の後部を探索した。兵士や魔術師の近くにはいないだろうと、更に西へ川を遡る。しかしフェルネットらしき要人を匿っていそうな天幕は見当たらない。
 そろそろ持ち場を離れるのも厳しくなってきた頃、支流脇の小高い崖の上に妙な文様のついた馬車が止まっていることに気づいた。ルジェから結界の大まかな形式を教えられていたロイは、すぐにピンときて崖を登り始めた。音もなくひらひらと小さな足場を飛び登り、見張りの兵士と魔術師を昏倒させると、一息で荷台へ滑り込む。
 広い荷台に椅子はなく、木製の箱のようだった。少女を監禁するための牢獄なのだ。
 片隅には淡い金髪の少女が泣き崩れていた。その傍らには彼女を守る騎士のように立ちはだかっている黒髪の青年がいる。
 その生真面目な顔つきを見て、ロイはいつものように茶化したくなった。
「あーあ、女の子泣かせちゃって。いーけないんだー」
「せっ、ロイ執行大佐!」リダーは青い目に緊張を漲らせて呟く。「どうして貴方が」
 それを聞いて、少女の縺れた金髪が動いた。泣きはらした小さな顔が上げられる。
「ろいさ、るじぇは……?」
 か弱いが澄んだ綺麗な声をした娘だ。初めて話すのに緊張もしていない。やはりルジェの言う通り、精霊として会っていたらしい。
 ロイは相手を怯えさせないよう、できるだけ親しげに答えた。
「あいつならピンピンしてるよ。今までにないぐらい疲れ果ててたけどな」
「ほん、とに?」少女は新緑色の大きな目を見開いた。「よかっ……」
 安心したのか、少女はそのままぼろぼろと泣き出す。
 そんな彼女を守るように、リダーは革手袋をした手でロイと少女の間を断った。
「なぜ貴方がここに……こちらへは派遣されないはずなのに」
「普通に考えてここらに当たりをつけるだろ」しれっと答え、ロイは右手が剣の柄へ触れるようにして腕を組んだ。「前歴が金融課って時点で疑っておくべきだったな、リダー。まさか例のちょろまかし事件が裏切り者どもの資金源だったなんて、思いもつかなかったぞ。そりゃ、全部バレる前に爆殺したくもなるわな」
「彼は自ら志に殉じたんです」リダーは厳しく睨んだ。「先輩でも、愚弄は許しませんよ」
「そのへんは相変わらずなんだな、なんか安心したよ」ロイが苦笑する。「お前みたいな不器用な奴を使うとは、あちらさんもよっぽど人員不足なんだな」
「僕は本当なら総統閣下の再審判を申し出るだけの役でした。……あんなことにさえならなければ」リダーは眉間に皺を寄せ、苦しげに言った。
「持ち前の正義感だけは使えたってか」ふうん、と小さく頷いて、ロイは相手を量るように見据えた。「それが、どんな正義でも」
「ランスヴァルド様は正しい行いをなさろうとしています!」
 反射的に気色ばんだリダーを見て、ロイはわざと嫌らしく詰ることにした。
「へぇ、お前の言う『正しい』ってなんだ? 戦争を起こすことか? いたいけな女の子を拉致監禁して血を採ることか? それとも、そうやってボロボロに泣かすことか?」
 ぐっと、一瞬リダーが喉を詰まらせた。「……すべて、必要なことなんです」
「必要、ねぇ」
「貴方たちだって彼女を殺して戦争を起こすつもりだったじゃないですか。それがより良い形で実現しただけです!」自分へ言い聞かせるようにまくし立てると、リダーは背後の少女へ警告した。「油断しないでください、フェルネットさん。吸血鬼及びテア軍は貴女を見つけ次第殺害するように命じられています。この男は、貴女を殺しに来たんですよ!」
「そんな……!」
 痛ましげな新緑の瞳が耐え難くて、ロイは目の前のリダーを睨みつけた。
「勘違いすんなよ、俺はルジェの頼みでこの子をテアへ連れてくだけだ」
「ああ、彼は魔術師でしたね。彼女の血が目当てなんでしょう」
 容赦のない言い方に、少女がいっそう激しく泣き出した。ぽたぽたと涙が落ちていく。
 ロイは思わず顔を顰めた。「ひっでぇ奴だな、おもいっきり泣かせやがった」
「ちっ、違いますよっ、彼女はもうずっと泣いててっ」
「る……るじぇはっ」二人の話を割って、少女が零れる涙を拭いながらロイを見上げた。「やっぱり、わたしの血が欲しいん、です、かっ?」
「いや俺に訊かれても……」
 ロイの呟きは少女に届かなかった。彼女はしゃくり上げながら続ける。
「ルジェ……優しかったんです。でも、本当は、わたしの血が欲しいだけで……」そこで彼女はぎゅっと目を閉じ、力いっぱい叫んだ。「――かっ、体目当てだったんですっ!」
「……はい?」ロイとリダーの目がそろって点になる。
「ルジェは違うってっ、絶対違うってっ、わたし、信じてたのにっ!」
 顔を覆って泣く少女へ、リダーは哀れみの視線を送り、軽蔑しきった声を出した。
「元からああいう男だったんですよ。飢餓状態の吸血鬼は本性が出ますから」
「リダーくんだって優しいけど、戦争をさせようとしてます!」
「それはっ」
 唇を噛むリダーを見ず、少女は俯いたまま弱々しく呟いた。「……もう、わたし、全部わからなくなってしまって……涙が止まらないんです」そしてしくしくと泣き続ける。
 暗く淀んだ室内の空気に、ロイは眉をひそめて赤毛を掻いた。
「いまいち状況が読めんのだけど……えっと多分、あいつが酔ったときのアレと同じだと思うんだよな。アレはさぁ、俺も鳥肌立つけどさぁ……」そこでロイは一旦考え込んで、言葉を探す。「長年ツレをやってるけど、あいつはベロベロに酔っ払っても嘘だけは言わんよ。だいたいさ、女の子はすぐ体目当てとか言うけど、そもそも魅力があるから血だのなんだのが欲しくなるわけで――」
「先輩、下世話です」
「潔癖な男は嫌われっぞ」リダーを牽制し、ロイは少女へ視線を戻した。「フェルネちゃんが思ってるような意味じゃないかもしんないよ? 俺と来てさ、本人に訊いてみようぜ」
「ルジェに、訊く……」か弱い声が少しだけ力を持った。
「残念ながら、それは無理です」リダーが力強く言い切った。厳しい顔つきのまま、青い目でロイを睨み付ける。「同盟会議の出席者はテアの王子もろとも全滅します。ランスヴァルド様が向かわれているのですから」
「はっ、そう簡単に俺たちがやられると?」ロイの目が一瞬で危険な色を帯びた。
 リダーは真剣な顔つきのまま、淡々と告げる。
「地下施設は大河の畔です。魔法使いが水を引き込めばどうなるかおわかりですよね? 荒野育ちの吸血鬼には泳げない方が多いそうですから、そう長くはかからないでしょう」
「おま、えっぐいことを……」堀に落ちたときのことを思い出し、ロイは絶句した。
 それを呆然と聞いていた少女が震えだした。髪を振り乱し、大きく首を振る。
「だめ――そんなの、だめです!」
 彼女が叫ぶのと同時、馬車の窓から大量の水が流れ込んだ。魔術師を昏倒させたため、結界が破られていたのだ。
「げぇっ!」
 ロイが即座に扉を開けると、そこからも水が流れ込んだ。水はロイとリダーを避けて少女を包み、するりと巻き取って崖下の川へと連れていく。
「待ってください!」リダーが馬車から飛び出し、ためらいなく崖を飛び降りようとした。
 それをロイが掴んで引き留める。革手袋に包まれた片手をねじり上げた。
「お前、わかってんだろうな。あの子を追って行けば、もう取り返しがつかないぞ!」
「放してください! 僕はとっくに裏切り者です!」リダーは尚も身をよじった。
「まだ確定じゃないんだ。黒精霊に意識を乗っ取られていたってことにすれば……」
「これは僕の意志です! 今会場に行ったら、彼女は殺されてしまうんですよ!」
 リダーが叫び、無理矢理掴まれた手をねじった。手袋が破れ、手が解放される。
 その手首にある大きな傷を見て、ロイが目を瞠った。
 若々しい手に不釣り合いな、引き攣れた丸い傷跡。まるで杭でも打たれたかのような。
「お前、この傷は?」詰問しながら、ロイは以前採血機関で服の胸元が裂けたときにも同じような引き攣れた肌が覗いたことを思い出す。あれも同じくらい古い傷だった。
 リダーは手首を隠すように掴んでいた。ロイがにじり寄ると、じりじりと崖の方へと下がっていく。「……子供の頃、人間にやられたんです」
「それで人間が憎いから戦争を起こしてやろうってか? アホかお前」
「僕は人間なんか大嫌いだ」苦しげな呻き声だった。
「その台詞、前にも聞いたけど」ロイは怪訝に呟く。「どうも実感が伝わってこないんだよな。今だってフェルネちゃんを助けようとしてるし。なのに戦争には賛成だとか、わけわからん。お前の言う人間って具体的にはどこのどいつなんだ? お前は誰を恨んでる?」
「それは……ランスヴァルド様が、みんな……」
 言葉を濁してリダーが俯く。青い目に暗い影が宿った。
「そのツラだよ。お前が『人間』って言うときは憎しみなんて欠片もありゃしない。辛気くさい、葬式みたいな顔してる。そういうのはな、『後ろめたい』って言うんだ。何があったか知らんが、戦争なんか起こしたって余計に罪悪感が募るだけだぞ!」
 答えはなかった。リダーはきつく口を引き結び、目を逸らしている。
 ロイは溜息を吐くと、手を伸ばしてリダーの両肩を掴んだ。
「なあ、お前の『死んだらどうするんだ』って口癖は、全部『生きていたい・生きていて欲しい』って言ってるんだろ? そんな奴が戦争なんか望むはずがない。お前の意志じゃないことはわかってるんだ。ここらでおとなしく手を引け」
 リダーは死に怯えている。自分だけでなく、周りのどんな相手へも同様に死を恐れる。
 ロイにはその恐怖が理解できないが、彼に戦争を荷担させてはいけないことだけはわかっていた。己のもっとも支えとする物事に逆らったとき、彼は心の中心を見失って、きっと終わってしまうのだ。ロイの長年の勘がそう告げていた。
「復讐なら他にやり様がいくらでもあるはずだ、今ならまだやり直せる。来い、リダー」
 顔を覗き込むようにして強く言うと、リダーの青い瞳がわずかに揺れた。
「僕は……」胸元を握りしめてリダーは低く呟く。「あの時、人間も近くの支部の同族も、誰も助けてはくれませんでした。……僕が混血だったから。ランスヴァルド様だけが助けてくださったんです。だから僕は、その恩に報いなければ……!」
 言い終わるか否か、ロイの手を振り切ってリダーが崖を飛び降りた。水柱が立つ。
「くそ!」泳げないロイは追うこともできず、歯を食いしばって崖の上から川を眺めた。
 そのとき遠くから爆音がして、目を上げた。
 暗い森の向こう、大河を超えた彼岸に、大量の土煙が上がっている。そこへ宙を巨大な大蛇が這うようにするすると伸びていくのは、大河の水だ。
 そしてエン軍全体が目覚めるようにざわめき始めた。
 ロイは鋭く舌を打ち、もう一度だけ足下の川を見て身を翻した。「……仕方ない、か」

     ◆

 止めどなく流れ込む水は広い穀倉の床の上を広がり、徐々に水位を増し始めていた。
 ルジェは床に腰を付けたまま呆然と彼らを見上げていた。
 水面には死体の血飛沫が注がれ、すぐに飲み込まれて薄まっていく。そこへさらに豪雨のような銃弾が注がれて、飛沫が撥ね飛び、辺りはかすかに霞んでいた。
 水への恐怖で錯乱した同族が昇降機に集う。開いた扉に飛び込もうとした瞬間、内側から放たれた何十発もの銃弾に穴だらけにされた。昇降機には三台の重機関銃と、大経口の軽機関銃を構えた人間たちが乗っていたのだ。ヴァルツの開発機関から技術を盗んだと思われる機関銃は、非力な人間へ同族以上の殺傷力を与えた。連撃する銃声と悲鳴が反響し、円蓋の中は混迷を極めていく。
 そんな喧噪を忘れたかのように、末席に座っていた銀髪の美男――吸血総統ルイ・ラトゥールは悠然と微笑んで、自分の胸元へ優雅に手を添えた。
「まずは素敵な『贈り物』をありがとう。君のおかげでこんなに大きくなれたよ」口調はかつてと変わらない。だがその声音は低く変化していた。「まさか人間を容れ物に使うとはね……僕か側近が近づいたら発動するよう、しかけていたね?」
 上目遣いで見上げる薄緋の瞳が鋭く光った。
 向き合う血塗れの長外套から、戸惑いを含んだくぐもった声が漏れ出る。
「なぜ、喰われぬ」
「不思議なことを言うね。君は黒精霊が何か知っていて使っているんでしょう?」
 皮肉げな微笑みに、長外套は低い声で即答した。
「『記憶』。あれは本来魔物に宿り、その死後に他の個体へ情報を移行させるもの。『理ある者』はその情報量に耐えられぬはずだ」
「そう。だから取り憑かれる前に、子飼いの黒精霊に自分の情報を移して放り出したのさ。君の子はおいしくいただいたよ。おかげで大分肉体が成長してしまったけれどね」
「解せぬ。なぜ貴様に黒精霊が扱える? 甲種といえど、あれは――」
「おや、知らなかったのかい?」ふふっと、ラトゥールが得意の小馬鹿にした笑い方をした。「僕はラトゥール。旧大公家の末裔だ。だからね……」
 瞬時にラトゥールが長外套との距離を詰める。薄闇の中を白く指の長い手が翻った。相手の外套を奪い取り、その覆面と幾重にも巻かれた包帯を引き千切る。
君と同じ・・・・なんだよ、ランスヴァルド・ルモルトン公!」
 強烈な蹴りが最後に入った。
 膝の高さまで溜まった水へそれ・・が倒れ込み、派手に飛沫が上がった。引き裂かれた包帯がひらひらと落ちる。
 破れた円蓋から月光が注いで水面に乱反射している。上下の光から照らし出されながら、のそりと起き上がったその姿に、ルジェは自身の眼を疑った。
 血管と筋組織の絡み合った肌、目蓋のない目、穴だけの鼻。頭髪はおろか睫毛すらない。人から肌を剥き取ったかのようなその姿は、どう見ても。
「魔物……!」
 まばたきも忘れて叫ぶルジェへ、ラトゥールが応えた。
「醜いよね。大公家だけに伝わる秘法の産物だよ。革命の機運を察知した彼らは、弱体化した一族の血を蘇らせるために魔物と交わったのさ」ラトゥールの声は侮蔑に満ちていた。「大公家では昔から繰り返されてきたことだよ。こうして生まれた第一世代だけが、黒精霊をその身に宿しても狂わず、飼い慣らすことができる」
 生憎、革命には間に合わなかったみたいだけど。とラトゥールは鼻で嗤った。
 ルジェは彼の美しい横顔を凝視する。今この男はなんと言った? 黒精霊を扱えるのは魔物との混血児だけだと。この化け物のような男と彼が同じ存在だと、そう言ったのか?
 ラトゥールは泰然とした笑みを浮かべたまま、円卓をぐるりと見渡した。そこにいた者の八割が死んでいるが、所々に無傷の者もいた。
「なるほど、今生きてるのが裏切り者ってわけだ」
 ひっと喉を詰まらせ、数名の甲種が逃げだした。穴だらけになった円卓に残ったのは死体と、平然と足を組んで座っているパルフェ・タムールだけだった。
 美女は頬杖をついて、にたりと嗤う。「私も命が惜しくてな」
「嘘ばっかり。やっぱり君も二十年前に殺しておくべきだったかな」
 溜息混じりにラトゥールが小首を傾げると、耳の横を弾丸がすり抜けていった。
「ラトゥール」ルジェは浸かっていた水から立ち上がった。「本当に、お前なのか……?」
「それ以外の誰に見えるっていうんだい? ちょっと君より背が伸びたからって、親の顔もわからないなんて。まったく、かわいくないんだから」
 冷ややかに一瞥する目付きが以前と同じだった。ルジェは複雑な心境になりながら、そのまま歩み寄ろうとし、目の前を飛び交う弾丸に足を止められた。ラトゥールがあまりに簡単に避けるので忘れていたが、この大経口の弾が頭蓋をぶち抜いたら即死だ。
 ラトゥールは彼へ背を向けてランスヴァルドへ近づいた。その顔をまじまじと見上げる。
「本当に醜いな……。自分が一歩間違っていたらと思うと、虫酸が走るよ」
 唾棄するような口調に、ランスヴァルドが瞼のない赤い眼でラトゥールを見下ろした。
「貴様と私、そして同族と人間の間に如何ほどの差がある」
「面の皮一枚ってところかな。君を同族とは呼びたくないけど」
「くだらぬ。そも、我々に種族としての名がないのはなぜか? 人間は逸話の『吸血鬼』と呼び、我々自身は『同族』と呼ぶ。この矛盾を貴様は考えたことがあるのか?」
「簡単なことだよ。僕らが『派生』したのが、おそらく結構な最近だからだ。だから僕らは独自の言語も宗教もない。礼儀作法から建築様式まで、全部人間の真似をしてきたのさ」
「そう。我々はかつて人間が魔物に対抗するために、魔物との混血によって作られた。人間を守り、盾となるべく生み出された兵器だ。それは今なお変っていない」
 ランスヴァルドが筋組織の絡んだ両手を広げる。
「荒野の対魔物前線を見よ。あれは我々だけでなく、人間をも守る血の砦だ」
 対魔物前線――それはおそらく、同族の誰もが気づかない振りをしてきたことだった。
 かつて魔物を封じてきたのは、荒野を上下から挟み込むようにして連なる巨大な波状山脈だった。皮膚や脂肪を持たない魔物は万年雪が積もる高山を嫌い、荒野に留まっていた。ただ一点、上下の山脈が錐状に触れ合う、最も山脈の低い箇所――旧道を除いて。
 荒野にヴァルツが遷移してからは、同族は自らを守るために上下の山脈の間へ扇状に軍を配備した。それが西の対魔物前線だ。
 ランスヴァルドは魔物そのままの姿で、ひどく理性的に告げた。
「ヴァルツが縮小の一途を辿るのは、魔物に捕食されるためでも、同族同士で殺し合うためでもない。前線というヒトの壁が魔物と人間を分かち、新たな同族を生み出さなくなったためだ。もはや兵制も維持できぬほど、ヴァルツは弱り切っている」
 重々しい声を躱すように、ラトゥールはひょいと身をすくめて銃弾を避けた。
「だから今、混乱を引き起こすっていうのかい? 五十年に一度の、魔物の繁殖期の前に」
 軽く投げられた言葉に、ルジェは耳を疑った。激しい焦燥が胸を過ぎる。そうだ、魔物の襲撃は多少の前後はあれど、約五十年周期。革命前の最後の襲撃が五十六年前だから、いつ襲ってきてもおかしくないのだ。けれどこの二十年は毎日が厳戒態勢で、その環境の中で育ってきたルジェは警報に慣れすぎ、逆に実感が薄かった。なまじ知識があるがゆえに、前線と同様に対処すればいいのだと思っていたのだ。
 だがランスヴァルドの企みが成功すれば、状況は一変する。ヴァルツの総統が外部の者に殺された前例はない。甲種たちはすぐさま次期総統の座を狙って闘争を始めるだろう。その混迷のさなかに、魔物が群れを成して襲ってきたら。それがヴァルツを呑み込み、波状山脈を越えて戦争真っ直中の人間たちを襲ったら。その目的が繁殖行為だったなら。
 おぞましさに鳥肌が立った。阿鼻叫喚などでは済まない。地獄が始まる。
 ランスヴァルドは赤い猫の瞳に理性を乗せて、ラトゥールへ頷いた。
「人間も愚かではない。魔術と統率があれば魔物に抗うこともできよう。それでは私の求める世界は完成しない」低い声が強く言い放つ。「我々は原初の混沌に還らねばならぬ」
「お断りだね」氷の刃のような拒絶が喧噪を引き裂いた。
 ラトゥールは美しい顔に壮絶な笑みを浮かべて言葉を叩き付ける。
「獣に堕するぐらいなら、いっそ滅んでしまえばいい!」
 子供のわめきにも似た声には、深い呪詛が刻まれていた。
 銃撃の音が響く中、一瞬の沈黙が生まれた。
 ランスヴァルドは牙の並んだ口から溜息のようなものを吐く。「貴様にならば通じるかと思ったが……矮小だな。こんな男がヴァルツの長とは。やはり我々は変わらねばならぬ」
「僕もそう思うし、嫌でもそうなるだろうよ。――君を殺したらね!」
 ラトゥールが水を蹴って飛び出した。腰の剣を抜き、鋭い斬撃を放った。
 ランスヴァルドは巨体を俊敏に動かしてそれを躱す。
「あの男を殺したことを、随分と根に持っているようだな」
「殺したのは僕だ」鋭い剣戟を繰り返しながら、ラトゥールが軽やかな足取りで猛追した。「君にはむしろ同情しているくらいなんだよ、ランスヴァルド。健気にも前総統に尽くしてきたのに、その功はすべてルイ‐レミィのものだ。……仕方ないよねぇ、その姿じゃ、絶対に英雄になんかなれないもんねぇ」
 嫌みたらしく言い放ち、ラトゥールがハハハと残酷に嗤う。それでも剣戟は止まらない。
 横薙ぎに払われた一閃をランスヴァルドが素手で受け止めた。
「私は彼に感謝している。血液配給によって個人が完全に監視されたヴァルツで、私の存在を隠すのに、彼ほどの適任はいなかった」声はあくまで理知的だった。
「混血児は血液摂取を必要としないからね。配給を横流しさせるにはうってつけの人材だ」
 ラトゥールは掌ごと切り裂こうと力を込め続けた。それを掴んだ手が許さない。へし折ろうとする力とそれを受け流す技術が拮抗し、刀身が弓なりにたわんでいた。
「彼は私の顔だった。他人と触れ合えぬ私を庇い、緩衝役を果たしてくれた。功績を全て奪われようとも、私はそれで構わなかった」ランスヴァルドの声に初めて感情が乗った。「だが、彼は私を裏切った」
「いいや、裏切られたのは彼のほうだよ。前総統は名前が知られすぎたルイ‐レミィを始末して、君を新しい誰かの影に置き直すつもりだったんだ」たとえば、僕とかね。そう呟く横顔にふっと影がよぎった。「そうなる前に彼は君を逃がそうとしたんだ。でもそれは失敗した。君は彼に裏切られたと誤解して――彼に黒精霊を植え付けた。君の常套手段だね、狂わせてから殺すのは」
 ルジェは無言で軍服の上から懐の黒精霊を握りしめた。ラトゥールが長年持っていたという黒精霊。もしやこれは、ランスヴァルドがルイ‐レミィに取り憑かせたものなのではないか。狂ってしまった彼を殺めたときにラトゥールが得たのでは。
 ランスヴァルドは剣から手を離し斬り払う切っ先から逃れて後方宙返りをした。ラトゥールから距離を取り、魔物の丸い目で彼を見据える。
「……嘘だ」呟きに動揺が透けていた。
「さあ、どうだろうね。僕は嘘つきだから、嘘かもしれない」
 薄く自嘲し、ラトゥールは猫の目を機嫌良く細める。
「ついでにもう一つ嘘をつこうか。昔、僕にはささやかな夢があってね」そう言って、ラトゥールは饒舌に語り出した。「それは小うるさくて平凡な友人が、平凡に人を愛し、平凡に子を成して、ごくごく平凡に死んでいくのを、高見の上から見物してやることだった。凡人の生き様を嘲笑い、心の底から妬ましがっていたかったのに」
 不意にラトゥールは視線を落とし、低い声で呟いた。
「君が、僕の英雄を終わらせたんだ」
 そしてくくくっと不安定に笑い出す。「――なんてね、それも最初の十年で飽きちゃった。今の僕が許さないのはね、君のおかげで二十年も余計に生きる羽目になったことだよ」
 上目遣いで薄緋の瞳が上がる。てらりと濡れたように光った。
「残るは二人だ。こんなくだらない復讐劇、さっさと終わりにしよう」
 言うが早いか、ラトゥールが飛び出した。銃弾を華麗に躱し、ランスヴァルドへ迫る。
 ランスヴァルドの手元が閃いて、小刀がラトゥールの剣を受けた。ジャッと剣同士が擦れ、火花が散る。
 そのとき丁度、ルジェへ壁際から声がかかった。「中尉、早くこちらへ!」
 ジャック・ユニ少尉が王太子を保護していた。二人とも無事のようだ。
「甲種の戦いに巻き込まれたら命はありませんよ!」
 かすめる銃弾を避けながら、ルジェは壁際へ駆ける。一度だけラトゥールを振り返った。銀髪の男は高らかに笑いながらランスヴァルドと斬り結んでいる。
 『残るは二人』だと言った。ラトゥールはランスヴァルドを殺し、復讐を完了させるつもりだ。そして軍も総統の地位も全部投げ出して、一人だけ自由になるつもりなのだ。この世の全てから解放されて。
 だめだ。これから魔物が動き始めようという瞬間に、どうしてあの男を失えよう。今の軍にはラトゥールが必要だ。彼以外の誰も、二十年もの平和を築くことはできなかった。
「……どうすればいい」焼け付くような焦燥感を胸に、ルジェは黒精霊を握りしめた。

     ◆

「どうしましょうね、中尉。完全に閉じ込められてますけど」
 腰まで水に浸かりつつ、ジャック・ユニ少尉が人間の兵士を斬り付けて問いかけた。
「お前の上司がやったも同じなんだろ、何か手は打ってないのか?」
 同じくルジェも寄ってきた人間を一刀する。どの兵士も顔色一つ変えずに死んでいった。内心気味が悪い。泣き叫べとは思わないが、まるで人形を壊すような手応えなのだ。
「残念ながら、僕たち地方在住官は泳ぎの訓練を受けてるんですよね」銃弾を避けて少尉が笑う。あまりの余裕に絶句するルジェへ、彼は同情的な目を向けた。「中尉は有望株だから是非とも助けたいんですけど……溺れる同族を助けるのって、危なくって」
 ルジェは早い剣捌きで銃弾の弾道を逸らしつつ、背後ので壁に向かっている王太子を振り返った。弾かれた銃弾が王子の頭上の壁へ突き刺さる。それも気にせず、太子は地下施設全体を覆う結界を破ろうと必死で何事かを呟き続けていた。
「あとどれぐらいかかりますか、王太子!」
「それが、突然精霊がいなくなってしまって」困り顔で振り向いた太子の顔の横を銃弾かすめた。「な、なにか、巨大な力が付近の精霊を集めてしまっているのではないかと……」
 彼が言ったのと同時、怒濤のごとく押し寄せていた水と銃声が止んだ。腰まで溜まった水がひいていく。だがすぐに違うと気づいた。足下の水が体を押し上げ、水面に人々を立たせているのだ。「!?」「なんだっ」「うわっ」そのまま水面はビシリと凍り付き、下から徐々にせり上がっていく。「これは……魔法?」「いえ、違うようです」氷の板は天蓋の穴から地上を目指し、地面と同じ高さまでくると止まった。
 地上には、草に埋もれるようにして地面にへたり込んでいるフェルネットがいた。彼女は呆然と彼らを見上げている。小さな顔はすっかり泣きはらして赤かった。
「ルジェ、コハクも!」彼女の声は喜んでいる。だが目元からは、ぽろりと涙が零れ落ちた。嬉し泣きとは様子の違う、無意識的な涙だった。「良かった……っ」
 その涙にルジェは胸を、いや胃そのものを槍で突かれたような気分になった。
「フェルネ……」太子もまた彼女を見てごくりと喉を鳴らした。
「? どうしたの、コハク?」
「いえ……貴女の顔を見たら、安心してしまって」とっさに取り繕う太子。しかしその顔は沈痛そのものだった。彼はフェルネットの傍らにしゃがみ込む。「貴女の泣き顔なんて初めて見ました。……そうですよね、貴女だって人間なのですから、涙くらい流しますよね。私は愚かでした。……笑顔の貴女しか知らなかった」白い頬へそっと触れ、涙を拭う。
 フェルネットは一瞬怯えるように身をすくめ、恐る恐る太子を見上げる。新緑の瞳は涙に濡れて揺らいでいた。その奥にはかすかな警戒心がちらついている。「……コハク?」
 そんな彼女を切なげに眺め、太子は微笑みにじわりと悲しみを滲ませた。
「貴女はもう、昔とは違うのですね……」
「何が違うの? コハ――」
「フェルネット」ルジェの低い声が二人を遮った。緑の視線を絡め取って引き寄せる。「丁度いいところへ来てくれた」薄笑いを浮かべ、手を差し出す。「こっちへ来い」
 フェルネットが彼の様子を窺った、その一瞬に、鋭い銃声が響いた。
「その人から離れてください、フェルネットさん!」
 ずぶ濡れになったリダーが人間たちを引き連れていた。エンの兵士は皆手に手に軽機関銃を構え、隊列を組んで彼らを取り囲んでいる。訓練の行き届いた動きだった。
 リダーは黒髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら肩で息をしていた。
「わがままはそのぐらいにしてください。何度も言いますが、貴方は命を狙われているんです。今度こそおとなしく確保されてもらいますよ!」
「だ、だってほっといたら皆――」
「貴女はこの武器が何かご存じないんでしょうが」リダーは威嚇するように声を抑えた。「吸血鬼でもこれで撃たれれば命はありません。どのみち彼らは全員死ぬんです、無駄な抵抗はやめて戻ってきてください」
 おろおろとルジェとリダーを見比べるフェルネットを、王太子が抱き寄せた。
 ルジェは無表情に彼女へ手を差し出したまま、隣で一足早く両手を挙げている少尉へ小声で話しかけた。「……お前らとアレはグルじゃないのか?」
「管轄が違うんですよ。僕はあくまで支部総司令の配下ですから」
「参ったな。ロイの話じゃ、虫も殺せないようなガキのはずだが……」
 口を動かさない話し方にもかかわらず、リダーは耳敏くそれを聞きつけた。
「僕が怖じ気づこうと関係ありませんよ、もう命令してしまいましたからね。この兵士たちは黒精霊の欠片を植え付けられています。吸血鬼も怖くないし、死すら厭いません」
 ルジェと少尉がそろって眉をひそめた。エン軍の規律のとれた指揮が兵士一人一人に植え付けられた黒精霊のせいならば、確かに納得がいく。自我のない兵士を操り人形のように扱う術があるのだろう。一人の意志で軍全体を手足のように動かせれば、確かに強い。そしてそれはもはや軍隊ではなく、一つの有機結束物だ。
「……この分だと、エンの上層部が軒並み乗っ取られているという噂も本当みたいですね」
 初めて余裕を失って、少尉が苦々しく呟いた。
「仕方ない」ぼそりと吐き捨て、ルジェは一瞬でフェルネットの元へ寄った。太子から彼女を奪い取り、悲鳴を上げる細い喉を掴む。「攻撃すれば娘を殺す」
「くるし……っ……るじぇ」ぽたりと熱い涙が手に落ちた。
「彼女を放してください」人質を取られてもリダーは取り乱さなかった。ただ青い眼できつく彼を睨む。「殺す気じゃないのは伺っていますよ、ルジェ‐ラトゥール中尉」
「それはどうだろうな。もう用済みかもしれない」
 平然と答えてみせると、腕の中でフェルネットが震えた。彼女は何かを言おうとしたが、喉が掠れて音が出なかった。ただぽとぽとと涙が零れていく。
 リダーは仇敵でも見るような目つきでルジェを見て、震える吐息をはいた。
「……撃ち方用意メイク レディ
 青かったリダーの片目が赤く光った。
 号令に応じて即座に兵士の隊列が組み変わり、包囲を狭めた。上中下と三段構えで軽機関銃を構えている。同族の跳躍力で飛び退いてもどれかには当たる計算だ。
「危害を加えれば一斉射撃です。噛みつくのもダメですよ、貴方は魔法使いですからね」
 言われずとも人前で噛みつくような真似はしない。殺害命令が出ているとはいえ、直接摂取は完璧に違法だ。人前で法を犯して窮地を脱しても意味がない。
 ルジェはフェルネットを押さえたまま、辺りへ視線を走らせる。同族はもう残っていない。このまま彼女を確保していても、一人ずつ吊し上げられて射殺されるだけだ。
 打開せねば。だが魔法は術式を組む間に撃たれるだろう。フェルネットや太子が精霊に命じるのも無理だ。二人の動きは遅すぎる。何か。何か敵の気を逸らすものはないか。
 ルジェは懐の玉に気づいた。ほとんど音にならない声で腕の中の少女へ囁く。
「フェルネット、ラトゥ……黒精霊を解放しろ」
 濡れた新緑の瞳が見上げた。「黒ちゃ、を?」
 頷いて懐の玉を取り出し、投げつけようとした瞬間、兵士がそれを撃ち落とした。
「っ!」
 玉は地面から氷の上へと転がっていった。追うこともできず、ルジェは舌を打つ。
「抵抗は無駄ですよ。彼らは僕と感覚を共有しています。反射神経も同程度まで上がっている。……あまり長くはもちません。暴走する前に、早く彼女を解放してください!」
 リダーの声は震えていた。術そのものが猛毒でもあるように、ガタガタと歯を鳴らしている。赤い目に浮かぶのは純然たる恐怖だった。まるで何か巨大な力に圧殺されるような。
 無表情で取り囲む兵士のうち、何人かの表情が引き攣り始めた。握把を握り直す者が現れ、引き金に構えた指が震え始める者もいる。瞬きをしない眼が乾ききっていた。
「早く!」リダーが赤い片目を押さえた。「もう僕にも命令を取り消せないんですよ!」
 引き金に力が込められようとしたとき、一迅の夜風が遠く甲高い声を運んだ。
 ……はははは……はは…………ひゃははははははは――!!
 狂った鳥ような笑い声だ。同時に銃声が連発し、取り囲む兵士の眉間を正確に狙撃した。風を巻き起こして駆けてきた黒服の一団が兵士たちの間をすり抜け、血飛沫を上げた。
「ひゃははははは、はは、ハハハハハハハ!!」
 特別けたたましい笑い声と銃声が夜闇に赤い影を引く。それは剣で兵士を次々と分断しては、片手で盛大に銃弾を乱射した。「ヒャーハハハハハハ!!」
「このバカ笑いは……」ルジェはフェルネットの眼を覆いつつ、嫌な予感に顔を顰めた。
 リダーが血相を変えて叫ぶ。「ロイ先輩――!?」
 同族数名を引き連れたロイが、敵から奪ったと思われる機関銃で人間を虐殺していた。右へ左へ弾を打ち込みながら剣を振るう。奴が盛大な笑い声をあげると、応じるように周りの同族も悦楽的に殺しを加速した。統率もクソもない、圧倒的な残虐さだった。
「誰だ、あのバカに飛び道具オモチャを渡したのは」自分が出撃させたのも忘れ、ルジェは呻いた。
「あれは一体……? なんだろ、すごく楽しそうで……」少尉は眼を泳がせて後ろへ下がった。自身を強く抱きすくめる。「――背中がゾクゾクする」
「引きずられるなよ、面倒だ」ルジェはあえて冷静な声をかけ、少尉を制した。「あいつは腹の底から戦闘を楽しむからな、つられるバカを量産しやすい」
 ロイとその周りで殺戮を続ける同族は、ただひたすらに死と破壊を求めていた。ロイの笑い声と興奮が、同族の根源的な殺戮欲求の制限を外すのだ。奴が参加した戦場は必ず狂戦士化した同族が暴走して、指揮系統をめちゃくちゃにする。西の前線では魔物を深追いして全滅する奴らが多発し、『死神』だと呼ばれていた。抑制させるはずの上官すら狂乱させてしまうため、やむなく前線を追い出されたのだとか。
 だが上手く使えば、ロイは同族全体の攻撃力を何倍にも底上げする。……上手く使えば。
 兵士の輪をぞくぞくと切り崩していくロイを、リダーは呆然と見ていた。
「そんな、先輩が……」その瞳は両目とも青い。
 ばたばたと人間たちが倒れていく。その血に混じって黒い何かが流れ出ていった。辺りに濃厚な血の臭いが立ち上り始める。
「ダメだ、手が震えるっ!」ジャック・ユニ少尉が苛々と巻き毛をかきむしった。「どうすればいいんでしょう、中尉!」
「知らん」ルジェは冷たく言い切る。「あいにく俺は一度もつられたことがない。今のうちに――」逃げるぞと辺りを見回したとき、少し離れた場所から氷の割れる音が響いた。
 見れば、ラトゥールの銀髪が氷にめり込んでいた。その頭を叩き付けた魔物の姿をした男の顔がこちらを向き、赤い眼がルジェを、その腕の中のフェルネットを見据えた。
 まずいと思う間もなく、ランスヴァルドが目前に迫っていた。とっさにフェルネットを放り投げ、足が届く範囲にいた太子を少尉へ蹴り飛ばす。
 敵の小刀が月の光に煌めいて弧を描いた。それを寸前で放った魔法の電撃が走り、ジュッと掌を灼く。嫌な匂いが漂った。投げ捨てられた小刀が地に突き刺さる。
 焼けただれた掌が顔を正面から狙った。避けられない――
 ルジェがのぞけった、そのわずかな隙間をほんの数滴の水が飛び込み、ランスヴァルドの瞼のない眼球の上ではじけた。
「ッ――!」
 敵がひるんだ瞬間、駆けきたラトゥールがその背へ鋭い突きを繰り出した。「終わりだよ」ルジェごと貫くかと思うような一撃は、ランスヴァルドに届かなかった。
「ランスヴァルド様……」
 血を吐く音がして、小柄な青年がランスヴァルドの背後で膝を折った。
 左胸を貫かれたリダーが剣と一緒に倒れる。
「ウィルッ!」ランスヴァルドが振り返り、リダーを抱えてラトゥールから飛び退いた。「だからお前は関わるなと、あれほど!」
 返事はなかった。
「……なぜもう少し待てなかった」彼は静かにリダーを氷の上へ横たえる。「すべての規律が壊されれば、お前が居場所に苦しむこともなくなったというのに」
「そんな世界が本当にありえると? 人の区別が複雑になって、差別が激化するだけだってわからないのかな」傷だらけのラトゥールがルジェから剣を取り上げた。一刀素振りし、感覚を確かめる。彼の額は血が滴り、左目を赤く染めていた。白い軍服もあちこちがすり切れ、泥と血で汚れている。不自然にえぐれた脇腹には赤い染みがあった。「僕らは擬態して生きていくしかないのさ。それができない君みたいなモノは、淘汰される」
「それは現状に支配された思考だ」ランスヴァルドは真剣に告げた。「我らは隣人を愛し、受け入れることができる。世界が変われば、魔物すら。我が母のように」
「君の母御は寛大なお方だったようだね」皮肉には抑揚がなかった。「普通は違うよ。魔物と交わるなんて普通の神経じゃ堪えられない。普通はさっさと狂ってしまうし、その行為で生まれたものを我が子だなんて認識できないんだ。狂乱したあげく自らの仔を手にかけようとして、返り討ちに遭うのがオチなんだよ。『普通』は、ね」
 ラトゥールは自虐的に笑い、薄緋の眼をぎらつかせる。
「君は狂気を信頼しすぎなんだよ。とっくに自分が狂ってることにも気づかないで」
「私は狂気に耐性がある」低く押し殺した声だった。
「いいや、あるのは親和性だ」僕もそうだからねと言って、ラトゥールは高らかに笑った。「区別がつかないんだよ。何が正しくて何がおかしいのか、何が許されて何が罰されるのか、何が賞賛され何が唾棄されるのか、自分じゃ判断できないんだ。元から理性なんてものはないのかもしれない。それでも誰かに合わせて生きて行かなきゃならなかったから、僕はヒトの形を保っていられたんだ。間近で僕を非難する眼が、僕を形作っている」
 彼は目の端でルジェを振り返り、一瞬、深く笑んだ。
「『理ある者』になれないからってその理まで壊してしまったら、僕らは何になるんだろうね。君は世界を救うって言うけれど……」くっと、笑みが粘ついた悪意を持つ。「本当は、ただ破壊したいだけなんじゃないの? 魔物としての、本能の限りに」
「否!」
 ランスヴァルドが吼え、氷を蹴った。
 ラトゥールもそれに応え、氷塊を飛ばして駆けていく。
 鋭い剣戟が走るも、ランスヴァルドは自身の剥き出しになった骨でそれを受け、撥ね返した。魔物の骨は剣より硬い。骨を避け、内臓や眼窩を狙うしかなかった。金属がぶつかるような音が繰り返され、血飛沫が飛び交う。ラトゥールの剣は確実に敵の筋肉や血管を削いだが、致命傷には至っていない。その証拠にランスヴァルドの体力には衰えが見られなかった。一方のラトゥールは明らかに息をあげ、徐々に動きが鈍っていく。
 目の前で繰り広げられる戦闘に、ルジェは手を出すこともできず歯を噛みしめた。二人の動きが速すぎて、魔法の援護ですらラトゥールの足手まといになるのがわかったからだ。せめて王太子とフェルネットを回収しようとしたとき、ルジェは多数の物音に気づいた。大河を越え、こちらへ向かってくる人間の足音。
 エンの全軍が侵攻を再開していた。
 ラトゥールもその音に気づいたのだろう。一瞬の隙が生まれる。
 その腕を筋組織と血管が絡んだ手が掴んだ。骨が折れ潰される音が響く。
「くっ――!」
 もがくラトゥールを引き寄せ、ランスヴァルドのもう一方の手が整った顔へと伸びる。
「貴様には総統として、もう少し働いてもらわねばならぬ」指先からどろりと黒い液体が滴ろうとした。「さすがのラトゥールとて、二匹は喰らえまい」
「……悪いけどッ」ラトゥールが必死に仰け反ろうとする。「それはこっちの台詞だ!!」
 ラトゥールのつま先が氷に落ちていた何かを蹴り上げた。
 黒い粘着物がランスヴァルドの顔に張り付く。
「お前はっ!」ラトゥールを手放し、ランスヴァルドがそれを引きはがそうとした。
「ははっ、さすがの君でも二人・・は胃もたれしちゃうかな?」
「待てッ」粘着物は彼の筋組織と血管の間をするすると入り込んでいく。「やめろ!」
 同時に変化が起こった。ランスヴァルドの背骨が歪に曲がり始め、筋肉が休息に衰えていく。骨格が痩せ、剥き出しの牙が黄ばんでいった。
「やめろ、やめろ、お前は――やっと君に還れたね、ランスヴァルド」
 魔物そのものの口から、ひどく柔和な声が零れた。

     ◆

 無数の足音は着実に近づいていた。川原の石を踏む硬い音から、草木を掻き分け、踏みしめる音へと変わっている。機械的に繰り返される集合音には一切の乱れがなかった。
 騒音を引き裂くようにフェルネットの高い声が響き渡った。
「どうしてなの、コハク!」
 ルジェが声へ振り返れば、小高い木の下でフェルネットが王太子へ詰め寄っていた。
「何で帰れないの? わたし、森に帰ればいいんでしょう? もう森から出ない、絶対に出ないから! ――ねえお願い、わたし、死にたくない! 死にたくないよ!!」
 彼女はぼろぼろと泣き続けたまま、太子の胸を叩いた。
 興奮する彼女を抱き寄せて、太子は感情を抑えた声で囁いた。
「フェルネ……。大森林は心を映す鏡です。心に影を抱えた者に、森は容赦なく牙を剥く。貴女は変わってしまった……我々と同様に……穢れてしまったのです」
 冷たい言葉はどこまでも優しく語られた。
 フェルネットは眼を見開いたまま、息すら忘れたかのように太子を見上げていた。その新緑の瞳からゆっくりと一筋の涙が零れ落ちた。月光に輝きながらぽたりと落ちる。
 彼女はこれから吸血鬼や魔術師、エンやこの世の全てを恨まずにはいられないだろう。そんな心で森へ帰れば、負の感情が反射し、幻覚や幻聴となって彼女自身を蝕んでしまう。
 彼女はもう普通の人間だ。そして普通の人間は、大森林で生きていくことなどできない。
 ルジェは今なお殺戮を続けるロイを振り返った。心の底から楽しげに剣を振るう赤毛の男は、エンの軍団にも迷わず突進していくだろう。そして果てるまで殺しつくすのだ。
 規律正しい足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
 ルジェは軍帽を目深に引き下げて口元を引き結んだ。
「ならば太子。先の約束は『不可』ということでよろしいですね? 当方も彼女の用は済みましたので」フェルネットを見ないようにして、二人へ歩み寄る。
 太子は痛切に少女を見下ろしてから、目を閉じた。「……はい。お願いします」
 フェルネットは涙で濡れほてった瞳で、ほうけたようにルジェを見た。
「ルジェも……わたしを殺す気なの?」
「言っただろう、俺は軍人だ。命令には従わなければならない」
 事務的に言い切ったとき、強い風が巻き起こって彼の軍帽を飛ばした。
 どこかから寄せ集まった水が空中に浮かび、渦を巻いて少女をとりまき始める。
「命令なんか関係ない。わたしはあなたの気持ちを聞いてるの!」
 澄んだ声が鋭い力を持った。
 風とも言えぬ圧力に抗いながら、ルジェは冷淡に答える。
「ならこう言えばいいのか? 小娘の生死に興味はない、と」
 フェルネットの小さな顔が歪んだ。瞳にじわりと涙がにじむ。
「……わたし、勘違いしてました。ルジェは本当は優しい人なんじゃないかっ……て」
「期待に添えなくて残念だ」
「――思ってもないこと、言わないで!」
 重い風が体当たりするように吹きつけて、ルジェは足へ力をこめた。辺りは吹き荒れる風と水滴で嵐のようになっている。雨雲もないのに紫電が宙を走り、地鳴りが響く。木々は反り返って軋みを上げ、草は千切れて撒き荒れていた。
「では、言わせてもらうが」叩きつけるような水滴に抗いながら、ルジェは無表情を守った。「客観的に見て、お前は死ぬしかない。今回の件でお前の力は人間たちに知れ渡った。たとえこのままテアに保護されようとも、お前を巡って幾度も争いが起こるだろう。そんな現状を理解しようともせず、まだ誰か善良なバカが助けにてくれると思っているのなら……」すっと息を吸う。「それは、甘え以外の何物でもない」
 フェルネットは俯いたまま、涙を堪えて立ち尽くしていた。
 一見無防備にも見える彼女へ、ルジェはせせら笑うように告げた。
「自分に非がないなんて言うなよ、フェルネット。お前は何をした? 何も考えずにのこのことついて来ただけだろう。無為は無実の証にはならない。怠慢だ」
 彼女の目元から零れかけた涙を、小さな手が拭いとった。
「……なんで涙が止まらないのかわかりました。わたし、わたし、ルジェがお城で血を吸おうとしたときから、ううん、その前からずっと――ずっと、怒ってたんだ!」
 新緑の瞳がルジェを射抜く。
「あの時まで悪い人と良い人って違うんだと思ってた。ルジェもコハクも良い人だって思ってた! ……でも、違うんだ。本当はそんなんじゃないんだ……」
 震える息を吸い、少女は目を閉じた。もう涙は零れなかった。
 彼女が眼を開けたとき、そこにかつての無防備な瞳はなかった。強かな意思が春に芽吹く若葉のようにきらめいている。噛み締めるように閉じられた口元が王太子と似ていた。
「わたし、間違ってました。わたしが生き残るには、もう……もう、戦うしかないんだ!」
 彼女が叫んだ瞬間、空気に軽い衝撃波が走り、ルジェの頬が痺れた。頬を手の甲でなでつけ、会心の笑みを浮かべそうになるのをこらえる。
 そうだ、それでいい。この娘はいつも正しい選択をする。
「もう優しい言葉なんか信じない。誰かに利用されるのも、誰かのために殺されるのも、絶対に嫌! わたしは、わたしを守る!!」
 彼女が叫ぶにつれて空気が冷えていき、頬にあたる水滴に氷が混ざり始めた。足元の草に霜が降り、凍って砕け始める。吹きつける風はなおも鋭く冷たくなり、耳元で轟音を上げていた。濡れた髪が風に攫われたまま、徐々に凍っていく。雷撃が走るたびに何度も視界が白く染まった。
 精霊の本質は水だ。それはこの世界のほとんど万物に含まれる。だからフェルネットを敵に回すことは、世界そのものを敵にするのも同じだった。
 彼女の周りを白い光が飛び交い始めた。圧縮された水蒸気が電離し、凄まじい熱を帯びているのがわかる。それはとても単純で、原始的な大魔法だった。
 光がルジェへ向かって放たれた。光の尾を引くそれが当れば、一瞬で焼け焦げるだろう。
 だが彼は避けなかった。予想通り光は寸前で曲がり、頬をかすって地に落ちる。痺れるような衝撃が走るも、威力は単純な破壊力にのみ置き換えられて、辺りへ雷撃が走ることはなかった。ただ地面に大穴が開いただけだ。
「どうして避けないの?」フェルネットは動揺を隠さなかった。
 ルジェは頬の血を拭い、舌先でぺろりと舐めた。
「フェルネット・ブランカの敵対意志および敵対行動を確認。速やかに対象の被保護権を剥奪し、防衛措置を行う」
 本当は、ルジェは殺害命令など受けていなかった。指令を受けたのはロイ他三十名の戦闘員のみだ。同盟の調印が成されなかった今、彼に彼女を殺すことはできないはずだった。
 しかし、正当防衛とみなされれば別だ。
 だからわざと彼女を激昂させ、自分から攻撃をさせるように仕向けた。
 フェルネット・ブランカが死ねば、全ては終わるのだから。
 少女が次の大魔法を放つより早く、ルジェは彼女の懐に飛び込んだ。
「ル――」
「悪いな、フェルネ」重い音がして、彼の手が彼女の腹に埋まる。
 くず折れる彼女をそっと抱え上げ、その髪を撫でた。「……いい子だ」癖のある柔らかな金髪が、血に濡れた彼の手に絡んだ。彼女の腹部にはじわじわと赤い染みが広がっていく。甘い血の香りがゆったりと立ち上り、辺りへ拡散していった。「ごめんな」
 白い額へ口付けしたとき、フェルネットの小さな心音が止まった。
「――二〇三四、対象の死亡を確認」
 低く呟き、ルジェは少女を抱いて少し離れた氷上にいるラトゥールの元へ向かった。

     ◆

 月光が青白く輝く氷の上で、ラトゥールはそれと向き合っていた。
「もう気は済んだかい? ラトゥール」
「なんのことかな」
 そらとぼけるラトゥールへ、老いた魔物の姿をした男が穏やかに諌める。
「わかってるんでしょう。復讐なんてなんの意味もないって――私が消えるッ――」
 男の声に雑音のような叫びが混ざった。
 それを何事もなかったように無視して、ラトゥールは薄く笑った。
「そうだね、別に何になるわけでもないしね。でも、僕は完璧主義だからさ」
「君は昔から――やめろ!――変わらないね」
「昔のことはいいでしょう。まったく、模倣物らしくさっさと上書きされればいいのに」
「彼を残したのは君だよ」男は剥き出た頬の筋肉を少しだけ動かした。「もう混ざっちゃって――塗りつぶされるっ――何がなんだかわからないけどね」
「最初はランスなんだっけ」
「そう、その次が彼。最後が君だ――私が消え――」
「嫌な組み合わせだなぁ」銀髪の生え際を掻きながら、ラトゥールが溜息を吐いた。薄緋の瞳が上目遣いに相手を見る。「……また僕に君を殺させるのかい?」
 男は目元の瞬膜をゆっくりと閉じ、首を振った。
「いいや。それだと君の復讐が終わってしまう――私が――悪いけど、君を満足はさせられないんだ。最初の計画通り、あの子にしてもらうよ。君はあの子だけは殺せないからね」
「それは僕の体で、でしょう」
「今はもう君でもあるんだ。君を喰らってあの子に殺されたなら……もっときれいな復讐劇になったんだろうけど。でも模倣物はあくまで模倣物で、本当の彼ではないんだよ。むしろ彼を殺した直接の原因なんだ」筋組織の巻いた赤い指で、男は自らを示した。「ねえラトゥール、君の分は『おれ』が背負うよ。だからもう、諦めるんだ」
「相変わらずお人好しだね。鬱陶しいったらないや」ラトゥールは皮肉げに、だが悲しげに笑った。「ほんと、ひどい男だ」
 魔物の赤い眼が淡々と歩み寄るルジェを捉えた。
「ルイ」頬の筋肉がゆっくりと動く。「君といられて嬉しかっ――」
 その瞬間、赤い眼に激しい意志が戻った。魔物の男は叫ぶ。
「――やめろ、まだ私にはやるべきことがある!!」
 ルジェは腕の中の少女を力が入りすぎないように抱きしめながら、すっと男を見た。
「ランスヴァルド」
 名を呼ばれ、魔物の男が一歩こちらへ踏み出した。だが次の一歩が出ない。見えない力に抗うように、全身が激しく震えていた。
 ルジェはラトゥールへ一瞬目配せし、彼が頷き返したのを見て言葉を続けた。
「あんたはあまりに多くを踏みにじった。未来の全てを守ろうとして、今の全部を潰そうとしたんだ。それが英雄の器だというのなら、その通りなんだろう。……俺は全ては救えないけれど……踏みにじられる者の一人として、あんたに抗う」
「やめろ」見開かれた瞼のない眼が、恐怖に瞳孔を細くする。
「俺はあんたが間違っているとは思わない。でも、あんたが潰そうとしたのは俺たち全員の可能性だ。今から続く本当の未来だ」
「私は世界を」喘ぐような声だった。「救いたいのだッ」
「俺が言うべきじゃないのかもしれないが」ルジェはそっと少女の首へ唇を寄せた。「自分なりに世界を救おうとしたあんたの志は……その妄執も含めて、確かに英雄だった」
 白い喉へ控えめな牙が触れ、ぷつりと赤い血が零れた。
「やめろッ!!」ランスヴァルドが駆け寄る。手を伸ばし――
 それが届くより早く、ルジェの前に大きな魔法図式が展開した。
 簡潔な記述式に漲る魔力が輝きを増し、ランスヴァルドの眼を灼く。
 光が一点へ収縮し、爆発的に流れだした。
 光の奔流にランスヴァルドが飲み込まれる。
 衝撃波の生み出す爆音の中、ひどく優しい声が届いた。
「――ありがとう、ルイ・ルジェ‐ラトゥール」
 光が消え去った後には、深くえぐれた氷の中に、少しだけ黄ばんだ骨が散乱していた。
 ルジェはその、人と同じ形をした頭蓋骨に触れて目を伏せる。
「……長らくのお勤め、お疲れ様でありました」
 そして傷だらけのラトゥールを振り返った。
「ラトゥール」自然と笑みがこぼれる。「お前が無事で――良かった」
 そうして、人間たちの戦争は火花のように終結した。
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