四章


 東部第三支部はテアの中央――王都ヴァーダの地下にある。
 街の高利貸しや娼館から繋がる地下施設は東部随一の要所だ。規模は小さいが地上の資源が豊かなので、最も利益率が高い――荒稼ぎの上手い支部だと聞いている。
 黒い混凝土に囲まれた通路を足早に歩きながら、ルジェは前を行く軍服の青年を眺めた。正確には、彼の肩付近で興味深げに顔を覗き込んでいる精神体のフェルネットを。
 彼女は今日も真珠色に輝いていて、とてもルジェの目を引く。ちょこまかと動き回られると無意識に目が追ってしまうので、おとなしくしていろと言い含めてあるのだが。
〔やっぱり『綺麗』かな。でも『可愛い』でもあるし……。あ、『綺麗可愛い』かも!〕
 一向に従う様子がない。特に支部へ入ってからは同族が一人現れるたびにきゃあきゃあと容姿を鑑賞している。きっとヴァルツでもこうだったんだろう。人前でも堂々と諫められるラトゥールがいない今、フェルネットは野放しも同じだった。
 ラトゥールは支部に着くなりフェルネットの体ごと隔離されてしまった。支部の者は人間慣れしているはずだが、もしものことがあってはと、ほとんど幽閉状態だ。
 おかげで色々と見て回りたいフェルネットはルジェについて回り、彼の胃痛をどんどんと悪化させてくれている。一人でうろつかれて厄介な話を聞いてくるよりマシだが。
 知らずついた溜息を聞き取り、案内役の青年が足を止めた。癖の強い茶髪と口元の黒子が特徴的な彼はジャック・ユニ少尉だ。人見知りをしない性格でとにかく愛想がいい。
「中尉、お加減が悪そうですね。あまり酷いようなら先に医務室へご案内しますが」
「気遣いはいらない。慣れている」
 東に進むにつれてルジェの胃は荒れていき、支部へ着く頃には胃痛が日常化していた。おかげでほぼ絶食状態だ。喰事のほうなど、最後に摂ったのがいつかもうろ覚えだった。それでも昨日まではフェルネットに反応してしまうのを誤魔化して、大げさに振る舞っていのだが、今朝からは痛みが洒落にならなくなってきて、気を抜くと背中を屈めてしまう。
「それよりも、引き渡しの準備は?」
「あと二時間は欲しいですね。何しろいきなりでしたから。情報が直前まで伏せられていたのと……」少尉は言い淀み、軍帽の下で視線を泳がせた。「なかなか人員が、ですね」
 言いたいことはわかっている。ルジェの階位が低すぎて、率いられる立場の者がほとんど居ないのだ。人員の減少で士官制へ切り上がった軍には兵士階級がなく、中尉の下は少尉と学生上がりの准尉のみ。けれど武官は卒業と同時に前線へ送られるので、戻ってきて支部へ送られる頃には少尉や中尉になっている。中尉のルジェが使えるのは極少数だ。
 そのうえ人間は公式の場に女を出すことを嫌うので、女性は使えないときた。男女平等の軍でも支部勤務は女性が多い。必然的に頭数が足りなくなったらしい。
「外交部の外へも声をかけてるんですが、まだ色よい返事が少なくて」そこで少尉は足を止め、並んだ扉の一つを開けてルジェを促した。「ブランカ嬢はこちらです。どうぞ」
 ルジェより早く真珠色の光が部屋へ飛び込んでいった。
〔聞いて聞いて黒ちゃ……あれ?〕フェルネットが室内を旋回する。〔いない?〕
 官吏にあてがわれるものよりも少し広い室内には、明るい直接照明とテア産と思われる木製の調度品が置いてあった。毛足の長い絨毯もヴァルツではかなりの高級品だ。
 フェルネットがしょんぼりとルジェのほうへ戻ってきた。腰かけるようにして彼の左肩の辺りに浮く。〔せっかくいろんな発見があったのに。早く話さないと忘れちゃうよ〕
「どうも準備が行き違ったみたいですね、少し待ちましょう。ああ、そうだ」扉を閉めて、少尉が手提げ鞄の中から荷物を取り出した。「時間が惜しいので先に確認をお願いします。こちらが中尉用の衣装でよろしいですか?」
 にこっと差し出された衣装に、ルジェは顔を引きつらせた。
〔すごい! じゃらじゃらしてるー!〕
 少尉が手配した礼装は、肩の房飾りや紐飾りが金色で、襟や袖口にも金糸が入っていた。一見、普段の軍服と同じ型をしているとは思えないほどごてごてしい。
「これは……ずいぶんな盛装だが、不要物が多くないか?」
 ルジェは礼装の胸元を飾る山ほどの徽章をつついて、半ば唖然と少尉を見た。そもそもこの装いは間違っているのだ。装飾は本来所属や階級を示すもので、こんなに片っ端から付けるものではない。これではどこで何をした何者なのか、わからないではないか。
 少尉は悪びれなく答えた。「一装用に将校章やその他、あらゆる勲章がつけてあります。見た目も煌びやかになりますし、第一、箔がつくので」『箔』の部分を無駄に強調された。
「断る」ルジェは鋭く返した。「階位を偽ったなんて知られたら、命取りになりかねん」
 睨みつける彼をきょとんと見返して、少尉は肩をすくめた。
「一見派手にしとけばいいんですよ。ここじゃみんなそうしてます。人間なんて見た目しか見てないんだから、大丈夫ですよ」
〔じゃらじゃらのルジェ、見たいなぁ。きっと綺麗ですよ?〕とフェルネットまで無責任なことを言っている。野次馬は黙ってろ。
 ルジェが気にしているのは人間への体面ではない。ただでさえ総統の養子なので、下手に動くと軍内部の反対派に目を付けられるのだ。ヴァルツから遠く離れた支部には、ラトゥールに追い払われた旧政権の有力者が多い。記憶が正しければここの総司令もその一人のはずだ。弱みを握られるような事態は避けなければ。
「絶対に駄目だ。どうしてもと言うなら、いっそ階級章なんて無しでいい」
「そんなことをしたら誰もついてこなくなりますよ。ただでさえ人員不足なのに――」
「なら俺一人で連れて行く」
「向こうは精導士をそろえてるんですよ? 十対一、この割合が古の盟約で決まっているんです。今回の場合、こちらは十名ですね」
 ルジェは顔をしかめて舌を打った。「テアには百人も精導士が?」
「まさか。最近じゃ貴族でも精導士はなかなか出ません。威嚇もあるでしょうが、貴人を特定されたくないというのが本音でしょう。血を隠すなら荒野ってやつです」
 隠したい人物となると……やはり、王族だろうか。
「その中に国王がいる可能性はあるのか?」
「ほぼないですね。王は伏せって長いですから」
「なら下っ端同士のやりとりに一中隊か……。無駄なことだ」
「無駄、ですか」
「まあいい。俺の仕事は引き渡すだけだ」今はな、と心の中で続ける。彼女が死んだら国王を相手に陳情役を務めなければならないが。「だからそんな仮装は要らない。どうせ人間に軍の階級なんかわからないだろう。階級章はなしだ」と、素早く飾りを取った。
〔ああっ、じゃらじゃらが! ……ルージェ〜〕なぜかフェルネットがふてくされた。
 少尉は困ったようにこめかみを揉んでから、渋々頷いた。
「……わかりました。でもウチの支部章だけはつけさせてもらいますよ。もちろん中尉も」
「わかった」
 そのとき、部屋の扉が開いて金髪の少女が現れた。女性の官僚に付き添われながら、淑やかにルジェへ歩み寄る。
「こんにちは、ルジェさん」さも清純そうに少女が微笑んだ。
 ラトゥールはこの支部へ着いた瞬間から、少年らしい口調も気味の悪い淑女然とした言葉遣いも止め、フェルネットそのままの所作を模している。これがまた凄まじく不快だ。
〔黒ちゃん、どうしたの、その服と……〕ルジェの肩からフェルネットが飛んでいった。自分の体の正面に浮かび、まじまじと見つめる。〔お化粧してる?〕
 少女の体は華やかに着飾られていた。豊かな金髪の一部を左右で結い上げ、残りを少女らしく背中へ流している。淡い夕日色の絹地には花びらのような薄い襞飾りがふんだんに施されている。胸元から首にかけては密な透かし編みで白く覆われていて、人間の形式通り喉元をさらけ出したようにも、同族の礼儀を遵守しているようにも見えた。革紐で締め上げられた細い腰は、少し力をかければそこを支点に折れそうだった。この女性らしい曲線を演出するために、着付係は相当な苦労をしただろう。衣装の袖と白い長手袋の間から覗く肌は充分な湯で磨かれたらしく、なめらかで、石鹸の香りがした。
 ラトゥールは艶やかな薄紅色の唇で無邪気な笑みを作った。
「どうですか、ルジェさん。わたし、きれいになりました?」
「清潔という意味でなら、その通りだ」
「あはは、中尉、そこはせめて馬子にも武装って言ってあげないと」
〔……二人とも、ひどいです〕「二人とも、ひどいです」しょぼくれたフェルネットの声と、微妙に笑いをこらえているラトゥールの声が輪唱した。
「冗談です。とても素敵ですよ、お姫様」少尉が格式ばってラトゥールの手を取り、椅子へと導いた。何気にそつのない男だ。彼は人好きのする笑顔で続ける。「でも、少し着替えが早かったですね。そんなに締め付けていたら辛いでしょう?」
「いいんです」ラトゥールは静か答えた。「最後くらい、綺麗な姿を見せてあげないとね」
 その瞬間、ルジェの胃が鋭く痛んだ。
 彼はラトゥールの言葉に誰かが反応する前に、事務的な声を出す。
「……準備は良いようだな。少尉、先に行ってくれ。すぐに行く」
 よくできた部下である少尉は、邪険に追い払ってもにこりとして従った。
 彼が扉を閉めた瞬間、ルジェは大きく息をついた。これで少しは胃が楽になる。
「君は本当に臆病だね」邪魔者がいなくなったと見るや、ラトゥールは冷笑を浮かべて巻き毛を後ろへ払った。「それとも、そんなに嫌われたくないのかな?」
〔誰に?〕フェルネットの声はいつも無防備だ。
「さあね。皆に、かな?」
「黙れ。本物のラトゥールでもないくせに、知ったような口をきくな」
 低い威嚇の声にラトゥールが黙った。フェルネットも驚いてルジェを見る。
 二人の視線に耐えられず、ルジェは目をそらして黙り込んだ。
〔ルジェ、今更そんなの、ひどいです〕
「いいや。これでいいんだよ」その声に微笑みが含まれていた気がした。
 ルジェは収まらない痛みを抑えるべく、服の上から胃を掴んだ。いつの間にか胸焼けまでしている。こんなに酷いのはフェルネットの血を飲んだとき以来だ。
「さあ、そろそろ行こうか。案内係が戻ってきてしまうよ」そう言って、ラトゥールは椅子から立ち上がる。緑の瞳が翳った。「ねぇルジェ、もう十分だよ」
 その言葉に促されるように、ルジェは音のない呪文を放った。対象に気づかれないよう改良された緊縛魔法はフェルネットを見えない糸でたやすく捕らえた。〔なに!?〕続けて結界を張る。机の上に小さな円筒状の赤い光が現れ、彼女を閉じ込めた。〔やだ、出れない!〕精霊を呼ばれる前に部屋全体を遮音し、魔力の干渉を抑える術を張り巡らせた。
 フェルネットが光の壁を叩いた。〔どういうことですか、ルジェ!〕
 荒い息をつくルジェに代わって、少年のような冷たい声が答える。
「ふふっ、愚かなフェルネ。誰がいつ、この体を手放すって?」
 フェルネットの動きが止まった。甘藍石のような透明な瞳が限界まで見開かれる。
〔うそ……。うそだよね、黒ちゃんっ〕
「嘘だと思うならそこから出てごらん。無理だと思うけど。ああそれと」ラトゥールは少女と同じ顔を残酷な笑みに歪めた。「人間のお城にはね、魔法で悪いことができないように、特定の精霊以外は入れないようになってるんだって。君みたいな野良精霊には、もう二度と会わなくてすむかもね」
〔黒ちゃ……!〕
「ばいばいフェルネ。……せいぜい、お幸せに」ラトゥールは手を振って立ち去った。
〔待って黒ちゃん! ルジェ!〕
 縋るような甘藍石の瞳に見据えられ、ルジェは一瞬、足が動かなかった。吐きそうになるのに耐えながら彼女へ背を向ける。
〔ルジェ!〕叫び声を重い鉄の扉が遮断した。
 ルジェは外側からも厳重に精霊よけの結界を張り、細く息をついた。こんなに結界を重ねても、すぐに効力は消えてしまう。その程度の魔力しかない自分が恨めしい。
 それでも最低丸二日間は、彼女はここから出られない。その間に彼女の体は死に、精霊は生まれ変わって記憶を失う。彼女へ要らぬ情報を吹き込む者はいなくなる。
 それでも自信が持てず、彼は傍らに立つラトゥールへ問いかけた。「本当に、いいのか」
「初めからそのつもりだったくせに」答える声はあっさりとしていた。
 精神だけでも生き長らえるのと、肉体と共に滅ぶのと。どちらが人の幸せだろう。
 本当は本人に選ばせるべきだったのかもしれない。けれどそれはあまりにも残酷な選択で、どちらを選んでも彼女を嘆かせるだけだろう。ならば自分が背負ってもいいと思った。
 ルジェは少女の肉体を横目で見る。その横顔は淡々と扉を見つめ続けていた。
 彼は胃の痛みを堪えて、何度も自分へ言い聞かせてきた言葉を繰り返す。
 この黒精霊はラトゥール本人ではない。――ただの模倣物だ。

     ◆

 日没後のまだ赤い空のもと、その黒尽くめの集団は影のようにテアの王城を訪れた。
 見張りの勇気ある兵士を除いて、城内に人の気配はない。皆息を潜め、あるいは逃げ出して、必死に時が過ぎるのを待っている。
 ルジェたちは静まりかえった城内を足音なく進んだ。蝋燭の炎が煌びやかな飾り柱の影を踊らせる回廊を歩きながら、ルジェはちらりと窓の外を見る。堀の水面が沈んだはずの陽光と篝火の光を映してちらちらと赤く輝いていた。彼の目には酷く眩しい光景だ。裸眼だからという意味ではなく、これだけの水を苦もなく湛えていられることが羨ましかった。
 堀の架け橋から覗いた水は美しく透き通っていて、手を伸ばせば白い敷石まで届きそうだった。それが深さ三十米だと聞き、距離感が狂う感覚に目眩すら覚えたくらいだ。こんなに大量の水の上に立ったのは人生で初めてで、不思議な感動と畏怖が湧き上がった。
 堀から手前に広がる庭園には色とりどりの花々が咲き乱れている。薔薇と思しき八重の大花や、花弁の反り返った百合か水仙のような花。美しく刈られた芝や樹木。名も知らない可憐な花々も含めて、全てが空想画のようだった。東部にはどこも緑が溢れていたが、ここの植物は人の手が入っているためか、花の一つ一つや緑の一部一部が強く目を惹く。
 ……そのわりに、屋内は普通なんだな。
 ルジェは視線を前へ戻した。眩い金銀をあしらったシャンデリアや、金箔を貼った曲線的な階段、大理石の柱や床そして壁。飾ってあるのは絵画や陶磁器ばかりだ。これなら実家のラトゥール邸と大して変わらない。その一方でヴァルツで好まれる生花の装飾は控えめで、主役は貴金属類だった。どこもかしこも無機物がてらてらと光っている。
 そして、人にも。と視線を脇へ落とせば、あれからさらに宝飾品で飾られた少女が楚々と歩いている。頭から耳、首、腕まで金や輝石がぶら下がり、肌には金粉がはたかれて、精神体のフェルネットにも負けないくらい燦然と輝いていた。どうやら人間が光り物を好むという話は本当らしい。石や鉱物でよければ、荒野でも良く採れるのだが。
 正面の大きな扉が内側から開く。途端に鼻を突いた異臭に、ルジェは目眩がした。
 広間には人間がひしめいていた。様々な年齢の男が百人。全員が正装の上から聖なる印を付けた首飾りを付け、手には数珠や聖水を持っている。
 臭いの原因はもうもうと焚かれた香だった。ルジェは即座にヴァルツの教会を思い出す。あそこもこんな臭いがした。同族用に控えめな香りだったが、元は同じなんだろう。
 人間と同族は教義の解釈が違えど、同じ神を崇めている。亡宗主国が改宗の対価として大公を叙爵したのだから、当たり前と言えば当たり前の話だ。革命時に過激な宗教家が大騒ぎして多くの教会が弾圧されたので、ヴァルツでは宗教そのものが廃れかけているが。
 だからこんな吸血鬼対策など、気休め以外の何物にもならない。
 はずだが、実際に同族は光にも臭いにも敏感だし、杭で胸を貫かれたら死ぬのだから困ったものだ。普通に斬られても十分死ぬのだが。
 むせかえるような人いきれの中で、扉から続く赤い絨毯の上だけが無人だった。その先の数段あがった先にある玉座は空だ。隣に立つ中年の男が補佐役の大臣か何かだろう。
 補佐の男は大仰にこちらを見下ろした。「大公の使いよ、よくぞ参った。名乗られよ」
「吸血総統――吸血大公ルイ・ラトゥールが子息、ルイ・ルジェ‐ラトゥール」
 広間にルジェの声は良く通った。元から静かだった人々の顔が緊張に固まる。息すらしていないのではないかと思うほど、皆一様にルジェを見ていた。
 すかさず実家で習った社交辞令を垂れ流そうとして、ルジェは少し考える。背後に控えた同族の手前、下手にへりくだるのはまずい。「……貴殿等の望みの品を届けに来た」
 『品』と言われて補佐の禿げた頭に血管が浮いた。剛胆にも睨み付けてきたが、口では忌々しげに「公子か……」と呟いただけだった。ラトゥールの読みは当たったようだ。
 ルジェは少女の淡い金髪をひとすくいして、蝋燭の明かりにさらして見せた。
「精霊の血を引く娘、フェルネット・ブランカ。紛う事なき本物だ」
「確かに」と人間たちが頷き合う。「母親に生き写しだ」
「異論がなければ誓約書に署名を」
「よかろう」
 補佐が頷くと使いらしき若者がおっかなびっくり寄ってきた。彼はルジェが差し出した誓約書を恭しく受け取り、慌てて離れていく。その間ずっと惚けたようにこちらの顔を凝視してくるのだから、対応に困るったらなかった。
 誓約書の行方を目で追っていくと、若者は玉座の横にある扉から出て行こうとした。
「待て」
 鋭い制止に、若者がびくりとすくみ上がった。
「当人の署名と確認できないものを持ち帰るわけにはいかない。目の前で調印してもらう」
「慮外な!」抗議の声を上げたのは補佐だった。「今上陛下は臥せっておいでである。そうであらずとも、貴殿らのような者を御眼に曝せると思うてか」
「とは言うが、我々は魔力の証文を受け付けない。血判なら匂いで個人が特定できるが」
「ふざけるな! 貴様らの前で血なぞ流せるか!」集団の中の誰かが叫んだ。
 ――だろうと思った。ルジェは声を出した男を正確に一瞥してから言葉を続けた。
「……となると、偽造にはよくよく注意しなくてはならない」
「貴様、我が国を愚弄しているのか」補佐が一歩踏みだし、低い声を出した。
 その動きでルジェは相手が武官――騎士だと見抜いた。本当の大臣はこの中にいるかどうかというところか。陳情役を務める際に少しでも楽になるよう、大臣の顔を覚えたかったのだが、それも難しいようだ。犬猫と同じで、人間の顔は見分けがつきづらい。
 相手を刺激しないよう、ルジェは落ち着いて答えた。
「せめて国王本人の署名であると保証が欲しい。大臣の署名を添えるか……」
 そこそこの地位の者なら誰だって良かった。精導士ならいざというときでも無碍に消されなくて最適だったが、この中の誰が本物かもわからない。
 そのときふと、この場で唯一ルジェ以外の者を見ている青年に目が止まった。鮮やかな金髪の彼は熱心にラトゥール、いやフェルネットを見つめていた。その真摯な琥珀色の瞳を見て、ルジェは思わず呟いた。「コハク殿?」
 届くかどうかという声量だったが、青年ははっきりと驚いてルジェを見た。年の頃は二十歳そこそこだろうか。見た目だけならルジェとそう変わらない。真正面から見てもその瞳はやはり琥珀色だった。間違いない。以前フェルネットが言っていた精導士の男だ。
 ルジェは足早にコハクへ向かった。途中で護衛らしき男たちに阻まれかけるが、あっさりと躱す。反射的に足を引っかけそうになるも、止めておいた。後々問題になっても困る。
 近くで見るとコハクは中性的な顔をしていた。男にしては骨が細く、胸が薄い体型だ。
「貴方は精導士ですね。署名が本物だという保証が欲しいのですが、よろしいですか?」
「は――」コハクは答えようとして息を詰まらせた。蒼白な顔で荒い呼吸を繰り返す。
 しまった、近づきすぎた。ルジェはすぐに過呼吸だと判断し、片手で彼の口を塞いだ。
 兵士が目の色を変えて止めようとする。しかし今度は同族たちがそれを抑えた。
「ゆっくりと、鼻から息を吸ってください」ルジェは仕事柄こういった事態に慣れている。相手が混乱から戻ったのを確認し、手を離す。「落ち着かれましたか?」
 コハクは白い顔で頷き、息を整えてから兵士たちへ告げた。「おやめなさい。配置へ戻るのです」優男然とした声だが不思議な芯がある。それから彼はルジェへ向き直り、「保証をお約束しましょう」と呟いた。年の割に落ち着いた所作だった。
 コハクは国王の署名を受けて戻ってきた誓約書へ筆を走らせると、ルジェへ手渡した。
 そこに名前はなかった。ただ『テア国王太子』とあった。
「これは……失礼した。フェル――彼女から貴殿のことは精導士とだけ聞いていたので」
 さすがにこの場に王族がいるとは思っていなかった。強力な精導士とはいえ、あえて居なくとも良かっただろうに。そんなにフェルネットの安否が気になるのだろうか。
 王太子は白い顔のまま小さく微笑んだ。「非礼を詫びるのはこちらです。公子殿のお言葉はごもっともなものばかりでした。あの子のみならず、私まで助けて頂いて……」
「原因は当方ですので」
「あ、それもごもっともですね」素の声だった。「それでも礼を言わせてください。あの子を無事に保護していただき、ありがとうございました」
 無事に、か。
 ルジェは皮肉げにならないよう注意して笑みを作った。そのまま身を翻し、扉へ向かう。
 ラトゥールの横を通り過ぎようとしたとき、小さな手が伸びて彼の腕を掴んだ。
 振り向きざまに飛びつかれ、頬に柔らかな唇が触れる。耳元で声がした。
「さようなら、ルイ」

     ◆

 支部へ戻ってもルジェの胃痛は治らなかった。
 しかもフェルネットを隔離した部屋は精霊の攻撃を受けて、結界がぼろぼろに綻びかけていた。慌てて彼女を自分の部屋へ移し、より複雑な結界を張り直して監視している。
〔ひどい! 黒ちゃん、あのままわたしの体を取っちゃうつもりなの!?〕フェルネットは荒れに荒れていた。〔女の体なんか嫌だって言ってたのに、代わりの体が見つかったら出てくって言ってたのに、ひどいよ。黒ちゃんのばかっ、いじわるの人でなし!〕
 城から戻って三時間。語彙の少ないフェルネットは延々同じ罵倒語を繰り返している。
 ルジェはそれを黙って聞き続けた。本当はどこかへ逃げ出したかったのだが、精霊がすぐに結界を崩すので身動きがとれないのだ。彼女が口を開く度に胃が痛む。時計の針が進むごとに苛立ちが溜まる。その原因が自分自身にあることがさらに苛立ちを助長させる。それらを必死で押さえ込んで、ルジェは厳しい顔で黙り続けた。
〔黒ちゃんなんて、黒ちゃんなんて……〕フェルネットが叫んだ。〔もう、大っ嫌い!〕
 バン! と激しい音がして、ルジェの拳が壁を殴った。黒い壁面に亀裂が走る。
 フェルネットがびくりと身を竦めた。
「……それ以上あいつを罵倒するのはやめろ」手首を引き抜いてルジェが壁を睨む。
〔こっ、これはわたしの体のことです〕フェルネットは震えながらも、怯えに負けなかった。〔黒ちゃんがルジェのお父さんでも、わたし、怒りますからねっ!〕
「それでも俺は許さない」
〔なんでルジェが怒るんですか、黒ちゃんを手伝ってるからですか!〕
「お前は事情がわかってないんだ」
〔何も教えてくれないのにわかるわけないです! もうもうっ、ルジェのばか! 頑固!冷血! 吸血鬼!〕怒りの矛先がルジェにすり替わった。フェルネットは結界の中で地団駄を踏む。〔もういいですっ、わたし、ここから絶対に出るもん。わたしだってちょびっとは白い子なんだもん。きっとがんばったら自力で魔法も使えるもん!〕
「だめだ!」怒鳴り声が響く。「お前はここにいるんだ。絶対に、今晩だけ・・・・はっ……」
 勢いで口が滑った。慌てて閉じるも、もう遅い。
〔今晩?〕フェルネットが急に静まった。そして矢継ぎ早に問いを繰り出す。〔今晩何があるんですか?〕〔明日ならいいの?〕〔わたしの体に……黒ちゃんに、何か起こるんですか?〕〔答えてください、ルジェ!〕〔ルジェ!〕〔ルジェ!!〕
 ルジェは目を逸らして黙り込んだ。ただただ胃が引き絞られるように痛かった。
〔お願いです、怒らないから……言ってください。ねぇ〕彼女の声は急速に小さくなり、最後は囁きになった。〔どうしてルジェはそんな辛そうな顔をしてるの……?〕
 半ば悲劇を予感した瞳が彼を見上げていた。
 ……ここまでだ。
 ルジェは胃の中の痛みを押し出すように、ゆるゆると息を吐いた。
「……あいつは今晩、お前の代わりに死ぬんだ」
 フェルネットの表情が止まった。
「軍の意向だ。人間同士の戦争を引き起こすために、お前の死が必要なんだ。俺は軍人だからいくらでも詰ってくれて構わない。だから……あいつだけは責めないでやってくれ」
 痛々しい静寂が落ちた。
 フェルネットは怒らなかった。そんな気力はないようだった。彼女はただ悲しげに俯く。
〔……ルジェはそれを知っていて、黒ちゃんをお城に引き渡したんですね?〕
「ああ」
〔ずっと知ってて……ここまで連れてきたんですか?〕
「そうだ」
〔初めから、全部――〕
「わかったうえでやってきたんだ!!」
 もう一度ルジェの拳が壁に埋まった。混凝土の欠片を握り込むと、刺さればいいのに全て粉々に砕けた。本当は自分を殴り殺してやりたかった。覚悟などとうにしていたくせに、ずっと騙し続けたくせに、最後の最後でしくじるとは何だ。全部貴様がやったんだ。任務も情も体面も、全てを両立させようとして貴様が導いた結果だ!
「くそ!」行き場のない怒りで更に腕をふるうと、今度は鉄の扉に当った。重い鐘のような音が鳴り、中央がへこむ。同時に扉が激しく閉まった。――――激しく、閉まった?
 一泊の後、扉を開けてルジェは絶句した。
「よ、よう。一ヶ月ぶりだな、ルジェ」
 そこにはよく見知った、そして今最高に遭いたくない赤毛の男が立っていた。
「ロイ……」
 扉の外にはへっぴり腰になったロイと、その後ろに隠れるようにして縮こまっている小柄な文官の青年がいた。二人の葡萄酒色の腕章にルジェの血の気が引く。
 結界で封じていたはずだった。誰にも扉は空けられないし、音も聞こえないはずだった。フェルネットとのやり取りに気をとられているうちに、精霊が結界を破っていたらしい。
 ルジェが何も言えないでいると、ロイはわたわたと手を動かしながらにじり下がった。
「ちょい待て、これは誤解だ。俺たちは決して盗み聞きしてたわけじゃなくてだな――」
「そうです、任務で来たら偶然『あいつを罵倒するのはやめろ』って聞こえてきただけで」
「ちょ、おま、ばっか黙ってろ!」
「うひゃう、じぬ……」ロイに首を絞められて、新人の顔が青くなった。
「――ロイ」ルジェは気の抜けた声で同期の名を呼んだ。「……軽蔑してもいいか?」
「すみませんでした聞いてました本当にごめんなさ」
「盗み聞きしたあげく誤魔化すような男を友に持った覚えはない。今すぐ帰れ!」
 問答無用で扉を閉じようとすると、隙間に素早く足を挟まれた。
「なんだよ、今日はえらくつれないなぁ」ロイはとぼけて足を更に捻りこんだ。「そう怒るなって。お前と俺とは共に臭い飯を食い、同じ寝床で夕べを迎えた仲じゃないか」
「確かに武官校の学食は不味かったし、寮の寝台は二段組だった」ルジェはロイの足どころか蝶番に皹が入るのも構わず、扉を押す。「が、それとこれとは関係ない!」
「はいはいそーですねっ、と!」閉じる寸前で、かっとロイの手が扉に挟まれた。そのまま鮮やかに押し返される。「――で。今、誰と話してたんだ? 一人だったよな?」
「独り言だ」
「そのほうがよっぽど心配だっつーのっ」扉を叩き開けてロイが部屋へ押し入ってきた。軍帽の庇をひょいと上げてルジェを見る。「えらくやつれたな。死にそうな顔してるぞ」
「胃の痛みで死ねるなら、とっくに死んでる」
「はは、内臓はなかなか鍛えられないもんなー」ロイは止める間もなく机に近付いた。
〔うわあ、真っ赤な髪。食べたらピリピリしそ――きゃっ〕
 机に腰掛け、ロイはフェルネットの真横を軽く叩いた。「確かこの辺だったんだけど、なんもないな」首をひねって何度も叩く。
 その手からフェルネットが逃げ惑う。〔た、助けてルジェー〕さっきのやりとりも忘れて叫んでいる。当っても通り抜けるだけなのだが、気分的に怖いらしい。
「で、ルジェ。問題はお前だ」ロイは急に手を止めて、ルジェを振り返った。「俺の目を見ろ。お前、何が見えてるんだ?」
「何も」ルジェは慌てて目を逸らした。突然の強襲から解放されたフェルネットが、ロイの近くをくるくると飛び回り始めたからだ。奴は半分結界に踏み込んでいるので、フェルネットはやりたい放題だった。それが嫌でも目を追わせる。
 ロイは諭す声で言った。「あのな。お前の声は誰かに聞かせるモンだったし、眼も一点を見てた。この辺な」丁度フェルネットの前で人差し指を回す。つられて彼女の小さな頭が回った。「酒臭くもないし、薬物ってわけでもないだろう。……何があったんだ?」
 真摯に声を落とされて、ルジェは黙り込んだ。
 やはり、誰かに密告されたのだろうか。支部ではできるだけフェルネットを無視してきたが、不自然だったのだろう。同族は本気で耳を澄ませば微妙な心音の変化も聞き取れる。常時気にする者はいないが、一度疑われたら心の中など筒抜けも同じだ。
 ロイはさりげない仕草で剣の柄をいじっていた。背後の出口には新人が張っている。
 駄目だ。どう考えても新人を突き飛ばして扉を開けるまでに剣が飛んでくる。
 ルジェは腹をくくった。「……精霊の、ようなものが見えるようになった」
 苦渋の滲んだ声へ、ロイはぽかんと呟いた。「せいれい、って、何だっけ?」
「先輩、アレですよ。ほら魔法とかのアレ!」
「ああ! アレかぁ!」意を得たりと手を打つロイ。同族にはこの程度の知識だ。「なるほどー。お前、昔っから重度の魔法オタクだったもんなぁ」ロイは遠い目になった。「そうかあ、そんなに見たかったのかあ……アレが」
〔……ようなものとか、アレとか、ひどいです……〕結界の中でフェルネットが項垂れた。
「勘違いするなよ。俺が今関わっている件ぐらい知ってるだろう? 精霊の娘の血を飲むと、精霊が見えるようになるという――」
「おま、ヤっちまったのか!」
「ちげぇよ。無理矢理飲まされたんだ。傷なんか一つもつけてない」
 〔気絶はさせましたよね〕というフェルネットの声は無視した。
「今日引き渡した娘は本当のフェルネット・ブランカじゃないんだ。体は本物だが、中に黒精霊が入っていて、本人の精神はそこの結界に隔離してある」
「まじ?」ロイは机に座ったまま身を引いた。「それってお化けじゃん!」
〔生きてますよー!〕フェルネットが小さな拳をぶんぶんと振り回した。
 ルジェはロイにこれまでの話を簡潔に語った。
 一通り聞き終えると、ロイは「一応、筋は通ってるんだよなぁ」と呟いて、じーっと彼の顔を見た。「でも証拠がなぁ、俺たちには精霊が見えないからさ。その辺の精導士をつかまえれば手っ取り早いけど……軍にゃ、ヴァルツにしかいないんだっけ?」
「ああ。テアになら沢山いるだろうが、ほとんどが城の中だ」
「そっかー」そのまましばらく考え込んだ後、ロイはあっさりと話を切り上げた。「まあいいや、お前は保留だ。先にこっちの用事を済ませよう」
「用事? この件で来たんじゃないのか?」
「いや、……あー……非常に言いにくいんだけど……」
 ロイは急に言葉を濁して赤毛を掻いた。丁度フェルネットがいる辺りで、彼女は慌てて肩へと逃げた。そこへ今度は肩を揉む。頭へ逃げれば首を振る。奴は体をほぐしているだけなのだが、ルジェにはふざけているようにしか見えなかった。根が敏感なんだろうか。
 言いにくいと言ったわりに、ロイはあっさりと告げた。「総統閣下に黒判定が出たんだ」
「はっ?」意味がわからなかった。
「まだ確定したわけじゃないんだけどな。お前が謁見した日。あれを最後に一切表に出てこなくなったらしい。ちょうど上が再審判をしてたところだったから、発見が速かったんだけど」そこでロイはちらりと扉の前の新人を見た。「調べによると、お前に会う前に執務室の調度品を一回り大きい物に買い換えてるそうだ。それで聞きたいんだが……、あの時、何か気づいたことはなかったか?」
「いや、特に何も……」言いながら、ルジェはあの時の状況を思い出した。「部屋が暗かったし……ラトゥールはいつも通りだった。いつも通り椅子に座って人形を――」
 ひょいと放り投げられた人形を思い出す。いつもはあんなことはせず、そのまま大事そうに抱えていたはずだ。なぜあんなマネをした? 転がってきた人形の首と、欠片が散乱した床。あのとき自分はそれに踏み止まって――ルジェはろくに養父へ近寄らなかった。
 一瞬、偽者という言葉が浮かぶ。だがあれは確かにラトゥールだった。長く会っていなかったが、それだけは間違えないだろう。何も違和感はなかった・・・・・・・・
 ルジェは『それ』に気づき、慌ててロイへ訊き返した。
「調度品を変えたということは、机や椅子も大きくなっていたのか?」
「だろうな。ご丁寧にまったく同じ素材や飾り付けだったらしい」
「俺はそれに気づかなかった。いつも通りあいつは椅子に納まっていて、なんの違和感もなかった。それは、あいつの体が――」すっと胃の辺りが冷えた。「崩我か」
 同族の精神が崩壊したとき、肉体は大きく形を変える。四十年以上姿の変わらなかったらトゥールが今更まともな成長をしたとは考えにくい。
 ロイは気遣わしげに首を振った。
「わからない。お前の他に会った奴がいないんだ。総統は雲隠れしちまったし、隠蔽工作をした秘書長は捕まらない。必要な指示は所在不明の電話でかかってくるから、まだ大丈夫だと思うが……。ただ、一つ不可解な目撃証言が見つかった」ロイの目が鋭く光った。「総統は一度、意識不明のフェルネット・ブランカを見舞いに病院へ行ってる。その時、少女の体から飛び出した黒い粘着物……おそらく黒精霊が、総統の手に貼りついたそうだ」
 ルジェは目を見開いた。
 黒精霊には一つだけ心当たりがある。だが、あれがフェルネットから飛び出したというのがわからない。あれはどう見てもラトゥールの人格で――
 けれどあいつは一度も自分がラトゥールだとは口にしていない。ルジェが勝手にそう思っただけだ。もしかすると自分は、とんでもない勘違いをしていたのでは。
 あれは、本当はラトゥールなどではなく……。
 ゆっくりと机の上に視線を落とすと、フェルネットはおろおろと口元に手を当てていた。
「本当か、フェルネット」ロイたちの前であることも忘れ、問いかけた。
〔だ、だって黒ちゃんが、ルジェには秘密だって……〕
「フェルネット」鞭打つような声が出た。「答えろ、何があった!」
 フェルネットは身をすくませ、ぎゅっと目を閉じた。
〔わ、わたしを攫った人が、わたしに黒い子を入れたんです。それが病院でいきなりラトゥールさんに飛びついて。入れ違いにラトゥールさんから黒ちゃんが出てきたんです〕
「入れ違いに……」ならあの黒精霊はラトゥールで合っている。もう一体いるのだ。
〔わたしは黒い子が入ってるうちは体に戻れなくて。今も黒ちゃんがいるから――〕
「黒精霊は新たな体を得たとき、一ヶ月かけて宿主の意識を浸食するという。宿主が赤目録なら、おそらくはもっと早く……宿主の精神は崩我する」
 辞書を読み上げるような声しか出なかった。感情を忘れたように心の中が白い。
 ロイが眉をひそめた。「じゃあ総統閣下は今頃、誰かに操られてるのか?」
 ルジェは頷く。それでも信じられなかった。あの男が終わる? ばかな。ありえない。
「参ったな」ロイは赤毛をガシガシと掻いた。「甲種の中でもあの人はめちゃくちゃな強さだ。ヘタしたらうちの部隊が全滅するかもしれん。それだけならまだしも、乗っ取った奴が何を企んでいることやら……」
〔わたしを攫った人は戦争をするつもりでした。きっと、本物のラトゥールさんもそのために動かされてるんです〕
「お前を攫ったのはエンだったな」ルジェは低く呟く。「どいつもこいつも戦争か……」
〔ルジェ!〕フェルネットが突然叫んだ。〔黒ちゃんを助けに行きましょう。黒ちゃんはその為にいたんです。ラトゥールさんが終わってしまったとき、静かに殺されるために〕
 小さな甘藍石のような瞳を、ルジェはじっと見返した。
「俺にお前を……ラトゥールを救えと?」
〔私だって死にたくない。それに私が死んで戦争が起こるなんてもっと嫌。今ならまだ間に合うんです、助けてください、ルジェ!〕
「……!」その言葉を言われたとき、一時おとなしかったルジェの胃が激しく痙攣した。
 背を丸めて胸元を握りしめた彼の肩をロイが掴む。「どういうことだ、ルジェ?」
 ルジェはロイへフェルネットの言葉を伝え、続けて言い足した。
「軍の計画ではもうすぐ彼女の肉体は殺される。宿る体がなくなれば、黒精霊は消える」
「簡単に言おうや。その子の体を救い出して、総統と会わせればいいんだろ?」ロイは気楽に言った。「いいぜ、安全な対処法があるならそっちを選ぶのが俺の主義だ。場合によっちゃ、総統の黒判定も覆せるかもしれん。七一ウチが総統を殺すのは、やっぱまずいしな」
 そこでやっと、それまで黙って話を聞いていた新人が口を挟んだ。
「先輩、本気ですか? ばれたら任務妨害罪に問われますよ!」
「おや? 正義感クンのわりには消極的だな」ロイの声はからかっていた。
「そりゃ、罪もない女の子を犠牲にするなんて許せませんけど……でも、人間だし」
 煮え切らない様子の新人へ、ロイが首をかしげる。
「お前、ほんとに人間嫌いだったんだな。変な奴」
「嫌いというか、関わり合いたくないというか……」
 語尾を濁す新人を置いて、ロイが両手の指を一本ずつ立てた。「一対一、あ、その子も入れたら二対一か。――で、お前はどうするんだ、ルジェ?」彼がいないとフェルネットと話すこともできないと知っていて、こういう言い方をする。本当に嫌な男だ。
「……行く」不機嫌がそのまま声に出た。
「嫌なら来なくていいんだぞ? オヤジさんのこと、そう好きでもないみたいだし?」
「好き嫌いとこれは別だ。行くっつってんだろ」
「イヤイヤ来られてもなあー」とロイはそっぽを向く。わざとらしいったらない。
〔ルジェ……〕フェルネットが透き通る瞳を煌めかせ、変わらない無防備さで見ている。
 ……ああくそっ。
「――俺だってな」口が勝手に動いた。「俺だって本当は助けたいに決まってんだろうが! つべこべ言わずに行くぞ!」
〔ルジェ!〕ぱっとフェルネットの顔がほころんだ。〔ありがとう!〕
「もっとカワイク言えないもんかねぇ。ま、お前が可愛くても気持ち悪いだけだけど」
 歯を見せて笑う友人を睨み付ける。完全な八つ当たりだが、無性に腹が立つのだ。
 あれだけ痛かった胃があっさりと治ったのも、腹立たしさに拍車をかけた。

     ◆

 テアの王城。その最も高い塔の上で、少女は影と対峙していた。
 露台へ続く大窓から月光が注ぎ、彼女の足下を照らし出す。石畳には首を千切られた死体が転がっていた。一つ二つではない。総勢三十の死体が流した血で、辺りは一面の血溜まりと化していた。
 月光は血を黒く見せる。だから床からずるりと這い上がったかのようなその影は、血と同化して闇そのものに見えた。頭から覆った長い外套は隈無く血に汚れ、包帯が巻かれた指先からは止めどなく返り血が滴り落ちている。覆面の奥から覗く猫の目は瞳孔を最大まで開いて、丸く光を反射していた。
 少女は静かに微笑む。
「三十年ぶり、と言えばわかるかな。ランスヴァルド」
 一瞬、影が動揺を示した。「貴様は……。なぜ、お前が」
 微笑みを浮かべたまま、少女はゆっくりとしゃがんだ。衣服の裾が血に染まる。
「ラトゥールは執念深い男なのさ。報復すると決めた相手は絶対に逃がさない。それがたとえ、自分自身だったとしてもね」足下の死体から剣を取り、少女が立ち上がった。「君のせいでその予定も狂ってしまったけどね……。でも、そのおかげでこうして再会を喜ぶことができたんだから、悪くはない話でしょう?」
「くだらぬ。貴様などただの妄執。あの男の欠片にすぎぬ」
「そして君の欠片でもあった。もうずっと昔のことだけどね」
 そう言って笑みを一つ深くさせ、少女は自らの喉へ刃をあてがった。

     ◆

 ルジェたちが城へ忍び込むのは思ったよりも簡単だった。軍の派遣した暗殺者が既に進入していて、警備は崩されたうえ、結界も偽装されていたからだ。侵入者に殺されたとおぼしき守衛の様子や、それがまだテアに気づかれていないことなどから、相手が進入して間もないこともわかり、ルジェは不謹慎ながら少しだけ胸をなで下ろした。
「殺す必要があったんでしょうか……」結局ついてきたリダーが守衛の死体を見て呟いた。
「さあな。それより急ぐぞ、リダー」
〔こっちです。三人とも早く〕
 フェルネットの案内で東棟の尖塔へ向かう。蔦の巻いた石壁をよじ登り、最上階の露台へたどり着いたとき、むっと甘い血臭が漂ってきた。少女ひとりの血量を遥かに超えた匂いに、ルジェは鳥肌が立った。
 床には無数の死体が転がっていた。だがそれよりも彼の目を釘付けにしたのは、部屋の中央で喉を掴まれているフェルネットの体だった。宙づりにされ、苦しげに呻いている。
〔黒ちゃん!!〕
 少女を片手で持ち上げている者は、頭から被った長い外套と覆面で、顔はおろか姿もよくわからなかった。さらに指先まで幾重にも巻かれた包帯が神経質なほどに露出を断っている。それらは全て血に汚れ、濡れ光っていた。
 ルジェは即座に剣を抜き、ラトゥールの首を掴む手へ斬りかかった。手首ごと落とす、そのつもりが華麗に足を捌かれて、見事に避けられた。体勢を立て直す間もなく蹴りが飛んできて、彼は間一髪飛び退いた。速い。
「同族か……」ルジェは苦々しく呟く。暗殺者には人間を使うと思っていた。テアに疑われるようなことがあったら厄介だろうに、あそこの支部は何を考えているのか。
「いいじゃないか、やることは変わらんだろ」ロイがすらりと剣を抜く。その目は鋭く光っていた。「あの子を回収して速やかに撤収、だ」
「先輩、待ってください!」焦った声がした。リダーは露台で足が竦んでいるらしい。
 新人の制止も聞かず、ロイは長外套へ駆けた。懐へ潜り込んで横へ一閃。更に追撃する。
 しかし敵は素早く、外套の端も斬らせない。ラトゥールを抱えたままひらひらと後退し、ロイを翻弄する。それでも連撃するロイに業を煮やし、長外套は少女を放り投げた。合わせて懐から小刀を取り出し、ロイの剣戟を受ける。
 ルジェはラトゥールが壁に叩き付けられる前に受け止めた。
 ついてきたフェルネットが自分の顔を覗き込む。〔大丈夫、黒ちゃん? 痛くない?〕
「な……んで、君らが」ラトゥールの声は掠れていた。「逃げるんだ、早く!」
 しかしルジェは動けなかった。傍らにあったそれに気づいてしまったからだ。
 暗い部屋の一角には、死体の生首が山のように積まれていた。その首のいくつかは不自然に髪がずれている。いや違う、かつらを被っていたのだ。
 月光を返す彼らの地毛を見て、ルジェは呆然と呟いた。「まさか、あれも同族……?」
 部屋中に転がる死体は、どれも巧妙に人間に偽装した同族だった。ずれた鬘の下から覗く地毛はどれも銀髪だ。黒髪が圧倒的に多い同族の中で、特権的な意味を持つ色。
「この死体は全員……甲種か」
「なにィッ」敵と切り結んでいたロイが生首の山を一瞥する。
 その隙を突いて、長外套がロイへ凄まじい蹴りを放った。
「ぐ――」真正面から胸を蹴飛ばされ、ロイの体が勢いよく宙を飛ぶ。
 そのまま背で窓を突き破って、塔の外へと落ちていった。
「先輩!」
 次の瞬間には、長外套はルジェの目の前にいた。月光に小刀が艶めいた。
 とっさにラトゥールを投げ飛ばしたのが隙となり、ルジェは胸を斜めに切り裂かれた。焼け付くような痛みが襲い、短く呻く。フェルネットの悲鳴が耳を突いた。
 翻る切っ先が自分の首を狙った。〔だめ――!〕痛みに抗いながら、ルジェは呻きに混ぜて短い呪文を放った。
 鋭い風が巻き起こり、長外套を切り裂く。顔を覆った外套が落ちたが、それでも覆面とその下に巻かれた包帯で顔はわからない。ただ赤い目だけが見えた。
 だが相手はそれでルジェの顔がよく見えるようになったらしい。
 剣先が鈍り、くぐもった声がした。「ルイ‐レミィ……?」
 同時に淡い金髪がルジェの視界を埋めた。
 止める間もなく長外套の手が伸びて、ルジェの前に分け入ったラトゥールの、いやフェルネットの顔を正面から掴んだ。そのまま黒い何かをべろりと剥がし、床へ叩き付ける。
 フェルネットの体から力が抜け、その場に倒れた。
 長い金髪を掴まれて彼女の体が連れ去られるのを、ルジェは力を振り絞って止めた。少女を掴んで必死に抱き込む。痛みで力加減が上手くできない。
 彼女の身が裂ける前に長外套が手を離した。部屋の出口を見て、途端に身を翻す。素早い動きで露台を駆け抜け、ひらりと塔の下へと降りていった。
 不思議に思う間もなく、ルジェは気づいた。塔の中を無数の人間の足音が駆け上がってくる。テアが異変に気づいたのだ。
 逃げなければと思った瞬間、腕の中で少女が身じろいだ。
「ん……」真珠色の睫毛が揺れ、鮮やかな緑色の瞳が顕わになる。無防備にルジェを見上げ、彼女は澄んだ声で呟いた。「ルジェ……?」
 こんな時にもかかわらず、ルジェは彼女の瞳が新緑の色だったことに気づいた。ラトゥールのときは油断のない目つきが影を落として、もっと暗い緑に見えていたのだ。精神体のほうは透けていたために甘藍石のようだと思っていた。
 フェルネットは惚けたようにルジェの顔を見ていたが、はっと我に返って床で血に浸っている黒精霊へと駆け寄った。漆黒の粘着物のような物が血の中でどろりと凝っている。
「どうしよう、このままじゃ黒ちゃんが……」触るに触れず、フェルネットは手をこまねく。それから頼るようにルジェを振り返り、目を見開いて叫んだ。
「ルジェ、血が!」
 彼の胸からはとめどなく血が溢れていた。左肩から反対のわき腹まで斬り付けられた傷は骨まで達し、押さえた手の間をぬって熱く甘い液体が流れていく。その度に体が冷えていき、足が力を失った。頭に霧がかかり始めているのがわかる。
 その場へ膝をついた彼へフェルネットが駆け寄った。
「――ルジェ!」悲痛な、澄んだ綺麗な声だった。
 いいや、今まで散々聞いてきた声だ。頭の中でそう思い直す。
「来るな」急に粘つき始めた口を無理矢理動かして、ルジェは少女へ警告した。
 しかし彼女は構わず傍らに膝を突いた。その一挙手一投足がルジェの目を引く。白い首元が輝いて見えた。よくない兆候だ。そうやって惹かれること自体がまずい。
「大丈夫ですか……?」心配そうに覗き込んだ小さな顔は、今にも泣きそうだった。
 甘い花のような香りが鼻腔をくすぐる。これまで気にならなかったその香りが、辺りに充満する血の香よりも濃厚に、蠱惑的に感じる。喰歯がうずいた。だめだ、それだけはだめだ。必死に彼女の酷い血の味を思い出そうとするも、記憶が霞んで出てこなかった。
「寄るんじゃ、ない」
 押し返そうと二の腕に触れた、その感触に手が止まる。
 柔らかい。少し力を入れただけで壊れてしまいそうな……脆くも愛しい人間の身体。
 今まではどうやってこの身に触れていたのだったか――

     ◆

 するりと大きな手が伸びて、少女の頬に触れた。優しく肌を撫でた指先が零れようとする涙をぬぐいとり、すっと離れる。
 美しい指先につられて少女が半ば無意識に目で追うと、彼は涙を舐めて微笑んだ。
「……ルジェ?」
 弱々しい月の光が彼の瞳孔を柔らかくほどいていた。その目は普段の厳しく鋭いものとは違い、甘く夢見るようだった。形の良い唇が美しい弧を描いて、穏やかに微笑んでいる。彼の整った顔立ちが初めて見せた表情に、少女は息も忘れて魅入った。
 彼の姿を見慣れているつもりだった少女は、己の体が示す感覚に驚いていた。胸が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。薄紫の瞳に吸い寄せられる心地になる。それでいて鳥肌が立つほど怖いのだ。瞳孔の大きくなった猫の瞳は、その奥の真っ黒な虚無を覗かせていた。
 彼は優美な手つきで少女の髪を梳いた。地肌に触れる感触が恐ろしく優しい。甘い微笑を浮かべたまま、彼は囁いた。
「お前は可愛いなフェルネ」慈愛に満ちた目がひたと少女を見ていた。「こんなに震えて。本当は俺が怖いのに、必死に慕ってくれている。頼りにしてくれてるんだな、嬉しいよ」
「や、やめてください……ルジェ、変ですっ」
 耳に髪をかけようとする手を少女は慌てて押し返した。その手を軽く握られ、今度は親指の腹で爪先を一つ一つゆっくりとなぞられる。
「変か。そうだな、その通りだ」にっこりと彼は笑った。「お前はいつも正しい。そうやってなんの衒いもなく真実を言うから、俺はいつも吊し上げられている気分だった」良く響く声を少し下げ、ささやく。「ひどい女だ」
「……ごめんなさ」少女が目を伏せかける。
 その小さな顎を彼の手が掴かみ、顔を上げさせた。
「褒めてるんだよ。お前が正してくれたから、俺はまだ自分を許せる。お前のおかげだ」
「でも、わたし何もできなくて。今だってルジェ、怪我して……」
「どうすればいいか、か?」言い募る彼女の口を指先で封じ、彼は笑みを一層深く優しくした。その口元から覗く控えめな八重歯は、鋭く尖っている。「何をすべきか、お前はわかっているはずだ。……おいで、フェルネ」
 彼の片手が少女の細い腰を抱く。力の入らない彼女をそっと抱き寄せ、彼は甘く囁いた。
「いい子だ」
 鋭い牙が少女の首筋に当たる。
 バカン! と陶器の割れる音がして、彼の体がぐらりと傾いた。
 同時に降ってきた大量の水に少女は目を瞬かせる。
 彼の背後には、小柄な青年が割れた花瓶を持って立っていた。リダーだ。
「不潔です! ああもう、これだから吸血鬼は!」彼はひどく憤った様子で瓶を投げ捨て、気を失った彼を少女から引きはがした。呆然とする彼女をきっと睨みつけ、厳しく叱咤する。「貴女も貴女ですよ、飢餓状態の吸血鬼に近づくなんて、死にたいんですかッ!」
「だって……」少女は力なく答え、すぐに何かに気づいて息を飲んだ。首筋を守るように手で抑え、大粒の涙を零し始める。「ルジェ、優しかったんだ、も……」
 ぼろぼろと泣く少女。彼女の涙は頭から被った水と一緒に絨毯へと落ちた。そのまま絨毯の上を転がって、血溜まりに凝った黒精霊の元へと集まると、それを丸く包み込んだ。
 リダーはそれに気づかず、腕を組んだまま思案げに部屋の扉を一瞥した。
 塔を駆け上がる人間の足音が近付いている。
 溜息をついて少女の傍らへ跪くと、彼は手巾で涙を優しく拭いた。
「仕方ないですね。本当は僕は、こんなことまでするはずじゃなかったんだけどな……」
 リダーは渋々と手巾を開いて斜め半分に折った。そして少女の口へ当て、きゅっと縛る。
「貴女にはエン国まで来てもらいます。ランスヴァルド様がそう、お望みですから」

     ◆

 ルジェが目を覚まして最初に見たのは、黒い混凝土の天井だった。
 東部第三支部の医務室だ。そう思った矢先、胸の傷が痛んで顔を顰めた。
 同時に顔の横から伸びた手が血液包を口へぶち込み、問答無用で血を流し込んできた。
 むせ返って飛び起きようとしたが、手足が動かない。拘束されているのだ。咳で傷が恐ろしく痛む。手当てはされているようだが、今にも傷が開いてしまいそうだった。
「あれだけ出血したのに錯乱しないなんて、さすがですね」
 さして感心のない声がしたほうへ首を巡らせると、寝台脇に癖の強い茶髪の若者がいた。案内役のジャック・ユニ少尉だ。艶ぼくろのある口元に相変わらず愛想の良い笑みを浮かべている。が、手足を拘束された状態で見上げると不安になる顔でもあった。
 少尉は彼の意識が確かだと見るや、さっさと拘束をはずした。
 ルジェは傷に響かないよう慎重に上体を起こした。
「何がどうなって……? フェルネットは?」
「攫われましたね」少尉はさらりと答えた。「僕らが回収できたのは貴方と赤毛の七一の方と、そこで玉になっている黒精霊だけです」
 絶句するルジェを気にせず、少尉は寝台脇の台から黒い玉を手に取って振ってみせた。透明な球の中で黒い液体がたぷんと揺れる。玉そのものも柔らかいようで、沙盆玉のようだ。この膜は水か? ならば魔法? だが術式が見当たらない。どうなっているんだ?
「フェ……彼女が攫われたと言ったな」渡された玉を検分しながらルジェは訊いた。
「ええ、エンに。リダー書記補佐が裏切ったんですよ。彼はエンの潜伏工作員だった可能性が高いですね。ブランカ女史はもうエンの手に落ちているでしょう」
「リダーが?」ルジェは驚いて少尉を見る。なぜそう言える、そう続ける前に彼は告げた。
「今朝、エンはテアへ侵攻を開始しました。既に国境線を破り、テア西部を進軍中です」
 この意味がわかりますよね、という笑みを添えられた。
 ルジェの手から玉が落ちた。今朝侵攻した? ならば今はいつの何時だ、どれだけ気絶していた? そう思って時計を確認すれば、〇九三五。日付は変わっていない。いや、人間の感覚では次の日の朝か。エンの動きが速すぎるのだ、いくら彼女を……精導士量産の手段を手に入れたからといって、即日戦争を始めるなど。ほとんど奇襲ではないか!
 フェルネットは――……フェルネットはおそらく、死ぬよりも残酷なことになった。
 ルジェは奥歯を噛み締めて動揺を隠した。「ロイ……執行大佐は」
「無事ですよ。相方さんと共犯の疑いがあるので、取り調べを受けてもらっています。なぜあんな場所にいたのかも、じっくりと訊かれているでしょう」
 あんな場所とはテアの王城か。そう考えてルジェは一つの疑問に気づく。
 彼は慎重に声を出した。「……一つ訊く。あの後、テアが俺たちを助けたのか?」
「彼らは貴方がたに気づいていないでしょうね。我々の回収の方が速かったですから」
「あの甲種の死体も?」
「ええ」
「えらく手際がいいな」
「そうでしょうか?」けろりととぼけられる。
「あのとき――塔の中を駆け上がってくる人間の足音を聞いた。それより早く到着したとして、俺達を回収するのはともかく、あの死体の山まで処理できたとは思えない」
「彼らにはちょっと足止めされてもらいましたからね」
「だから、手際が良すぎるんだ。まるで知っていて泳がせていたようにしか思えない。俺たちの意図、すべてを」ルジェは声の温度を下げた。「……この支部の総司令は諜報部の出だったな。前総統の懐刀だったはずだ」
「パルフェ・タムール支部総司令閣下にあらせられます」
 パルフェ・タムール。前総統の愛人だったという噂がある女だ。ラトゥールの大粛正を生き延びた数少ない左派でもある。抜け目のなさで有名な女傑のはず。
 厳しい視線を送るルジェへ少尉はにこりと笑いかけ、壁にかけられている彼の軍服の襟元から支部章を取った。ひっくり返せば、小さな機械がついている。
 ――やられた。
 そう思う間もなく、少尉は懐から取り出した録音再生機の電源を入れた。雑音の中、はっきりとした声が流れ出す。『お前は本当に可愛いな――』
 その後に垂れ流された顔を覆いたくなるような言葉の数々に、ルジェは胃の中にあるものではなく、自分自身の血を吐きそうになった。おぼろげな記憶が蘇る。そうだ、あのとき自分は極度の貧血で、自制が利かなくなっていて……彼女を。
 「お熱いことですね」と少尉はにやにやしている。
 言い訳したくなるのをぐっと堪え、ルジェは平静を保った。睨むのだけは忘れない。
「……なるほどな。ここの奴らは全員、工作員か」
「人間社会で活動するには必要な技術ですから、適切な配置だと思いますよ」
 少尉は否定はしなかった。ただ薄ら笑いを浮かべている。
 その顔が仮面にしか見えなり、ルジェは顔をしかめた。気味の悪い男だ。おそらく見た目通りの物は一つもないだろう。階級も年齢も、性格ですらも。
「総統の人格を模した黒精霊なら、使い道はたくさんありますからね。黙って持ってきてくださるならそれに越したことはなかったんですが……これではね」そう言って少尉は玉をつつき、上目遣いでルジェを見た。「魔法使いさんでも解けないんですか?」
「これは魔法じゃない」
 少尉が片眉を上げる。「こんな頑丈な水があると?」
「精霊の善意だろうな。フェルネットが望んだならありえる」
 これを開けるには精導士に話を通してもらうほかないだろう。それはヴァルツへ行けば何とかなるはずだ。そこまで考えて、ルジェは露台から降りようとした。
「だめですよ」ジャックが押さえ込んだ。「貴方は資質が高くないですから、最低でも一日は安静にしていないと。そうでなくても命令違反で捕まったらひどい目にあうのに」
「あれは黒精霊を取りに行っただけだ」ルジェはしらとぼけた。実際フェルネットは回収できなかった。彼女を救おうとした証拠はない。「俺は総統に会いに行く」
「残念ですが、それは無理でしょう」少尉は冷静に告げた。「開戦に伴い、戦地の全支部に緊急事態宣言が出されました。駐在官のみならず、滞在する軍人は総員、各支部総司令の指揮下に入らねばなりません。戦争が終わらない限り、ヴァルツへは戻れませんよ」
 ルジェは黙り込んだ。相手の主張がもっともだったからだ。
 まさかラトゥールの言っていた『休暇』とはこれのことだろうか。彼を東の果てに追いやって、戻らないようにして……どうするつもりだ? ルジェがヴァルツへ戻る頃、養父は一体どうなっている?
 ――七一に討伐されている。
 崩我したラトゥールではルジェなど相手にならない。とうに使えぬ駒だと見切られていたのだ。長年努力してきた結果がこんな形で実っていたことに、彼は力なく自嘲した。
 そしてすぐに、鋭い眼で少尉を射抜いた。「で。総司令殿のご判断は?」
「……『静観せよ』、と」回答の前に置かれた一瞬の空白を、ルジェは見逃さなかった。
「ご賢明なことだ。だが――」素早く少尉の耳の後ろへ手を伸ばす。予想通りそこにあった通信機をひったくった。拾音部を口へ当て、はっきりとした声で言う。「総司令殿に直訴する。――『この期に動かないのは重大な損失です』」
 一瞬の空白。
 やがて据え付けの拡声器から雑音が零れ、妙齢の女の声が流れ出した。
〈詳しく聞こうじゃないか、ラトゥールの〉低く張りのある美声だった。
 ルジェは緊張で声が震えないよう、深く息を吸った。
「……同盟を」落ち着け。「もしもテアがヴァルツと同盟を組めば、どうなります?」
〈我々が戦争に介入する〉女は即答した。〈テアが勝てば、その後が面白いだろうな。負けてもいずれエンは叩かねばならん。その際に難癖をつける材料の一つにはなるだろう〉
 言い終えてすぐ、拡声器の向こうで女が鼻で笑う音がした。彼の提案がどちらへ転ぼうとも不利にはならないことを察したらしい。細かい説明をしなくて済むので助かる。
〈貴様の主張は理解した〉女は含み笑いを隠さない。〈率直に言おう。どれ・・が望みだ?〉
 『全部とは言わせんぞ』そう言われた気がした。
 ルジェに選択の余地はなかった。フェルネットはもはや手の届かない場所にいる。自分の一存で救える範囲ではない。ならばせめて、とルジェは思った。
「……戦争の早期終結」
 戦争の間ずっと、彼女はエンのために血を抜かれ、その血で人々が殺し合いをするのを見続けなければならない。自分が死んでなお戦争が起こるのが嫌だと言ったあの娘が、そんな状況で心が痛まないはずがなかった。その苦痛を少しでも早く終わらせてやりたい。
 それにもしテアが勝つことがあれば、それは救いにならないだろうか。たとえ――
 だが彼女のことはここでは口にできない。だから彼はもう一つの本心を添えた。
「もしラトゥールが崩我していたら、ヴァルツ全体に危険が及ぶ。俺はその前に帰る」
 一刻も早くラトゥールを確認し、必要ならばこの黒精霊を戻さなければならない。
 女が低い忍び笑いを零した。
〈私には『その黒精霊を渡しておいてやろうか』とも言えるわけだが〉
「あんたは信用できない」思わず地の声が出た。
〈素直に逢いたいと言えばいいのだ、餓鬼が〉くすくすくすと女が嗤う。〈テアがどうなろうと構わないが、アレの今後には興味がある。――良いだろう、最高の舞台を用意してやる。……このツケは高いぞ、ラトゥールの〉
 ルジェが顔を上げるのと同時に、女は冷たい声で命令を下した。
〈一小隊。そいつらをテアへ前貸しし、フェルネット・ブランカの殺害・・任務を命じる。貴様は今すぐテアへ赴き、同盟会議を開くよう提案してこい〉
 自分で選んだ結果に、ルジェは治ったはずの胃の痛みが蘇った。
 戦争を最も早く終結させる方法――それはフェルネットが無効化すること。死ぬことだ。
 さてと、と女は楽しげに言った。〈交渉役の本領発揮だな、公子殿〉

     ◆

 テアの王城は混迷していた。ありとあらゆる人間が切迫した顔で駆け回り、騎士や兵士とおぼしき男たちがあちこちで怒鳴り声を上げている。給仕の女たちは哀れにもすくみ上がり、そんな男たちの邪魔をしないよう壁へばりついていた。
 その様子を横目で見ながら、ルジェは混乱を利用して城へ侵入した。面会の申し込みが多忙の一言で断られたのだから仕方ない。あいにくとアテはあるのだ。
 少尉に渡された城の内部図を思い出しながら、ルジェは国王の代わりに総指揮を務める王太子の執務室を目指した。しかし出入りの者が多い割に、本人はいない。
 どうしたものかと物陰に潜みながら考えているうちに、王太子が戻ってきた。何やら若い女連れで、人払いまでしてくれている。これは好機だ。
 王太子と若い娘は揉めているようだった。一方的に娘が太子へ食って掛かっている。
「なぜですか殿下! 私だって精導士です、戦へ参加させてください!」
「女性を戦地へ赴かせるわけにはいきません。貴女はまだ若い……それに、精霊も地属性しか扱うことができないでしょう?」
「自分の未熟さは承知しています。でも! 私だってこの国を守りたいのです!」
「――なにも戦うだけが魔法ではないだろう」
 思わず物陰から歩み出て話へ割り込むと、二人はぎょっとしてルジェを見た。
「! 貴方は……!」太子が即座に顔色を変えた。
 ルジェは二人へ歩み寄った。今回は黒眼鏡をしているので過呼吸の心配はない。
「娘、地精霊が扱えるなら兵士に変わって塹壕掘りでもしてやれ。あれは意外と戦力を削ぐからな」前線で回された後方部隊を思い出す。あの頃は円匙シャベルで魔物と渡り合えるぐらいだったが、今は難しいだろう。「もし地形を変えるほどの力があるのなら、戦略単位の作戦になるだろうから、現場の指令官にも当たっておいたほうがいい。それと……」
 いきなり現れて輸送路の整備だの、効果的な落とし穴の配置だのをつらつらと講釈するルジェを、娘はぽーっと見つめていた。が、突然我に返って頭を下げた。
「あっ、ああありがとうございます参考にします!」言うなり、逃げるように走り出した。
「待ちなさい!」太子の制止と同時に、扉が勢いよく閉まった。
 太子は深呼吸のような溜息をついてから、きっとルジェを見返した。「公子殿、勝手なことを仰らないでいただきたい。我が国では精導士は私の直轄となっているのです!」
 侵入したことではなくそこを指摘するのか……。人間の価値観に一種感心しながら、ルジェはしれっと答えた。「それは失礼した。日頃の癖が出てしまったようで」
「貴方も精導士の指揮を?」太子は毒気を抜かれたようだった。
「そんなところです。それよりも、本日は貴方に提案したいことがあって参りました」
 慣れない笑みを作る。危うく引きつりそうになった。
「我々を使うおつもりはないですか? 無論、いくつかの条件がありますが……」
「今さら多少の戦力を提示されても困る、と言うのが正直なところです」
 太子の声は警戒に満ちていた。琥珀色の瞳は昨日よりも数段険しい色をしている。おそらくフェルネットの件で同族を疑っているのだろう。あの支部総司令が証拠を残すような真似はしていないと思うが、ここでぼろは出せない。言い訳して妙な勘ぐりを受けるのも面倒で、ルジェは相手の態度に気づかなかった振りをした。
「我々はまだ、テアに勝機はあると考えていますが」
「何を言って……あなた方は魔法を、いや精導士というものをご存じないのでは?」
「それはこちらの台詞です。貴殿ら精導士は、魔術師を根本的に理解していない」
 ルジェの声には若干の恨みが籠もっていた。
「我々は精霊の助力無しで魔法を使う。つまり、大気に満ちる自然魔力ではなく、自らの体内にある人造魔力を使うのです。フェルネットの力で自然魔力が使えるようになろうとも、これまで研鑽してきた魔力回路をまったく切り替えるのは難しく――無意識に自分の魔力を大魔法へ回してしまう。一撃でぶっ倒れ、人間なら回復に丸一日かかるでしょう」
 ルジェは大魔法を使った直後の自分を思い出した。骨の髄まで魔力が空になって、しばらくは使い物にならなかった。あれは普段の鍛錬が徒になったからだ。剣術でもそうだが、使い慣れた形式を変えるのは難しい。これは人間の魔術師だって同じだろう。
 精導士は自分の魔力を使う習慣がないから、精霊が言うことを聞くようになるだけで簡単に大魔法が使いこなせるようになるなどと思えるのだ。そんな奴らが国の上層部を占めていれば、色々と間違うこともある。そこがルジェの狙いだ。
「初撃さえやり過ごせば、後は互角に持ち込めるはず。敵も阿呆ではないでしょうから、二戦目からはそうもいかないでしょうが……――その前に、我々が」
 所詮、魔術師は消耗品でしかない。残りの精導士はテアに任せ、魔力が回復するまでに雑兵を軍の力で叩きつぶせば、エンなど大した敵ではないのだ。……理論上は。
 王太子は琥珀色の目をいっぱいまで開いてルジェを見、喘ぐように呟いた。
「……あなた方の目的は何ですか? また領土を? それとも金子をご所望ですか?」
「それをご自身で決めていただきたくてね」
「え?」
 ルジェは持参した封筒から書類を取り出した。荘重な作りの執務机へ広げて見せる。
「同盟会議の場を用意してあります。ヴァルツとテア、双方のために手を組みませんか?」
「しかし、もはや一刻の猶予も」
「戦場の近くに我々の古い地下施設があります。戦の途中で貴方が抜け出せるよう計らうのも、我々ならばそう難しくもありません。もし乗り気ならば、事前に金一千にて一小隊三十名を貸し出すと、パルフェ・タムール支部総司令も申しております」
「吸血鬼を三十名……」ごくりと太子の白い喉が鳴った。さぞや魅力的な提案だろう。
「その為に一つ、条件があります」ルジェは感情を抑えた声を出した。「フェルネット・ブランカの殺害許可をいただきたい」
「……!」
「勝算がなければ我々としても動けません。彼女が死ねば、その場でエンの敗北が決定する……。やるやらないは貴方次第です」
「しかし、あの子は……」太子は口ごもる。書類から目を逸らすように俯いた。
「悪い話ではないはずです。上手くいけば、即日戦争を終わらせることもできる」
 焦るように言葉を重ねたルジェを、太子は苦しげに見た。その琥珀色の瞳に映った自分もまた同じように眉をひそめていて、ルジェは一瞬、妙な連帯感を覚えた。
 太子は悩ましげに呟く。「……わかってはいるのです。城内にも彼女を処分すべきだという声はありますから。しかし……」骨の細い手が固く握りしめられた。「しかし、フェルネットは私の妹なのです。それを、殺すなど……!」
「フェルネットが、テアの王女?」
「腹違いですが、私にはたった一人の兄妹です。……父は生まれ付き体が弱かったので」
 ルジェは改めて太子を見た。確かに口元や骨の細い骨格の雰囲気が似ていなくもない。髪色はフェルネットの真珠色と比べてはっきりとした黄色だが、どちらも金髪の類だ。
 てっきりこれから王家の血へ取り込むのだと思っていたが、既にその点は抜かりがなかったらしい。おそらく取り込んだはいいが力を制御できずに、大森林へ封じたのだろう。
 太子は目を伏せた。「もう彼女を殺すか、大森林の最奧へ匿う以外、道はないでしょう。……ならば二度と会うことが叶わないとしても、兄としては生きていて欲しいと――」
「一つお尋ねしたいのですが」真剣な相手の言葉をあっさりと遮り、ルジェは懐から黒精霊を封じた球を取りだした。「精導士である貴殿ならば、この玉の封印を解けますか?」
 ふと不安になったのだ。彼女はただ精霊の娘であるだけでなく、王家の精導士としての血まで引いている。並の精導士に彼女が施した封印が解けるのか、と。
「これは……? 精霊が、嘆いている」太子はじっと玉を見つめた。「この精霊はもう夜を超えてしまっています。術式もなしで命令を守り続けるなんて……」琥珀色の瞳がルジェを見上げた。「フェルネですか?」
 頷き返すと、太子は思案げに眉をひそめた。
「ならば私が説得したところで、この精霊は受け入れないでしょう。精霊は一日で組成が変わりますから、普通は術式なしで長時間の使役はできません。しかしフェルネはどんな組成の精霊からも強く愛されます。それは理屈ではありません」
「フェルネットでなければ、この魔法は解けないと?」
「ええ。もしくは彼女以上に精霊に愛される者でなければ」
 ここへ来て、これか。
 ルジェは額に手を当てて深く溜息を吐いた。自分の決断がどれだけ愚かなものだったか、一時間と経たないうちに証明されてしまったのだ。嘆きたくもなる。
 彼は自分に盗聴器が仕掛けられていないのを確認してから、太子へ顔を寄せた。
「貴殿は彼女を殺すのに同意できないと言いましたね」のけぞる相手の肩を掴んで押さえ込む。低い声で囁いた。「これは当方との密約ということで、提案したいのですが……」

     ◆

 東部第三支部の最下層にある牢獄は、ひどく空気のよどんだ場所だった。黒い壁の罅から地下水が染み込み、あちこちの床を湿らせている。湿気った空気が重い。東部全体がそうだが、この纏わり付くような空気だけはどうにも体に合わなかった。
 ルジェは悪臭の漂う細い通路を進み、居並ぶ見張りを下げて分厚い混凝土の扉を開けた。壊れてもすぐ直せる混凝土は同族がよく使う建材だ。牢獄のように壊されやすい所は特に。
 狭い箱のような個室の中、薄汚い寝台の上で、赤毛の男が柔軟体操をしていた。
「お、生きてたか。お互い悪運が強いねぇ」ロイは奇妙な体勢から戻って笑いかけた。相変わらず緊張感もなければ落ち着きもない男だ。唯一違う点は声が少し掠れていることか。「ったく、警邏の奴ら、ぶっ続けで喋らせやがって。あー喉カスッカスんなっちまった」
 録音式の取り調べは喉を酷使する。ほんの少し受けただけのルジェでもうんざりしたくらいだから、二十時間近く拘束されているロイは尚の事だろう。
 ルジェはざっと室内を見渡し、監視機器がないか確認した。とりあえず見当たらないが、信用はできない。言葉に気をつけてロイへ話しかける。「怪我はないのか?」
「肋骨が何本かやられたぐらいだな。堀まで吹っ飛んだのが逆に良かったみたいだ」
「よく溺れなかったな」しかもその怪我で柔軟をしていたとは……あほだ。
「全力で底を蹴って飛び出たんだ。あと三秒遅かったら死んでたな。石畳みだったから助かったけど、泥だったらと思うとぞっとする」自分を抱きしめて身震いするロイ。堀の青く澄んだ水は上から見る分には美しかったが、一度落ちるとそうは思えなくなるのだろう。
 ルジェはそんなロイへ林檎を投げつけた。「差し入れだ」
「お、助かるわ――ととっ」更に二つの封書を投げ付けられ、ロイが慌てて指先に封を挟んだ。まじまじと見る。「なんじゃこりゃ」
「戦時下での戦闘員志願書と、テアの王太子の推薦書だ。同意すればそこから出られる」
「その代わり人間の戦争に参加するってか。お前、どんな手を使ったんだ?」
 ロイは書面へざっと目を通しつつ、林檎をかじった。
「人間の喧嘩ごときに貴重な人員を割きたくないそうだ。……というのは建前で、パルフェ・タムール支部総司令と少し、取引した」
 ロイの手から林檎が落ちた。「あの女傑とか!? お前ほんと怖いもんなしだな!」
「ばかを言え、胃痛で死ぬかと思ったんだからな」あの女との二度目のやり取りを思い出し、ルジェは胃を押さえた。「全部終わったら諜報部へ来いと言われた。この平凡な顔が潜入工作員向きなんだと」
「あー」ロイは納得してルジェの顔を見た。「ルイ‐レミィも元は諜報員なんだっけ?」
「母もそうだった。ここの奴らからすると、俺は大層な純血らしい」
 血液配給によって個人が明確に管理される軍の中で、諜報員は公的に存在が末梢されている人材――すなわち、後ろ暗いことにも使える人材だ。ルイ‐レミィは世の中を騒がす暗殺者として有名だが、他にもヴァルツの内外を問わず様々な工作活動を行ってきたとか。
 そのうえ両親共にパルフェ・タムールの直属の部下だった。と、さっき初めて聞かされた。親の所属など関係ないはずなのに、凄まじく気が滅入った情報だった。
 また不調を訴えだした胃を思いやりながら、ルジェはロイへ淡々と告げた。
「テアの申し入れをヴァルツが受け入れた。今晩、戦場近くで会議を開くそうだ」
「そんなに早く? 来れるのか?」
「参加するのは一部の甲種だけだろう。どうせ総統は動けない……。調印までは支部の人員を貸し出す予定だが、それだけでは不安が残る。お前の力がいるんだ」
「でも人間相手なんだろ? ほんとに俺が行っていいのか?」
 ルジェは重々しく頷いた。
「リダーにも捕縛命令が出ている。お前なら穏便に済ませられるかもしれない」
「あいつか……」ロイの眉間に皺が寄った。「あいつが、なぁ」
「リダーが本当にエンの工作員なら、生け捕りにできれば相当な情報源になる。ラトゥールの件も何か知っているかもしれない。……黒精霊の剥がし方も」
 ルジェの脳裏に長外套の姿が蘇る。少女から黒精霊を引きはがした、とんでもない強さの男。あれは一体、何者なのだろうか。黒精霊を扱うには特殊な素質が必要だったはずだ。今は絶えたはずの、同族の貴族のごく一部だけが持っていた素質が。
 ルジェは険しい表情でロイを見た。「お前が何を言ったか知らないが、俺はリダーに黒精霊が取り憑いている可能性があると証言した。捕らえても即座に殺されることはないだろう。奴はフェルネットと一緒にいる可能性が高い。お前が見つけて……」
「見つけて?」ロイが林檎を囓る。その顔が歪んだ。「なんじゃこの林檎腐って――?」
 「黙って食え」と騒ぐ声を封殺する。
 ロイは林檎の中を見て口を閉じた。さっと林檎をしまう。
 ルジェが渡した林檎には小さな紙片が忍び込ませてあった。そこには極めて小さな文字で『フェルネットを奪い返し、テアへ引き渡せ』とある。
 これはルジェとテアの王太子との個人的な密約だ。軍が本格的に動き出す前にフェルネットを確保し、東の『大森林』へ送る。そうすれば彼女は二度と人間の手に届かなくなるだろう。その前に黒精霊の封印を解いてもらうが。
「なるほどな」ロイはルジェの顔色を窺った。「そら、情も移るわなぁー」
「これで駄目なら諦める。お前も無理はするな」
 特に戦場では、と言いかけてやめた。それを期待してこの男を放つのだ。
 本当は自分が行きたかったが、ルジェはこれから同盟会議へ出席しなければならない。
「あっさりしてんのな。まあ、『五割の男』だもんな、お前」
「ああ」ルジェは苦笑して頷いた。「その程度の器だからな、俺は」

     ◆

「泣かないでくださいってば、そんなんじゃ干からびて死んじゃいますよ?」
 エン軍の拠点の片隅で、リダーは途方に暮れていた。護送用の装甲馬車には彼と小柄な人間の少女しかいない。その少女がもうずっと泣き止まないのだ。
「ほら、もっとしっかり食べてください。人間だって貧血は危険なんですからね」
 粥を掬って差し出しても、少女は手足を縮めて隅に座り込み、泣きじゃくるだけだった。近寄ろうとするといやいやと首を振るので、豊かな金髪はすっかり縺れてぼさぼさだ。その髪の奥に垣間見える小さな顔は泣きはらして真っ赤だった。顔を擦りすぎて手まで赤い。
「ああ、なんでこんなことに……」リダーは深刻に溜息を吐いた。粥を置き、嫌がる少女の前へしゃがみ込むと、そっと手を伸ばして縺れた髪を解こうとする。
 それを小さな手がぺしっと払った。「優しく、しないで、くださ……っ」
「だ、誰が人間なんかに優しくしますかっ。貴女の体調が戦況に関わるから、仕方なく!」
 彼が思わず言い訳すると、少女はまたも俯いて泣き出した。どうやらすっかり優しくされるのが嫌になってしまったらしい。
 リダーはすっかり困ってしまった。情けない顔で説得を試みる。
「攫われてひどい目にあってるんだから泣くのも仕方ないですけど、貴女が生き残るにはこれしかないって、説明しましたよね?」
「……はい……」弱々しい声で少女が答えた。
「採血は僕が責任を持って規定量を遵守しますし、魔法使いからも守ります。僕は貴方を守るのにうってつけなんですから」
 少女は鼻をすすりながら頷く。
「あと、ルジェ氏はあの様子ならおそらく命に別状は――」
 『ルジェ』と聞いた瞬間、少女の目から大粒の涙がぼろぼろと零れだした。
「だっ、大丈夫ですか?」リダーはおろおろして手巾を渡そうとし、拒否された。
「だい……っ、じょぶ、です……っ!」
 とは言うものの、少女の涙は止まらない。リダーは溜息を吐いて天を仰いだ。
「もうすぐまた採血しなきゃいけないのに。どうしたら泣き止んでくれるんですかぁ」
「わか、な……っ」少女はしゃくり上げ、それから小さな声で呟いた。「ルジェ……」

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