三章 『あなたのお父さんはね、とても優しい人だったの』 『優しくて優しくて、そのせいでたくさん傷ついたけど、それでも優しくあり続けた人。それはね、本当に心が強くないとできないことなのよ』 『あなたにも、そんな人になって欲しいの。忘れないで、私のルイ』 ◆ 「――じゃあ、病気の親御さんのために、泣く泣く身を売ったのかい?」 御者の男が振り返り、金髪の少女――ラトゥールを見た。 「ええ。私にできることなら、なんでもしようと……」切に言葉を詰まらせて、ラトゥールはありもしない涙を拭った。……嘘くさいったらない。 ヴァルツを出てから一週間。ルジェとラトゥール、そして精神体のフェルネットは、人間の繰る幌馬車に乗っていた。馬車といっても騾馬にひかせるのがエンでは主流だ。歩みは遅いが燃費が良いらしい。それに馬よりも鈍感なので、吸血鬼を乗せても暴れないのがルジェには助かった。 御者はラトゥールの話を頭から信じ込み、きっと良い買い手が見つかると慰めていた。 「いっそ都会に出れて良かったかもしれんよ。この辺は吸血鬼がよく出るから、若い子は気をつけないと喰われちまう。まあ、奴らは揃って黒尽くめに黒眼鏡だから、一発でわか……」そこでちらりと最後尾のルジェを見る。軍服でこそないものの、黒の上下に黒眼鏡だ。丁度良くルジェが会釈を返したので、御者は慌てて引きつった笑顔を作った。「……るような気もするんだが、皆が皆そうとは限らないからな! 人を疑うのは良くないな!」 御者は努めてルジェを見ないようにして、話の矛先を変えた。さすがに西部の人間は共存の仕方を心得ているようだ。疑わず、暴かなければ無事済むこともある。 ラトゥールの作り話では、ルジェは身売りの仲買人ということになっている。こういった後ろ暗いことをする人間は吸血鬼を真似て黒尽くめを好むので、偽装するには丁度良いらしい。とはいえ、普通はこんな風に商品を放し飼いにはしないはずだが。 ルジェは黒眼鏡を押さえながら、やはり自分は乗らないほうが良かったと思った。当初はラトゥールだけを乗せ、自分は隠れてついていこうと考えていたのだ。しかし少女は一度エンに攫われた身。結局、目を放せずに同乗した。せめて次からは そんな彼の内心など気にせず、嬉々としてお涙頂戴話を続けているラトゥールに、ルジェは大きくため息をついた。半分は呆れから、もう半分は安堵から。 第一波山で魔物に襲われてから最初の支部に着くまでは一日とかからなかった。魔物は出なかったし、鉄道も安全だった。ただ一つ問題だったのは、護衛が容赦なくフェルネットの体、即ちラトゥールを荷物扱いしたことだ。空気抵抗を受けないよう密閉できる容れ物に拘束し、窒息する前に下山するという、人間保護法ギリギリの扱いだった。 幸い命に別状はなかったものの、彼女の体にはいくつもの痣ができていた。支部の医者に監督不行届を詰られるまでもなく、その痛ましい姿にルジェは胸が詰まった。護衛に同意した段階で覚悟はしていたはずなのに、予想以上の痛手だったのだ。それ以来、少女の扱いには慎重になりすぎている節がある。あまり良い傾向ではないと思ってはいるのだが。 ルジェは真鍮の ……今頃は、何人のルジェ‐ラトゥールがこうして各地を回っているのだろう。 支部で初めて知ったのだが、攪乱のためにルジェの偽物が大発生しているらしい。外見年齢や背格好のよく似た男が金髪の娘を連れて支部を回っているのだとか。詳しい数はわからないが、先の支部で一日三人は訪れていたと言うから、全体で三桁はいくだろう。 同族の生命線である血液は保存が利かないので、移動中は最低でも三日に一度は支部で補給するのが普通だ。そうやって軍に所在を把握されるのだが、ルジェは必須血量が少ないのと、魔法で凍らせた血液を持ち運べるため、無駄な寄り道が要らない。必然的に偽物ばかりが支部を訪れ、ルジェの消息は軍でもわからなくなるというわけだ。ラトゥールの口ぶりでは適当な人選のようだったが、なかなかうまくはできている。なにしろルジェは同族の記憶に残らない顔という点において、右に出る者がいないのだから。 知らず有名になっていたのは不愉快極まりないが、致し方ないことだろう。同族とて一枚岩ではないのだ。それに、彼も今はできるだけ支部に立ち寄りたくない。 ルジェは何度目かの溜息と共に手元を見下ろす。甘い香りが立ち上る瓶の口元で、そうっと中を覗き込んでいる小さな半透明のフェルネットが目に入った。 精霊のようにしか見えない彼女こそ、彼が迂闊に支部へ寄れない最大の原因だった。同族に精霊は見えない。もし見えているなら、それは幻覚――そう思われるのがオチだ。 フェルネットはすっかり慣れた様子でルジェへ笑いかけた。それからふと思い立ったように小首を傾げて人差し指を顎に当てる。その癖の意味は、思案中。 〔ねえルジェ。黒ちゃんはああ言ってますけど、わたしって売れると思います?〕 「人身売買にも色々あるが……」一瞬続きに迷った。が、この世間知らずが下世話な意味で聞いたはずがないと、無難なものを選ぶ。「おそらく採血機関は買わないだろうな」 〔あはは、美味しくないですもんねー〕楽しげに笑って少女は続ける。〔でも、魔法使いさんなら買いますよね。いくらくらいになるんだろ?〕 ぎくりとしてルジェが黙った。テアが主力産業の集中する肥沃地帯を割譲するほどなのだから、ざっと計算しても軽く国が傾くほどの価値があるはずだ。 そんな事情を知らないフェルネットは、〔やっぱり野菜と一緒に並ぶのかなぁ〕などと、一人で突拍子もないことを言っている。そこからだったのか。 〔ルジェだったらいくらで買います?〕 無邪気な瞳でまっすぐ見つめられて、思わず「どの意味でだ」と言いそうになった。 「……生憎、薄給でな。欲しいとすら思えない」 「はっ、溜め込んでるくせに」前方から鼻で笑われた。 「ラトゥール、お前は黙ってろ」 黒眼鏡をしているのを忘れて睨みつけると、御者が見ていないのをいいことに、ラトゥールが舌を出してきた。フェルネットと同じ顔でやられると無性に腹が立つ。 二人のやりとりを見ていたフェルネットが、顎に指を当てながら首を大きく傾げた。 〔前から気になってたんですけど、ルジェはなんで黒ちゃんをお父さんの名前で呼ぶんですか? 黒ちゃんは黒ちゃんで、本物のラトゥールさんとは違うのに〕 「ラトゥールのように振る舞われるのなら、こちらもあらかじめラトゥールのつもりでかかっておいたほうが、足下を掬われにくいからな」 素早く挟まれた「もう何回も掬われてない?」という問いかけを無視する。 〔せめて『お父さん』って呼んであげればいいのに。名字で呼ぶなんて他人行儀です〕 「初めから他人だ。大体、向こうが先に『ルジェの』って、母の姓で呼んできたんだぞ」 〔お母さんの苗字? 名前じゃなくて?〕 「あいつも俺もルイだから呼びにくかったんだろ。それに」ルイ‐レミィの名を口走りそうになり、口を噤む。「……二人揃って、ルイと呼ばれるのが好きじゃない」 ルイなど、ヴァルツの大通りで呼べば三十人は振り向くような名前だ。ルイ‐レミィのように複合名まで含めればかなりの数になるだろう。親子で同じ名というのもよくあることなのに、ラトゥールは頑なに彼の名を呼ばなかった。 初めは意地になって姓で呼び返していたルジェも、ルイ‐レミィの顔を知ってからはその作法に従うようになった。今では親というより同期を呼び捨てにする感覚だ。 〔色々とむずかしいんですねぇ〕しみじみと頷いてから、フェルネットはぼそりと呟く。〔……『ルジェ』って、あだ名じゃなかったんだ……〕 「子供に呼び捨てにされるのも、なかなか新鮮だぞ」 〔ううっ、ルジェってけっこう意地悪ですよねっ〕 慰めたつもりが皮肉に受けとられ、ルジェは苦く笑う。先に呼び方を指定したのはこちらなのだから、文句をつけるつもりはなかった。むしろ舐められていることへの自虐だったのだが……。独り言に言い返したのも悪かったのかもしれない。 「悪いな、子供の扱いには慣れてないんだ」 〔また子供って言った! ルジェだってわたしと五歳ぐらいしか違わないのにー〕 突っ掛かるところはそこなのか。半ば感心しつつ、ルジェは平淡に答えた。 「五つどころか、十五近く違うわけだが」 〔十五ってさんじゅ……えっ〕フェルネットが目を丸めてぶわっと飛び退き、大きな声で叫んだ。〔ルジェ――そんなオジサンだったんですか!?〕 堂々たる宣告である。 ルジェの心へ冷たい風が吹く。と同時に、最前席のラトゥールがぷっと吹き出した。てめえ、笑える立場じゃねぇだろ。 フェルネットは両手で頬を挟んでルジェの周りをくるくると飛び回る。 〔やっぱり吸血鬼さんは老けないんだ。てっきりコハクと同じぐらいだと思ってたのに〕 「コハク?」耳慣れない人名が気になった。「誰だ、人間か?」 フェルネットは回るのを止めてこくんと頷いた。 〔ときどき村に来てたお兄さんです。外の人って滅多に来ないんですけど、コハクだけは毎年来てくれてて。いつもすごーく美味しいお菓子を持ってきてくれるんですよ〕彼女はえへへと笑う。〔コハクっていうあだ名はわたしがつけたんです。目の色が琥珀みたいな深い黄色だから。本名は……あれ? そういえば聞いたことないかもです〕 貴族だな、とルジェは即座に当りをつける。魔法大国のテアには昔、呪い避けに名前を隠す風習があった。今でもそんなことをするのは貴族だけだ。 フェルネットは懐かしげに目を細めて微笑んだ。〔コハクは気が優しくて、いつも村の子たちにおやつーってたかられてました。精霊の皆もコハクが大好きです〕 「精導士か」意図したよりそっけない声になった。 〔はい。わたしが知ってる精霊の皆と話せる人は、お母さんとコハクだけです〕フェルネットはにっこりと笑いかけてきた。〔それに、ルジェも〕 初めは怯えていた彼女も、黒眼鏡が間にあるときは自然な笑みを浮かべるようになった。 警戒心のない笑顔を見ているとルジェはいつも戸惑う。上手く騙せているという安堵と、裏切り続けている罪悪感。どちらの自分で応えるべきかわからない。 ふとフェルネットが空を見て「あ」と呟いた。〔雨になります。風の子が隠れてって〕 驚いてルジェが空を見上げると、ぽつりと雫が頬に落ちた。彼には何も見えないが、フェルネットは精霊からである程度の情報が引き出せるようだ。ならば、精霊を経由して軍の企みを知られはしないだろうか。そう思うとぞっとした。 「お前は……俺やラトゥールが話せないときは、精霊と話しているのか?」 フェルネットは残念そうに首を振る。〔いえ、白い子たちは一日がすぎると変わっちゃうから、あんまり話せなくて……〕二人と話す方が好きです、と言う。 「浮遊精霊の寿命は一日だったか」 〔本当は死ぬんじゃないんですけどね。夜、風の子たちは空気に溶けて、細かくなって、混じって、くっついて。そうやってまた朝霧から生まれてくるんです。だからみんな前の日のことはあんまり覚えてなくて。たまに前の子の部分が多めに集まった子がいると、昨日の話もできるんですけど……〕悲しげな瞳でぽつりと続けた。〔ちょっと寂しいです〕 精霊の記憶が一日しかもたないなら、フェルネットが仕入れられる情報は限られる。精霊が一日に移動できる距離は未知数だが、軍の機密情報を漏れ聞いた精霊がいたとして、その日の内にフェルネットとさえ出会わなければ良いわけだ。 ……もしかしたら。淡い光を発する少女を見てルジェは思った。だからフェルネットは眠らないのかもしれない。精霊と同じく夜の闇に消えてしまわないように。 前から鞭を振るう音がした。雨を気にして歩みを早めているようだ。 「急げよ〜」御者が大きな声で騾馬へ話しかけた。「この辺は雨宿りできるような場所もないからな。今日中に次の町に着かんと、弱るのはお前らだぞ!」 ラトゥールが御者台へ身を乗り出し、周りを窺った。 「たしか近くに村があったはずだけど……そこには寄れないの?」 「カシュ村か……。よく知ってたな、お嬢ちゃん」御者は雨に濡れた顔をラトゥールへ向け、声を落とした。「あすこはずっと昔に廃れちまって、今じゃ野犬も寄りつかねえよ」 「うそ」 「嘘なんか吐くかい。おかげでここらを通るときはギリギリまで水と食料を積まねぇと安心できなくなっちまっ」 「――止めて」言うなり、ラトゥールが御者の手綱を掴んで引いた。 「うわあ! なにやってんだ!!」 騾馬が足並みを乱して、馬車の歩みが緩んだ。その隙にラトゥールが飛び降りる。茂みを掻き分け、まっすぐに駆けていった。その後を淡い光が追いかけていく。 「お嬢ちゃん!」 慌てる御者を片手で制して、ルジェは馬車を降りた。二人分の後金を支払い、先へ行くよう指示する。固く口止めするのを忘れずに。 焦らずとも人間の足でルジェを撒くのは無理だ。ラトゥールもそれはわかっているはず。 彼は目を閉じて耳を澄ませた。草木を掻き分ける騒がしい音はこの辺りには一つだけだ。他に危険な気配もない。フェルネットもいるし、そう心配はいらないだろう。 音のする方角へ続く細い獣道を見つけ、ルジェは歩き出した。 ◆ 馬車は行ってしまったし、どうせ今日は野宿だろうと、ルジェはラトゥールを追いかけながら石で適当な鳥を捕った。生き物を捌いたことはないが、フェルネットに聞けばなんとかなるだろう。森で一人暮らしをしていた彼女は山羊ぐらいなら一人で捌けるそうだ。食べられる草や茸も見分けられるので、荒野育ちのルジェには心強い味方だった。 先刻降り出した雨はあがる様子を見せない。珍しい慈雨の感触を楽しみながら茂みを抜けたルジェは、遠くに淡く輝く光を見つけてそちらへ向かった。 うずくまるラトゥールの姿を見つけ、絶句する。 ラトゥールはどこかで拾った木の板を手に、黙々と地面を掘り返していた。房飾りの付いた白い服は雨と泥にまみれ、豊かな金髪にまで赤茶色の泥がこびりついている。手は爪の間から肘までべったりと汚れていた。同じくスカートの下半分も茶色い。 何よりルジェを驚かせたのは、ラトゥールの背後にある廃村だった。数十件はある家屋は半分が根こそぎ倒れ、半分は傾ぎ、幾つかは焼け焦げて、すべてが雑草に埋もれていた。ただ人が去っただけならこうはならない。災害のような何かがこの村にあったのだ。 〔黒ちゃん、もうやめよ……?〕 呼びかけにもラトゥールは応えない。蒼白な顔で足元を見つめ、うわ言のように呟く。 「確かに彼はここに埋めた……でも、これでは……」 「ラ――」掠れ声で呼びかけようとしたとき、少女の向こうに人影を見つけた。 傾いだ廃屋の間を壮年の男がこちらへ歩いてきていた。年は五十ほどだろうか。朴訥とした寡黙そうな男だ。彼はルジェたちに近寄ると、低いがよく響く声で告げた。 「旅の方かね」印象通りの静かな話し方だった。「そう警戒されるな。わたしはこの村で刀剣工をしている者だ。名はマルタンという」 見れば、男の手には至るところに火傷の痕があった。 ルジェは男とラトゥールの間に立つ。「あんた、あの村に住んでるのか?」 「いや、隣町から通っている。仕事場が変えられなくてな」 マルタンが言い終えるか否か、ラトゥールがルジェを押しのけて男へ歩み寄った。 「無いんだけど」 〔ないって?〕「何がだ?」 突発的な台詞に、マルタンも訝しげに眉をひそめていた。 その様子に苛立ってラトゥールが片足を踏み鳴らす。「骨だよ。ルイ‐レミィの骨!」 男が息を飲むのが聞こえた。 ルジェがラトゥールの腕を引く。「何を言ってる。それならヴァル……の、広場に」 「はっ、あんなもの。死後十年も経ってから作られた扇動用品に本物を入れてるとでも?」 緑の瞳に挑発的に睨みあげられて、ルジェは自分の血が下がっていくのを感じた。 「……なら、本当のルイ‐レミィの遺体は」 「処分された、はずだった。討伐担当官が秘密裏にこの村へ埋葬したんだ」 〔とうばつたんとうかん……?〕 「ラトゥールが?」 「そう。それが彼とあの勇士との、最後の約束だった」 ルジェは目を見開いて足元の穴を見下ろした。そこには何の目印もない。石一つ、花一つない更地がルイ‐レミィの墓だというのか。 なぜ、こんな人間の村に。 ルジェが問いかけるより早く、ラトゥールが泥だらけの手でマルタンの胸倉を掴んだ。フェルネットの顔とは思えぬ形相でそのまま下へ掴み引く。 「知ってるでしょう、ここにあった墓のこと!」 「……あれは、やはり……」マルタンの瞳は細かく揺らいでいる。明らかに動揺していた。 「話が早そうだね。その様子じゃ野犬が漁ったってわけでもなさそうだ」見下す目つきでラトゥールが攻撃的に笑った。「暴いたね。遺骨は谷に捨てたのかい? それとも家畜の餌かな? ハハハ、傑作だ、吸血鬼の英雄がちっぽけな人間に捨てられたなんて――最高の冒涜だ! アハハハハハハハ――んぐっ」 高笑いする少女の口をルジェの手が塞いだ。暴れる体を素早く押さえ込む。 「……すまない。連れは少々性格に問題があるんだ」 「いや、構わない」マルタンが呼吸を整えてルジェへ向き直った。「そのお嬢さんの言う通りだ。あの墓は村人たちによって暴かれ、骨は燃やされて捨てられた」 知らなかったんだ……そう呟くマルタンは一瞬でひどく憔悴して見えた。 ラトゥールが口を押さえる手を噛んで、叫んだ。「なんてことを。あの勇士が君たちに何をしたっていうんだ……!」全身でばたばたと暴れながら怒りの矛先をルジェへ向ける。「放せ! ああくそっ、本当なら君が怒るべきなのに!」 「俺には関係ない」硬く言い切った言葉が八つ当たりを増長させた。 「そうやっていつも逃げて。弱虫! 根性なし! 根暗の魔法オタク!」 「うっせえよ」思わず手が出た。手刀が細い首筋を打ち、ラトゥールが黙る。 というより、気絶した。 〔きゃー! 黒ちゃん!〕この世の終わりのようなフェルネットの悲鳴が響く。 しまった。力は抜いたのだが、訓練通り正確な位置に入ってしまったらしい。 「だ、大丈夫か? 娘さんに手荒な……」 「問題ない、すぐに気づく。それよりも気になるんだが――」内心の動揺を隠そうと焦って言葉を重ねかけ、ルジェは慌てて口をつぐんだ。何を訊こうというのだ。このまま何も見なかったことにして、立ち去ったほうが良いに決まっている。 『そうやっていつも逃げて』。 先程の叱責とは違う、甘ったるい少年の声が頭の中で囁いた。本当のラトゥールならばこう続けるだろう。『そんなに怖いのかい?』と。そうして嫌らしく忍び笑いをするのだ。 ルジェはしばし押し黙ってから、強いて問いかけることを選んだ。「なぜルイ‐レミィの墓がここにある? それにこの村の惨状は……一体、なにがあったんだ?」 ルジェにはこれが人為的な破壊だとわかっていた。被害は村の中央に集中している。魔物の襲撃ではこうはなりえない。考えられるのは人間同士の争いか、同族の関与だ。 「……長い話になる」マルタンは静かに答え、一軒の家を指さした。「来るといい。たいしたもてなしもできないが、この村にはもう、わたしの家にしか火がない……」 そして、男は黒眼鏡越しにルジェの目を見た。「歓迎しよう、客人よ」 ◆ ルジェの捕った鳥はマルタンへの手土産になった。 傾いだ壁を補強した質素な家は、中のほとんどが工房だった。土間には大きな炉が置かれ、内部は真っ赤に焼けている。打ちかけの鉄と金槌、桶に入った水、あとはよくわからない古い器具。こうした昔ながらの製法で作られる剣は、ヴァルツの鋳型抜きの剣よりも硬くしなやかだと、ルジェは書物で読んだことがあった。 マルタンは鳥を軽く火であぶって羽を焼くと、見事な手つきで捌き、吊るして血抜きをした。刀剣工なだけあって、包丁も磨きぬかれた良いものだった。 彼が作業をしているうちに、ルジェは寝室でラトゥールを着替えさせた。耳元でフェルネットがぎゃあぎゃあ騒ぐのに耐えつつ、こんな平坦な体で何を恥じることがあるのかと思う。無駄に曲線的な同族の女を見慣れているせいか、少年のようにしか見えなかった。 ラトゥールを寝かせて戻ると、マルタンは焼いた肉と酒瓶を机に置いていた。おそらく大麦の蒸留酒だ。香りは強いが、人間用に薄めてあるので酔いはしないだろう。 ルジェは古そうな木の椅子に腰掛ける。足が一本短くて不安定だった。傍らではフェルネットが小さな手で顔を覆って〔もうお嫁に行けない……〕と項垂れている。 マルタンが正面に座ると机全体が軋んだ。ルジェへ酒を注ぎながら、彼は静かに言った。 「お前さんみたいな客は昔から稀に来ていた。大抵は、ルイ‐レミィの昔話を聞きに」 「昔話?」ルジェは酒を一口含む。「なぜ?」 「彼はこの村の出身だった」 ルジェの手が止まった。 〔たしかルイ‐レミィさんって、ルジェの本当のお父さんですよね?〕フェルネットが心配げに見上げてくる。ラトゥールにでも聞いたのだろう。 マルタンは淡々と告げた。 ルイ‐レミィは村外れの小さな家に住む娘の元で生まれたという。赤子の頃から外には一切出されず、村人にも存在を知られていなかった。彼が二歳になる頃、母親は理解ある男の家に嫁いで、そこで弟を産んだ。 「それがわたしだ。兄とわたしはこの家で育った」 ルジェが小さく息を飲む。「だが、あんたは……」 「両親とも人間だ。兄は、母が吸血鬼に襲われた際にできた子供だった」 今度はフェルネットがはっきりと息を飲んだ。 昔はそういうことがよくあったのだ、とマルタンは語った。事実、地方勤務者が人間に手を出すことはある。主な被害は直接摂取だが、その行為は彼らにとって情事にも等しい。気が盛って人間と、ということもあるかもしれない。そいつが本当の下種ならば。 ルジェは冷たくも見える無表情で、じっと相手の言葉を待った。 「お前さんがたと同じように、兄の顔立ちは美しかった。いつも寂しげに微笑んで、長いまつげを伏せていた。自分の瞳がわたしたちを怯えさせるからと、気を遣ってくれていたんだな。その穏やかな横顔を眺めるのがわたしは好きだった。いつもそこから……」と、ちょうどルジェの背後にある窓辺を指さして、すっと炉の方へ指を向ける。「炉の前で仕事をする父の背中を、一人で見ていた」 「これを?」ルジェは片眉を上げて炉を見た。炉の穴からは紅く焼けた光がこぼれている。黒眼鏡がなければ、ルジェにはそちらを向くことすらできなかっただろう。 マルタンは悲しげに頷く。「きっと、父を手伝いたかったんだろう」 この家に黒眼鏡を買い与えるような余裕があったとは思えない。ルイ‐レミィはずっと裸眼でこの光に耐えてきたのだ。力だけなら簡単に父の仕事を手伝えるはずなのに、それが出来ないもどかしさと戦いながら。 ルジェの杯に酒を足し、マルタンはぼそりと呟いた。「兄は心の優しい人だった」 瞬間、遠い記憶が甦り、ルジェはとっさに身を硬くした。『あなたのお父さんはね――』憂いを帯びた母の言葉。『――とても優しい人だったの』 違う。忘れろ。 視線を落とすと、机に座り込むようにして彼を見上げているフェルネットと目があった。その透明な甘藍石の瞳に内心を見透かされている気がして、目を逸らす。 そんな彼の様子には気づかず、マルタンは朴訥と続けた。 「兄はほとんど家から出られないにもかかわらず、心倦むことなく母を愛し、父を敬い、わたしを思いやってくれていた。家族の誰かが風邪をひけば、夜のうちに二山も向こうの薬草を泥だらけになって探してきたし、わたしが山で迷ったときには誰よりも早く駆けつけてくれた。わたしを捜している大人たちに見つかれば、自分のほうが危うかったというのに……。泣き続けるわたしに母の好きな輪鋒菊の花を差し出し、『母さんに渡すまで泣くのは我慢だよ』と笑って、麓まで背負ってくれた」 その背は温かかった、と彼は息を吐くように言った。 「ある日、兄が本当は父の後を継ぎたかったが、瞳のせいで諦めたと言い出した。わたしが炉の番をするから兄が打てばいいと答えると、兄は心から嬉しそうに笑った。わたしの頭を撫で、『おまえはきっと一人でも立派な刀剣工になれるから、おれは他のことをするよ』と寂しそうに微笑んだ目元をよく覚えているよ。その次の日、兄は見知らぬ男に連れられて村を出た。そこから先はお前さんがたのほうが詳しいだろう」 「よくご存知で」ルジェが肩をすくめた。 「二十年ほど前から、西からの客が来るようになった。男女を問わず、えらく別嬪ばかりでな。盲人のふりをしていた者もいたが、わたしにはすぐに兄の同類だとわかったよ」 「現政権になってルイ‐レミィの評価が転換したからな」皮肉げに呟いて、ルジェは酒に口をつけた。「どうせ、彼に心酔した者が聖地巡礼のごとくやってきたんだろう」 「彼らは遠巻きに村を眺めるだけだったが、わたしがルイ‐レミィの弟だと知ると好意的に接してくれた。皆礼儀正しく、紳士的で、噂に聞く吸血鬼と同じものとは思えなかった。お前さんは……」そこでマルタンは一度言葉を句切り、視線を宙へ彷徨わせた。 ルジェが不思議に思って眉を寄せると、相手は口元を抑えて小さく首を振った。 「いや、これまでの客に比べて静かだと……思ってな。いつもこちらが口を挟む隙もないぐらい、立て続けに兄の武勇伝を話されたものだから」 「黙ってたほうがいいこともある」静かに言い、ルジェは酒杯をなめた。 同族は基本的に饒舌だ。彼らは長い間、話術で人間を翻弄し、狩ってきた。ルジェもその気になれば早口言葉くらいはできたが、ルイ‐レミィのことはろくに知らないし、自分のことは言いたくもないから、語るべきことがないだけだ。 マルタンは彼の言葉に何を思ったか、深く感銘を受けた様子で頷いた。 「そうだな、余計なことを言った。……どうも、今日はよく舌が回るようだ」 「いい酒だからな」さらりと酒を呷る。焦がし樽の香りがしっかりとついた蒸留酒はルジェの口に良く合った。ヴァルツの酒精の強い酒より、こういった香味重視のほうが旨い。 マルタンはしばしの間目を細めてルジェを眺めていたが、「ああ……。本当に、よい酒だ」と自分も実に旨そうに呑んだ。 つられて酒に口をつけてから、ルジェはやっとこの程度の酒ならこの地では決して高くはないはずだと思い至った。それでもマルタンは心の底から旨そうに、ちびりちびりと酒をなめている。その飲み方がルジェは気に入った。同期と呑むとキツい酒を浴びるほど呑まされるが、もともとルジェは一人で嗜む程度に呑むのが好きだった。こうして酔う手前のところで少しずつ酒をつぎ足していくと、自分の体を上手く乗りこなせている気がする。 しばし穏やかに酒を酌み交わした後、マルタンは酷く真剣な様子で語り出した。 「二十年ほど前、村に美しい女吸血鬼がやってきた」語る声は低い。「彼女は熱心な兄の信奉者だった。何度も来るうちに村の若者と恋に落ちてな。盲目と偽って嫁いできた」 〔結婚したんですか!?〕それまで大人しく話を聞いていたフェルネットが、突然身を乗り出した。胸の前で手を組合わせ、〔そんなことできるんだぁ〕と目を輝かせている。 結婚という耳慣れない単語に、ルジェは目を瞬かせてマルタンを見た。 「……というと、肉体関係をもったうえに同棲までしていたと? 人間と?」 「有体に言えばそうなるか」苦笑してマルタンは続ける。「彼らは幸せな家庭を築いた」 夫婦はたまにしか姿を見せないとはいえ人柄もよく、人付き合いにも不審な点はなかった、とマルタンは述べた。彼は女の正体を知っていたが、黙って見守っていた、と。 「その年は作物が不作だったうえ、近くの村で疫病が流行ったということもあって、村全体が不安に包まれていた。そんな中、村の若者が坑道の奥で死んでいるのが見つかった。首を引き抜き、四肢を八つ裂きにされていた。明らかに人や獣の仕業ではなかった」 「魔物か?」 「遺体には一滴の血も残されていなかった」決まり悪げにマルタンは続けた。「この付近は昔から魔物より吸血鬼の被害のほうが多かった。人死にはおろか、山で子供が遭難しても吸血鬼の仕業と考えたんだ。わたしの母も……若くして不本意に兄を身籠っている」 ルジェは頭の中でこの付近の地図を展開する。確かに支部が近い。同族によって魔物の討伐が成されてきた一方で、歴史的にそういったことが繰り返されてきたのは事実だろう。昨今は規律が厳しくなるばかりだが、昔は地方官吏はやりたい放題だったと聞く。 頷いて異論がないことを示すと、マルタンは少し安心したように頬の力を抜いた。だがすぐに強ばった表情へ戻る。 「……人々ははじめに、村はずれにいつからかあった墓に目をつけた。あれが吸血鬼の住処ではないかと疑ったんだ。村人総出で墓を暴き、骨は二度焼かれた後に谷へ捨てられた」 〔どうしてそんな……〕フェルネットが悲しげに呟いた。 「昔話の吸血鬼と混同したのか。墓場に住み、棺で眠るという、くだらない作り話を」 「ああ。だがすぐに二人目の犠牲者が出た。村人はついに、彼女たち一家に目をつけた」 マルタンが拳を握りしめる。その顔には苦渋が浮かんでいた。 責める口調にならないよう、ルジェは冷静に口を動かした。 「人間が狂乱して我々を血祭りにあげるのはよくある話だ。だが、その女が一人で村を壊滅させたとは思えない。ここまでの破壊行為は常軌を逸している」 「彼女ではない。わたしたちも吸血鬼の対処は心得ている。村人たちは彼女を油断させて毒を飲ませ、磔にして心臓に杭を打った。夫も同様に。二人はすぐに死んだ」 なるほど……。ルジェはなんとなく酒杯を机に戻した。もちろんおかしなところはない。だが同族が騙されるというのだから、無味無臭かつ即効性の劇薬なんだろう。 薄ら寒い思いをしたのはフェルネットも同じのようで、そそと寄ってきた。 「彼女には幼い子供がいた」 低い呟きに、ぴたりとルジェの動きが止まった。 それに気づかずマルタンは続ける。「子供が吸血鬼の特徴を持っていると見るや、村人は同様に磔にして、心臓に杭を打血つけた。伝承では吸血鬼はそれで死ぬ。事実母親はそれで死んだ。にもかかわらず、その子供は死ななかった。何日も泣き叫び、生き続けた」 〔ああ〕と溜息のような切ない声がフェルネットから零れた。 「その間も人々は子供を罵り、唾を吐きつけて、石をぶつけた。近づこうとする者は一人もいなかった。鎖を解こうとする者も……。そうして十日目に、火を放つことが決まった」 ルジェは目を閉じて細く息をついた。口の中がひどく乾いていた。 窓からのぞく焼け焦げた磔台がどうしようもなく彼の心を乱す。目の前で母を失った子供。その姿が遠いあの日と重なった。 〔ルジェ。大丈夫ですか、顔色が……〕 下からフェルネットが覗き込んでいた。心配そうに見上げる顔は、ルイ‐レミィの話を聞いていたときよりもずっと真に迫っている。 小さく首を振って応え、ルジェは彼女を安心させた。 マルタンは組んだ手に額を押し当てていた。その手は震えている。「村の男たちが子供を取り囲んで火矢を射かけた。子供が炎に包まれた時、低い声が響いた。『幼子一人にここまでするか……生かせば見過ごしたものを』」呪詛のような呟きだった。 「『残念だ』、と」 次の瞬間、広場を囲んでいた家々が一つ、また一つと吹き飛んだ、と彼は言った。目にも留まらぬ速さで何者かが人々を放り投げ、四肢を引きちぎっては頭を潰したのだと。 「一瞬だった。本当に一瞬で、この村は壊滅した」 その声は震えていた。手を当てる額には脂汗が滲んでいる。 「わたしは倒壊した家の下敷きになって難を逃れた。這い出したときに見えたのは、親しい者たちの亡骸と、吸血鬼の子供を抱えて去っていく巨大な魔物の後ろ姿だった」 「魔物……?」ルジェが呆然と呟く。「魔物が喋った? ばかな。魔物は言葉を解さない」 マルタンは静かに首を振った。「わたしには見たものしか語れない」 「だがっ」無意識に語気を荒げ、ルジェは慌てて自分を制した。落ち着け、これ以上は動揺するな。マルタンが嘘をつく必要などないと、わかりきっているではないか。 マルタンは酒を口に含み、しばし黙考した。「……一人で剣を打っているとな、あの時、自分がどうすべきだったのかを考える。人として、兄の弟として、何を為すべきだったのか。……わたしには、妻と娘のために黙ることしかできなかった」 フェルネットがマルタンへ何か言葉をかけようとして、やめた。声が届かないからではなく、慰めても無駄だという気配が彼の周りに滲んでいたからだろう。 ルジェには慰めるつもりはなかった。代わりに酒杯に口をつけて淡々と問いかける。 「あんたがこの村に残ってるのは後悔からか? それとも誰かを待ってるのか?」 「……あの子供にはまだ息があった。生きているなら、いつかは帰ってくるかもしれない」 「その時にもこうやって昔話をして謝り倒すつもりか? そんな言葉が通じると?」押し殺したはずの感情が端々に滲み出していた。 「身勝手だと思うか?」 「ああ」真っ直ぐに問いかけられて、ルジェは反射的に睨み返していた。「それで命の一つでも差し出して満足するつもりなら、代わりに俺が一発殴って、ここから叩き出してやる。断罪を待ってるのはさぞや気が楽だろうが、さっさと諦めてやれよ」 〔ルジェ?〕フェルネットが怪訝そうに彼をうかがった。 ルジェは話すうちに感情が抑えきれなくなっていた。相手へ正面から苛立ちをぶつける。 「本当にその子供のことを思うなら、こんな場所、いっそ誰もいないほういい。憎いものを叩き潰した奴はなんであれ、そいつにとっては英雄だ。それで終わりでいいじゃないか。あんたは自分のくだらない感傷で、その英雄の所業にケチをつけているにすぎないんだよ」 「しかし……」 「俺たちには人間を殺すなんて簡単なんだ」その気になればな、とルジェは皮肉げに笑う。「あんたが今生きてるってことは、誰もあんたを恨んじゃいないってことの証でもある。……せっかく拾った命なんだ、全部忘れて生き直したほうが賢明だと思うがね」 がっと一息で酒を呷り、杯を机に叩き付けて彼は席を立った。 ◆ 夜になっても雨は止まなかった。 ルジェは黒眼鏡を窓辺に置き、分厚い窓硝子の向こうの歪んだ磔台を眺めた。群雲の中でも彼の目には炭化した木材がはっきりと見える。けれど風向きの変わった雨が窓硝子に打ちつけ、全てが黒く滲んでしまった。 「ん……」傍らの寝台でラトゥールが寝返りを打った。その周りには豊かな金髪が広がっている。雨音に紛れて穏やかな寝息が聞こえた。 この狭く簡素な部屋は、かつてルイ‐レミィが使っていたものらしい。あちこちにある小さな傷がその名残だろう。ルジェが手を置く窓枠にも子供のものと思われる爪跡がついていた。心なしにその傷を撫でていると、ふわりと真珠色の光が寄ってきた。 〔ルジェ、ちょっとお話ししましょう〕 眠らないフェルネットは夜をルジェと話す時間だと思っている。見張りの片手間に話し相手をしているうちに、異様に懐かれてしまったのだ。しかし今日のルジェはあまり相手をしたくなかった。面倒くさい気分をそのまま視線に乗せて睨んでみる。 けれどフェルネットは全く怖じけなかった。生真面目な顔で窓枠に腰掛けている。実際はその位置に浮いているだけなのだが、元が人間の彼女はそうすると落ち着くらしい。 〔さっきのルジェ、変でした。どうしたんですか? いつものルジェらしくないです〕 その諭すような口ぶりが、消えかけていたルジェの苛立ちを煽った。 「俺らしい?」きつく眉をしかめる。「俺らしいってなんだよ、お前に何がわかる」 〔わからないけど、わかります。さっきのルジェはなんていうか……わがままでした。ルジェはいつも、もっと――〕フェルネットは言葉を探してもがく。〔もっと、ちゃんと向きあって話をしてくれます〕 「それは……」中途半端に外面がいいだけだ。 そう言い返そうとする前に、フェルネットがたたみかけた。 〔ルジェはいつも真っ直ぐなことを言います。きついことも言うけど、それもよく考えると必要なことで。それって相手のことをきちんと考えてないと言えないと思うんです〕彼女はふわりと花のように笑った。〔だからずっと、すごいなぁって思ってました。優しい人なんだなって〕 「ちが……っ」否定が喉の奥で絡まった。同時に遠く聞こえる、母の声。 『あなたのお父さんはね、とても優しい人だったの』 幼い頃、たった一度だけ告げられた言葉。弱いくせに負けん気が強く、いつも生傷が絶えなかった彼へ、母が初めて語った父親に関するものだった。 『あなたにも、そんな人になって欲しいの』 幼心に何の疑いもなく受け入れていた願い。それが惚れた女の妄言だったと気づいたのは、父の名とその所業を知ったときだった。 「……違う。俺はそんな奴じゃない」 今だって、こんなにもお前を欺いているじゃないか。 重い断言をフェルネットは軽やかに覆した。 〔ほら、そうやってちゃんと注意してくれる〕彼女は無防備に微笑む。〔大丈夫、ルジェが言うことすることつれないのはわかってますから〕 ルジェはとっさに返す言葉に詰まった。何から否定しようかと考えて、どれもこの少女には通じないのではないかと思う。ここまで好意的に解釈されているとは思ってもみなかった。もう真実を話す以外に彼女の目を覚まさせることはできないのではないか。 そもそもフェルネットは疑うことを知らなさすぎる。人生の先達として手酷い目に遭う前にどうにかしてやりたいのだが、その手酷いことをしているのはルジェ本人だ。全くもってふざけている。ふざけたうえに胃まで痛いとは何事か。 彼が呆れと虚脱感の混じった複雑な沈黙から回復する前に、ふっと少女の顔が曇った。 〔……でも、さっきのルジェは変でした。まるでマルタンさんじゃなくて、他の誰かに話してるみたいで……。声も怖かったし〕 図星の一言だった。 ルジェはマルタンの話と自分の過去を重ね合わせていた。フェルネットが我侭と感じたのは、彼の主張が自分の経験に寄り添っていたからだ。普段ならこんな真似は絶対にしないはずなのに、ルイ‐レミィの件と様々な事象が重なって、手ひどい言い方になっていた。 苦く口を噤んだ彼を見て、フェルネットははっと我に返った。 〔ごめんなさい、お説教したかったんじゃないんです。ルジェの様子がおかしかったから、わたし、心配で……〕 おろおろと頭を下げられて、ルジェは小さく溜息をつく。彼は腹を括った。 「……わかった、俺が悪かった」額に頭を当てて呟く。「いくつか気になることがあって……それで、苛ついてたんだ」 〔気になること、ですか?〕フェルネットがきょとんと緑の目を瞬かせた。 「俺も子供の頃、目の前で母親を殺されてるからな。昔の自分と重なったんだろう」 フェルネットが大きな目を瞠った。そんな顔をするな、と言いたくなるほどに。 ◆ ルジェはヴァルツの最下層で生まれた。 母は娼婦だった。もとは軍の関係者だったが、ルイ‐レミィが軍に殺されたのを知るや、大きな腹を抱えて非合法の娼館へ逃げ込んだという。一人の女が軍に抗うには、ヴァルツの闇に紛れる他なかったのだ。名と姿を変え、身体を売って隠れ続けた生活は、それでも十年しかもたなかった。 母を殺したのは前総統の密命を受けた軍人だった。抵抗した母をいとも簡単に斬りつけ、少年だったルジェを散々に痛めつけた後、攫った。 前総統のもとへつれられていく間の記憶は曖昧だ。二人の大人に挟まれながら、彼らの軍服に付いた母の血の痕を見つめ続けていたことだけは覚えている。 ルジェの記憶は、総統執務室の扉が開いた瞬間から鮮やかに色づく。 むせ返るような血の臭いと、一面の血の海。扉脇に転がっていた生首は、銅像や張り紙で街のいたるところにある顔だった。 ヴァルツの頂点に君臨していた男の四肢が、バラバラになって床を転がっていた。 「お仕事ご苦労様。でも残念だけど、そんな命令を下した男はもう、いないんだ」 キィ、と正面奥にある執務椅子が鳴ってこちらを向いた。 その椅子には銀髪の少年が優雅に足を組んで座っていた。にこやかに微笑みを浮かべる顔は恐ろしいほど整っている。十歳のルジェとそう変わらなく見えるが、軍服を着ているから大人なんだろう。その両手は真っ赤な鮮血に染まっていた。 ルジェの両脇を固めていた軍人たちが動揺した。一瞬の隙を突き、掴まれた両腕を振り払う。がむしゃらに殴りかったものの、相手は軍人。すぐに押さえ込まれ、勢いで喉を掴まれそうになった。大人の力で勢いよく掴まれれば、簡単に首がつぶれるだろう。 思わず目を閉じた。 けれど、その手はいつまで経っても届かない。 恐る恐る目を開けると、二人の軍人はいなかった。正確には、彼らもまた引き裂かれて床を転がっていたのだ。まるで操り人形の糸を四方から同時に引っ張ったかのように、きれいに分解されていた。 ルジェの目の前には銀髪の少年が立っていた。 「ふうん」少年はつまらなそうな顔でルジェの頬に付いた血をぬぐい、ぺろりと舐めた。「総統就任後、初の謁見者が『この顔』とはね」 皮肉げに笑う、その美しい顔に殴りかかろうとして、ルジェは軽く床へ転がされた。全身が血に染まる。すぐさま起き上がり、もう一度殴りかかった。 「テメェ、なんで殺しやがった!? あいつらはオレが殺すんだ!」 片手で簡単に受け止められて、もう一度転がされる。今度は上から背中を踏まれ、起き上がれなくなった。 少年は鼻で笑ってルジェを見下した。 「君の事情なんか知らないよ。僕は僕のしたいようにしただけだもの」 「あいつらは母さんにッ――したんだ! オレが、オレがこの手で殺してやる!!」肺を押さえつけられながら、ルジェは切れ切れに叫んだ。 目の前に転がるバラバラ死体が許せなかった。こいつらだけは絶対に殺す、そう心に決めてここまでついてきたのだ。それをこんなにもあっさりと殺してしまった少年が憎い。軍人なんて大嫌いだ。死ね。全部死ね。死してなおいたぶられた母のように! わめき続けるルジェを少年が蹴り飛ばした。本人は軽く転がしたつもりのようだが、ルジェは背中を壁に強か打って呻いた。 「まったく。よく吼える仔犬だなぁ、 少年はうんざりと言って肩を揉み解した。それからふと、意外げにルジェを見下ろす。 「……っ、かあさっ……!」 「泣いてるの? もう、しょうがないんだから」 少年は緊張感のない足取りで歩み寄り、ルジェの傍らにしゃがみ込んだ。 母を呼び続けるルジェの頭に、血まみれの手が乗った。 「悲しめるなら泣いておあげよ。そのほうがずっと建設的だ。――復讐なんかよりね」 他人事のように呟いて、少年はルジェの頭をなでた。 たとえ彼が実父を殺めていても、その手は温かかったのだ。 ◆ 〔じゃあ、ルジェにはラトゥールさんが英雄なんだ〕 言われた途端、ルジェの眉根が素早く寄った。 〔に、睨まないでくださいよう〕 「……否定はしない」不本意にもほどがあるが、とルジェは必要な書類を読み上げるときの口調で告げた。フェルネットが緊張を解かないので、目元は険しいままなんだろう。 「一応、言っておくが、あいつは自分のしたいようにしただけで俺のことなんかこれっぽっちも考えてないからな。あいつの目的はあくまで復讐だ。それも、絶対的に完璧な」 〔完璧な復讐?〕想像がつかなかったらしく、フェルネットが目を瞬かせた。 ルジェは頷く。「あいつはルイ‐レミィを殺させたもの――自分の自尊心を叩き折ったもの、全てに復讐するまで終わらない」 彼の脳裏にラトゥールの薄ら笑いが浮かんだ。薄紅色の瞳には、復讐鬼らしい憎しみの熱はない。あるのはただ『やると決めたからやる』、それだけの意思だ。 「あいつはただ、自分の手掛けた行為が許せないだけなんだ。だから相手が改心しようが、とうに死んでいようが、気が済むということがない。究極ルイ‐レミィが生き返っても復讐し続けるだろう。それ以外に何もないんだ。俺を飼ってるのも、手駒として使うつもりがあるからだからな。……その辺は大体わかってる」 〔ルジェが何かするんですか?〕 「まだ当の下手人が生きてるからな……」ゆるゆると溜息をついて呟く。「あいつは、ラトゥールは、俺に殺されたいんだ」 ラトゥールは最後の総仕上げに、実行犯である自分を殺そうと思っている。ルイ‐レミィの実子であるルジェに殺されれば、それはそれは美しく完璧な復讐が完成するだろう。 〔ルジェは、その……〕 「絶対にやらない」 ルジェは素早く断言した。正確には『出来ない』のだが、それはこの際どうでもいい。心理的にも物理的にも人生的にも、彼には害にしかならない話なのだから。 何しろラトゥールは総統だ。総統を殺せば半ば強制的に次の総統に祭り上げられる。そしてあっさり暗殺されるのだ。ヴァルツではそうやって革命から五十年の間に三十人もの総統が移り変わってきた。後半は前総統が十三年とラトゥールが二十年治めているので、ほとんどが始めの二十年足らずで死んだ計算だ。中には就任三秒という例もある。決して資質に秀でているとは言えないルジェがそんなことをしようものなら、即座に他の甲種に首を掻っ切られるだろう。 無論、それだけが理由ではないが。 ルジェは生まれる前に死んだ実父の仇を討とうと思うほど、義憤に滾る男ではない。遭ったこともない英雄より、性格は最悪とはいえ養父のほうがまだ愛着がある。だからこそ武術ではなく魔法を選んだのだ。使えない男だと、早く見切ってもらえるように。入軍しても目立たないよう、慎重に慎重を重ねて生きてきた。『五割の男』と呼ばれるほどに。 そのとき寝台から、ふふっと女の笑い声がした。 「八割がた正解ってところかな。それだけの材料でよく推測したねぇ」 フェルネットが体の元へ飛んでいった。〔黒ちゃん、いつから聞いてたの?〕 「大分前から。人間の寝息も聞き分けられないなんて、吸血鬼のくせにとろいよね」 少女の肉声をさもラトゥールのように響かせているのは、フェルネットの肉体を間借りしている黒精霊だ。寝台の上に身を起こし、欠伸をしながら伸びを一つ。 「『絶対にやらない』……か。ほんと保守的だよね、君って」 「ラトゥール」 「でもまだわかってないみたいだね。なんのために彼が自分の模倣物を後生大事に抱えてたと思うんだい?」少女の顔に挑発的な笑みが浮かぶ。「自分がもたなかったときの保険だよ。へたれ息子が腹を括るまでに崩我してしまったら、元も子もないからね」 「ありえない」ルジェは反射的に言い切った。「俺には無理だ。だって、俺は――」 「そんなのは彼とて重々承知さ。ま、今となってはその計画もどうなったことやらだけど」 ね、フェルネ。とラトゥールは傍らのフェルネットへ向けて片目を閉じた。ルジェの位置からだと光の塊に話しかけているように見える。 ルジェは怯む自分を自覚しながら、その横顔へ囁くように問いかけた。 「……ラトゥールは、ルイ‐レミィが混血だと知っていたのか?」 「当たり前でしょう。彼はルイ‐レミィの監視役だったんだから」さらりと答え、ラトゥールがルジェを一瞥した。小馬鹿にした視線の中に、少しだけ真面目な色がある。 「俺のことも……」 ずっと庇護してくれていたのか? とは聞けなかった。 ヴァルツでは混血児は存在しないことになっている。実際は零ではないのだが、そういうことになっているのだ。ルイ‐レミィが育った頃は、五十年周期で起こる魔物の襲撃とその後の革命で人員が激減し、軍が徴兵制から徴官制になった混乱期だった。士官学校生が一気に増え、その混乱に乗じることもできたのだろう。だが今は違う。安定した時期にこそ、異物は敏感に察知されるはずだ。なのに誰もルジェへ疑惑を抱かなかったのは、いや口にできなかったのは、彼の後ろにラトゥールの権威があったからだろう。 総統の養子でも、特別扱いなど一つも受けていなかったと思っていたのに。 「……それは、彼が答えるべきことだね」 沈鬱に黙り込んだルジェから顔をそむけるようにして、ラトゥールは毛布に包まった。 ◆ 翌朝、短い眠りから目覚めたルジェは室内で軽い運動をして身体を慣らした後、念入りに指先の感覚をほぐした。もう昨日のようなことがあってはならない。鍵盤を弾くような動きを何度も繰り返し、拳をぐっと握りこむ。いつもなら最後の仕上げに飼い猫の背を撫でているのだが、旅先ではそうもいかないので、いまいちしっくりこなかった。 仕方なく自分の髪を弄っていると、窓からラトゥール、いや正しくはフェルネットの姿が見えた。近くの井戸で身を清めてきたのか、彼女の淡い金髪は艶やかに濡れていた。フェルネットの毛質は柔らかく、ふんわりとしていて嵩があり、毛足の長い獣に似ている。 あの繊維のような毛束を撫でたら少しは代わりになるだろうかと思っていると、少女の周りをくるくると飛んでいた真珠色の光がこちらへやってきた。どうせまたラトゥールが恥じらいもなく水浴びをしていたなどと報告に来るのかと思ったら、本当にその通りのことを言ったので閉口する。そろそろラトゥールには文句が通じないとわかってきたらしい彼女は、その鬱憤を全てルジェにぶちまけてきた。 〔聞いてくださいよ、ルジェ!〕と、お決まりの文句を連呼するフェルネットを適当にあしらって旅支度を調える。ラトゥールはきっとあのままふらふらと出ていくつもりだ。また見失ってはたまらないと、ルジェはフェルネットを先に追わせて、急いで部屋を出た。 作業場のような土間にはマルタンがいた。 「おはよう。早いな、もう出るのか」 挨拶もそこそこにルジェは頭を下げた。「昨日は言い過ぎた。どうか忘れてくれ」 「いや、貴重な意見だったよ。恨まれていればとっくに殺されていると言われて、目が覚める気がした。やはりお前さんがたのことはお前さんがたが一番わかっているな」 しみじみと頷かれたが、よく考えるとあまり褒められていない気がした。 「一晩考えてみたんだが、やはりわたしはここにいようと思う」マルタンは呟き、ルジェのために玄関の戸を開けた。「お前さんは『誰を待っているのか』と言ったが……わたしはきっと、誰か一人を待っているわけではないんだ」 ルジェはその時、初めてマルタンの顔を正面から見た気がした。 「ここは私たち皆の故郷だ。あの一件以来、皆ここを恐れて散り散りになってしまったが、彼らの多くがこの村に家族の墓と記憶を持っている。いつか彼らとも共に酒を酌み交わしたいと、私は願っているんだ。そしてできるならば、あの子とも」 穏やかな顔には年相応の老いがあった。その眼にある悲しみも憎しみも、共に老いて風化し、余分なものは綺麗に洗われて、静かな記憶となっている。 彼の目尻に浮かんだ笑い皺を見て、ルジェは改めて人間なんだなと思った。 マルタンは背後を振り返り、朝日に照らされた廃村を眺めた。 「それに、兄の墓も守っていきたい」 「……それもいいかもしれないな」 ルジェは静かに答えて戸をくぐった。黒眼鏡をしていても朝日が眩しかった。 餞別だと言って、マルタンは紙に包まれた食糧らしいものを渡した。その匂いから麺麭に昨日の鳥を挟んだものだと分かる。 「最後にひとつ、頼んでもいいか?」 「なんだ?」 マルタンは少しためらってから、ルジェの顔をまっすぐに見つめた。 「その眼鏡をとってくれ」 「……構わないが、いいのか?」 マルタンは静かに頷いた。幼い頃から兄の目を見ていたからと、少しだけ緊張した面持ちで告げる。 ルジェは下を向いて黒眼鏡を外した。視界がぱっと明るくなる。すぐに瞳孔が細く窄まり、ほどよい光量に調節した。人間には恐ろしい猫の瞳に見えるはずだ。 そっと顔を上げると、マルタンは目を細めてルジェの薄紫の瞳を見た。 「やはり、別人だな。兄の目は青かったし、右目の下に黒子があった。……お前さんのほうが別嬪だよ」 ルジェがどう答えるべきか迷っていると、相手は少しだけ寂しげに微笑んだ。 「始めは亡霊になって帰ってきてくれたのかと思ったが……――いや、良い酒が飲めて嬉しかった。機会があれば寄ってくれ、また飲もう」 「ああ、また」 ルジェはゆっくりと頷いてマルタンを見つめ、それから身を翻した。 |
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