▼標的ターゲット1・狂愛の母


【証言記録音声〇〇三:ロベルト・ロイ執行大佐】

 えーと、第三乾月六日、時刻は〇一〇〇。東部第八支部にて口頭記録開始。
 武官号ナンバー三三一五二八、ロベルト・ロイ。第七一憲官隊所属。
 『これより私はヴァルツ大憲法のもと、事実のみを証言することを誓います』、っと。
 ……で、どこまで話したっけか。飯食ったら全部飛んで――ああ、総統閣下のお試し審判ジャッジまでだっけ。あの時は本当に参ったよ。新人君ってば、閣下のおふざけに思いっきり引っ掛かっちゃってさあー。『あれは絶対黒だ!』って大騒ぎすんだから。おかげで上が再調査することになって、俺まで隊長に怒鳴られるわ殴られるわ――あ、これさっきも言ったっけ? まあいいや、とにかくひと悶着あったわけ。
 その影響か、次の任務で飛ばされたのが超絶僻地にあるルモルトン邸でさぁ……ってコレ、言ってもいいの? 一応ウチにも守秘義務ってモンがあるんですけど、大丈夫?
 そ。ならいいけど。

     ◆

 俺たちが訪れたルモルトン邸は、ヴァルツの東南、第二山脈と第三山脈の谷間にある。
 この辺までくると多少は植物があっていいね。背丈の低い木や草が斜面に張りついてて、たまにちっさい花なんか咲かせてる。その代わり谷風がバカみたいに強くて、唸り声みたいな音が四六時中吹いてるから、頭が痛くなるけどな。今となっちゃ人気のない僻地だけど、旧ヴァルツ都墟からも近いし、昔は結構なご領地だったのかもしらんね。
 ご存知の通り、ルモルトンと言えば三大公の名家様だ。現当主――って言い方も古いけど――ラルテ・ルモルトン女史は、軍の将校も勤めた第一級の甲種様様。とはいえ前線で片足を失ってからは予備役に回って、娘のピルラとのほほんと田舎暮らしを楽しんでる。
 今回の任務は彼女の定期検診だった。検診ってのもおかしいけどな、ウチではこう言う。定期ならちょっとした変化しかないから、新人の初陣にはもってこいだ。今回は前任者からの引継ぎ物件でもあったから、ほんと、ただの顔見せのつもりだった。
 俺たちの突然の訪問を、ルモルトン女史は温かく迎え入れてくれた。……いや訂正。正確には結構な間、気づいてくれなかった。到着したのが真昼で寝てたらしくてさー。
 俺たちは任務上、事前に訪問予告ができない。到着前に証拠を消されたり、替え玉と入れ替わられたり、仮病で寝込まれると困るんだ。突然行っても堂々と『死にました』とか言われたこともあるしな、本人に。
 だから今回みたく訪問を気づかれないと、ひたすら放置の憂き目に遭います。俺はこのぐらい慣れっこだけど、新人君はそうじゃなかったらしく、門の前で、
「冗談じゃないですよ! こんなきつい陽射しの中で放置されたら僕、すぐに干乾びます。すぐですよ、すぐ! ど田舎で男に看取られて死ぬなんて、絶対に嫌ですからね!」
 即行で駄々をこねやがった。うぜぇ。
 新人君ことウィリアム・リダーは虚弱体質で、どんくさいわ、ちょっと走ればぶっ倒れるわ、煙草の煙で呼吸困難になるわと、ヘタしたら人間より弱い……かも。うん。
 そのせいか、とにかく死ぬ死ぬ発言が多い。暑いと死ぬ、寒いと死ぬ、荷物が重くて、くい過ぎで、俺の運転が荒くて死ぬ。本人に悪気はないんだけど、前線も知らないガキにあんまり刺激的なことを連呼されたくないんだよなぁ。ま、死ね死ね発言よりマシだけど。
 俺は軍用車の前部の上に座ったまま、あきれ半分でリダー君に声をかけた。
「お前なぁ、昔話の吸血鬼じゃあるまいし、日光で死ぬとかありえないから」
「ありえるのが僕なんです! 先輩は僕の虚弱体質をなめてます!」
 黒髪の奥の青い目に涙をにじませて、リダーがにらみつけてきた。その子供っぽさの残る平凡な顔は、「これだから武官は脳筋で困るんだ!」とでも言いたそうだ。
 リダーは首の編み上げリボンが目印の文官クンだ。開襟の上着の下に、いつも真っ白な詰め襟の胴着を着て、首の一番上まで部隊色の細紐できっちりと締め上げている。几帳面な結び方がいかにも優等生! ってかんじだ。
 このリボン、武官の俺には窮屈にしか見えないんだけど、薄布一枚で首を隠しただけじゃエロいっつーか、だらしないっつーか、軍人として締まらないからこうなったんだってね。俺に言わせると逆にエロエロしいんだけどさあー。前に若い子にそう言ったらオッサン呼ばわりされたんで、黙ってるけど。
 リダーは門へ近づくと上を向き、黒い手袋をした両手を口元へあてて叫んだ。
「すみませーん! 誰かいませんかぁー!」
 俺たちの前には絶壁みたいな大門が立ちふさがっていた。表から見るに、山の斜面を丁寧に削ったあと、半円の城壁で囲って、正面に門を置いたんだろう。山側にはひたすら高い壁が続いていて、壁の上にも門の上にも、ちょっと引っかけたらスパッといきそうな槍が並んでる。空気の巡りが悪そうな作りだけど、魔物の脅威を思えば仕方ないのかね。
 で、この門がさっきから全然開かない。呼べど叫べど応答なし。こじ開けようにも、扉は重いし頑丈だし、漆喰を塗り込められた壁の表面はつるっつる。さすがは長年魔物の侵入を防いできただけはあるよ。
「すみませえー――むげっ!?」
 いきなりリダーが素っ頓狂な声を出してぶっ倒れた。
 すわ敵襲か! と俺が喜び勇ん――とと、慌てて立ち上がったところへ、大きめの球がぽーんと跳ねてきた。危なげなくつかまえてみれば、綺麗な刺繍がされた鞠で。
 俺は魔物の気配がないのを確認してから、顔面を押さえて悶絶する後輩と、女の子向けの鞠を見比べた。えーと、門が開いた形跡がないってことは。
「む、向こうから、何かが飛びこえてきて……っ」
「避けろよ……」
 これだけ高い門をこえてきたんなら、落下までにかなりの時間があっただろ。それをよりによって顔面に食らうとか、どんだけどんくさいんだ、こいつ……。
 俺がリダーを助け起こした、ちょうどその時、でっかい門がゆっくりと開いた。
 隙間から寝間着姿の貴婦人が顔を覗かせる。癖のある長い銀髪が印象的な美女だ。肉付きのいい体をゆったりとした服が隠している。その腰には幼い女の子がくっついていた。
「あらまぁ大変、人がいらしたなんて。坊やたち、お怪我はなくて?」
 おっとりと驚きながら、婦人は優雅に小首を傾げた。その首元からコクのある甘やかな香りが漂ってくる。鉄の杖をついてるから、彼女が館の主ラルテ・ルモルトン女史かな。
 婦人の淡い緋色の目が俺達の腕章を捉えて、一瞬、細い瞳孔を開いた。
「七一の方ね……。もうそんな時期でしたか。いつもの方とは違われるようですが?」
 俺が答えるより速く、リダーが慌てて背筋を伸ばした。堅苦しい動きで敬礼する。
「はっ、前任者の都合で、此度より我々が担当させていただくことになりました!」
 で、そのまんま硬直。緊張で頭から手順が吹っ飛んだらしい。あーあ。道中必死に確認してたのになぁ。
 よし、お前、ちょっと引っ込んでろ。
 俺は片手で軽く後輩を制して、彼女の前に進み出た。笑顔で軍帽を取る。
「お初にお目にかかります、ルモルトン女史。私はロイ。執行大佐を勤めております。こちらは書記見習いのリダー。いつも通り、数日間の滞在をお許しくださいますね?」
 初見は礼を失さない程度に、強引に行くのがコツだ。ここで断られると後が面倒だからな。元貴族は弁が立つから、こっちも気を引き締めてかからにゃならん。
「もちろんです。お断りする理由などございませんわ」たおやかに、毅然と女史は答えた。
「ご協力、感謝いたします」
「あっ、ありがとうございました!」上擦った声でリダーは敬礼。お前は敬礼しかすることがないんかい、とか言いたくなるが、新人なら誰でも焦って当然か。相手はラトゥールに並ぶ上一級の甲種サマだ。気の小さい奴は目を見ただけでタマがすくみ上がるだろう。
 女史の腰にくっついてた金髪の女の子が、母親の服をぎゅっと握りしめて後ろへ回った。
「お母さまぁ……。ピルラ、黒い服の兵隊さん、恐いですわ」
「失礼なことを言ってはなりません、ピルラ。彼らは軍人です」
 それを聞いたリダーがまたびしっと敬礼して、「お嬢様、我々は総統領第七一け――」
「娘さんですか? 可愛いですねぇ」
 野暮な自己紹介を、俺はあえてぶった切った。子供だってバカじゃないんだ、俺たちが何かぐらい知ってるだろう。それをわざわざ名乗って怯えさせるなんて、鬼畜の所業だ。
 俺の間をもたせるだけの質問に、ルモルトン女史は首を横へ振った。
「この子は親戚の子です。わたくしには子供がおりませんので……」
「養子ですか。由緒ある家柄ではよく見かけますね」
 そういえば、彼女は四十そこそこの見た目に反して、六十の大台に差し掛かっていらっしゃるのでした。せいぜい七、八歳のこの子なんて、娘ってより孫だよな。
 俺は軍服の上着を脱いで小脇に抱えると、その場にしゃがみ込んだ。腰に下げた剣を上着でうまく隠して、笑顔で毬を差し出す。「はいどうぞ。この鞠、お嬢ちゃんのだろ?」
 ピルラちゃんは女史の後ろからこわごわとちっちゃな顔を覗かせた。細面の顔の中で、大きな薄紅色の目が瞬く。さっすが甲種、めちゃくちゃ可愛い。真っ白な肌とネグリジェに金髪が映えて、天使みたいだ。将来はさぞや美人になるんだろうなぁー。
「お兄様たちは恐いこと、なさいません? ピルラと遊んでくださいますの?」
 うあ、お兄様だって、お兄様! つたない敬語に脳味噌が溶けそうです、俺。
「もちろん。こっちのお兄ちゃんが馬でも犬でも、何にでもなってくれるから、好きなだけ遊んでいいよ」と隣で石化中の後輩を指さすと、奴は魔法が解けたみたいに動き出した。
「ちょっ、先輩、勝手に何言ってるんですか! 任務中ですよ!?」
「堅苦しいこと言うなって。今日は顔見せだし、仕事は明日からにしよう、そうしよう!」
「自分がサボりたいだけでしょう。真面目にしてください!」目をつり上げて怒られる。
 今日は遅いしと俺が口を尖らせると、奴はもっとギャンギャンになった。子犬かお前は。
 しっかし文官って自由だよな。武官は躾が厳しいから、上官に意見なんてしようもんなら即行でビンタとられっぞ。あ、俺はやらないけどね、こいつ弱いもん。
 言い合いをしているうちに、脅威はないと判断されたらしい。ピルラちゃんがてててっと寄って来て、俺から毬を取り上げた。そのまま大きな目を輝かせてリダーを見上げる。
「本当にピルラと遊んでくださいますの? ちい兄様?」
「うっ」美少女のおねだり攻撃に、さすがのリダー君もたじたじだ。
 だがそのやりとりを鋭い声で制したのは、ルモルトン女史だった。
「ピルラ、お客様に無理を言ってはなりません。もう遅いのですから、休まないと」そして俺たちへ小さく頭を下げる。「すみません。この子は夜寝の癖が抜けなくて、昼が遅いのです。今も一人で遊んでいて、鞠が飛んでいったと起こしに来て……」
「ピルラ、全然眠たくありませんの。もっと遊びたいですわ!」
 ピルラちゃんの目はランランしてた。これは夜寝云々じゃなく、小さい子特有の、三日ぐらいぶっ続けで遊びまくるときの顔だ。限界まで遊んでパタッと倒れるっていうアレ。
「ピルラ、わがままはいいかげんに――」
「まあまあ。いいじゃないですか、女主人マダム」俺は二人の間に割って入って、女史の端正な横顔に耳打ちした。「実は新人教育も兼ねておりまして。少し解してやりたいのです」と、そつのない事を言ってみる。本音は堅苦しい時間をなるべく減らしたいだけだけど。
 そんな俺の思惑を知ってか知らずか、女史は薄緋の目を細めて、からかう様に微笑んだ。
「……面白い方。それで貴方が怒られないのなら、喜んで」
「耳が痛いな。確かうちの連隊長と同期なんですよね、ルモルトン中将。貴女の武勇伝は前線でもよく耳にしましたよ」
 ラルテ・ルモルトンといえば軍の成立期を代表する武官だ。平常の穏やかな姿と裏腹に、こと戦闘となると鬼のような強さだったらしい。出自が旧大公家というのもあって、革命で一時は日陰に追いやられてた貴族たちを甲種という使える駒だと証明した一人でもある。
「すべては昔の事です。今となってはこの足ですもの」
 彼女はネグリジェの長い裾を払って、右脚を見せた。
 そこに足はなかった。足の代わりに一本の鉄の棒が地を穿っている。
 無骨な鉄棒は上品な彼女にひどく似合わなかった。ヴァルツの技術ならもっと良い物が作れただろうに、甲種ゆえ、見た目よりも強度を優先したんだろう。
 とりあえず、男としては目を伏せておいた。
 女史は裾を戻すと長い銀髪を後ろへ払った。肉感的な唇がきゅっと口角を上げる。
「今では私などより貴方のほうが有名ではないかしら。ねぇ、『前線の死神』さん?」
 げっ、知られてた!
 俺が止める間もなく、ピルラちゃんの相手をしていたリダーが素っ頓狂な声をあげた。
「え? 先輩があの有名な? 『師団潰し』とか『死線の誘い師』とか『死の嚮導軍曹』とか、さんざん酷い名前で呼ばれてる、あの!?」
「またなんか増えてるし」俺は思わずこめかみを押さえた。
 ええと、前線にいた頃なんだけど、俺がいた部隊はなぜが壊滅した。どれだけ危険度の低い任務でも、たった一度の例外を除いて、確実に、だ。おかげで前線を離れて七年も経った今でも、あだ名が一人で遠征中っていう……あー、頭痛いわー。
 リダーが慌ててピルラちゃんを引き寄せて、俺から距離をとった。「真っ赤な髪の悪魔みたいな男だとは聞いてたんですけど、先輩だったなんて! 僕、生きて帰れますよね?」
「悪魔て。安心しろ、中央では一度もないから。……魔物が出たらわからんけどな」
「遭遇しないことを死ぬ気で祈ります!」
 ちょっとふざけただけなのに、神妙な顔で頷かれた。い、いたたまれない……。
 急におとなしくなったリダーを好機とみて、ピルラちゃんが奴の腕をつかまえた。
「さあさ、ちい兄様、ピルラと遊んでくださいましな!」
「じゃあリダー君、後は任せたから。おやすみ〜」
「え、先輩それズル――ってうわ! ピルラちゃん、引っ張らないでー!」
 ピルラちゃんに足から摩り下ろしそうな勢いで引っ張っられながら、「やっぱり悪魔だー!」と叫ぶリダーへ、俺は満面の笑顔で上着を振ってみせた。

     ◆

 上着の襟元を留め直しながら、俺は赤岩を組んで作られた城館を見上げて唸った。
 正面から見るとヴァルツの総統府に似てる。左右対称で、中央が山形になってるとこや、両端に塔が張り出てるとこがそっくりだ。総統府の縦横をぎゅっと縮めて、山腹にぽこっとはめ込んだってかんじ。きっと建築様式が同じなんだな。
 大きく違うのは色だ。どっちも荒野の土で作ってあるんで、赤いには赤いんだけど、こっちは岩の隙間を赤黒い漆喰らしき物で固めているから、近くで見ると城全体を黒い紐が這い上がっているように見えて、妙な迫力があった。
 これまたでっかい鉄扉をルモルトン女史が押し開けると、石造りの床でカカンと硬い音が二つ鳴った。一つは女史の杖、もう一つは義足だ。
「さあ、お上がりください」ほの暗い玄関を女史が先導する。
 優雅な内装の玄関には、甘い香りが漂っていた。古惚けた木材みたいな温かさがあって、不思議と胸が騒ぐ匂いだ。香でも焚き染めてるんだろうか。
「もう遅いので、お客様の寝室へお通ししますわね」
「は。お心遣い――有難う『あります』」
 ……ってうえ!? 俺は慌てて口を押さえた。「し、失礼しました。昔の癖が……」
「前線言葉ね。懐かしいですわ」
「お聞き苦しい限りです」
 女史は気にしてないみたいだが、俺はそうはいかなかった。なんで今ごろ前線言葉が出てくるんだよ。中央で散々『耳障りだ』って言われたから、必死になって直したんだぞ。最近じゃ使いたくても忘れてきたってのに、何もこの場で出ることないじゃないか。旧大公家のご主人様の前で、さあ!
 冷や汗タラタラの俺をつれて、女史は館の中を簡単に説明した。
「三階より上と地下は使用しておりませんので、行き届かないところもあると思いますわ。もちろん、入るなとは申しませんけれど……気をつけて下さいね。今はこの館も人がおりませんから、迷われるとすぐには見つけられませんので」
「承知しました」俺は慎重に口を開いた。大丈夫、さっきのはちょっとしたミスだ、ミス。
 総統府もそうだけど、ここも中は複雑みたいだ。旧貴族の敵は魔物だけじゃなかったから、いろんな事態を想定して作られてるんだろう。ヴァルツも地下は非正規の居住や通路が縦横無尽に広がってて、迷宮みたいだもんな。軍の手が届かない裏社会すらあるとか。
 そういやガキの頃に何度か迷子になったっけ、なんて考えながら暗い廊下の壁を見ると、一際大きな絵があった。細窓から昼の光が差しこんで、絵だけを浮かび上がらせている。建物そのものの装飾に比べて調度品が少ないせいか、その絵は不思議と目についた。
「ご家族の肖像画ですか?」俺は足を止めた。
 描かれているのは幼い銀髪の少女と、その母親と思われる人物だった。
「ええ、私が五つの頃のものです。左が私で、右手に座っているのが母のマルムですわ」
 六十間近のルモルトン女史が五つなら、革命寸前かな。大公家の栄光輝やかしき時代ですね。……とか言うとうっかり皮肉にとられそうなんで、俺は黙って絵画鑑賞に努めた。
 日没後の淡い光の残る空を背景に、緑豊かな庭園が描かれている。手前には繊細な透かし彫りの入った白い椅子と丸机が置かれていて、その隣に幼いラルテが立っていた。ひだ飾りと金糸の刺繍がふんだんについたドレスを着て、幼いながら淑女然と微笑んでいる。面影のある幼い顔は目鼻立ちがはっきりとしていて利発そうだ。銀の髪は今よりもくるくると巻いていて、夕暮れの紫とわずかな橙色に染まっていた。
 右の少し奧で椅子に腰掛けている女性は細面の儚げな美人だった。見事な金髪を上品に結い上げて、ラルテ同様きらめかしいドレスを纏っている。華奢な体を椅子に預けて微笑む彼女の視線は、愛娘へと愛しげに注がれていた。
「二人とも、幸せそうなお顔をしていますね」
「――そうですか?」
 どこか無防備に訊き返されて、俺は返事に困った。絵のことなんぞこれっぽっちもわからないから、適当な感想を述べてみただけなんだけど。「え、いや、そう見えませんか?」
「……私には、母が幸せだった記憶があまりありませんので」俺の視線から逃げるように、ラルテは淡い睫毛を伏せた。この絵を見てもよくわからないと彼女は言う。「母は、大公家の娘としてしか生きられない人でした。一人では何もできなくて……不幸な生き方をした人でした。特に、弟が生まれてからは」
「弟さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ。幼い頃に別れましたが……。あの子もかわいそうでしたわ」
「かわいそう、ですか」
「俗に言う世の流れというものに、我が家は抗いきれなかったので」
 俺は一瞬ピンと来なかった。「――ああ、革命ですか。激動の時代だったそうですね」
 当時、貴族は権威を剥奪されるだけじゃなく、領土や財産のすべてを没収され、人間と関わる商売は即刻停止された。散り散りになった家族も多いと聞く。
 このへんの話は旧貴族にゃ地雷なことが多いから、俺はつるっと話題を切り替えた。
「ところで、お母上はどことなくピルラちゃんと似ていますね。近い血縁なんですか?」
 マルム女史は細面の美人だ。艶やかな金色の髪や、小作りな口元がピルラちゃんによく似ている。体つきも豊満なラルテ女史より繊細で、風が吹けば飛んでいきそうだった。
 女史は静かに頷いた。「ルモルトンの血筋でなければ、意味がありませんので」
「それもそうですね」
「では、そろそろ参りましょう」俺の興味が絵から離れたのを察して、女史は歩みを進めた。「お連れ様は隣の部屋でよろしいですね。何かお召し上がりになるのでしたら、軽いものをご用意しますが」
「食事は済ませましたので、結構です。あ、できれば体が温まりそうな物を少し……」
「葡萄酒でよろしければ客室の戸棚にご用意してございますわ。ご自由にお嗜みを」
「さすがは中将『殿』。心中掌握巧みの事、まことに恐れ入り――あっ」
 またか!
 俺はとっさに自分の頬を引っ叩いた。「申し訳ありません。今までこんなことは……」
「いいえ」ラルテ女史はなだめるように首を振った。「もしかすると貴方はとても鼻が良いのかもしれません」彼女は爪の綺麗な手を壁へ伸ばし、指の腹でゆっくりと黒い漆喰を撫でた。「この館は漆喰に魔物の臭いを含ませてあるのです。古い魔物避けの方法で、縄張り意識を逆手に取ったものなのですけれど……」
「なるほど。それでこの館の中はこんなにも――胸が騒ぐんですね」
「前線を思い出されるのでしょう。貴方は魔物に敏感なのね」
 臭覚を研ぎ澄ませると、甘いようなすえたような、不思議な匂いがする気がした。
 けれどラルテ女史の香水がそれを打ち消してしまう。淫らな花を思わせる、甘く、僅かに苦みのある香りが絡み付いてくるようだった。
「よくわからないな。正直、貴方の香水に惹かれてしまって」
「お褒めに預かり光栄ですわ。これにも同じ香料が使われていますの」女史は穏やかに微笑んだ。「我が家は古くは香料商を営んでいました。魔物の香嚢を麝香の一種として人間に卸していたのです。魔物の臭いはとても嫌なものですけれど、希釈すると甘く官能的な香りになります。今は軍の専売ですが、金や香辛料よりも高値で取引されているのですよ」
「ああ、香料の輸出産業があるとは存じておりました。てっきり合成香料だと思っていたのですが、魔物とはね。魔物避けの被服香料もこれですか?」
「ご明察です。貴族制がなくなり、家財が根こそぎ軍に奪われた後も、この香りが私たちを守ってくれていたのです。我が家の宝ですわ」
「素晴らしいお話で『あります』なぁ……」……もういいや、気にすんのやめよう。
 まさか匂いで訛りが戻るとはなぁ。ここにリダー君がいなくて良かった、あいつは文官のへなちょこ教育しか受けてないから、突然『貴様』呼ばわりされたらびびっちゃうよ。
 二階の角部屋まで案内を済ませると、女史は優雅にネグリジェの裾を持って一礼した。
「それでは、こちらの部屋へどうぞ。私はこれで失礼しますわ。また、夕刻に」

     ◆

 それから俺は頭を切り替えようと、戸棚から酒瓶を引っ掴んで露台へ出た。酒精度の低い葡萄酒じゃろくに酔えないが、血の巡りぐらいは良くしてくれるだろ。
 石造りの手すりに座って上着の襟元を緩めていると、だだっ広い庭の真ん中でぽつんと立っていたリダーが俺を見つけて走ってきた。庭には銅像がいくつかあるだけで、草木の類は一本もない。俺から奴を見つけるのも、奴から俺を見つけるのも簡単だった。
「先輩! ちょうど良かった」軽く息を切らせてリダーが下から俺を見上げた。
「一人でどうしたんだ。かくれんぼでもしてるのか?」
「鬼ごっこなら散々しましたよ。体がもたないから早々に切り上げてもらったんですけど、どこに行けばいいのか分からなくて困ってたんです」
 ひょいと飛び上がって、リダーが露台の端にぶら下がった。どんくさいかんじでよじ登ってくる。ひとっ飛びは無理でも、もうちょっと勢いを殺さずに上がれんのかね。
「俺の場所がわかんないってさ、お前、耳も悪かったっけ?」
「嫌味はちゃんと聞いてみてから言ってください。谷の風がうるさくって、人の足音なんてわからないですよ。住人の方には悪いですが、薄気味悪い所です」
「確かにちょっとうるさいよなぁ。――ああ、俺もご婦人らの居場所、わかんねぇや」
 耳を澄ませると、近くの谷風がわんわん唸ってて頭がおかしくなりそうだった。こりゃ、無意識にかなり抑えてるな。鼻もダメ、耳もダメとなると、だいぶ勝手が変わりそうだ。
 リダー君は登り切ったところで力尽きて、手すりにもたれかかっていた。
 俺は瓶を片手に懐をまさぐる。「子守りお疲れ。ご褒美に飴ちゃんをあげよう」
「結構です。子供じゃないんですから、ピルラちゃんにでもあげてください」
 へたれのくせに口だけは強気だ。こういうとこ、誰かを思い出すんだよなー。
「安モンだから、ご令嬢のお口に合うとは思えんがなぁ。この酒もスゲー美味いぞ。テア産の白葡萄酒は最高級品だからな。人間用なんでまったく酔えないけどさ」
「ヴァルツのお酒ってほとんど燃料ですもんね」奴はさも不味い物のような言い方した。
「おんやぁ? お前、まさか酒も呑めないとか?」意地悪く笑ってみる。
「そっ、そんなことあるわけないじゃないですか! ただちょっと眠くなるだけで……」
 慌てて否定する顔が真っ赤で、俺のニヤニヤ度が更に上がった。
 俺たちは酒精の分解が速いから、酒は栄養のある水って意味合いが強い。たとえ酔っ払っても、ちょっといい気分になるだけだ。人間だとラリって凄いことするらしいけどな。
「弱い奴は気をつけろよぉ。泥酔したときって、血に餓えたときと似たことになるらしいから。手当たり次第噛みついたりしたら、次の日から社会的に抹殺されっぞ」
「こ、恐いことを言わないでくださいよっ。僕はそんな風にはなりません!」
「そう言う奴が一番ヤバいんだって。俺のツレのルジェなんか面白いぞ〜。もう、気持ち悪くて気持ち悪くて、最っ強に面白いから」
「全然想像がつかないんですけど」
「あの気持ち悪さは知らない奴にゃ説明し辛いんだよなぁ……あとそうだ」指をパチンと鳴らす。「賭け札でボロ勝ちもできるぞ。次の日には忘れてるから友情に皹も入らない」
「詐欺じゃないですか! あーもう、僕、絶対に先輩と一緒には呑みませんっ」
 イイ笑顔を向ける俺を睨みつけて、リダーが距離をとった。ちぇっ。つまんねぇの。
 酒を呷ってふて腐れていると、ふいにリダーが城壁の向こうを見やった。隠れ始めた陽射しを受けて、青い眼が瞳孔をキリキリと縦に細める。
「……でも、そういう友達っていいですよね。僕、中央に来てから付き合いが減りましたもん。七一ってだけで避けられますから……あ、僕の場合は他の事情もあるんですけど」
 リダーは決まり悪げにはにかむ。こいつはウチに来る前は地方の金融課にいたんだが、たまたま同じ部署で起った横領事件の巻き添えを食らって、こっちに飛ばされたんだっけ。リダーにはなんの罪もないんだけど、あの後犯人が爆殺されたりしてキナ臭いことになってるから、どうにも距離を置かれてるんだろう。しかも配属先がよりによってウチだし。
「俺もウチに来た当初はツレが激減したよ。変わらずに付き合ってくれる奴は宝だな」肩をすくめて、呟く。「……特にあいつは七一に複雑な思いがあるだろうに」
「あいつって、さっきのルジェ氏ですか?」
「ああ。あいつは……」迂闊に言いかけて留まる。同僚とはいえ、教えていいのか?
 でもすぐに思い直した。特に秘密でもなんでもないんだよね、あれ。
「ルジェはさ、英雄ルイ‐レミィの実子なんだよ」
「え、ルイ‐レミィって……ええ!?」
 慌てて振り向こうとして、足を滑らせるリダー君。ははは、愉快な驚き方をするなぁ。
 ルジェの素性は、五十歳以上の軍人なら大抵知ってるみたいだ。でもその辺は魔物の襲撃や政権交代のあれこれでざっくり減ってる層なんで、絶対数が少ない。んで、その下となると、ルイ‐レミィの知名度のわりにまったく知られてないんだな、これが。
 だって俺たちって婚姻制がないから、片親は不明なのが普通だし。自分の親も知らないのに、いわんや他人をや。俺もおかんの歴代の恋人のうち、どいつの種か知らんしな。
 リダーは目を丸くしてしばらく止まったあと、掴みかからん勢いで寄って来た。
「それは確かな情報ですか!? なんで知ってるんです? 本人が言ってたんですか!?」
 えらい熱心だ。そういえば前に『尊敬する人物はルイ‐レミィ』って言ってたっけ。
「いや、あれは偶然っ知ったつーか、居合せたっつーか……」どうしても歯切れが悪くなった。「初等士官学校の頃に、二人で校長室に忍び込んだんだよ。そのとき知った」
「……嘘でしょう」さあーっとリダー君の顔色が青くなった。だよねぇ、引くよねぇ。俺も入学したばっかで右も左もわかんなかったからできたけど、今思うとぞっとするわ。
 武官校の規律は厳しくて有名だ。廊下を走ったら校庭八百周。髪が長いと千三百周。立ち入り禁止区域に入ったら……教官の気がすむまで鞭打ちされて、監禁一週間だっけ? 実質入院期間だよな。使いモンになる範囲で収まってた前線の部隊内規則方がまだマシだ――いや、理不尽さではあっちがダントツだったけど。
「たまたまコソコソしてるあいつを見つけてさ。面白そうだから話かけたら、昔の卒業写真を探してるって。で、見てびっくり。あいつ、ルイ‐レミィと瓜二つでやんの」
 白黒写真だったけど、ルジェの顔に泣き黒子つけただけに見えたもんなぁ。あれには俺もビビったわ。隣に写ってた総統閣下が今とまったく変わってなかったのも驚いたけど。
「……それからかな、あいつが魔法に入れ込み始めたのは」
「なぜです? ルイ‐レミィ氏は剣の達人だったと聞いていますが。魔法なんて……」
「違う分野なら目立たないからな。お前、ルイ‐レミィの忌み名、知ってるか?」
「え?」きょとんと目を瞬かせる仕草で、こいつが英雄の一面しか知らないのがわかった。
「『荒野の雨』。ドロッドロの赤土に汚れた真っ赤な水が、足下いっぱいに流れる様に喩えたそうだ。殺害直後の現場は、そりゃあ酷いありさまだったらしいぜ」
 ルイ‐レミィは名立たる甲種でも確実に一撃で仕留めた。ある時は刃物で首を飛ばして、またある時は素手で頭部を引き千切って。いつも必ず、盛大な血しぶきをあげたとか。
 今の評価がどうであれ、そんな親を誇りに思うには、ルジェは若干、我が強すぎた。
「魔法はただの興味かもしれんが、あいつが目立ちたがらないのは本当だよ。実父だけじゃなく養父の名前もでかいからな。一歩間違えばわんさか敵を作って消されててもおかしくない。そうならなかったのは、あいつの立ち回りが巧いというか……」空気というか。
「へぇー、ご養父も高名な方なんですかぁ」
 いまいちピンとこない様子で頷くリダーに、俺は今さらぽかんとなった。
「おま、ルジェがどこのどいつかわかってなかったのか! この前見たろ、総統執務室で」
「え、ああ!」奴は手袋をした手をぽんと打つ。「あの、事務的で印象が薄いかんじの!」
「……さすがのあいつもお前にだけは言われたくないだろうなー……」
 俺はまじまじとリダーの顔を見た。普段は気にならないが、いやむしろまったく気にならないくらい、こいつも顔が薄い。真っ直ぐな黒髪といい、子供っぽさが残る丸っこい輪郭や大きな目といい、若い奴にはゴロゴロいるツラをしている。逆にもうちょっと崩れた配置になってれば見分けもつくのにってぐらいの、中途半端な整い具合も惜しい。
 俺の視線の意味を察知して、リダーがむっと口を噤んだ。「どうせ僕は地味顔ですよ」
 あ、自覚あったんだ。
「お前はまだ目がキラキラしてるだけマシだよ。ルジェの奴なんて今の配属先になってからどんどん目が死んでって、最近じゃあ俺でもパッと見誰かわからんくらいだから」
「慰めは結構です。顔なんて、一定の水準を超えたら後は個性と個性のぶつかり合いなんですから」結局は強い者が勝つんですよ……とリダーは遠い目をした。
 こいつも苦労してんのなと思いながら、俺は酒瓶に口をつける。と、いつの間にか空になっていた。名残惜しげに振っていると、緑の硝子の向こうに小さな影が透けて見えた。
「――あれは?」
 艶やかな金髪に、真っ白なネグリジェ。見紛う事なきピルラ・ルモルトン嬢だ。
 少女はスキップしながら壁伝いに進み、屋敷の裏手へ回りこんだ。
 この城館は山の斜面にぴったりとくっつけて立てられている。裏に回っても何もないはずなんだが……あの足取りは、ただぶらぶらと遊びに行くときのものじゃなかった。
「おい、ついて来い」
 俺は左手を肩の位置でパタンと前へ倒した。武官の手信号を知らないリダーがぽかんとしているのに構わず、腰の剣を押さえてバルコニーから飛び降りる。
「先輩、僕、疲れたんですけど……」
「もう夕方だろ? ヴァルツじゃとっくに日付も変わってる。行くぞ」

     ◆

 裏手に回ると、ピルラちゃんの影も形もなかった。
 赤い大岩が組まれた屋敷の壁面を見ていくと、壁と斜面の間にある岩の足下が抉れているのに気づいた。二人掛りで動かせば、中からむあっと生臭い匂いが。この甘ったるい腐敗臭にエグさを足したような臭いには覚えがある。あーこれは嫌な予感だぞう。
 岩の向こうから現れた真っ暗な人間式の階段を眺めて、リダーが呟いた。
「……ここで何も見なかったことにして帰るなんて、できませんよね?」
「どっちにしろ相手は甲種だぞ。ルモルトンも、ウチの連隊長も」さらっと脅してみたものの、ぶっちゃけ俺としてもこいつが居ないほうが助かる。どうせこいつの資質じゃ一通り覚えたら内勤になるんだろうし、無理して危ない目に遭わせなくてもいいか。「よし、お前はここで待ってろ。十分経っても戻らなかったらジープの無線で救援を呼べ」
 情けない顔でうろたえるリダーを置いて、俺はちょこまかとした階段を下りていった。人間式とはいえ同族のために作られた階段はめちゃくちゃ急で、手すりもない。落ちたら下まで一直線だ。絶対に踏み外さないように、かつ足音を立てないように、つま先へ全神経を集中させて降りていくと、階下から鈴を転がすような少女の笑い声が響いてきた。
「今日は素敵なお友達ができましたのよ」吐息のひとつまで上品さの行き届いた幼い声に、妙な色気があった。「もう、あなたったら。わたくしのお話をお聞き遊ばして?」
 答える声はない。キィ、と金属が軋む音がするだけだ。
 俺は慎重に階下へ降りた。鉄の扉へ張り付いて、耳をそばだてる。
 聞こえるのはピルラ・ルモルトンの声と、心音が二つ。音の反響から小さな部屋だと推測できる。笑い声のする中央辺りにピルラがいるんだろう。もう一人はじっと動かず、声も立てない。代わりに部屋のあちこちでカチャカチャと金擦れの音がした。
 ……誰だ? この館に居住登録されているのは二人だ。もし三人目がいるとしたら、そいつは血液の配給を受けずに生きていることになる。
 俺が眉根を寄せたとき、扉の向こうでうめき声がした。酷く衰弱した老人のような。
 さらに耳を澄ませようと目を閉じた瞬間、遠い背後でカカンッと硬い音が鳴った。
「せんぱ、助けっ――!」
 振り向けば、上からリダーが降ってきていた。小柄とはいえ野郎の体が急な階段に引っ掛かるはずもなく、奴は二、三度身を打ちつけて俺の頭上に――落ちたところを、引っ掴んで受け止める。「ほんと鈍くさいな、リダー君はっ!」
 呆れる間もなく上からもう一度カカンッという音がして、俺の背筋が凍りついた。
 即座にリダーをつれて部屋の中へ飛び込む。
 盾代わりに閉じた鉄扉が一瞬後にぐにゃりと歪んで吹っ飛んだ。その向こうから現れたネグリジェ姿の貴婦人の手には、無残に折れ曲がった杖が握られている。
「……本当によいお鼻をお持ちのようですね、ロイ執行大佐」
「お褒めに預かり光栄であります、ラルテ・ルモルトン中将殿。つきましては――主人である貴女に、これをご説明願えますでしょうか」
 引きつった愛想笑いで俺が手を差し向けた先には、一匹の魔物がいた。猿轡を噛まされた口元を残して、全身を分厚い鎖帷子に包まれている。その上から何重にも巻きつけられた鎖は四方八方へと伸び、それを宙に縫いとめていた。
 魔物は身動きできないながら全力で抵抗しているようで、鎖がキイキイと軋みあがっている。猿轡からは時折枯れた唸り声のようなものが零れていた。
 その鎖を愛おしげに撫でながら魔物にしな垂れかかっているのは、金髪の美少女。
 ……OK、面白い。
 薄く笑って呼吸を整える。室内は生臭く、息をするだけで嘔吐きそうだ。それすら気にならないほど集中し、俺は右手に剣、左手にはリダーを掴んでラルテ女史を見据えた。
 彼女は四十五度に曲がった鉄杖を投げ捨て、恐ろしいほどの無表情で告げた。
「貴方に教えることは何もありません」
「――良いではございませんの、ラルテ」柔らかくも有無を言わせぬ語調で、少女が母親を呼び捨てにした。優雅にネグリジェの裾を持ち上げる。「改めてお目に掛かりますわ。私はこの家の当主、マルム・ルモルトンと申します。こちらは恋人のアラン。素敵な殿方で遊ばしましょう? ほほほ」
 お上品に小首を傾げて、愛らしい口元へ小さな手を添える。今時じゃあ劇場でしかお目にかかれないくらい、古めかしくも洗練された所作だ。あどけない少女の姿でこの仕草にこの口調――いやあ、鳥肌が立つね。
 先代のマルム・ルモルトン大公は、生きていれば齢八十をこえる大老嬢だ。六十以上の同族がまずいない中で、珍無類の長寿にあたる。
「これはこれは……。ここまで若返った例は初めて窺います。見事な『崩我』だ」
 俺の慇懃な言い回しに、ラルテ女史の目元がついと細まった。
 崩我ってのは、自我の崩壊に伴う肉体の急激な変化のことだ。大幅に若返るのも典型的な症状だけど、ピルラ、いやマルムの場合、かなり重症だな。
 俺たちの仕事はその崩我がどの程度か見極めること、なんだけど。
 俺に支えられるようにして立っていたリダーが掠れた声で囁いた。
「個人による魔物の所有は、ヴァルツ大憲法第二三五条に違反……ですよね?」
「そうだ。……チッ、審判も何もあったもんじゃねぇな。普通に犯罪じゃねぇか」
 あーあと盛大にため息をつく俺の袖を、リダーがぎこちなく引っ張った。
「いや、ですから、常識的に考えて、これはどう見ても……」
「警邏の範疇だ。――ご婦人がた。ヴァルツ領民の義務に則り、あなた方の行いは速やかに警邏隊へ報告いたします。よろしいですね?」
「させはしない、と申しましたら?」口元を手で隠し、マルムが軽やかに笑う。
「する、と申し上げているんですが。我々の任務はあなた方に法を犯させないためにあるんです。すでに犯してしまったなら、相応の罰を受けるべきでしょう」
 苦々しく顔を歪める俺を、マルムは首を傾げて見やった。瞳に浮かんでいるのは、侮蔑。
「わたくしの言葉が通じていないようですわね。『殺す』と申しているのです」
「でしょうね、よく言われます」
 俺は歯を見せて笑い返した。本当によく言われるんだよ、この陳腐な台詞。
 マルムが小さな手をすっと俺へ差し向けた。
「ラルテ」
「御意にございます、母上」
 カツンとラルテの義足が床を叩いた。軽い一歩で目前まで距離を詰められる。
 義足が顔面を狙うのを、上体を捻って躱した。後ろにくっついていたリダーがすっ転ぶのを、腕一本でつり上げる。
「ごめん、リダー君!」そのまま床スレスレを投げ転がした。ラルテの軸足を狙って。
 うひゃあと情けない声をあげるリダーを、ラルテは頭上の鎖を掴んで飛び避けた。片手で鎖に捕まりながら、踵落としの要領で鉄棒を俺へ食らわせる。
 とっさに飛び退ったら壁だった。鼻先を義足が通り過ぎていく。やっべぇ、狭すぎる。慌てて剣を横薙ぎに払ったが、ひらりと鎖の上に逃げられた。くそっ、部屋が狭いうえに鎖が縦横に張られてて、やたらめったら剣を振り回せねぇ。
 相手が武器を持ってなくて助かった、と思う間もなく、ラルテが太股に隠し持っていた小刀を投げてきた。この至近距離で、頭上から。
 逃げる余裕はなかった。剣で二つ弾き、三つめに頬を切られる。四つめが額を狙うのを、膝をくず折って避けた。は、いいが、仰向けに倒れちゃ次が出遅れる。
 ラルテが鎖から飛び降りた。義足が俺の腹を貫こうとする。
 間一髪、床を転がって避けた。石床に突き刺さった義足を抜かれる前に、寝転がったまま体をねじって、横から蹴りつける。
 太い鉄棒が付け根から吹っ飛んで、ラルテが短く呻いた。だが俺が立ち上がったのを見るや、血が滴る接合部を地につけて、逆の脚で足払いをかけてきた。
 俺は背後へ宙返りして彼女から距離をとった。このまま一端体勢を立て直して――
「ロイ先輩!」
 その時、わざわざ出口へ投げ込んでやったリダーの声がした。奴は扉のすぐ横で、へっぴり腰で剣を構えて……ああ、ダメだこりゃ。足元ガクガクしてんじゃん。
「バカ! なんで逃げなかった!」
「だって置いてったら先輩、死んじゃうじゃないですか!」
 自信満々に言い切られて、俺は絶句した。いやそこは救援を呼ぶだとか、戦略的撤退だとか、もっと前向きに言うとこだろ。確かに俺は捨て駒だけど……だからってお前がいても、ねぇ? それよりコトを外へ漏らせば、彼女らだって諦めるかもしんないじゃん?
 とか目で訴えても気づく余裕のないリダーは、へっぴり腰のままラルテへ剣を指し向け、「文官だからってバカにしないでください。僕だって戦えるんですよ、お、オバサン!!」甲種に挑発までしやがった。無謀を通り越して勇者だろ。しかも言ったはいいが、目が泳ぎまくってんじゃねーか……よ?
 ラルテがリダーに飛びかかった。あからさまな暴言よりも、能力差で相手を選んだんだろう。素手で腹を殴りつけようとして、ひゃわあと全力で逃げられる。
 壁に突き刺さった腕を引き抜きながら、彼女は氷のような目をリダーへ向けた。
「情けないこと。それでもヴァルツの民ですか?」
「僕は生まれも育ちも地方ですからッ!!」
 わけのわからんキレ方をしてリダーが剣を振り下ろした。ラルテじゃなく、壁に埋まった大岩に。彼女の一撃で罅の入っていた岩には、魔物を繋ぐ鎖がぐるりと巻かれていた。
 剣が半分に折れ飛ぶのと同時、大岩が派手な音を発てて割れた。張りつめていた鎖が凄まじい勢いで引き戻されて、とっさに掴もうとしたラルテの手を強か打つ。
「今です、先輩!」
 その鎖は魔物の頭をがっちりと巻き込んでいた。束縛が解けるのに合わせて、鎖の下で頭部を包んでいた鎖帷子がずれる。すかさず俺が剣を向けた。魔物の最大の弱点、眼球へ。
「やめて!」切っ先が角膜へ触れる寸前に、マルムが俺の服を掴んだ。
「交渉しましょう、マルム婦人。この魔物と引き換えに我々の命を保障してもらいます」
「いたします、なんでもいたしますから、お止めくださ――あああああ!!」
 懇願が、魔物の顔が現れるにつれて絶叫へ変わった。ついさっきまで愛おしげに撫でていたそれを、ラルテは顔を歪めて凝視する。その目は現在いまを見ていない。
「いっ、いやああああ! 化け物! 助けてお父様!! 嫌、嫌よ、この私が魔物と――」
 瞬間、小さな手があらん限りの力で魔物の横っ面を引っ叩いた。
 頑丈な猿轡が弾け飛び、鋭い牙の羅列がぱかりと開く。
 細い腕が返される間もなく、鋭利な牙が食い込んだ。「きゃ――」首を振る力で、小さな体は簡単に引き寄せられてしまう。その白く華奢な首元に、魔物の顎が迫った。
 瞬時に、俺の剣が魔物の首を断つ。
 頸椎の間を正確に斬られた魔物は、首のみになってなお、少女の首元に喰らいついた。
 ごきりと嫌な音がした。
「お母様!」ラルテが駆け寄るのと、魔物の首が少女と一緒に落ちたのは同時だった。
 むせ返るような甘い香りが部屋いっぱいに広がる。目眩がするほど官能的で、死の興奮を増長させる、甘い甘い血の香りが。
 不謹慎にもうずきそうになる喰歯を抑えるために、俺は歯を食いしばった。
 ラルテは無言で母親の体を横たえると、瞳孔が開いて真っ黒になった目を閉じさせた。
「……皮肉ね。死ぬときまで一緒なんて、まるで本物の恋人同士のよう」
 静かに呟く横顔は、さっきまでの抑圧されたそれとは違い、空っぽの無表情だった。母を失った子供というよりも、長く病に苦しんだ娘を看取った母親のようだ。
「彼女の思いは……崩我による妄執、ですか?」
 俺の質問へ、彼女はゆるゆると首を振った。
「いいえ、本当に恋人なのです。この魔物は、私たちの実の父親ですから」
「!?」俺たちは当時に息を飲んだ。リダーが胸元を握りしめる。
「我が家に古くから伝わる、資質を強化する秘術です。母は魔物を拒みながらも私たちを愛してくれていた。その矛盾に耐えきれず――やがて魔物をも愛するようになりました」彼女は天井を仰ぐ。「そうなって初めて、私たちを心から愛してくれた。それが狂気の末のことだとは気づいていたけれど……」
 次の瞬間、彼女は自身の腹に右手を突き刺した。
「――私たちは、もっと早く満足するべきだったのね」微笑みには諦めがあった。
 彼女は静かに腹を横へ引き裂いていく。細い腰からずるりと白っぽい内蔵が広がった。
 ……これは助からんな。一段と濃くなった血の香りで麻痺した俺の頭が、冷静に呟いた。
 ラルテが目を閉じるのと同時に、リダーが口元を抑えてうずくまった。

     ◆

 地下で二回、地上で一回。すっかり胃の中を空っぽにした新人が、汚れた黒手袋を切なげに投げ捨てた。その手はもう予備の手袋に収まっている。変なところでしっかり者だ。
 暗い庭から館を振り返り、リダーは小さく呟いた。
「……愛情が、彼女たちを狂わせたんでしょうか」
「俺は二人とも狂ってなかったと思うけどなぁ?」
 リダーが目を丸くして俺を振り仰ぐ。「ですが! あれはどう見ても常軌を逸して――」
「普通の奴だって常軌を逸した行動ぐらいするさ。警邏の言う黒と俺たちの黒は根本的に違うんだ。混同するな」最後の一言をぴしゃりと言い切る。
「それに、さ」黙ってしまったリダーの頭を、俺はわしゃわしゃとかき回した。「もう審判はできないんだ。それを今さらどうこう言うのは、無粋だぞ、新人」
 リダーは不満げに口を尖らせて、ぐちゃぐちゃになった黒髪をなでつけた。そのまましばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい、先輩」

copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.