二章


 荒野の岩はどれも錆びた鉄の色をしている。強風に舞い上がる砂塵すら赤い。その赤い風を受けて、フェルネットの淡い金髪が一筋、きらきらと踊っていた。
 彼女は切り立った崖の上で、遠く広がる荒野を見下ろしていた。迷彩効果のある赤い防寒着の下に、薄い防砂服を着込んでいる。頭も顔もすっぽりと布で覆われていた。保湿と、肺に砂粒が入るのを避け、また赤砂に含まれる鉱物の汚染を防ぐ役割がある。
 少女は布の隙間から緑色の瞳をきらめかせて、眼下のヴァルツを眺めていた。同族の三分の一を納めている巨大な都市も、距離が開くにつれてすっかり小さくなっていた。
 出発から三日目。今日で八合目まで登る予定だ。そこで二泊し、フェルネットの体調を見て峠を越える。人間の足でも十分余裕のある日程だと、ルジェは考えていた。しかし同族が拓いただけあって、旧道は急な山肌をほぼ直線にひかれている。人間では越えられないような絶壁もあり、その度に彼がフェルネットを抱えて越える予定だが、気づかぬうちに短時間で高度を上げすぎてしまう危険があった。おかげで本来なら数十分の道程を、炎天下のさなか休み休み、のんびりゆったりだらだらと登っている。下手な教練より辛い。
 始めは少女を抱えて一気に駆け抜ける予定だったのだが、寒さと衰弱で死亡した例があったので止めた。空気抵抗も長時間続くと凶器になるらしい。人間の脆さは本当に恐い。
 少女が見入る先では、逆光を受けてヴァルツの影がこちらへ伸びてきていた。その周りには所々白けた場所がある。しばしば『雪原』と喩えられる、塩田だ。うっすらと赤みを帯びた塩に、銅の緑や亜鉛の朱が筋となって幾重にも流線を描いている。
 ヴァルツからまっすぐに西へ向かう鉄道の線路を目で追えば、冗談のようになだらかな地平線があった。その線で世界は真っ青に反転する。誰にも辿り着けない青に。
「いい眺めですわね……」
 風に舞う髪を押さえて、フェルネットが感慨深く呟いた。
 黒眼鏡の砂塵を拭っていたルジェは、彼女の髪が放つ光に目を細める。
「遠くもいいが、近くも見ろ。それ以上端によると吹き飛ばされるぞ」
 裸の山肌を駆け下りる突風は少女ぐらい簡単に攫っていくだろう。ルジェは縄で繋いでおくべきかと考えて、それでは犬のようだと思い直した。人間にそんな扱いをしたら、いろんな意味で洒落にならない。
「あら、吹き飛ばされても貴方なら助けられるんじゃなくて?」
 鼻で笑うように答えられ、舌を打ちそうになった。
 彼女の直接の護衛はルジェ一人だ。ラトゥールが与えた護衛は遠ざけてある。彼ら一班五名の喰欲を懸念しているわけではないのだが、中央守備を自負する血気盛んな武官が、人間の小娘に顎で使われて黙っているとは思えない。何かあれば一足飛びで駆けつけられる範囲にはいてもらっているが……まったく、胃が痛くなりそうだ。
 ルジェは溜息混じりに黒眼鏡をかけ直した。刺すような眩しさがやわらぐ。遠視矯正が入っているので近くも見やすくなった。少女の姿もはっきりと見える。
 フェルネットは首だけで振り返り、甘えるように小首を傾げた。
「ねえ、一休みしません?」
「もうしてるんじゃないのか」内心で何度目だと呟く。無理をして倒れられても困るが。
 自分の意向に反対はありえないと熟知している少女は、適当な岩に腰掛けて「水」と告げた。手を差し出そうともしない。この女はたった二日でルジェの扱いを召使い以下に決めたようだ。奴隷とか、きっとその辺りだ。
 ルジェは不機嫌な顔で水筒を渡した。彼の手提げ鞄には、彼女の荷物が全て入っている。背負ったほうが両手が使えて楽だが、手提げ式だといざというとき即座に放り投げられる。魔物を前にしては一瞬の遅れが仇になるのだ。
「ところでこの服、変な臭いがしますの。気分が悪くなってきましたわ。荷物の中に替えの上着はありませんの? それを着て、代わりにこの内着を脱いだらいけないかしら」
「その防砂服には魔物が嫌う臭いをつけてある。脱げば効果も薄れるし、露出が増えて乾くぞ。標高が上がって涼しくなっても乾燥はしてるんだ。鼻血を出してぶっ倒れたくなかったら着ておくんだな」
「……貴方、よく『細やかさに欠ける』って言われません?」
「神経質だとは言われるが。まあ、今から厚着しておくのも悪くないだろう。荒野では日没後、一気に冷え込む。もう日も低い。今のうちに羽織っておけ」
 汚染除けのことなどは人間に言っても通じないだろうと思いながら、ルジェは荷物を漁った。冬用の重い上着を差し出す。けれど少女はそっぽを向いた。
「フェルネは今、休憩してますの」
 理不尽な仕打ちに閉口する。人間だから体力がないのは仕方ないとしても、機嫌を損ねる度に休憩されてはたまらない。今日中に次の補給小屋へ着かなければ困るのは彼女のほうだというのに、まるで彼を困らせて愉しんでいるかのようだ。
 ルジェは小さく溜息をついた。「……わかった。なら、俺が運んでやる」
 首根っこを引っつかんでやろうとしたとき、崖の縁からもう一つ別の手がフェルネットの足へ伸びているのに気づいた。真っ黒な鉤爪のついた真っ赤な手。筋組織と血管が絡み合った肌は、前線で見慣れたものだった。皮を剥いだ人のようなそれが、今まさに崖下から這い上がろうとしている。頭部がのぞき、魔物の真紅の瞳がこちらを捉えて鋭く光った。
遭遇コンタクト!!」
 鉄鞄を魔物の顔面へ投げつける反対の手で、フェルネットの襟首へ指をかける。引き寄せるのと同時、彼女のいた場所を魔物の腕が薙いでいった。
 少女を小脇に抱えて、崖から反対の急な斜面へと走りだす。擦れ違いに護衛たちが魔物へ斬り掛かっていった。即座に血の香りが広がるも、どちらのものかはわからない。振り返る余裕すらなく、ルジェは急な斜面を駆け上がった。一際大きな岩を飛び越えたとき。
「――ざけんなッ」
 急停止する。鋭い舌打ちが響いた。
 前方に三体。四つ這いで囲い込むようにこちらを伺っている。
「上方にて会敵三! 至急応援を求める!」
 振り向いた先で、五体の魔物を相手にしている護衛たちが目に入った。フェルネットを襲った一体に加え、四体の魔物が這い上がって来ている。
 総数八。一分隊十名で五割の勝率が期待できる敵数が五体だ。予想以上の数だった。定期的に討伐隊が巡回してもなお、これだけの魔物が生息していたとは。
 本来、魔物は群れない。縄張り意識が強く、二匹以上が顔を合わせれば即座に共食いが始まるからだ。にもかかわらず、現に連帯して襲って来ている。
 ルジェはなぜ旧道が閉鎖されたのかを思い出す。極めて珍しいことに、魔物に共有の狩場と認識されたのだ。しかし旧道が閉ざされて一世紀。文字も言葉も持たない『理あらざる者』が、世代をまたいでまでかつての狩り場を覚えているはずがなかった。
 ……それでも、ありえなくはない。
 前線ではしばしば別の固体から情報を得ていると思われる時があった。過去の戦況を反映しているとしか思えない動きをする時すらあった。科学者は否定するばかりだが、魔物には何らかの情報伝達能力があるのかもしれない。
 ルジェは少女を抱え直し、剣を構えた。魔物の骨を特殊な製法で粉末にして塗布・研磨した剣は、歩官の主力武器だ。同族の力で扱えば銃器などよりもずっと殺傷力が上がる。
 しかしどんな武器でも、魔物の骨を超える硬度としなやかさを持つ物質がない以上、無闇に切りつければ刃毀れするか、折れるだけだ。腕に覚えがあれば頸椎の隙間を狙うのが一番だが、ルジェでは肋骨の隙間から心臓を狙うのがせいぜいだった。ならば条件は同じなんだから銃を使わせろと思うが、銃器類は殺傷力が中途半端で魔物には通じない。そのくせ同族には効果が絶大なため、人間の手に渡るのを危惧して製造禁止になっている。
 ルジェは剣が嫌いだった。武官の必携武器なので扱えはするのだが、肉を絶つ感触がどうにも合わないのだ。だからといって安易に魔法を使えば魔力不足で動けなくなる。嫌々剣の柄を握り締め、左腕で抱えた少女を傷つけないよう慎重に抜き払った。
 三体の魔物はじりじりと四つ這いのまま詰め寄ってくる。隙を見せれば一瞬で餌食だ。フェルネットを守りながらどれだけ戦えるかわからないが、やるしかない。
「あのね、ルジェ――」腕の中の少女が、不意に声をあげた。
 それが契機となって魔物が跳躍する。直線的に飛びかかってくる巨体を、身を翻して避けた。「ね、ちょっ……!」続けて右方から。突進する頭頂へ剣ごと右手をつき、ひらりと一転。「う、わっ」着地の勢いで最後の一体に背中から剣を突き刺す。熱い血飛沫が顔にかかった。心臓を貫かれ、ぎゃあと魔物が絶叫する。年寄りが赤ん坊の泣き真似をしたような声だ。剣を抜く暇もなく振り落とされかけて、ルジェは自ら飛び降りた。
「ルジェってば! 聞いてよ!」
「喋るな、舌を噛む」
「もう、かみっかみだってば!」
 背後で咆哮が上がり、初めに避けた一体が襲い掛かってきた。横薙ぎに腕を払わたのを、即座に屈んで躱す。フェルネットの髪が薙ぎ払われてルジェにかかった。血で顔にべったりと張りつく。「フェルネの――」「うるさい」後ろ飛びに魔物と距離をとり、急勾配を駆け下りた。足元から赤い砂煙が立ち上がるので、嫌でも目立つ。
「血、を、のん、でっ……て! 言ってるの!」
 揺れの合い間を縫って少女が叫んだ。だが彼には余裕がない。とっさに怒鳴り返す。
「バカを言え! 俺たちにも襲われたいのか!?」
「いいから吸ってよ!」
「断る!」考えるまでもなかった。そんなことをすれば生還先が監獄になる。
「っの、石頭!!」
 少女の罵倒と急旋回は同時だった。遠心力で振り飛ばされそうなフェルネットを押さえたまま、片膝をついて右手を地に添え、ひゅるりと音のない呪文を放つ。
 突風が巻き起こり、赤土が舞い上がった。分厚い煙幕が魔物の視界を奪う。
 次の風が煙幕を流す前に、彼は大岩の隙間へ少女を投げ入れた。
「いったいなあ!」散々振り回された彼女は青い顔をしているが、元気だけはあった。
「何があろうと絶対に出るな。わかったな!」
 言い置いて身を翻そうとした時、少女の小さな手がルジェの袖を掴んだ。
「吸血して」
「はぁ!?」とっさに振り返る。「まだ言ってるのか。ふざけるな、いいから黙って――」
 背後で岩が転がる音がした。見つかった。そう思って振り向いたルジェは絶句する。
 二体の魔物が彼を見ていた。彼を追いかけていたものとは別だ。その証拠に、牙の並ぶ口元は真っ赤に塗れ、筋組織が剥き出しになった腕や手には同族のものと思われる黒髪が絡みついていた。なにより奥の一体が咥えているのは、護衛の首だ。
 全滅か。
 呟いたはずの言葉は、音にならなかった。
 魔物が長い舌で唇のない牙の羅列を舐めた。脈打つ血管と筋肉に覆われた顔の中央に、穴だけの鼻がある。それをわずかにひくつかせ、フェルネットの香りを辿っていく。一歩、また一歩と近づく度、瞼の代わりの瞬膜が真紅の瞳をぱしゃりと閉じた。
 カラリと頭上から小石が落ちてきた。視界の端で見やれば、ルジェたちを追ってきた魔物が岩に座り込んでいる。もう一体の姿はないが、近くに足音があった。囲まれている。
 にじり下がった彼の腕を、フェルネットがするりと絡めとった。
「ほら、早く噛んでよ。じゃないと君――死ぬよ?」
 上目遣いで囁かれる。ぞっと鳥肌が立った。この女はこんな喋り方をしただろうか?
 腕を引かれ、少女の顔が近づいた。甘い花のような香りがする。耐え難く蠱惑的な。
「……断る」
「強情なんだから。えい」
 首の後ろに手が回った。逃げる暇もなく、飛びつく勢いで唇を押しつけられた。
 口の中に一杯に、血の味が広がる。
「う、わ」
 反射的に飲み込んでしまい、口を押さえてよろめく。
 甘いはずだ。甘いはずだろう。そう感じるように出来ているのだから。
 それがなんで、こんな。
「にがっ……! うえっ」
 震えが走るほど不味い。自動的に胃が引っ繰り返りそうになり、必至で抑え込む。
 体がこの液体を拒絶しているのがわかった。味以前の何かが、決定的に合わない。
「……ふふ、君がいけないんだよ? あんなに振り回したりするから」
 少女がぺろりと舌を出した。舌先に赤い血が滲んでいる。
 泰然とした笑みにまた悪寒が走った。間違いない。どこかでこの表情を見たことがある。
 なんだこの女。本当に、なんなんだ?
 ルジェは口元を抑えて傍らの大岩へ背中をつく。この隙を魔物は見逃さなかった。正面にいた一頭が素早い跳躍で襲い掛かってくる。
 半ば反射で手を差し向けた時。
 ――唱えて。
 頭の中で、澄んだ少女の声がした。
 ――わたしが、手伝います。
 誰だ、と思う間もなく、空気がうねった。濃密な魔力で辺りが満たされ、蜃気楼のように視界が揺らめく。小さな光の粒が一面を満たし、透き通った影が幾つも宙を漂っていた。
 引きずられるように魔法を放った。軽い衝撃派を生むだけの魔術構成が、圧倒的な魔力で強制的に姿を変えられる。広く、重く、強大に。
 閃光が衝撃となって広がった。
 大地を抉り、爆風が赤土をともなって舞う。
 抉られた赤い円陣に骨だけを散らして、魔物の血肉が大地にこびりついていた。

     ◆

 朦朧とした意識で護衛の亡骸から認識票を取り上げ、空に掲げた。
 青い空に小さな金属板が煌めく。刺すような光に、知らぬ間に黒眼鏡をなくしたと知る。
 ……本部に連絡しなければ。
 そう思ったのを最後に、ルジェはそのまま仰向けに倒れ、意識を失った。

     ◆

「――から、仕方なかったんだよ。口なら閉じてれば匂いも拡散しないし、ね?」
〔でも口移しじゃなくても良かったでしょ? わ、わたしまだ、誰とも……〕
 まどろみの中で、ぞんざいな口調のフェルネットと、柔らかな少女の声が聞こえた。
「キスくらい喜んでおけばいいじゃない。散々『綺麗だ美形だ』って騒いでたんだからさ」
〔それとこれとは全然違うの!〕
「怒らないでよ、減るもんじゃなし……あ、血は減ったか。ふふっ、彼、すんごい不味そうだったねぇー。吐き出されたらどうしようって思ったよ」
〔う。血を狙われるのも恐いけど、あれはあれで傷つくね……〕
 ルジェの意識が徐々に覚醒する。けれど体に力が入らない。目を閉じたままじっと体を横たえていると、何か小さなものが顔の辺りを飛び回る気配がした。
〔ね、この人、このまま放っておいて大丈夫?〕
「大丈夫だよ。君の体みたいに柔じゃないんだから。それよりこっちを気遣ってよ。散々揺さぶられて、あったま痛いったら」
〔あっ、そんなふうに叩かないでよ! 壊れちゃったらどうするのー〕
「君の頭は機械なの? まあ、壊れかけポンコツなのは否定しないけど」
〔もー意地悪ばっかり〕気配が急に近付いた。〔……それにしても、吸血鬼の人ってみんな本当に綺麗だね。このまま目を開けないでいてくれたら、ずっと近くで眺められ――〕
 ぱっとルジェが目を開く。眩しい。至近距離で顔に光をかざされて、視界が真っ白に染まっている。目を瞬かせているうちに、光の正体に気づいた。黄色みを帯びた光の中に、うっすらと透き通った少女の姿がある。
 目の前に、手ほどの大きさのフェルネットがいた。柔らかそうな織物を羽織り、全身から真珠色の淡い光を放っている。羽もないのにふわふわと宙を漂う小さな少女を見て、ルジェはついに自分も『終わった』と思った。
 人形のようなフェルネットは、彼の視線が彼女を捉えているのに気づいて、硬直した。
〔こ、こんにちは〕
「……こんにちは」
 意外と言うことは普通だった。幻覚にも常識が通用するのだろうか。
 中途半端にイカれたらしい頭にルジェが感心していると、上からひょいと覗き込まれた。
 淡い金髪が顔にかかる。こちらは普通のフェルネットだ。何が普通かは知らないが、人並みの大きさで飛ばないから普通だ。これも幻覚だったら、もうロイに泣きつくしかない。
 大フェルネットはにやにやといやらしい笑みを浮かべて、上から手を差し伸べてきた。
「おはよう、ねぼすけ君。気分はどう?」
「……最悪だ――うっ」
 手を取って起き上がろうとした瞬間、吐き気をもよおした。隣に吐こうとして、そこに護衛の死体が転がっているのに気づく。寸で反対を向いた。その勢いで盛大に吐く。
「おやおや、情けない。ありがたい供血者の前で吐くだなんて」
「これは……、一体、どういうことだ?」這いつくばったまま喘ぐ。口が苦い。胃袋もガチガチで、まるで酷い二日酔いか、間違えて古い血を喰らったときのようだった。
「見ればわかるでしょう。こちらが本物のフェルネット・ブランカ嬢なんだよ」
 片手でルジェの背をさすりながら、大フェルネットが小フェルネットを指さした。指先が正確に空中を示しているので、ルジェ一人に見えているわけではないらしい。
「本物……?」
 怪訝に眉を寄せる彼へ、大フェルネットが投げ捨てたはずの荷物と剣を顎で示す。
「詳しい話は歩いてしようか。この辺りの魔物は粗方やっつけちゃったみたいだけど、血臭がひどいから最寄りの補給小屋はやめておいたほうがいい。もう一つ遠くまで行こう」
「なぜ、そんなことを知っている」
「後でって言ったでしょ。もうすぐ日没だ、この体で夜の登山は嫌だからね。あとそう、護衛の補充なら呼んでおいたから。『魔物は全滅、護送対象を含む二名生存』ってね」
 大フェルネットはルジェの懐から取ったと思われる緊急用の小型照明をカチカチと点滅させて皮肉げに笑うと、長い金髪をふわりと翻して山道を歩き出した。その足取りには先ほどまでの淑やかさがない。
 ルジェは胃液か別の何かを少しの水ですすぐと、口元を拭って立ち上がった。立ち眩みで目の前が真っ暗になるのを耐える。荷物を引っ掴み、仲間の遺体に小さく敬礼すると少女の後を追った。
 彼の様子を小さいほうのフェルネットは振りかえり振りかえり、心配げに見ていたが、目が合うと途端に顔を強張らせて大フェルネットの髪の中に隠れた。ルジェの猫の瞳が恐いのだろう。ごく一般的な人間の反応だが……今の彼女はそもそも人間なのだろうか。髪に隠れたときも、幽霊のように毛ひとつ動かさずに通り抜けていた。
「彼女は、精霊なのか?」
「お孫さんだって知ってるでしょ? 肉体から精神が分離できたって不思議じゃないよ」
「不思議じゃないって、お前……」
 反射的に抗議の声をあげたが、その先はむかつく胃を慮って黙った。無駄な議論はやめよう。そもそも精霊がどうやって人と交わるのかも解明されていないのだ。一時的に仮の体を持つらしいが、確かめた者はいない。
 大フェルネットは彼の様子を面白げに横目で見やると、髪の中の少女へ話しかけた。
「フェルネ。せっかく話せるようになったんだから、ちゃんと自己紹介したら?」
 あきれ声で促され、金髪から恐る恐る小さな顔が出た。ルジェの目では光に紛れてよくわからないのだが、清楚な雰囲気が彼女本来の容姿と合っているように思う。
〔は、はじめまして。フェルネですっ〕ぺこりと頭を下げられる。
「……はじめまして」
 真面目に二度目の挨拶を交わす二人に、大フェルネット――偽者が盛大に噴き出した。
 ルジェはそれを横目で睨みつける。「こっちが本体なら、お前はなんだ?」
「さあね。なんだと思う?」くるりと少女の体がふり返った。なぜか楽しそうだ。
 ルジェは相手を見据えたまま、慎重に呟いた。
「黒精霊……だな。誰の意識を模倣している?」
 黒精霊とは、荒野固有の精霊だ。魔法を支援する通常の精霊とはまったくの別種で、『理ある者』に憑依してその自我を学習する能力を持つ。
 この性質を利用して、かつて同族の貴族はある禁術を行使していた。
 適当な人物Aの意識を模倣させた黒精霊を、標的である人物Bへ憑依させるのだ。するとBはまるでAのように振る舞い、間接的に操ることができた。けれど憑依されたBは無論、一歩間違えば模倣元のAや術者も自我が崩壊する。かつては同族の貴族が得意としていた魔法系統だが、貴族制の打倒とともに扱える者がいなくなり、廃れたはずだ。
「君なら誰かわかると思うんだけどな。ね、気づかない?」
 偽者は自信たっぷりに両手を広げた。勝手に救援を呼ばれたくらいだから、軍の関係者なのは確実だろう。では具体的に誰か。どこかで見た気はするのだが、少女の姿が邪魔をして思い出せない。ルジェの知り合いでも故人を含めれば膨大な数になるのだ。
 怪訝に眉を寄せていると、相手は大げさに呆れ返った。
「うわ、本当に見覚えないの?」古典劇の役者のようにひらひらと手を動かす。「この口調、表情、態度に身振り手振りを! 二十年も傍にいたのに! ――まぁ、最近じゃ滅多に会いもしなかったけど」最後にすとんと声を落として、興味なさげにそっぽを向いた。
 その動作がルジェの記憶をくすぐった。少年のような口調も、道化じみた古臭い仕草も、思考をかき乱す話題の飛び方も、全てに覚えがある。それも、つい最近、どこかで。
 まさか……と、ルジェは恐る恐る口を開いた。自分の勘違いを願って。
「ラトゥール……か?」
「あくまで模倣物コピーだけどね」
 その酷薄な笑みが、ぞっとするほど養父に似ていた。顔の造形は少女のままなのに、細めた目元の見下し方、皮肉げな口角の歪み具合、わずかに首をかしげる動きまでが、忠実にラトゥールなのだ。旧貴族らしい猫撫で声までそっくりだった。
 ルジェは一瞬、気が遠くなりかけた。
「バカじゃないのか!? 何やってんだ! いや、何を企んで――うぇっ」
「企むもなにもないよ、いきなり彼の体から放り出されたんだ」肩を竦めて歩き出す。「危うく消滅しかけてたのを彼女に助けられたわけ。こっちも不測の事態だったんだよ」
〔わたしも事故で体から飛び出しちゃって、困ってたんです。戻れないし、体のほうはどんどん弱っちゃうし……。そこに丁度、黒ちゃんが〕
 「黒ちゃん」とルジェが呟くと、精神体のフェルネットが光の中でにっこりと頷いた。
〔はい、黒い子だから。『誰かに取り憑いてないと消えちゃう』って言うから、じゃあ、わたしの体を使ってって。わたしは白い子の仲間なんで、このままでも平気なんです〕
 そこまで答えてルジェと目が合ってしまい、光の少女は慌てて髪の中に引っ込んだ。
「なら、ラトゥールの差し金じゃないのか……?」
 少女が逃げ出さないように手を打ったのではと思ったのだが、違うのだろうか。
「彼はこのことを知らないと思うよ。彼女に宿ってからも接触はなかったもの。取調べは何回も受けたけどね。ふふ、あれ、上手くやってたでしょ? フェルネの長くて纏まりのない話を即興で要約してたんだけどさ、話があっちこっちに飛ぶから大変で大変で」
〔だって話しておいたことの他にも、たくさん聞かれたからっ〕髪から声だけが届く。
 ルジェはやっと合点がいった。「それで何度も視線が彷徨ってたのか」
「え、それは自覚なかったな。君も気をつけたほうがいいよ。これからはうっかり彼女に反応すると、独り言が激しくて周りの見えてない、可哀想な人になるから」
 言われて改めて気づく。どうやらルジェにも精霊が見えるようになっているらしい、と。
「そうだ! お前、あの時俺に何を盛った!?」
「……失礼な言い方をするねぇー、この子は。べつになんにも入れてないよ。フェルネの血をちょっぴり分けてあげただけ。ま、その様子じゃ下手な毒より効いたみたいだけど」
「嘘つけ。血があんなに苦いわけがないだろうが」
「知らないよ。この体じゃ血の味も全然違うし……。キスしたのは嫌がらせだけどさー」
〔やっぱり悪ふざけだったんだ!〕光の塊が髪から飛び出して、小さな手で少女の体をぽかぽかと殴った。手が通り抜けてしまうので、害はない。〔初めてなのにひどいよ!〕
「まあ、その責任はルジェが取るとして」虫を払うように本体をのけて、ラトゥールの模倣物は続ける。「彼女の血を飲むと、一時的に精導士になれるらしいんだよね」
「血……? ラトゥールが言っていたのは、このことか」
 総統室での会話を思い出す。能力の媒介物が血なら、テアやエンが少女を血眼で欲しがるのも頷ける。それに、殺してしまえば後には残らない。
「けど精霊が見えるのは一瞬のはずで、こうしてずっと話せるのは変なんだけどねぇ」
〔ルジェさんにわたしの姿が見えるのは、さっきので縁ができちゃったからかもしれません。え、えと、ルジェさんは、他の子たちも見えてますか?〕
 びくびくしながらフェルネットに見つめられ、ルジェは視線を横へ流した。辺りは夕日の朱に染まり、赤一色になっている。少女の他に輝くものは太陽しか見当たらない。
「今はお前の他には見えないようだ。声が聞こえるのも、お前だけだな」
 『声』という言葉に反応して、フェルネットの表情がぱっと華やいだ。
 〔そうなんです!〕胸の前で手を合わせて、素直に笑いかけてくる。〔普通の人は声が聞こえないはずなのに! 話せる人が増えて、わたし、嬉しくて!〕
 おもいっきり二人の目が合って、一拍、奇妙な沈黙が流れた。
 フェルネットの声と姿がすごすごと縮こまる。〔……じ、じゃあきっと、今まで飲んだ人は、体のないわたしを知らないから、気づかなかった、んです、ね……〕
 ルジェは仕方なく目を瞑った。歩きながらなので不本意だが、自分なら転びはしないだろう。聞きたいことが山ほどあるのだ、一々怯えられてはやっていられない。
「そうなると、やはりあの時の声はお前か。あの大魔法はお前の力だったのか?」
〔ううん、わたしは皆に助けを呼びかけただけです。ここにも少し白い子がいるから!〕
 目を閉じた途端に元気になった少女の声に、ルジェは内心笑った。
「今のお前は魔法を使えない、と?」
〔はい。元々皆の力を借りてただけで、自分の力を使ったことがないですし、使い方も知らないです。今だって白い子みたいに見えますけど、わたし一人じゃなんにもできないですから〕柔らかな苦笑が続いた。
 ……精導士にしては、珍しい考え方をする。
 ルジェは仕事柄、これまでに幾人かの精導士と面識があった。彼らが自らの能力に述べた言葉は二種類に分類できる。一つは『精霊が扱える自分は秀でている』、もう一つは『己の血統ならば当然の能力で、自慢するのも愚かしい』、だ。どちらも意味は同じ。自負だ。彼らにとって精霊は才能の一部だった。
 フェルネットは自分と精霊との間に一線を引いているように見える。その一方で、人間と精霊を区別しないという奇妙な現象もあるようだが。
 一体どんな環境で育てばこんな子供に育つのか。少し、興味が湧いた。
 彼が小さく微笑んだとき、とさりと軽い音がした。目を開けると少女の体が倒れている。
〔黒ちゃん?〕「どうした?」二つの呼びかけが重なった。
「……なんでもない。転んだだけだよ」立ち上がろうとする足に力が入っていなかった。
「嘘をつくな。水だ、飲め」
 脱水を疑って水を与えると、少しずつ口へ含む。特に渇いてはいないようだ。おかしい。
 淡い光が少女の周りをおろおろと飛び回る。〔大丈夫? 本当に大丈夫?〕
「うん、もう平気だよ。……急ごう。日没の前に着かないと」
 不意に強い風が吹き降ろした。山向こうから届く風は、既に夜の気配を帯びている。その風に煽られて、立ち上がりかけた少女の体が前のめりになった。
 ルジェが素早く腕を引き上げる。
「無理をするな、ラトゥール」
 名を呼ばれ、鮮やかな緑の瞳が彼を見上げた。夕日に照らされて少女の顔は朱い。しかしよく見れば、頬や唇から血の気が引いているのがわかる。
 少女の瞳に映った自分の顔が、一段と渋くなった。
「必要なら俺が運ぶ。症状を言え」掴んだ腕から素早く脈をとる。ひどく速い。
 少女の姿をしたラトゥールは観念したらしく、その場にずるりと座り込んだ。
「頭が痛い。耳鳴りがして、寒気がする」
〔風邪、じゃないね。悪いものは入ってないから〕少女が奇妙な診断を下した。
「吐き気は? 麻痺はないな? 頭を打ってはいないから、おそらく高山病だろう。魔物のせいで予定より標高を上げたからな」
 標高三千米を超えた場合、人間が一日に耐えられる上昇高度は三百米までだ。予定を変更したせいで、今朝出発した地点から目標の補給小屋までは四百米近い標高差がある。
〔こういう時は古柯の葉を噛むといいんだけど……ないかな〕呟いて、真珠色の光が空高く舞い上がった。〔ちょっと見てきます。先に行っててください〕
 頷き返しながら、ルジェはそんなことをしても無駄だとわかっていた。植物が散見され始めるのは第三山脈以東だ。第一波山には覇王樹も生えない。
 大丈夫だと言い張るラトゥールを、ルジェは更に水を飲ませて黙らせた。
「高度を下げるぞ。応援が着き次第、いや、朝一でヴァルツへ――」
「戻らなくていい」弱々しい声で言い切られる。「目的地はすぐそこだ。もう動くには寒すぎる。君が運べば速いだろうけど、そのぶん冷えて体力も奪われるって、わかってる? それとも君はまだ人間ってモノを理解してないのかな?」
「配慮が足りていないのは認める。だが」
「途中で魔物に会ったらどうするの、また逃げるの? フェルネに追い払ってもらうつもりかな? それでまた気絶するの? 君はもっと冷静な判断ができる子だと思ってたけど、買い被りだったかな」つらつらと質問という名の批判を重ね、ラトゥールは鼻で笑う。「大体、他人より自分の心配をしなよ。目と鼻の先で帰ってみてごらん、彼なら『遠足にでも行ったのかい?』って言うよ。……失敗で済むような任務じゃないんでしょ」
 真面目に声を落とされて、ルジェは相手を見つめ直した。
「……知っているのか?」
「いいや。けど彼の考えそうなことならわかるよ、長い憑き合いだからね」口元を歪めて自嘲し、ラトゥールは水筒を投げ返した。「症状は軽い。行こう」
 立ち上がろうとする少女の細い体を、ルジェは攫うように抱きかかえた。
 ラトゥールが声を荒げる。「ちょっと!」
「お前のためじゃない。こっちは『失敗じゃ済まない』んでね」
「……まったく、君はほんとに……」
 その先は言わず、ラトゥールは腕の中でおとなしくなった。
 ルジェは急な斜面を振り返り、下の補給小屋までを目で測る。あそこなら高度をかなり下げられるはずだ。けれどその近くに幾つもの血溜りを見つけて、彼は奥歯を噛み締めた。

     ◆

 補給小屋は、地中に埋めた混凝土の箱に赤岩を乗せただけの、簡素な作りをしている。身の丈ほどの一枚岩を横へ倒すと、底についた分厚い扉が一緒に動く仕組みだ。
 ルジェは中へ点火器を差し入れ、目を細めて火の強さを確かめた。少し弱い。空いた手で近くの小石を払うと、封じられた換気孔が見つかった。蓋をどけるとすぐに風が舞い込む。同様のものを三つ見つけ、再度炎をうかがってから、ルジェは中を覗き込んだ。
 暗いおかげで彼の目には隅々までよく見えた。正方形の室内には古い燃料缶と、錆びた缶詰が転がっている。あとは毛布だったと思われる襤褸が少し。他には何もない。
 少女の姿をしたラトゥールを抱えて、ルジェは中へ飛び降りた。荷物の中から毛布と寝袋を取り出して、相手を無理矢理寝かしつける。
 扉を閉める寸前、真珠色の光が滑り込んできた。フェルネットは横たわる自分の体を見て、小さな肩を落とした。〔薬になりそうなものはなかったです。ごめんね、黒ちゃん〕
 フェルネットの光は辺りを照らさない。光だけが浮かんでいるので、余計に闇が濃く見える。その闇の中でラトゥールが身を起こす気配がした。
「おかしな子だね。乗っ取られた側の君が謝ることなんてないでしょ?」
〔でも、辛いのは黒ちゃんだもの〕
「あーもう、揃いも揃って近くが見えてないんだから。もっと自分の体を心配しなよ」
 苛立つラトゥールへ、フェルネットはきょとんと首を傾げた。
〔わたしが入ってるほうが危ないよ? 黒ちゃんはしっかりしてるから安心だもの〕
「……まったく。わかったよ。君がアレだってことはもう、とっくにわかってるよ」
 この前も山羊を追いかけて転んでねと陽気に話し続けるフェルネットをよそに、ルジェは荷物鞄を覗いて舌打ちした。油式焜炉がバラバラだ。魔物に投げた時に壊れたのだろう。
 彼は素早く代わりの焜炉を作った。紙を折るように小さな鉄板を畳み、足を作って、油の入った小皿を中央に置けばでき上がりだ。
 火をつけると辺りが明るくなった。ルジェの目には少し辛い。
 持ってきた缶詰を開け、直火にかける。十分に煮立たせてから下ろし、火傷をしないよう底に布を巻きつけながら、ふと前線で戦友が悪ふざけを仕掛けてきたのを思い出す。熱い缶の上部を掴み、さも冷たい物のふりをして渡してくるのだ。うっかり底の熱した部分を握ろうとすると、ひょいと躱される。そして爆笑される。息抜きのときを狙ってやってくるので、よく引っ掛かったものだ。仕返しに砂糖と塩を摩り替えてやったりもしたが。
 その戦友たちも彼が前線にいる間に半分が死んだ。今では何人が生きているだろう。
 ルジェはラトゥールへ缶詰を差し出した。
「塩漬け肉と豆のスープ煮だ。水分が摂れて体も温まる。食べられるか?」
「……食べるよ、気持ち悪いけど。あと、フェルネにも水をあげてくれる?」
「水? 構わないが、その状態で飲めるのか?」
 ラトゥールの周りを漂う光が揺れた。〔はい、綺麗なお水なら〕
「飲むというか、吸うというか。見ればわかるよ」
 ラトゥールは声に比べて覇気のない顔で食事をすすった。少し食べ、匙を置く。そのまま無言で寝袋に潜り込んでいった。
 器に水を注いでやると、フェルネットがふわりと水面に降り立った。水の中から細かな光の粒子が舞い上がり、彼女へと吸い込まれていく。
〔元気になりました。ありがとうございます〕目を瞠っているルジェへ、フェルネットはぺこりと頭を下げた。〔ところで、ルジェさんは何を持ってるんですか?〕
 彼の手には茶色い棒状の物があった。
「緊急用の固形食だ。芋の粉末を木の実と混ぜて、廃蜜で固めてある」
〔へぇー、お菓子みたい。おいしそう!〕フェルネットが目を輝かせて両手を合わせた。
「若干の血液が練り込まれているから、人間には与えられない。残念だったな」
 そっけなく答えて齧りつく。糖の甘さを感じない彼らには、固形食糧は不味いだけの代物だった。すえたような廃蜜のエグ味もさることながら、ぼそぼそとした食感が最悪だ。栄養価が高いので、今のように食欲がないときには重宝しているが……。
 淡々と口を動かしていたのが、無心で食べているように映ったらしい。フェルネットが恐る恐る問いかけてきた。〔あの……血ってそんなにおいしいんですか?〕
「味は甘いな」
〔甘いんだ……〕なぜか絶句される。以前同じ質問をしてきた人間もこんな反応だった。
 血液が老若男女を問わず同族に好かれるのは、味そのものよりも摂取後の精神安定効果によるらしい。摂取時は酒を飲んだときのように軽い興奮と開放感、充足感、多幸感が得られる。それはそれで魅力的なのだが、その激しい感情の波が去ると不思議と頭が冴え、自信が湧き起こってくる。自分が何者で、何を為すべきかが見えるのだ。それが『渇き』と共に失われていくのは、彼らにとって耐え難い苦痛だった。
 フェルネットはしきりに甘い、甘い、と呟いて首をかしげていた。
〔じゃあ、吸血鬼の人から見ると、わたしは大きなお菓子なのかな?〕
 一体どう理論が飛躍したのか。一々狼狽するのも癪なので、彼は強いて話を合わせた。
一般的には・・・・・、好物が自分と似たような顔をして喋りかけてくるようなものだろうな」
〔大きくて人の形をした桃の実ですか?〕フェルネットが宙をくるっと回ると、光の粉が火花のように散った。〔それなら齧り付きたくなるかもです〕と無邪気に笑う。どうも、彼女なりに吸血鬼を理解しようとしているらしい。
 しかしフェルネットは一番大切なところを取り零していた。被捕食物と意思が通じること。自分と似た顔を恐怖に歪ませて、罵倒し、拒絶し、懸命に命乞いをする。それが捕食者にとってどれほどの精神的な負担になるか、人間には想像もつかないだろう。
 吸血鬼と呼ばれても彼らは化物ではない。良心が咎めもすれば、後悔だってする。安易に言葉が通じるゆえに、人間と親しい関係を築いてしまっていたなら、尚の事。
 かつて人間と心を通わせてしまい、血を喰らうことを拒絶した者が多くいた。餓えた彼らは自我を保てなくなり、無差別に人間を襲ったという。そうして人間が彼らを迫害し始めた結果が今のヴァルツだ。冷凍技術が進み、採血機関が確立するまでに、あの荒野でどれだけの悲劇があったのか、無防備に微笑む少女にはあまり教えたくない。
 フェルネットは一人で何度も頷きながら、胸の前で小さな拳を握り締めていた。
〔自分がおっきな桃だって思われてるって思えば、いろいろ納得できそうです〕
「お前の場合は齧ったら蝋細工だったってぐらいの詐欺だったけどな。苦いったらなかったぞ」思い出すだけで意識が遠くなった。
〔じゃあ、ルジェさんはもう、わたしの血は欲しくないですか?〕
 もちろんだとも。そう答えようとした声が出なかった。心臓を冷たい手がそっと握ってくるような、胃の裏側を虫が這うような、妙に落ち着かない気配が湧き起こる。
 あの体にラトゥールらしきものが入っていると知った今、首筋に牙を立てたいとは毛ほども思えないはずだった。そもそも喰欲とは微妙な情動で、食欲でありながら性欲に近い。対象を選ぶ際も異性の好みが強く反映されるし、同性は極力避ける。近年では人間との接触がなくなって感覚が狂ったのか、同族間でも恋人同士のみ吸血可という、一種倒錯した風潮すらあるくらいだ。だから今の少女の血を吸えるかという質問は、『自分の父親と寝られるか?』と訊かれているのに等しい。そんなことになるぐらいなら死んだほうがマシだ。しかもあの味にあの胃痛。二度と御免こうむる。そう言い切れる自信があった。
 にもかかわらず、あの魔物たちを吹き飛ばした瞬間の、快楽にも似た爽快感を手放すのを惜しんでいる自分がいた。あの大魔法があれば、どれだけの仲間を救えたか。救えるか。ぜひとも有効に活用したい。いや、してみせる――
 それは叶わぬ望みだ。彼女は死ぬのだから。
「……欲しいも何もない。喰欲が制御できないなど、同族として最も恥ずべき行為だ。先の事態とて二度とあってはならない。吸血鬼相手では心配になるのも仕方ないが――」
〔違います。あなたが魔法使いさんだから心配なんです〕毅然とした声だった。〔わたしの血を飲んだ人たちは、もっと欲しい、飲まなければ力が消えてしまうって、どんどんおかしくなっていきました。ルジェさんも魔法が使えるから不安で……〕
 本質を突かれてルジェは目を見張った。彼の中では、まさしく吸血鬼の本能と魔術師の我執が渦巻いている。その上に軍人としての義務感が居座っているのだ。味のおかげで本能がろくに機能していないから良いものの、一つ間違えればぞっとしない。
〔でも、ルジェさんなら、絶対にあんなふうにはならないですよね?〕
 フェルネットがそっとルジェの顔を覗き込む。緑の瞳に淡い真珠の光が重なって、透明度の高い橄攬石のようだ。その目に『信じたいの』と言われている気がした。
「俺は……」
 口篭った彼に代わり、棘のある少女の声が響いた。
「無駄だよフェルネ。この子にそんな男気を期待しちゃ」寝袋がもぞりと動く。「理詰めの小心者だからね。言質を与えるような真似は絶対にしない。彼の教育の賜物だ」
「ラトゥール、起きていたのか」
「この頭痛を抱えて眠れるほうがどうかしてるよ」こめかみを揉みながらラトゥールが起き上がった。「君ね。吸血鬼の魔術師なんて、怯えられて当然でしょ。優しい言葉の一つもかけてあげるのが人情ってものじゃないの? それを何? 恥だからしない? あってはならない? ……はっ、余計不安にさせてどうするっていうんだい?」
「事実を言ったまでだ」
「一切の主観を交えずに、ね。ふふ、事実。客観的事実か……いーい響きだねぇ。君にはなんの責任もないし、覚悟も要らない。臆病者に相応しい逃げ道だ」
 鼻で笑い、ラトゥールが枕元へ手を伸ばした。冷めた缶詰の残りを匙で潰して、鼻歌を歌いだす。言いたいだけ言って放置。こんなところまで模倣元に忠実だった。
 ルジェは腹立たしさを覚えながらも、徒労感が先に立った。ラトゥールの指摘は本人にも当てはまる。客観的事実でやりこめるため、反論されれば『そんなつもりじゃない』の一言でいくらでも逃げられるのだ。自分を省みて、嫌なところばかり似たとうんざりする。
 気まずい思いを抱えながら、彼はフェルネットへ視線を移した。言うべきことはわかっている。『絶対にしない』と保障して、安心させてやればいい。純朴な少女のことだ、舌先三寸でいくらでも騙されてくれるだろう。……だからこそ気が乗らない。
 ルジェは慎重に自分自身を検討し、表に出せる範囲で嘘のないよう言葉を重ねた。
「魔術師として言わせてもらえば、大魔法が使えるのは魅力だ。だが俺は精導士になりたいとは思わん。それを望めば、お前の血を四六時中飲み続けなければならないからな。そんなことをすれば胃が持たないし……そもそも、俺は精霊にあまり興味がない」
〔魔法使いなのに、精霊の皆が好きじゃないんですか?〕『意外』の言葉を包み隠さずに、フェルネットがルジェの肩近くまで寄ってきた。
「魔法そのものは好きだ。特に高度な術式がな。だが精霊には複雑な術式が理解できない。大魔法っていうのは、単純な術式を魔力量で膨らませているだけなんだ」
 ルジェは先程の大魔法を思い出す。範囲設定と魔力の量が桁違いだっただけで、素質さえあれば子供でも扱える術式だった。省力術式だの省時術式だの、面倒な飾りは発動前に全て吹き飛ばされている。緊急時に死ぬ思いで組んだ身としては、かなり腹が立つ。
「俺の専門は論理魔法式学でな。前提条件からして実現不可能な……例えば『魔力量が無限にありかつ一定に供給されると仮定した場合に肉体抵抗値を二割で固定し連鎖式間の抵抗が存在しないとして詠唱終了から物理発動までの空白時間を短縮するには詠唱及び記述図式をどう改良すべきか』、とかで」
 フェルネットが小声でラトゥールへ問いかけた。〔……今の、何語だった?〕
「ごめんね。この子、生粋の魔法オタクなんだ」ラトゥールは残念な物を見る目だった。
 ルジェは咳払いした。「とにかく、複雑な術式が飛び交う分野なんだ。理論上で証明できればいいから精霊の出る幕なんてないし、極論、魔法使いでなくても筆一本で戦える」
〔え、何と戦ってるんですか。魔物とですか?〕
「定理を覆い隠している、この世の全てとだ。後は別の仮説の支持者とか」
 同族は魔法の素質で人間に劣る。ルジェとてそうだ。同じ位置で争うのは早々に諦めた。実用と修練を主とする魔法使いの中で彼の分野は学者に近く、異端扱いされている。
 フェルネットはぽかんと口を開いたまま宙を浮き沈みし、ゆっくりと手を挙げた。
〔ルジェ先生。そういう勉強って、なんの役に立つんですか?〕
「なんにでも。定理は汎用できるからな。今は不可能な仮定条件だって、もしかしたら遠い未来では可能にする技術が生まれているかもしれない。――俺に言わせれば、人間は『自分に扱えるか』に拘りすぎだ。今は使えなくとも、後の役に立てばいいだろうに」
 空論に空論を重ねて、同族は科学を発達させてきた。より歴史の長い魔術がいつまでも進歩しないのは、主な使用層の人間にこういった発想がないからだ。そうルジェは考える。
「それは君の驕りだね。現実を忘れるには、人間の肉体は脆弱すぎるのさ」
「思考方法は学習できる。教え伝えるべき者の独占欲が招いた結果だ。彼女の扱いにも、如実に現れていると思うが」
 剣呑な会話を流して、フェルネットが硬いものを飲み込むような顔で首をひねった。
〔ええとつまり……ルジェさんはちょっと変な魔法使いさんだから、わたしの血はあんまり欲しくない……っていうので、合ってますか?〕
 ラトゥールがしたり顔で嘲笑う。「自分には確固たる拠り所があるから、目先の餌には釣られないってところかな。大した自信だねぇー」
「なんとでも言え。それが俺の答えだ」
「結構。これで心置きなく眠れそうだよ、この体でもね」
 ひらりと手を振って、ラトゥールが寝袋へ潜り込んだ。横向きに身を丸めて、すぐに穏やかな寝息をたて始める。中身のせいで元気に見えていても、体力は限界だったようだ。
 ルジェは溜息をついて、自分の毛布をラトゥールの上へ投げかけた。
 結局、言わされてしまった。偽者とはいえラトゥール相手に、これは手痛い。
 疲れた気分で周りを見れば、フェルネットがにこにこと笑っていた。なぜ上機嫌なのか。
〔ルジェさんは眠らなくていいんですか? やっぱり昼間に寝るのかな〕
「三日くらいは寝なくても平気だ。ヴァルツでは日中就寝が基本だが、あまり昼夜の区別はない。一説によると、一日に三度もうたた寝をすれば十分らしい」
〔うわあ、頭がくるくるしそうですねー〕
 前線でもっと酷い状況を経験しているルジェにはまったく気にならなかった。同じ不眠不休でも、五体満足で安全な場所に潜んでいられるだけマシだ。
「精霊は眠らないのか?」
〔今はルジェさんが話し相手になってくれるから、平気です〕笑顔でずれた答えを返された。〔逆に体があったら、怖くて声も出なかったかもですけど〕
「ああ、それは思う。こちらとしても気が楽だ」ルジェは静かに頷いた。
 猫が逃げる鼠を追うようなもので、怯えている人間は同族の関心を引きやすい。彼が下手な気を起こさないでいられるのも、ラトゥールが堂々としているのが大きかった。
「……あいつの手前、ああ言ったが」ちらりとラトゥールが寝入っているのを確認する。「極度の貧血でも起こさない限り、こちらから手を出すことはないと思ってくれていい。俺は小喰だから、たとえこのまま遭難しても手持ちの血液で二週間はもつ」
〔あの……そのことなんですけど〕フェルネットがおずおずと手を上げた。〔吸血鬼の人だからってことなら、わたし、もう恐くないです〕
 言い終わるか否か、ルジェとフェルネットの目が合った。
 途端に少女がびくりと身を竦ませる。
〔あっ、こ、これは違って! まだ目がキュッてなったりピカッてなると吃驚するだけで、あ、でもルジェさんの目は綺麗だと思います! 春の夜の雷みたいな、柔らかい紫で!〕
 身振り手振りで必死に弁護されたが、後付けにしか見えなかった。大体、雷に違いなどあるのだろうか。放電系の魔法ならよく使うが、考えたこともない。
「恐れは本能だ。無理に克服しようとすると神経が参るぞ」
〔いいえ。わたし、自分の体が看病されるのを眺めてるうちに、気づいたんです。吸血鬼の人も、人間の皆と変わらないって〕人形のような手で指折り数えて、フェルネットは歌うように続ける。〔ヴァルツに送られる時に付き添ってくれた人、すごく丁寧に扱ってくれました。病院で息が止まった時のお医者さんや看護婦さん、一生懸命呼びかけてくれました。『戻って来い』って言われた時、わたし、半分精霊の皆みたいな気分になってたんですけど、自分の……フェルネット・ブランカの形はこうだって思い出せたんです〕
「待て。死に掛けたなんて報告は受けてないぞ」
〔死んでないです。ちょっと自分の形を忘れそうになっただけです〕事も無げに返される。
 ルジェはとっさに物が言えなかった。形を忘れただけで死ぬ? もしや彼女は今、とんでもなく儚い存在なのではないか。意識を失えば消えてしまうような……。
 眠ることもできないのは、その証拠なのでは。
 フェルネットは俯いて、拳を片手で包むようにして胸へ押し当てた。
〔さっきの護衛さんたちだって、魔物がルジェさんのほうへ行かないように身を挺してくれてたの、見てました。皆、わたしが攫われたときに助けてくれようとした村のおじさんたちと同じ表情で、必死に……〕少女の頬から一滴の光が零れ落ちた。地に触れる寸前で消えていく。〔一緒なんです。だからもう、恐くなんかない〕
 きっと顔を上げたフェルネットから、ルジェは素早く視線を逸らした。ここで目を合わせれば、彼女は意思に反して怯えてしまうだろう。それは酷な仕打ちに思えた。
〔それに、こんな綺麗な人を恐がってばっかりなのも、もったいないですし、ね〕
 フェルネットはもごもごと呟きながら、一人で何度も頷きはじめる。その熱視線は男を見るというより、美術品を鑑賞しているときに近い。
 ……またこれか。ルジェはうんざりした。眉間に皺をよせ、細くて深い溜息をつく。自分の顔には複雑な思いがあるので、できれば触れたくなかったのだが……。
「俺たちは人間が惹かれるようにできている。疑似餌みたいなものだから、気にするな」
 人間は彼らを恐れる一方で、その外見に強く魅惑される。自ら首筋を捧げさせるようにとの、生物的な戦略なのだろう。ルジェの没個性的な顔立ちですら、人間には『アクがなくて好ましい』と好評らしい。……というか、無駄に好かれる。とても無駄に。
 人間に好かれてもヴァルツでは碌なことがない。直接摂取はできないし、恋愛感情に応えてやれば虐待になる。しかも彼らの好意はあくまで恐怖と一体なのだ。酷くなるとわざわざ自分から会いに来てヒステリーを起こしたりと、わけのわからないことを始めだす。
 フェルネットには身体がないので、好かれても嫌われても実害がない。本当に助かる。
〔罠なのも納得な美人さんですよね。いいなぁー〕
 しかし目と鼻の先で惚れ惚れと賞賛されては、ルジェとて身の置き場に困る。くすぐったさと気持ち悪さは根が同じだと思いつつ、ルジェは顔をしかめた。
「美麗だ華麗だ艶麗だと、そういうのは年頃を過ぎたぐらいの女に言ってやれ」
〔うーん、ルジェさんだと『格好いい』とは違うんですよねー。格好いい人はもっとこう、ムッキムキのゴッツゴツじゃないですか。腕とか胸とか、岩みたいにガチガチで!〕
「お前の『格好いい』の基準はどうなってるんだ……?」
 思わぬ少女の趣味に絶句する。そもそも同族は力に比べて細身だが、それは多少鍛えたぐらいでは筋肉がつかないからだ。教練程度で肉がつくような輩は生まれ持った能力の底が知れている。だからルジェは筋肉質なだけが男の価値ではないと考えるのだが。
 フェルネットは力瘤を作る真似をしながら、けろりと答えた。〔村のおじさんが『格好いい男っつーのは俺らみたいな奴のことだ!』って言ってましたよ?〕
「信じるなよ……」あまりのことにあきれてしまい、ルジェはいつもより無防備に言葉を続けた。「それにしても、農民っていうのはそんなに鍛えてるものなのか?」
〔はい。毎日畑仕事のあとに、皆で集まって遅くまで『えいやーそいやー』って、鋤とか鍬とか剣とか槍とかふるってましたけど。……? なにか変なこと、言いました?〕
「それはただの農民じゃなくて、開墾兵とかいうやつなんじゃないか?」
 何気なく口に出してから、ルジェは内心首を傾げた。未開拓地に村を作って領土を広げる開墾兵は、国境線の守備も兼ねるという。しかし、テア国の東は精霊の住む『大森林』が広がるばかりで、攻め入る国などないはずだ。大森林には魔物もいないし、野生動物もおとなしいと聞く。森自体が鉄壁となってテアの東端を守っているくらいだろう。そんなところへ兵士を常備する意味があるか?
 ヴァルツには国境線がないのでルジェには子細がわからないが、人間の国に民へ武器の訓練を行き届かせられるほどの力があるとは思えなかった。
〔かいこんへい、ですか?〕フェルネットはおっとりと頬へ手を添えて、細い首を傾げた。〔ほにゃららごえい騎士団って聞いたことがあるんですけど。東の森を守ってるって〕
「護衛騎士団……もしかしてそれは、お前のことを守ってたんじゃないか?」
 ルジェが呟いた瞬間、ぴたりとフェルネットが空中で静止した。
〔でっ、でもでも! おじさんは『皆で森を守ってる』って、言ってましたよ? 奥さんたちも、女の子も、ちっちゃい子も! わたしもその一人だって、信じてて……〕彼女は人形のような白い手を忙しなく動かした後、両頬を包み込んだ。
「その村自体がお前を隠匿……隠し守るためにあったんだろうな。他国や魔術師に知られないよう、地図にも載せないでおいたんだろう」
 フェルネットが大森林に守られていたのは想像に難くない。あの地は人の気を狂わせる、不可侵の聖域だ。騎士団は森だけでは賄えない人としての生活を支援し、秘匿してきたと考えるのが妥当だろう。精霊の娘を守護し、育み――その後、どうする?
 主要な領地を差し出す程度には、テアは少女に期待している。いずれは王家の血脈に取り込む算段だろうが、それにしては十六歳まで待つのはいささか暢気な気がした。人間は結婚という過去の因習を重んじるはずだ。先に名前だけでも変えておけばよかったものを。
 なんらかの事情があって、できなかったのかもしれないな……。
 情報不足と断じる一方で、十六年も隠されてきたものを暴き、厳重な警備を突破した者がいるというのも気になった。犯人は魔術師だろうか。精導士だろうか。それとも。
〔……あの〕唐突に、真に迫った声がした。〔これからわたし、村に帰るんですよね?〕
 フェルネットは硬い表情で両の手を握りしめていた。真珠色の光で見分けがつかないが、体があれば蒼白な顔色をしているだろう。
 言葉に詰まる自分を感じながら、ルジェは平静を維持した。静かに腹の底へ力を込める。
 見透かされるな。それは最も残酷な行為だ。
「俺の任務はテアの国王へお前を引き渡すことだ。帰りたいなら自分で願い出ろ」
 フェルネットは彼の内心には気づかず、ただ俯いて、弱々しく呟いた。
〔わたし、今まで『早く帰って皆に謝らなきゃ』ってばかり思っていたんです。わたしのせいで、おじさんたちにたくさんケガをさせちゃったから……〕指の爪ほどの顔がゆっくりと上がる。甘藍石ような瞳が煌めいた。〔けど、わたしが戻ったら、またあの人たちが攫いにくるだけなんじゃないかな。今度はもっとたくさんの人が傷つくんじゃないかな〕
 ある意味で真理を口にしながら、フェルネットの語尾はどんどん小さくなっていった。
〔やっぱり、わたしは森から出ちゃいけなかったんだ……〕
 真珠色の光が一段、翳った気がした。
「――フェ」反射的に呼びかけようとして、ルジェの頭の中で警鐘が鳴った。
 それ以上は肩入れするな。
 これは――お前が殺す人間だろう?
 一瞬の沈黙を狙ったかのように、慎重に戸を叩く音が響いた。
 ルジェは表情を引き締めて頭上を見る。応援だ。素早く口へ指を当ててフェルネットに黙っているよう指示を出すと、壁を所定の拍子で叩いて合図を返した。
 滑り込んできた護衛たちへ機械的に敬礼し、前の一点を見つめる。この狭い空間ではどうあがいてもフェルネットの光が目に入る。神経を張り詰めて目線を維持した。
 平静を保て。同族のほとんどは魔法なんてペテンだと思っている。精霊が見えているなどと知られたら、即座に七一へ告げ口されるだろう。
 班長と思われる男が歩みよってきた。ルジェと同じく中尉だが、勤続年数はずっと下のはずだ。男は正確な敬礼を返し、中央慣れした口調で告げた。
「ルジェ‐ラトゥール中尉ですね、お勤めご苦労さまです。状況は把握しております。大変な目にあわれましたね。我々が参りましたからには、どうぞご安心を」
「助かります。到着早々ですが、この人間が低酸素症の症状を訴えているので、少し高度を下げたいのですが。協力願えますか?」
「そうですか……」男は一瞬口ごもり、横たわるフェルネットの身体へ視線を走らせた。「ですが、この様子なら大丈夫でしょう。貴官は任務を優先してください」
「しかし」
「お言葉ですが、中尉。すでに彼女のために五名が殉職している状況です。まだ魔物が潜んでいる可能性もなくはありませんし、先を急ぐのが賢明かと。――それに、これは人間です。極論ですが、息さえあれば十分なのでは?」
〔ひどい〕フェルネットが鋭く息をのんだ。〔だめです。そんなの黒ちゃんが――〕言いかけて自分の立場に気づいたのだろう。彼女は泣きそうな顔でルジェに食い下がった。〔お願いです、ルジェさん、止めてください! ねえ、ルジェさん!〕
 ルジェはそれを全力で無視した。
 男は、先の護衛は『彼女のために』殉職したと言ったが、厳密には行程の詳細を組み、決定を下したルジェに非がある。資料ではこの付近の危険度が低かったものの、それは同族が数時間で移動した場合で、人間を連れて何日もたらたらと歩いていれば、自ずから接触率は上がったはずだ。それでも守りきれると予測した上だったが、現実は違った。
 ラトゥールは目を閉じたまま動かない。ルジェにはそれが寝たふりだとわかっていたが、ここで口を挟んでこないこと自体が意見を主張していた。曰く、『この男は正しい』。
 数瞬の後、ルジェは静かに目を伏せた。
「……失礼しました。慣れない事態ゆえ、視野狭窄に陥っていたようです」
 フェルネットが目を瞠る。〔ルジェ――……〕ゆるゆると甘藍石の瞳が失望に染まった。
 護衛の男は無駄に爽やかな笑みで会釈した。
「ご理解、痛み入ります。では明日の日中には第二波山から鉄道へ乗れるよう、計画を変更しましょう。――それと。先程までどなたかと、話をされて?」
「まさか」
「そうですか。風の音でも聞き間違えたのでしょうね」
 部下の元へ戻る男の背を見つめながら、ルジェは軍人が式典でみせる無表情を守った。
 その視界の隅に、うなだれるフェルネットの小さな姿がある。
〔……ルジェのばか……〕
 力ない声に鈍く胃が痛んだ。同時に、ルジェは自分の任務が何だったのかを知る。
 この任務の本質は、裏切りだ。
 全力で守れば守るほど、優しい言葉をかけるほど、残酷な結果が待っている。
 その矛盾が彼の胃をいっそう重くした。
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