一章


 その少女を見た瞬間、ルジェは言いようのない違和感を覚えた。
「お前がフェルネット・ブランカか?」
「それ以外の何に見えますの? 吸血鬼のおにぃーさん」
 からかう声に甘ったるい忍び笑いが続く。
 混凝土コンクリート製の小部屋には、通常の間接照明に加えて、蛍光灯が一つだけ配置されている。
 その光が落ちる机の向こうに、淡い金髪の少女が座っていた。机へ両肘をつき、白い袖から出た指先を絡めている。誰が与えたか、襞飾りのついた胴着が幼げな姿によく似合っていた。その清純そうな顔に、計算された上目遣いと蠱惑的な笑みさえなければ。
「ふふ、そんなに睨まないでくださいな。せっかくの綺麗なお顔がだいなしですわ」
 少女の言う通りルジェは顔を顰めていた。だが悪意があったわけではなく、眩しさに目を細めていただけだ。光を嫌う彼らはしばしばこの手の誤解をされる。その顔は人間から見ればいたく美形に見えるようだが、同族ではこのぐらいが普通だった。
 人間を相手に言い訳する気にもならず、ルジェは無言で軍帽を引き下げた。庇の影と自分の黒髪で視界が一段と暗くなる。相手からは彼の目元が確認できないほどに。
「……名を尋ねたのはただの確認だ。以後、余計な発言は慎むように」
「はぁーい。厳しくて無愛想な、吸血鬼のおにぃーさん」
 声だけで甘えて、少女はつまらなそうに欠伸をした。目を擦る手つきが猫のようだ。
 小窓から覗く夜明け前の空は仄赤く白けている。人間には辛い時間だろう。
 ルジェは開いた扉に扉留めを咬ませると、少女と目を合わせないようにして正面へ腰掛けた。軍服の詰襟へ指をかけて軽く引き、呼吸を一つ楽にする。意図せず溜息がこぼれた。
 数ヶ月前に支部からこの地へ運び込まれた人間――長らく意識不明だった少女が目覚めてみたら、精導士だった。それも始祖の精霊から数えて三代目という特上品だ。
 この稀有な人材に喜んだ上層部は、本人の同意も待たずに軍属させる決定を下した。
 あまり知られてはいないが、彼らの軍には人間だけで編成された小部隊がある。全員が精導士か高位の魔術師で、表向きの扱いは傭兵。実戦では使い物にならないものの、『精導士を所有している』というだけで、人間にはちょっとした牽制になっている。
 その魔法使いたちの管理を任されているのが、ルジェの所属する部隊だ。本来は戦場で傭兵の指揮を執る上位組織なのだが、そちらの面で機能したことは一度もない。平生は人間の衣食住の手配をしたり、同族との摩擦を解消したり、やれ水道管が詰まっただの、電球が切れただので呼び出されたりしている。新入りの入軍審査もその一つだ。
「これより軍属手続きを始める。フェルネット・ブランカ、署名を」
「わかりましたわ」
 少女はゆるく癖のついた髪をふわりとはらって、万年筆を受け取った。たおやかな手つきで流麗な文字を書く。良家の出とは聞いていないが、人間にしては学があるようだ。
 ルジェは冷めた目つきで娘を観察し、必要な情報を書類へ書き込んだ。
 『フェルネット・ブランカ。年齢十六、女、人間。肌:白 瞳:緑 髪色:金』……いや白か。海なる場所で産出されるという真珠の色合いに似ているが、そんな色の項目はない。迷った末、金色に印を打つ。昼間なら同族の目には白としか映らないだろうが、そんな細かいことは求められていないのだ。
「ねえ。こちらなんですけれど、担当さんの名前がなくてよろしいんですの?」
 紙面の一部を指さしながら顔を覗き込まれる。彼は俯いたまま答えた。
「本官は仮担当にあたる。正式な担当官が決まり次第、そこへ署名するだろう」
「なら、貴方のことは『仮担当のお兄さん』って呼ぼうかしら。ずうっと『吸血鬼さん』って呼んでたら、皆が振り向いてしまいますものねぇ」
 遠回しに名乗れと言われ、ルジェは顔を上げた。黒髪越しに鮮やかな緑の瞳と目が合う。
 人間は彼ら同族の瞳を恐れるため、極力見ないようにしていたのだが――ぞっと悪寒が走ったのは、ルジェのほうだった。
 なんだ、この女?
 とっさに動きを止めた彼へ、少女の笑みがついと寄る。「ねえお兄さん、お名前は?」
「……ルジェ、と」
「ルジェ。ふうん、いつもそう名乗ってるんだ」
 ふふふと笑う、その含み笑いに見覚えがある気がした。明らかな初対面にもかかわらず。
「あら? フェルネの顔に何かついてまして?」
「いや」気のせいだと自分に言い聞かせ、ルジェは書類へ向き直った。
 『顔の傷・痣等:なし 体形:小柄、痩せ型』――むしろ細い骨に薄い肉がくるんと巻きついていると言ったほうが正しい。子供じみた体形で、まったく『喰欲』をそそらない女だ――『身長及び体重は測定後、係の者が記入の事』
「出身はテア国でいいな?」
「ええ、東の森に住んでましたわ」
 少女の答えに、機械的に文字を刻む手が止まった。指先で万年筆をくるりと回す。
「東の森? まさか、テアの極東に広がる『大森林』のことか? あそこは精霊の住まう土地。安易に踏み込めば正体をなくすはずだ。……と、聞いているが」
「その通りですの。里の人は入れないので、母が亡くなってからはずっと一人でしたわ」
「しかし、いくら精導士でも……いや、なんでもない」
 反論を飲み込んでルジェは書類へ向き直った。これも血の成せる業なのだろう。
 彼は懐から地図を取り出し、『大森林』もテアの一部だと確かめた。人間が勝手に引いた線など同族には関係ないのだが、埋めるべき欄がある以上、適当なことは書けない。
「では、テア国在住にもかかわらず、エン国の支部へ意識不明で運ばれた経緯は?」
 その質問を口にした途端、フェルネットの小さな唇がツンと尖った。
「またその話ですの? 悪い人に攫われて、うるさくて長い乗物から河に落ちたって、何度も説明しましたでしょ? 病院でも聞かれたのに、なんにも伝わってないんですのね」
 嫌味ったらしく語尾を強められても、ルジェは顔色を変えなかった。縦割り組織なのだから多少の重複は当然だと、そ知らぬ顔で要点を綴る。この場で必要なのは話の内容ではなく、彼女が質問に答えたという事実だ。事実はただ在ればいい。
 ルジェは彼女から詳細を聞き、要約した。彼が黙々と手を動かす間、少女はじっと宙の一点を見つめていた。虫でもいるのかと視線の先を垣間見たが、何もない。おおよそ大気に遊ぶ小精霊の戯れ言にでも耳を傾けているのだろう。
「……この辺りの精霊は、総じて東のものよりも貧弱らしいな」
 彼がなにげなく呟いた一言が、少女を妙にうろたえさせた。
「え? ……え、ええ。言われてみれば――そう、ですわね」
 明瞭だった返答を妙に濁して、彼女は落ち着かなげに髪を撫でつけた。
 ルジェは一瞬疑問に思ったものの、追求する必要もないと仕事へ戻った。
 それから訊いては書くを繰り返し、最後の欄を埋め終わった頃には夜が明け始めていた。
「質問は以上だ。本日中に医務室で身体測定と採血を受けるように」
 書類の束をそろえながら、ルジェは幾度となく繰り返してきた台詞を口にする。
「今後の生活は我々が支援する。法に触れぬ限りの自由と権利も保障しよう。しかし軍属である以上、有事の際には相応の働きを要請されること、くれぐれも忘れないように」
 言いざまに席を立とうとして、緑の瞳が物言いたげに見上げていることに気づいた。
「……質問でも?」
「ええ。さっきからそこの子が訊けって煩くって」
 細い指がルジェの右肩を示した。とっさに一瞥する。何もない。
「貴方たちは吸血鬼なのに、フェルネの血が欲しくないんですの? ここに来てから誰にも興味を持たれないのですけど……そんなに不味そうかしら」
 いっそ不服げな言い様だった。まるでその台詞が、同族の間ではあからさまな『誘い文句』だと知っているかのように。
 反射的に溜息をつきそうになるのを堪えて、ルジェは一枚の書類を少女へ差し出した。以前に誰かが説明したであろうその内容を淡々と噛み砕く。
「現在は採血機関によって『喰糧血液』の配給制度が確立されている。大半が前線へ送られるために都市部では潤沢とは言えないが、もはや我々が人間を襲う必要はない。それに苦痛の大きい直接摂取は、人間保護法で禁止されている」
「人間保護法?」
「『奪うな・襲うな・苦しませるな』。文字通り人間の心身を守るための規則だ。罰則が重いので、あえて反しようとする者はいない」
「絶対に? 全員が規則に従おうとする、善良なヒトばかりなのかしら?」
 フェルネットが大げさに首を傾げた。目元が試すような色味を帯びている。
 ルジェは煩わしさを顔に出す代わりに、靴底で床を三度叩いて軍帽の庇を上げた。黒髪の隙間から時に冷たいと言われる目元がのぞく。
 薄い紫の眼が光にさらされ、瞳孔を縦に細く引き絞った。
「貴女はここがどこだと?」
 一瞬、答えを待つような間があった。「……吸血鬼のお城、かしら」
 あながち外れてはいないと思いながら、ルジェは几帳面に訂正する。
「ここは極西総統領ヴァルツ。我らが同胞の集う唯一の都市だ。古くは吸血大公領とも呼ばれたが、貴族制が廃止されてからは軍の所有となっている。この建物も城ではなく、総統府という軍事施設だ。――先の質問は、ヴァルツが『どこに』在るかと聞いた」
「そんなの、西の荒野に決まってますわ」
「そうだ。そしてこの荒野で軍の援助なしに生きられるのは、魔物だけだ」
 大陸の西、万年雪に閉ざされた大山脈群の先には、荒涼とした赤い大地が広がっている。昼は灼熱、夜は極寒。雨は降らず、緑は芽吹かない。地を掘れば湧くのは漆黒の毒油だけ。
 それだけならまだいい。荒野から更に西、前人未到の地の果てからは、魔物が来るのだ。
 この世で最も強靭にして醜悪な肉食動物――魔物。比類なき剛力と、強靭な骨を持つこの生き物は、動く物全てに襲いかかる。主食である人間はもちろんのこと、同族や、時には鋼鉄の機動車両にすら齧りつくこともあった。凶悪な本能のままにあるそれらを、人々は恐れを込めて『理なき者』と呼ぶ。
 そんな荒野で生き残るために最適化された都市がヴァルツだ。高い円筒の外郭を真上から見れば、厳つい総統府の建物を中心に、十二の大通りが放射状に広がっているのがわかるだろう。巨大な時計に似た姿は、堅牢な守りと俊敏な迎撃に特化した結果だった。
「ヴァルツは小さな社会だ。食糧や水、血液を中心とした生活必需品は東からの輸入――即ち軍の配給に頼っている上に、鉱産物や香料などの主力産業も軍に属している。近年急成長した科学産業も軍の独壇場だ。必然、軍人ばかりが増える」
 何度も魔物の大群に襲われる内に、彼らの社会は変化していった。生き延びるために最低限の規則を残して、身分や婚姻などの制度が抜け落ちていったのだ。
 その穴を埋めるように軍は肥大化した。元は大公に仕える騎士の一団だったというその組織は、五十年前の革命を皮切りに、行政から司法、治安を吸収して、統制を一本化した。そうして得た強大な権限で『法』を定め、今日では日常のあらゆる場を支配している。
「領民の八割が軍事関係者の中で、軍が定めた『法』を犯せばどうなるか、想像ぐらいはつくだろう。ヴァルツの検挙率は公表では・・・・十割だが、実質もそれと大差ないぞ」
「つ、ま、り。ここの吸血鬼さんたちはこわーい軍さまの言うことを聞くイイコばっかりだから、フェルネを襲ったりはしない。と、言いたいのかしら?」
 何も知らない子供の声色で首を傾げつつ、少女がなめきった目を向けてきた。
 その口を縫いつけてやろうかと思いながら、ルジェは意識して無表情を保つ。
「簡単に言えばそうなる。まともな神経の同族なら人間を襲う前に配給血液を選ぶだろう。危険を冒してでも噛み付きたいと思わせるような魅力が貴方にあれば、話は別だが」
「あら、こんなに清らかな乙女に魅力がないとでも?」
 どこが清らかだ。舌打ちしそうになるのを抑えて、ルジェは音もなく席を立った。
「他に質問がないなら失礼する。――ああ、その前に一つ忠告しておこう」見下ろす形で少女の鮮やかな緑の視線を掴み取る。「ここでは『吸血鬼』などと軽々しく口にしないことだ。我々は人間の血液を嗜むが、御伽噺の化け物とは根本的に違う。その呼び名を蔑称と受けとる者も多い……。精導士とはいえ、人間が我々を逆上させればどうなるか――」
「あら、その時は偉い法律さまが助けてくれるんじゃありませんの?」
 少女は彼の眼をまっすぐに見つめて、含みのある笑みを崩さなかった。彼らの猫のような瞳は人間を本能的に恐怖させるというのに、豪胆な娘だ。思えば、初めから少女には怯えがない。妙になめられていると感じるのはそのせいだろうか。
「この地では誰もが自制を求められる」ルジェは慎重に言葉を選んだ。「裏を返せば、それだけ抑圧されているのだから、ふとした切欠で爆発するかもしれない。覚えておけ、人間保護法では『一瞬の死』は『苦痛』よりも扱いが軽い。……身の振る舞いには重々気をつけることだ。若い身空で人生を棒に振る必要はない」
「まあ。優しいことも言えたんですのね」
「事後処理に駆け回るのはウチだからな。本担当が決まるまでは大人しくしてもらいたい」
 間髪いれず、少女がにやっと、悪巧みを思いついた少年のような笑みを浮かべた。
「じゃあ、今フェルネに何かあったら、ルジェが助けなきゃいけないってことかしら?」
 いい加減この笑みに慣れてきた彼はさらりと受け流す。
「残念ながら今日はもう終業だ。何があろうと始業までは放置させてもらう」
「それって職務怠慢なんじゃないですの?」
「なんとでも」と呟いて肩をすくめてみせる。それが仕事というものだからしょうがない。明日になれば始業と共に本担当が決まるだろう。そうなれば、ルジェは晴れてお役御免だ。
 その時、開け放しの扉を誰かがコンコンと叩いた。控えめな呼びかけが続く。
「中尉殿。少々お時間を頂きたくあります」
 彼と同い年ほどに見える青年が戸口を覗き込んでいた。同じ部署の後輩だ。前線から戻ってきたばかりで、未だに前線言葉が抜けていない。二十歳前だというから、まだまだ戦いたい盛りなのかもしれないが、中央ヴァルツでは若干耳に障る。
「――では、本日はこれにて」言い置いて、ルジェは少女と別れた。
 廊下へ出ると、後輩が素早く扉を閉めて耳打ちした。「お父上がお呼びであります」
 ルジェの眉間に皺が寄り、舌打ちが響く。即座に後輩へ書類の束を押しつけた。
「……把握した。俺は上へ向かう。お前はこの書類を隊長へ渡しておいてくれ」
「了解いたしました!」
 後輩が背筋を伸ばして敬礼したとき、彼の持つ紙束から一枚の紙が抜け落ちた。
 慌てて拾おうと腰を屈めた青年の頭上で、ひゅるりと風の舞うような音が鳴る。無気音だけで構成された簡易魔法の呪文だ。
 重力に逆らって紙が舞い上がり、紙束へ吸い込まれた。
 目を瞬かせる後輩に背を向けて、ルジェはゆったりと歩き出す。
 魔法使いのほとんどいない同族にも、ごく稀に魔法の才を持つ者がいる。けれど彼らの魔力は少量で、人間の魔術師にも遠く及ばない。ゆえに彼らは魔術の才能を磨くより、剣や他の武器を極める。手品に毛が生えた程度の魔法では、魔物に歯が立たないからだ。
 だから士官学校で魔術を専攻したような考え無しは、ほとんど文官のような事務仕事へ回される。例えば、ルジェのように。

     ◆

 ヴァルツにおける階段は、文字通り各階にある『段』を意味する。最上階から地下まですっぽりとくり貫かれた円筒に、小部屋ほどの足場が螺旋状に並んで飛び出しているのだ。彼らの脚力でひらひらと飛び移れば、昇降機を使うよりもずっと速い。
 滞空中に追越しをかけてきた相手とぶつかりそうになり、ルジェは身を翻した。足場に片手でぶら下がって見上げれば、将校。危なかった。目上と何かあったら事だ。
 階段で接触事故を起こしそうになった場合には、階級の低いほうが中央の穴へ回避する。というより、落ちる。総統府だと最高で地上四八階から地下八二階まで、計一三〇階分の高さを一気だ。この穴は甲種という特に資質に恵まれた者が緊急時に使用するためのもので、一般に甲種の道と呼ばれている。一応、中央に鉄の棒が一本通っているので、反射神経さえ良ければ生き残れる計算だが、接触時に相手に蹴られ……という話もよく聞く。
 ルジェは指先で縁に引っかかったまま、下を見て溜息をついた。間接照明が輪になって連なる中央に、遠くぽつりと暗闇がある。あそこへ落ちていたらどうなっていただろう。
 たぶん、死ぬな。
 魔法が使える同族は身体的に貧弱なことが多い。ルジェもそうで、査定ではなんとか乙種で通っているものの、武官学校の身体検査では下から数えた方が早いくらいだった。
 そんな資質で魔法などを専攻してきたものだから、当然前線では使い物にならず、後方部隊をたらい回しにされたあげくに二年で中央へ差し戻された。半端な技能を揶揄して『五割の男』と呼ばれたくらいだから、相当ひどかったらしい。
 いっそ丙種に認定されていれば武官にならずとも済んだのにと、いい加減な査定をした医者を恨みつつ、彼はひらりと足場へ舞い戻った。
 ここは総統府の最上階。ヴァルツで一番高い所だ。地上は敵襲を受けやすい代わりに遠くまで見渡すことができる。そこに最強の守護者を配置するのが、この地の慣例だった。
 総統執務室。その最奥に座するだろう男の顔を思い浮かべ、ルジェは気鬱になった。
 角を曲がるたびに身分証を見せて、厳つい扉の前まで辿り着く。最後の衛官たちへ身分証を示そうとしたとき、出し抜けに相手のほうから呼びかけられた。
「おいお前、なんでこんな所にいるんだ。今日は東側の当番だったろう?」
「は?」
「ったく、何やってんだ。急がないと交代の時間に遅れるぞ。とっとと行け!」
 知り合い顔で追い払おうとされるが、ルジェには相手に見覚えがない。
 ……またか……。内心、うんざりと呟いた。
 ルジェは同族として極めて平均的な容姿をしている。黒髪や薄紫の瞳から始まり、身長、体重、体型とどれをとっても十人並みだ。すっきりと整った顔立ちも、美形揃いの同族に混じると埋もれてしまう。唯一の特徴は子供のように小さい喰歯だが、滅多に笑わないので気づかれにくかった。
 そんな特徴のない顔をひょいと見ると、同族は一瞬、自分の知り合いと混同してしまうらしい。親しげに他人の名前を呼ばれたことが何回もある。それも、それぞれ違う名前で。
「失礼ですが、貴官は人違いをしておられます。自分は――」
「んなわけあるか。同期を見間違えるバカがどこにいる!」
 ここにいる。とは言わず、ルジェは手の中の軍隊手帳を差しだした。
 衛官がそれを受け取る寸前、いきなり目の前の扉が開いて赤毛の男が大声で怒鳴った。
「何事だ。恐れ多くも総統閣下の咫尺で、騒がしいぞ!」
「ロイ執行大佐殿!」さっと、衛官たちが足をそろえて右手を軍帽の鍔元へ添えた。「申し訳ありません。私の同期が配置を間違えておりましたので、注意しておりました」
「はあ? お前の同期? こいつが?」急に声色を変えて、ロイがルジェを見下ろした。測れば十センチメートルばかりの身長差が軍服を着ているといやに開いて見えた。
 彼はロベルト・ロイ。光に透かした紅茶のような、くどい赤毛が目をひく男だ。今年で三十になるというのに、青い眼がいつまでも悪戯じみているせいで、三つは若く見える。いや、実際に肉体が若いのだろう。同族の年齢は外見に比例しない。
 ロイはルジェの不機嫌な顔を見て、ぷっと噴きだした。
「お前、また間違えられてんのか。難儀な奴だなぁー」
 言うなり、ルジェの軍帽を上からわしゃわしゃと捏ね回し始めた。この男はいつでも満遍なく馴れ馴れしい。この前も酒場の女主人に『そうすると年の離れた兄弟みたいね』とからかわれたばかりだというのに。
「やめろ。鬱陶しい」
 ルジェがぞんざいに手を払うのと、衛官が目の色を変えたのは同時だった。
「貴様! 上官に向かってなんという口の利き方を。そこへ直れ! 根性を叩き直してくれる!」
 久々に聞く武官らしい物言いに、ルジェは一種感心した。衛官はヴァルツ近辺の守備を担う中央守備隊に属する。ほとんどが文官のような武官が集う中央で、数少ない脳筋族だ。
 殺気立つ衛官へひらひらと手を振り、ロイがへらりと笑った。
「いいのいいの。こいつ、これでも俺の同期だから」
 ロイの言葉に衛官たちが止まった。まじまじとルジェの顔を見る。
 ルジェの外見は人間を基準にして二十歳ほどだった。
 同族の肉体は経験の蓄積、すなわち精神の成長に比例している。ルジェの体は十代の後半から伸び悩み、二十歳で成長が止まった。つまり三十路にして精神が二十歳の頃のまま。恥である。特に若いうちに成長が滞ると学習能力のないバカと思われがちなので厄介だ。
 こういった同族の性質から、軍では主に階級から年齢を推測するのだが……。
 衛官の視線が素早くルジェの肩章を走った。
 彼の肩には赤紫の六芒星が二つ。間違いなく中尉だ。前線でさっさと二階級特進する奴らのおかげで昇進速度の速い今の軍では、三十歳で少佐が平均にもかかわらず、中尉。兵士を士官に切り上げた現行の徴官制での、ほぼ末端である。彼の低階位は同期の中でも特出していて、現にロイは大佐相当だ。こいつは少々特殊だが。
 これ以上なめられる前に通りすぎようと、ルジェは身分証を見せようとし、そこに記された自分の名に気づいた。胃がキリリと痛む。これから下される、更なる比較を予見して。
「はっ、ルジェ‐ラトゥール殿ですね。ご訪問は伺っております。総統閣下の」さあっと、相手が血の気を失った。「ごしそ……いやご養子、で、あらせられる?」
 相手の語尾と口元が引きつっていた。それを見てロイがもう一度噴き出す。
 内心溜息をついて、ルジェはいつもの言い訳をした。
「養子など名目です。扱いは階位を見ればわかるでしょう」
「は、はぁ……」
 ヴァルツには孤児が多い。婚姻制がないため、たった一人の親に先立たれるだけで路頭に迷ってしまうのだ。年々増えゆく孤児を少しでも減らそうと、軍立孤児院では一部を高官の養子に斡旋している。内実はほとんど食客扱いだが、彼らはみな出世が早く、二十代を終える頃にはさっさと将官になっている。前線で命を落としさえしなければの話だが。
 親が親なだけに、ルジェの昇進の遅さは目立つ。名乗るだけで無能の証明になるので、ここ何年かは氏名を口にしない方針で生きてきた。
 憐れみか蔑みかわからない衛官の視線に耐えていると、ロイが扉の向こうから手招いた。「さっさと入れよ。今なら口煩い――もとい、我らが饒舌なる総統つき秘書長閣下もご不在だ。好き勝手できるぜ」と爽やかに歯を見せて笑っている。
 この部屋は総統執務室へ続く待合室にあたる。入り口から左は一面硝子張りで、ヴァルツの南が一望できた。残りの三方には絵画や陶器、武具を始めとした所有者自慢の品々が並んでいる。嵌木細工の施された床には上質な平机と革張りの長椅子が置かれており、机の上にはロイの軍帽が無造作に乗っていた。
 入り口の右手には秘書机があるものの、今は誰もいない。その少し奥、右側の壁には生花をふんだんに活けた大壷を左右に配して、総統執務室の扉があった。中には二つの気配がある。来客中のようだ。
 隣室に気をとられていると、ロイがルジェの軍帽をひょいと取り上げた。
「相変わらず冴えない顔してんなぁ。ちゃんと喰ってんのか?」
「ほどほどにはな。正直、これ以上胃に負担をかけたくない」
「お前、昔っから『喰』が細いもんなー。あ、飴ちゃんあるぞ。食うか?」
「いらん」素気無く言って、帽子を奪い返す。
 同族として恥ずかしい話だが、ルジェは血液を大量に摂取すると胃痛に見舞われる。少量で長持ちする体質なのもあり、配給量は成人男性の五分の一、十歳の少女よりも少ない計算だ。本人はそれで幸せなのだが、大の男が小さな血液パックを啜る様は隣で見ている者をえらく切なくさせるらしく、しょっちゅうロイのようなお節介な輩に「運動しろ、外に出ろ、肉を食え、酒を飲め」と根拠のない滋養のつけ方をさせられている。
 ルジェは執務室の反対にある硝子張りの一面へ背中を預けて、腕を組んだ。
「で。なぜお前がここにいる。執行大佐とは総統室へ遊びに来れるほど偉いものなのか?」
 隣で暢気に広場を見下ろす男の腕章を引っ張った。葡萄酒色に黒の憲官紋が入った腕章には、同族なら誰もが畏怖を覚えるはずだ。秘書長が逃げたのもこれのせいに違いない。
 ロイは嫌そうに身を引いて、腕章を正した。
「単刀直入だねぇ。もちろん任務でだよ。けど『俺の』ってわけじゃない」顎で背後の扉を示すと、肩をすくめてみせる。「新人研修の付き添いってヤツだ。うちの部隊じゃ、新入りは根性づけにまずココへ送られるんだよ。お前の親父さんほど見極めが難しいのはないからな。ま、大抵はあっさり黒判定出して、隊長に拳骨食らうんだけど」
「あれが黒じゃないと?」
「冗談。あれでいて、あのおっさんはまったく耄碌しちゃいないんだ。よく狂人の振りするやつぁもうアレだとか言うが、見抜いてこその本職プロだからな」
 ロイの所属する七一憲官隊は憲官の中でも一種独特な分野を担っている。同族の中から常に一定数現れる狂人を見つけ出し、独断で屠る権限があるのだ。
 強靭な肉体を持つ同族が理性の統率を失えば、小振りな魔物が一体増えるも同じ。その被害が出る前に迅速な対処を、というのが七一の名目だった。容赦のない同族吸血鬼殺しを揶揄して、しばしば混血児ダンピールとも呼ばれる。
「領民の平和を守るのがお前らの仕事なら、今すぐあの男を糾弾すべきだと思うが」
「それは警邏のお仕事だ。俺たちの任務は主に対象の保護観察だからな。どうしようもなく身の危険が迫ったときにだけ、自分の命を優先できるって権限があるだけで――」
「つまり飼育員かつ屠殺士、と」
「人間の保父さんしてる奴に言われたかぁないねぇー」
 にやりと笑いかけられたのを無視した。
 しかし相手もこちらのあしらい方を心得ている。なんでもない顔で話を振ってきた。
「新人君も可哀想だよな。あいつ、どことなくお前と似たトコがあるから、今頃あのオッサンに嬉々として遊ばれてると思うぞ」
「あの男に会っていびられない奴がいたら、俺は頼み込んででも弟子入りするね」
「そりゃあ違いない」カカと笑って、ロイが窓から離れた。ひと飛びで秘書机を越えると、奥から酒瓶を見つけ出す。悪戯じみた笑みで机越しに軽く掲げてきた。
「お前、任務中じゃないのか」
「いつも秘書が出してくれるぞ。まだまだ当分かかるし、構わんだろ。お前も要るか?」
 ルジェは首を横に振った。これからあの男に会わねばならないのに、酔ってなどいられない。たとえ瓶の中身が酒ではなかったとしても。
「当分かかるって……どのくらいだ?」
 長椅子へ戻ったロイはさっそく酒杯を舐めていた。
「さあ、なんとも――あ、まさかお前、俺たちが帰るの待ってる?」
「できれば」あの男にいびられるのを見られたくない。
「諦めるんだな。終わるのを待ってたら日が登ってまた沈むぞ。寝床から便所まで、対象日常を細やかに観察し尽くしてこそ、正確な審判ジャッジができるんだ。誰と何を話してるのかも重要な判断材料だからな。俺らのことはまあ、空気だとでも思って頑張れ」
「うざい空気だな……」
「いま俺見て舌打ちしただろ。絶対しただろ」
 聞こえない振りで扉へ向かおうとしたとき、ルジェの背後から日の出の鐘が響いてきた。
 何気なく振り向いて外へ目を向けると、赤煉瓦を敷き詰めた広場の向こうで時計塔の鐘が揺れていた。同じく煉瓦作りの古い塔は、その下に広がる広場と一体化して、荒野の赤が立ち上ったようだ。
 広場には帰路につく同僚がまばらに歩いていた。何人かは広場を一周するように配置された英霊たちの墓へ一礼し、去っていく。その中に一際多くが足を止めるものがあった。
 同族の英雄ルイ‐レミィの墓だ。周りには幾つもの花や酒瓶、剣が捧げられている。現総統が就任してから二十年間、彼の墓だけは花が絶えたことがないという。
 また一人また一人と墓へ敬礼する様を眺めながら、ルジェはロイへぽつりと問いかけた。
「まだ、続けるつもりなのか」
 硝子に映ったロイが酒杯に口をつけたまま、器用に片眉を上げた。「なんのことだ?」
「この仕事だ。もう人事に掛け合ってもいい頃だろう」
 一拍の後、ロイは静かに杯を置いた。組んだ膝の上に両手を重ねる。
「……まあ、な。だが七年目にもなると、内部の事情にも詳しくなってくる。簡単には抜けられんよ。いっそ魔物の大群でも攻めてくるか、戦争でも起こってくれれば、大手を振って前線に帰れるんだけどさ」
 不穏な内容に反して苦笑は穏やかだった。自分の定めを受け入れているのだろう。
 だがこの男の本性は戦士だ。ルジェはそれをよく知っている。
「それに、この仕事も嫌なことばっかりじゃないんだ。たまには誇りに思うときだってある」薄く微笑んでロイが窓の向こうへ視線を投げた。彼の位置からは見えない遥か下へ。「なにしろ英雄ルイ‐レミィの遺志を継ぐ、たった一つの部隊だからな」
「あれはただの大量殺人犯だ」言い切る声は重く、冷たい。
 二人の間に流れていた空気が止まった。
「ルジェ。それは昔の話だ。今では英雄なんだよ、お前の――」
「知っている。軍のために殺し、軍に裏切られて死んだ愚か者だ。お前が望んで同じ轍を踏もうというのなら、止めはしないが……」
「ルジェ!」かっとなってロイが立ち上がり、扉へ向かうルジェの襟首を掴もうとした。
 その手が届く前に、払い落とす。
「――俺なら、とうに見切りをつけている」
 ルジェの薄い背中が扉の隙間に滑り込む。同時に、背後から悪態が届いた。
「……くそっ。お前、今度呑むとき覚えとけよ。べろっべろに潰してやるからな!」
 的を外した捨て台詞に苦笑して、ルジェは思う。お前に酒で勝てたことなんかねぇよ。

     ◆

 数年ぶりに入った総統執務室はルジェの胃を容赦なく痛めつけた。
 まず部屋が暗い。北一面に窓をしつらえながら、朝日は完全に遮光されている。作りつけの間接照明も消されていて、同族の目でもぼんやりと輪郭がわかる程度だ。そして。
 ……また、増えている。
 闇の中に無数の小さな目があった。床の上、本棚、飾り棚には溢れんばかり。客人用の長椅子や平机の上まで、びっしりと陶製の少女人形ビスクドールが腰かけている。
「遅かったね、ルジェ」
 執務机の向こうから、甘い少年の声が届いた。
 大きな革張りの肘掛け椅子に銀髪の美少年が納まっている。旧貴族を象徴する薄い緋色の瞳に妖艶な笑みを浮かべ、軽く首を傾げていた。透き通るような白い頬が胴着の襟に触れている。珍しく軍服の上着を脱いでいるせいか、まるで本物の子供のように見えた。
 この男がルジェの養父にして吸血総統・ラトゥールだ。
 彼の手は腕に抱いた人形の髪を優雅に梳き続けていた。その一見華奢そうな指が前総統をバラバラに引き裂いたのは、もう二十年も前になる。
「あー眠い。君がぐずぐずしてるから、夜が明けてしまったよ。――ねぇ、メアリー?」変声期前の良く通る声が、甘えたように語尾を上げた。
「……申し訳ありません、父上」
 平淡に謝辞を述べて、ルジェは軍帽を外した。胸に添え、最敬礼の型をとる。二人きりならこんな油断しきった動作は絶対にしないが、今は面倒な客がいるのだ。
 『新人君』の位置は見なくともわかった。背後の壁際から張り詰めた気配がする。
 下手な真似をして目をつけられるのも面倒だと思い、ルジェは人前で使う顔を維持した。
「改めまして、お呼び出し有難う御座います。久方振りにご尊顔を拝し、不肖、恐悦至極に存じます」声にまったく心が篭っていないが、日頃からあまり心を込めて生きていないから、部外者には違いがわからないだろう。養父に嫌味が伝われば十分だ。
 伏せた眼をちらりと上げると、養父は彼など忘れたように腕の中の人形と話していた。
「ローザ、お客さんにご挨拶は? ……もう、マルガリータったら、さっきは上手にできたのに。……ふふふ。そうだったね、キティは恥ずかしがり屋さんだもんねぇ」
 夢見るように言葉を紡ぐ。一言ごとに腕の中の人形の名前が変わっていた。
 その様子に壁際の気配が凍りついた。初対面なら妥当な反応だろう。
 ルジェには養父が人形と話すのも、その人形の名前がころころと変わるのも、いつものことだった。相手がまともに話す気になるまで眼を伏せて待つことにする。最低限の礼は尽くした。これ以上付き合ってやる義理はない。
 ラトゥールはルジェのことなど眼中にないような態度で、彼の意図に応えた。壁際の青年に満面の笑みを向け、呼びかける。
「えっと……そこの君、リダー君だっけ?」
「はっ、第七一憲官隊書記補佐見習い、ウィリアム・リダーです」少年らしさの残る声だ。
 書記補佐の響きに目を向ければ、闇の中に文官特有の開襟制服が見て取れた。七一は慢性的な人手不足で、半分は文官登用だと聞いたことがあるが、本当だったらしい。
 ラトゥールは優雅に微笑んで頷いた。しかし薄緋の瞳には悪意が煌めいている。
「この子たちがね、君が気に入らないって騒ぐんだ。ほら、さっきから泣き声が聞こえるだろう? 困ったものだよねぇ。僕としては仲良くして欲しいんだけど……女の子って群れると怖いじゃないか。――あはは、怒らないでよケリー。君の我侭のせいなんだから」
「し、しかし閣下。お言葉ですが、任務が……」
「僕は君のためを思って言ってるんだけどね。バーバラは怒らせると怖いよ? ……そういえば、前に君みたいに嫌われた部下が逆らって、一週間後に変死体で見つかったことがあったけ……。僕、その時の記憶のことはあんまり覚えてないんだけどね――」
「失礼します!」切羽詰まった声をあげて、新人は矢のような速さで退出した。
 ルジェは不幸な新人へ黙祷する。初っ端からこんな化け物の相手をさせられるなんて、かわいそうに。後であの禄でもない教育担当にバカにされるだろう。『引っかかった』と。
 新人への同情が終わらないうちに、養父が人形を放り投げた。ルジェの足下で高い音を立てて砕け散る。どうせまたバカみたいに高い物に違いないのに、この男は。
「帰っちゃったね、まったくもって可愛い子犬だ」
 くすくすと笑う少年に先程までの夢見るような気配はない。あるのはただの老獪さだ。
 人形に話しかけるのは、興味のない相手を追い出すときのラトゥールの常套手段だった。さも人形に意志があるようにして、うまく話題を誘導するのだ。今回も『邪魔だから出て行け』の一言を、よくもあそこまで引き伸ばせたものである。そうやって最初は誰もが騙され、己を恥じる。そうして思うのだ、我らが総統を疑うなど言語道断である、と。
 だがルジェは知っている。この男の闇はもっと難解で、決して姿を見せない。
「ふふっ、あの仔犬、上になんて報告すると思う?」
「『総統閣下にはもう手の施しようがない』、だろ。あまり子供で遊ぶんじゃない。本目録ブラックリスト入りしたらどうするんだ」
「僕があの目録に上らないのはね、あの子たちじゃ束になっても敵わないからだよ」
 そりゃそうだろうさ、と答えかけて押し黙る。実力がそのまま階級を示す軍で、今の地位にありながら二十年も生き続けていること。この事実のほうが何倍も雄弁だ。
 ラトゥールは総統でありながら、正式に七一の最高警戒目録レッドリストに登録されている。
 時として不都合を握りつぶしがちな軍の中で、七一が侮辱罪にも似た行為を許されているのは、彼らの判断基準が目に見える形で在るからだった。
 その指標は実年齢と肉体年齢の差だ。成長の歪みを狂気の前兆と捉え、十歳差で要注意イエロー、二十を超えれば最高警戒レッドとしている。ルジェも今年から黄色い冊子の端に名前を連ねているはずだ。
 同族の成長は成人後から緩やかになり、三十を超える頃から停滞し始める。六十を迎える頃に発狂する者が多いことからも、あながち間違った指標ではないのだろう。だが軍でその年まで生き残るには、運と実力の双方を兼ね備えている必要があった。武官なら四十を過ぎれば万々歳、そうでなくても約五十年の周期で魔物の大群が襲ってくるのだから。
 ラトゥールは今年で五十五歳。その麗しい外見はどう見積もっても十代の初めだ。四十年以上もの間、彼は一切外見が変わっていないという。
 ルジェは軍帽を被り直して、片手を腰へ当てた。相手を強く睨みつける。
「それで、用件はなんだ? 客を追い出すために呼びつけたわけじゃないだろう」
「相変わらず君は可愛くないね。もちろん、お願いがあるから呼んだのさ」
「お願い?」嫌な響きだ。
 ラトゥールは肘掛に両肘をついたまま、しなやかに指先を絡めた。笑みが一つ深くなる。
「人間の女の子を一人、殺してきてよ」
 ルジェはとっさに飲みかけた息を制した。「……殺すだと? 人間を?」
 如何なる時も平静に――そう叩き込まれていても、声が掠れた。ルジェは職業軍人だが、魔物を屠ったことはあっても人間を殺したことはない。それどころか職務上、平時はそれなりに親しくしてすらいる。それを、理ある者を、殺せと。
 養父が満足げに笑った。ルジェの内心を完全に見透かしている。
「正確にはテア国まで護送してもらうだけなんだけどね。対象はフェルネット・ブランカ。可愛い子だよ。僕が会ったときは眠ってたけど……。彼女を連れてテアへ押しかけて、押しつけて、ちょっとしたお土産を貰っておいで。終わったら特別に休暇をあげるよ」
「話が見えない。テアへ渡してしまったら、簡単には手を出せないだろう」
 この場では『御意』以外必要ないとわかっていても、問わずにはいられなかった。相手が身内だからと甘えているわけではない。理屈が通らないと動きたくないのだ。
 ルジェの態度に気を悪くした風でもなく、ラトゥールは答えた。
「暗殺するに決まってるじゃないか。テアのお城に忍び込んで、ね。……ああ、君が手を下す必要はないよ。その辺りはちゃんと手配しておいたから」薄い緋色の瞳が『そこまでは期待しないよ』と告げる。「ウチヴァルツで始末しちゃうほうが簡単なんだけど、交換条件に肥沃地帯を出されちゃったからね。ほんの端っこだけど、応じない手はないでしょ?」
 ラトゥールがにっこりと笑いかける。半分はルジェへ、半分はテアへ。だがその目はまったく笑っていない。
 東に領土を得られれば、安定した食料供給が期待できる。たとえ少量でも、輸入に頼りきった現状よりは楽になるだろう。ヴァルツの主な収入源は人間への高利貸し業だが、不安定要素が大きく、危機管理のためにも一次産業は少しでも欲しい状況だ。
 それになにより、いずれはその地がヴァルツ東進の足掛りになるはず。
「しかし、あの娘にそんな価値があるのか? 見たところは普通の子供だが……」
 幼さの残る小さな顔が脳裏に浮かぶ。まだ十六歳だったか。年の割に可愛げがないものの、死ぬには早い。……所詮は人間と、割り切らねばならないのだろうが。
 彼の思考を途絶えさせるように、椅子が軋む音が闇に響いた。ラトゥールが背凭れへ身を預け、思案げに柔らかな銀髪をもてあそぶ。
「やっぱり君には教えておくべきかな。あの子はね、魔術師を精導士にできるんだよ」
「なんだって?」思わず目を見開く。とっさに歩み寄ろうとして、足下に散らばる人形の破片に踏み留まった。「ばかな。新しい魔法薬でも開発したのか? あの子供が?」
「そんなところかな。詳しくは言えないけど」
「本当にそんなことができるとして、なぜ殺す必要がある。前線で魔法使いが使えないのは、大魔法の使い手が人間ばかりだからだ。同族が精導士になればっ」
「自分を基準に考えないでよね。『魔術師を精導士にする』っていうのは、受け手に魔法の素質が要るってことだよ? 僕らはほとんどが魔法を使えないでしょう。利幅が狭すぎるんだよ。だったら人間の手に渡る前に、いっそ殺してしまうほうが安全だ。――エン国の仕業に見せかけて、ね」にたりと、ラトゥールが笑みの種類を変えた。
「テアで殺すのに、わざわざエンに濡れ衣を被せるのか?」
「そう。最近あの国、鬱陶しいんだよね。どうもウチから技術を盗んでるみたいで、いきなり鉄道なんて引き始めるしさ。定期的に科学者を間引いてるから、突然あんな物が出てくるはずがないのに……。まぁ、内燃機関じゃなかっただけマシだけど」
 東の事情に疎いルジェは、ラトゥールの話に目を瞬いた。フェルネットが言っていた『うるさくて長い乗り物』が列車のことだと、今更気づいたのだ。人間の文明は遅れていると高をくくっていたが、知らないうちにひどく距離を縮められていたらしい。
「この辺りで一度、叩いておこうと思ってね。元々彼女を攫ったのはエンだ。あの国はあの子を使ってテアに侵攻しようと企んでる。テアの豊かさはエンにも魅力的だからね。もちろん、エンの敵意にはテアも気づいてる。分厚い面の皮の下は猜疑心で一杯だよ」
 とん、と少年の指が机を叩いた。
「そこへ一滴の油を落とす。それが君の任務だ」
 領土を差し出してでも欲しがった娘だ。殺されれば自ずから火は点くだろう。
 実戦は魔物の討伐しか知らないルジェでも、戦禍は容易に想像できた。軍人が死に、民衆は疲弊し、上層部は勝利という名の妄執に固執していく。今のヴァルツと同じ――いいや、おそらくもっと酷いことになるだろう。『理ある者』同士が争うのだから。
「君には彼女の死後に、テアへの陳情役をしてもらう。『総統閣下は彼女の死を甚く嘆いている。貴国へ如何なる協力も惜しまない所存だ』ってね」
 人間同士で潰し合わせてエンを叩き、テアへ恩を売る。そんなところへ自分が一枚噛まねばならないと思うと、ルジェは眉間に皺がよるのを止められなかった。
「事情はわかった。それで、なぜ俺なんだ」
 代わりは幾らでもいるだろうと続ける間もなく、言葉を被せられた。
「『ラトゥール大公家』の名前は、今でも人間によく効くからねぇ」
 『大公家』。半ば忘れていた響きに、ルジェは不覚にも納得してしまった。
 大昔の契約で同族の三つの長には大公の地位が与えられている。かつての宗主国が改宗の対価に与えたとされているが、詳細は不明だ。貴族制があった頃はラトゥール、モエ、ルモルトンの三大公家のうち、最も資質に優れた者がヴァルツを統治していたという。
 けれどヴァルツは革命で大きく変化した。貴族制は廃止され、ラトゥール以外の二家は没落して久しい。昨今の若者はラトゥールと聞いて総統閣下と続けこそすれ、大公閣下とは思いもつかないだろう。大公も貴族も、今ではただの一領民だ。
 しかしラトゥールを見ればわかるように、軍の上位を占める甲種はほとんどが旧貴族に連なっている。実力主義の軍では資質が全てゆえ、必然的に旧社会の並び順に戻ってしまったのだ。五十年で元の鞘に戻るなど、一体何のための革命だったのか。おかげで旧体制を維持する人間たちと難なく渡り合えるとは、うまい皮肉だ。
「俺は態のいい伝書鳩か。人間には公子扱いさせておいて、同族にはただの尉官を遣わしたと言える。双方の顔が立てられるってわけだ」
「人間ごときに高官は送れないからね。今まで外交は支部に任せてきた手前もあるし」
「中尉程度なら、いざという時に切り捨てるのも楽だからな」
「おや、よくわかってるじゃないか」肩をすくめる仕草が嘘臭いったらなかった。「それじゃあ、早速よろしく。君ならわかってると思うけど、人間を中心に動いてあげなよ? 体力も桁違いに少ないし、魔物にも狙われやすいんだから。――あとそう、第一隧道が閉鎖中だから、第一山脈は旧道をちまちま登って行くしかないね」
 さらりと、とんでもないことを言われた。
「人間連れで山越えしろと? 無謀だろう。鉄道の復旧はいつだ?」
「君ね、新聞ぐらい読みなよ。この間の爆破事件の処理がそんなに早いわけないでしょ」
「軍の自作自演だと思ってたんだ、配給削減を目当てにしょっちゅうやってるだろうが。……大体、肝心なことが載らない新聞なんて、斜め読みで十分だろう」
「うわ、ほんと可愛くないよね、君って」ぼやきと一緒に今日の夕刊が投げつけられた。
 鉄道の爆破事件があったのは一ヶ月前だ。汚職で捕まった地方官吏を送致する途中、もろともに爆殺された。共犯者集団による口封じと思われる。この件で物資の輸送が滞り、配給の節減や大規模な節水が行われている。復旧は未定。
 一ヶ月も前の事件をまだ騒いでいるということは、事実なんだろう。いつもの偽装威示行為デモンストレーションなら、報道機関の連中はとっくに忘れたふりをしているはずだ。
「随分と長引いているんだな」
今回は・・・捜査があるからね。落盤も酷いし、当分通れないよ。第二山脈からは運行してるから、第一波山だけ回り込めばすむでしょう。波状山脈の中じゃ一番標高も低いしね」
 低いと言っても峠で標高四千メートルを超える。定期的に高地訓練をさせられる軍人はともかく、民間人なら同族でも高山病を起こすはずだ。人間なら、標高三千米以降は確実に。
 旧道は三合目までなら軍用車で行けたはずだが、あとは徒歩。標高の低いうちは運んでやれるとして、人間連れでどれだけの時間がかかるのか、綿密に計算しなければならない。
「護衛は丁度山向こうの支部が増員したがってるから、途中までつけてあげるよ。エン国に入ったら原則一人だけど――まあ、君の部署ならこの辺は何度か経験してるでしょう」
 言いざま、ラトゥールが蜜蝋で封じた封筒をさっと投げつけてきた。指先で捉える。
「はい、誓約書。大事にしてね。それから任務後の休暇は好きなだけ取ってくれていいよ。いっそそのまま帰って来なくてもいいくらい。僕が君の顔を見なくてすむからね」
 無邪気を装って言いたいことを言ってくる。殴ってやりたいぐらい良い笑顔だ。
「わかったら、お返事は?」
「……御意」渋々言葉を搾り出した。本当なら『総統閣下万歳』と続けなくてはならないのだが、そんな気分には毛頭なれない。
「ふふ、嫌そうな顔。仮にも総統の勅命なんだから、少しは光栄そうにしたら? 魔術師の護送なんて君の部署の本分でしょ」ついでに交渉するだけだよ、と事もなげに言う。
「ウチの管轄には違いないが……殺しの手引きだろう」
「うまくいけば英雄になれるかもよ。ルイ‐レミィの血を引く君に相応しい仕事だと思うけど?」
 その名を出された瞬間、ルジェの目元が鋭く細まった。
「汚い仕事を押しつけられるのが血筋なら、いずれは俺もお前に殺されると?」
 同族の英雄ルイ‐レミィは、前総統の密命をうけた暗殺者だった。標的は主に軍の高官、その中でも極一部の、狂気に駆られた甲種だ。
 甲種は優れた身体能力を持つ反面、殺戮欲求が強く、一般の同族よりも情緒が不安だ。若くして狂気にかられる者も多く、今では七一がきつく取り締まっている。
 けれどルイ‐レミィが現れる以前は『我々理ある者が魔物と同等になど成り得ぬ』という、一種強迫観念じみた常識がまかり通っていた。乙種でも狂えば手がつけられないのに、みすみす甲種を放置してきたのだ。特に旧貴族の閉じられた社会では顕著で、そのために数々の悲劇があったことは多くの歴史家が認めている。
 狂った同族の対処法は、殺してしまう他ない。
 当時の『常識』を維持して穏便に事を済ますには、強力な暗殺者を使う他なかった。そうして前総統によって選ばれたのが、名もなき男ルイ‐レミィ――ルジェの実父だった。
 ルイ‐レミィの名は初め、姿の見えぬ連続殺人犯として轟いた。甲種すら簡単にくびる、凶悪な殺人鬼。その汚名が濯がれたのは、彼の死後十年もあと、前政権が滅んだときだ。
 日増しに大きくなるルイ‐レミィの名が邪魔になった前総統は、当時側近だったラトゥールに始末を命じた。くしくも彼の学生時代からの親友だった、ラトゥールに。
 ラトゥールが手を下したとき、ルイ‐レミィはほとんど狂っていたという。
 それから十年後、ラトゥールは前総統を殺し、そのオマケとして現在の地位を得た。更に多くの高官を投獄、あるいは僻地へ追いやり、ほとんど完璧な復讐を遂げたのだ。彼に逆らう者はいなかった。歴代の総統の全員がそうやって入れ替わってきたのだから。
 そうして、それまで誰もが知りつつ口にできなかった、同族がいずれ必ず狂気に落ちるという事実が公にされ、狂人による犯罪の阻止を目指して第七一憲官隊が結成された。
 現政権下では、ルイ‐レミィは人々の平和のために殺した英雄だとされている。前総統にとって邪魔な有力者を排除するという側面もあっただろう。けれど彼の功罪のどちらが大きいかは、今も彼の墓を彩る花々が証明し続けている。
 加えて、その政治的宣伝力の大きさも。
 ルジェは静かに微笑み続ける養父へ向けて、冷たく言い切った。
「命令には従う。だが、それとあの男とは関係ない。混同するな」
 ルジェにとってルイ‐レミィは顔も知らない他人だった。それでも、彼と同じように利用されるのだけは気に入らない。英雄プロパガンダなど死んでも御免だ。
 睨みつけるルジェを正面から捉えたまま、ラトゥールが更に口の端を上げた。子供らしい薄い唇から、不釣り合いなほど太く強靱な牙がのぞく。
「……まったく。君は本当に可愛くないね」

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